芭蕉と神田上水

http://hix05.com/rivers/river03/river036.html  【 芭蕉と神田上水】 より

松尾芭蕉は、正保元(1644)年、伊賀上野に農民武士の子として生まれ、元禄7(1694)年、旅先の地大坂において、馬歯51をもって没しました。もとより説明の要もない偉大な俳人ですが、この人が芸術とはあまり縁のない、土木技術の技師として、神田川の上水工事に携わっていた時期があることが知られています。

どのような時期、どれくらいの期間、どのような役柄で、この工事にかかわったか、その詳細については諸説紛々として定まった説がないのが実情ですが、文献等から読み取れる範囲内で、事実を洗い出して見ましょう。

芭蕉は、寛文12(1672)年、門人の小沢卜尺とともに江戸に下ってきて、日本橋にあった卜尺の家に起居するようになります。この年から、延宝8(1680)年に深川の芭蕉庵に遷るまでの数年の間に、何らかの形で神田川の水道工事に携わったとするのが大方の通説です。

神田上水は、家光の時代(1629)に作られた後も、江戸の市街人口の増大や、樋が木製だという技術的な理由から、なんども改修や修繕が加えられてきました。なかでも延宝五(1677)から八年にかけて行われた改修工事は、大規模なものだったらしく、小石川北岸の石垣を作り替えたり、木樋の容量アップなどが施されています。

芭蕉はこの工事に携わったのではないかとするのがまず一説です。その根拠として弟子の森川許六があらわした「風俗文選」という書があげられます。その一文に次のような下りがあります。

「世に功を遺さんが為に、武小石川之水道を修め、四年にして成る、速やかに功を捨てて、深川芭蕉庵に入りて出家す」

これが芭蕉の水道工事に携わったことにふれた最も古い記録です。文脈からして上述した延宝の大修理だったのではないかと推測されているわけです。

また、徳川時代中期、蓑笠庵梨一というものが「奥の細道菅菰抄」という日記を著していますが、卜尺の二代目に聞いた話として、次のようなことを書いています。

「しばしがほどのたつきにと、縁を求めて水方の官吏とせしに、風人の習ひ俗事にうとく、その任に耐へざるにや、職を捨てて深川といふところに隠れ・・・」

この文は、卜尺が芭蕉を水方として紹介し職を斡旋してやったと読み取れます。卜尺は日本橋の大名主として、水方を勤めていた町年寄りたちと交際があったので、芭蕉を使ってくれと口を利いても不自然ではないとされてきました。

この二つの記録や前後の傍証から、どうも芭蕉は治水の技術を天職のようなものとしてもち、江戸へ出てきたのも、この技術を以て身を立てるためではなかったかと、推論する者も現れています。この説によれば、芭蕉は伊賀にいた時代に、治水の技術を学んだのだろうとされています。

現在、江戸川公園近くに、関口芭蕉庵という芭蕉ゆかりの施設が立っています。もともとは、弟子たちが芭蕉の句を地中に埋めて墓がわりに参拝したことから発したものですが、この近くには神田上水の水番所があったものです。芭蕉は、日本橋の家に起居しながら、この番所に通って神田川のメンテナンスに従事し、やがて延宝の大修理の際にはその陣頭指揮にあたったのではないかと、推測されもします。

梨一は「任に耐へず職を捨てて去った」と記していますが、実際には俳諧での名声が高まるにつれて、水工事よりもそちらのほうが忙しくなってきた事情があったものと、これは芭蕉の名誉のためにも、いえるのでないでしょうか。


http://www4.plala.or.jp/agatha/AGATHA239.html  【「松尾芭蕉は水道工事をしていた!」】より

春風に誘われて、東中野から神田川に沿って歩いた。そのおり同行の女性から「松尾芭蕉は水道工事をしていた。」と聞かされて驚いた。そういえば椿山荘のふもとに芭蕉庵というのがあるがあれは何だろうと思っていた。インターネットで芭蕉と神田川について調べる。

すると「神田川芭蕉の会」というのがあることが分かった。事務局長をしている大松騏一という人の話が詳しい。この人は「神田上水工事と松尾芭蕉」という本も著している。以下の記事はその人のサイトあたりを参照してまとめた。

神田川は井の頭池を水源とし、隅田川に注ぐ全長25.5キロの河川である。井の頭池は三代将軍家光が「江戸の井の頭」と呼んだと伝えられ、そのころは7箇所から湧水がわきでており、あたりは鬱蒼としたもりにつつまれていた。神田上水の起源は、小田原攻めの功績により、1590年、徳川家康が関八州を任され、軍勢の水を確保するために家臣大久保主水が急遽掘削した、1629年、家光が神田上水(当時は小石川上水と呼ばれた)を改修させたなどの説がある。この後江戸の水需要のたかまりに対応して、1654年玉川上水が完成している。

