歴史・風土に根ざした郷土の川 -最上川・北上川の和歌・祭りについて-

https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/past_shinngikai/shinngikai/kondankai/bungaku/5/5-ref3.html  【歴史・風土に根ざした郷土の川-最上川・北上川の和歌・祭りについて-】

より

最上川の和歌・祭り

1. 最上川について

最上川は、その流域が山形県土の約80%を占めており、山形県の「母なる川」と呼ばれている。

この最上川は、古代(平安前期)には既に舟運の盛んな河川として知られており、盛んな舟運は、流域内の米や紅花といった物産品や金山杉といった木材を下流の都市や都に運ぶとともに、都の文化や風土を奥州の地に運び、東北の文化を育む一つの要因となったものと考えられる。

 また、『義経記』によると奥州平泉に逃れようとする義経主従が最上川を遡ったとされ、江戸時代には、奥の細道の旅中にあった松尾芭蕉も本合海から乗船し最上川を下ったとされる。

一方、最上川は急流としても知られており、芭蕉の著名な句も、急流に驚いた芭蕉が「五月雨をあつめて涼し」と詠んだものを「五月雨をあつめて早し」と改めたことがよく知られている。

 また、かつては最上川に合流していた赤川においても、最上川の盛んな舟運の影響を色濃く受けており、舟運がもたらした文化は沿川各地に名残をとどめている。

2. 最上川の和歌・俳句

 最上川においては歌枕である「最上川」とともに、上述の舟運を取り上げた歌が多く見られる。

最上川の和歌・俳句

最上川…… この歌枕の本歌は、上記の「最上川上れば下る稲舟………」であり、多くの歌に「稲舟」と呼ばれる川舟が行き交っていた様子が詠まれている。なお、古代では最上川が詠まれたのは、この「稲舟」と「否」を掛詞として用いたものが多い。

芭蕉の乗船地とされる山形県新庄市本合海地区では、芭蕉などの一連の句碑・歌碑を建立し、「最上川うたのみち」として整備が行われており、観光ポイントとなっている。河川整備を行うにあたっては、斎藤茂吉の歌にみられる船着場の復元を平成12年に行い、舟運の復活を通じた地域の活性化に寄与している。

かつての船着場と復元した船着場

3.最上川の祭り

 上述のように最上川流域は古くから盛んな舟運により都の文化が伝わった地域であり、様々な形で当時の姿が残されている。ここでは、文献などによって把握された川に関わる祭りについて紹介する。

1) 向長崎の金比羅樽流し(山形県東村山郡中山町)

 祭りは、渡し場があった集落で水難事故を逃れるために、船の航海安全を司る神である金比羅権現を祭るようになってから始まったものである。

祭は、毎年4月15日に行われ、小型の樽に酒を入れ、「奉納金比羅大権現」と書き、旗を樽に立てて、寒河江川に投げ入れるといったものである。

 祭り自体は、川に樽を投げ入れて終了するが、4月に行われるため、樽は雪解けの濁流にのり、最上川の河口に流れ、その後、日本海の潮にのって瀬戸内海まで流れると考えていた。さらに、瀬戸内海では、この樽を引き上げ、香川県の琴平町の金刀比羅宮に奉納すると大漁を得るという信仰があると信じ、いつの日かはこの樽が拾われ、金比羅様の神前に自分が捧げた神酒が届くと考えていた。 香川県の金刀比羅宮に納められた金比羅樽

2) 黒川能(水焔の能)(赤川:山形県櫛引町)

 戦前戦後の赤川方水路の開削まで最上川の支流だった赤川には、流域の代表的な伝統芸能である黒川能がある。これは13世紀~16世紀にかけて庄内地方を領有していた武藤氏が京より能役者を連れて帰ったのが始まりとされている。この能は世阿弥が大成した後の猿楽能の流れを汲みながら現在上演されているどの流れにも属していない独特の形を持っているといわれており、櫛引町を南北に流れている赤川を境として上座と下座に分かれて、互いに競い合う形で演じられるものである。昭和59年からは、元来能が野外で演じられていたことから、その原点に立ち返り、赤川の河川敷において「水焔の能」が演じられている。

水焔の能(櫛引町商工会HPより)

北上川の和歌・祭り

1. 北上川について

 北上川は、岩手県北部にその源を発し岩手県、宮城県を流下する河川で、宮城県内では旧北上川、北上川に分派し、石巻湾と追波湾に注いでいる。

 この地域は日本書記に出てくる日高見国(ひたかみのくに)であるとされており、この「日高見国を流れる川」が変化して、北上川となったと言われている。

 今から1200年ほど前には、この地域は朝廷に抵抗する蝦夷の王アテルイが支配していたが、その後、坂上田村麻呂の前に降伏し、東北地方は朝廷の支配を受けることとなる。この朝廷支配のもと安倍氏の支配となり、次いで藤原氏、奥州藤原氏へと支配者が遷り変っていくこととなる。この中でも支川の衣川周辺に拠点を構えた藤原氏は隆盛を極め、平泉に中尊寺、毛越寺に代表される黄金文化を築き上げたことが良く知られている。

2. 北上川の和歌・俳句

 古代から支配者の移り変わりとともに、平泉の黄金文化などの文化を育み、多くの歌人・俳人を惹きつけた北上川流域では多くの和歌・俳句が詠まれている。

衣川……… 衣川は、平泉町の中尊寺近くで北上川に合流する河川で、古代には、この地は対蝦夷の最前線として位置づけられ、奥州古関の1つである「衣の関」が置かれていた。なお、この地の歌枕は、「衣川」あるいは「衣の関」の二つがあげられる。

北上川との合流点北側の衣川柵旧跡で、前九年の役(1051年)に、追撃する源義家と敗走する安倍貞任とが「衣のたてはほころびにけり」「年をへし糸の乱れの苦しさに」と連歌を詠みかわした逸話がある。

北上川…… この「北上川」は俳枕で、近現代の歌人が詠む歌がほとんどである。また、流域には、石川啄木記念館(渋民村)や日本現代詩歌文学館(北上市)などの施設があり、北上川流域で数多くの詩歌がよまれていたことを裏付けている。

 この平泉では、北上川の堤防整備を計画していた地に、奥州藤原氏の政庁跡とされる柳之御所遺跡が発掘された。石川啄木の歌「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」のとおり、「柳」は北上川の象徴であることから、堤防整備の計画は平成7年度に変更された。

 なお、柳之御所を含む「平泉の文化遺産」は、平成12年11月に世界遺産の暫定リストに登録され、地元平泉町でも、平泉文化を中心としたまちづくりが進められている。

柳之御所跡と計画変更の様子(青線→赤線へ)

3.北上川の祭り・伝統芸能

 平泉には、和歌だけでなく、平泉文化を発祥とする伝統芸能も残されている。近世に入ってからは、芭蕉の句のとおり平泉は「兵どもが夢の跡」となったが、川って下流域が伊達藩の行った河川改修によって一大穀倉地帯となり、これにまつわる祭りが行われている。

1)毛越寺(平泉)の年中行事・伝統芸能

 毛越寺は、中尊寺と時を同じくして西暦850年に開山され、

 藤原基衡によって再興された奥州藤原氏の文化を代表する寺院である。往時は中尊寺をしのぐ規模と華麗さを誇っていたとされている。

 この毛越寺においては、「延年の舞」などの古典芸能のほか、平安の名残をとどめる境内の鑓水では「曲水の宴」も行われている。

延年の舞と曲水の宴;

2) 衣川村の伝統芸能

 衣川村内には国指定の無形民俗文化財である「川西大念仏剣舞」を始め、「大平念仏剣舞」「川内神楽」「池田胴念仏」などの伝統的な郷土芸能が伝えられている。

・ 川西大念仏剣舞

 今から900年ほど前、藤原清衡が前九年の役、後三年の役で亡くなった武将の霊を供養し、仏都の平安を祈るために、作らせたものが始まりとされており、国の無形民俗文化財に指定されている。

・ 三輪流神楽

 現在、衣川に残っている神楽は三輪流と呼ばれ、川内・大原・大森・川東の四団体がある。演目は数十種類もあり、「衣川神楽まつり」などで上演される。

 17世紀前半、伊達正宗の命により、川村孫兵衛重吉が行った北上川の洪水防御と舟運の活性化により、北上川下流一帯は、東北の一大穀倉地帯となった。この祭りは、川村孫兵衛重吉の偉業に感謝し、あわせて水難による物故者の冥福を祈るために大正5年(1916)から始まった祭りで毎年8月1~2日に行われている。

 初日には、川村孫兵衛の墓前祭が行われ、市内の神社神輿が市内を練り歩き、職場や町内会などが参加する孫兵衛船競漕が二日間行われる。夜には北上川の河畔で花火大会が開催され、翌日夕方には浴衣など着て踊る大漁踊りが繰り広げられる。

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