神田上水の水は善福寺川、妙正寺川の水と一緒になり、大洗堰で水位をあげ、その勢いで小日向台南麓を流れて後楽園の水戸屋敷に入り、埋樋で屋敷を出ると掛樋で外堀を渡り、神田・日本橋地区に給水されていた。井の頭池から今は江戸川公園になっている文京区関口の大洗堰までを「神田上水」、関口から飯田橋までを「江戸川」、飯田橋から隅田川までを「外堀」と呼んでいたが、1965年の河川法の改正以来「神田川」と呼ばれるようになった。神田上水は明治43年まで使われ、近代水道が普及した後は、水戸邸跡に作られた東京砲兵工廠で工業用水として用いられた。しかし関東大震災で砲兵工廠が小倉に移転し、神田上水もその役割を終えた。

松尾芭蕉は、藤堂高虎の伊賀の国(上野市)出身の下級武士。本名を松尾甚七郎宗房といった。1644年父松尾氏、母桃地氏の子として出生。桃地氏は伊予から伊賀に来た者で忍者との説もある。1672年28歳のとき、俳諧の道を志し、江戸へ下向。日本橋の魚問屋・小沢ト尺宅に留まる。1677年34歳のときにト尺の貸家(日本橋小田原町)で宗匠として立机、「桃青」と号した。1680年37歳まで神田上水の工事にかかわり、以後深川に隠棲したとなっている。神田上水は1677年から8年かけて大修理が行われた記録があり、そのとき関係したのかもしれない。「奥の細道」を執筆したのは元禄5年(1693年)以降らしい。

芭蕉が工事現場でどのような仕事をしていたかは、帳面付け、水方の役人、普請奉行、水役などの説がありはっきりしない。なぜ工事に携わったかも宗匠では食べていけなかったのでアルバイト説、世に功を残そうとした説、藤堂家の家来として手伝った、パトロン生活からの回避説、営利的な点取り俳諧忌避説などがある。

芭蕉庵は芭蕉が1677-80年に住んだところ、工事現場小屋、水番屋などの説があるが、これも定かではない。当初は「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれ、長谷川馬光など多くの俳人が集った。芭蕉の33回忌にあたる1726年に「芭蕉堂」が建てられた。芭蕉像が祭られ、さらに高弟の宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草の像も納められた。1945年5月戦災にあい、芭蕉堂のみを残して焼失していたが、戦後に復旧された。芭蕉という号は、深川の庵に門弟たちが植えてくれた芭蕉から取っている。今庵内には芭蕉堂のほか、ふるいけやの句碑、バナナのような芭蕉の木、1750年芭蕉翁の墓として作られたさみだれ塚、ひょうたん池などがあり往時をしのぶ事が出来る。

ただ普通芭蕉庵というと、深川芭蕉庵が知られており、近くには「ふるいけや・・・」の蛙が飛び込んだ池とされるものがある。対してこちらは関口芭蕉庵と呼ばれている。

芭蕉庵の手前に目白通りに抜ける胸突坂があるが、そのふもとに大きな2本の銀杏と鳥居がある。石段を上がるとひっそりと水神社がたたずんでいる。創建年代は不明、祭神は,速秋津彦命、速秋津姫命、応神天皇。伝えによれば水神が八幡宮社司の夢枕に立ち「我水伯(水神)なり。この地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵に預かった神田、日本橋方面の人々の参詣が多かったといわれる。

またこの近く面影橋のむかい、甘泉園公園に隣接して1501年上杉朝興の建てた水稲荷神社がある。神田川沿いには他にも尾張徳川家のあった「戸山公園」、細川家のあった「新江戸川公園」など数多くの歴史的な見所がある。それらに薀蓄を傾けながら歩くこともまた一興ではあるまいか。

追記

芭蕉庵は、現在、個人宅であり、神田川側の正面入口からは入れない。しかし胸突坂に面した板戸から入る事が出来る。もっとも芭蕉堂は鍵がかかっている。胸突坂は細川氏の永青文庫、蕉雨園、目白どおりに出ると講談社野間記念館など見所が多い。


http://havisit.web.fc2.com/Bunkyouku/t_bunkyoukuJ.html【4. 江戸川公園(関口)】より

目白通り江戸川橋交差点北西約300m,高速5号池袋線,神田川沿い東西に広がる細長い公園。江戸川橋(下流),一休橋,大滝橋,駒塚橋(上流側)がある。遊歩道に沿ってソメイヨシノが続き,大井玄洞翁の胸像,石組みの池,藤棚テラス,時計搭(西洋風の四阿),椿山荘,関口芭蕉庵,水神神社等がある。

大井玄洞翁の胸像:大正8年,江戸川(現神田川)の護岸改修を完成させた。江戸川公園周辺の神田川は,江戸時代には御留川(おとめがわ)と呼ばれ,その後昭和40年(1965)までは江戸川と呼ばれていた。

芭蕉の俳句に詠まれた植物の樹名板:江戸川橋を起点として神田川沿いに西方約1kmの地域は江戸川橋公園,新江戸川橋公園の中間に松尾芭蕉ゆかりの「関口芭蕉庵」を有する風致地区がある。俳人松尾芭蕉(1644-1694)は延宝5年(34才)から同8年までの4年間に亘り此処に居住して神田上水の改修工事にたずさわったと言われている。俳聖と土木工事とはまことに妙な取り合わせのように思われるが,彼の前身が伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったことや,藤堂藩(藩祖高虎以来築城土木,水利の技術に長じていた)が当時幕府から神田上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると,彼が工事監督として,この改修工事に関係したことも納得がいくのである。