近江・湖南 芭蕉への旅 ②

https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/d/20080122  【近江・湖南 芭蕉への旅 その四】より

近江・湖南の地誌的環境

 では、近江・湖南とはどんな処・場所(トポス)だったのでしょうか。近江・湖南の地誌的環境を自分なりに概観しておいて見たいと思います。文中朱文字(小文字は管理者所見)は自分の独断と予見・偏見・こじつけ?で、芭蕉に関係あるとおもわれる事象か、この地に特別の愛着を抱いた素因の一つではないか(でないかもしれないが。)と感じた内容です。

1) 琵琶湖とその周辺の自然史的環境

 琵琶湖は世界でも数少ない「古代湖」のひとつである。「古代湖」とは、生物進化が独自に起きるほどの寿命のながい湖のことを呼び、東アフリカの大地溝帯にある「タンガニィカ湖」「マラウィ湖」やロシアの「バイカル湖」、南米の「チチカカ湖」などがある。琵琶湖が今の場所で今の形になったのは約40万年前といわれているが、琵琶湖の原型ができたのは約400万年前 ( もっと前という説もある)で、これはまさに、人類の祖先がアフリカで誕生し進化をを重ねてきた年月に相当しているという。琵琶湖は、バイカル湖、タンガニィカ湖に次いで「琵琶湖は世界で3番目に古い湖」(今後の研究で変わる可能性もあるという)で、我が国最古・最大の湖 だが、しかしこの「琵琶湖の歴史400万年」というなかには、「古琵琶湖」と「その移動」という重要なキーワードがあり、想像力と科学的理解を必要とする。

 約400万年前の初代・古琵琶湖は鈴鹿山地隆起前の伊賀上野の丘陵地において断層によって落ち込んだ一辺2~6㎞のいくつかの窪みから始まった。(芭蕉も伊賀から・・・三つ子の魂百までもでか、太古のDNAの記憶か。何がしか懐かしかったのか?・・・個体発生は系統発生を繰り返す?。:管理者)当時、現在の琵琶湖地域は今と逆に山地であったことが明らかにされている。その後二世代ほど場所と時代を変えた比較的大きい湖(阿山湖、甲賀湖)を経て200~100万年前には古琵琶湖から現琵琶湖への過渡期になる時代があった。そして現琵琶湖へと成長する湖(堅田湖)が100万年前ぐらいに誕生し、先に書いたように琵琶湖が今の場所で今の形になったのは約40万年前といわれているが、琵琶湖周辺に象やワニの化石が認められるのも、琵琶湖の自然の歴史がいかに長いものかを示している。自然の長い歴史を反映して、琵琶湖には、魚類ではフナズシの材料になるニゴロブナ、ホンモロコ、イサザ、ビワコオオナマズ、(陸封のあゆ:コアユ・ひうお①は固有種かどうか微妙だが、最近各地の川に放流されるのを遺伝子の乱れの懸念から控える動きもあるという。)貝類ではセタシジミ、ナガタニシ②、イケチョウガイや、スジエビ③など琵琶湖の独自の環境にあわせて進化してきた固有種がいる。2000年滋賀県版レッドデータブックでは琵琶湖水系固有種動植物は58種であり、琵琶湖に生息する魚類56種のうち、13種が固有種だという。琵琶湖に人が住み着いたのは旧石器時代、せいぜい4~5万年前に過ぎない。(この琵琶湖の根源的・原初的ともいえる歴史の古さと、固有の豊穣さの「類なさ」⑧を鋭い詩的感性の持ち主の芭蕉は本能的。直感的に解っていたのではないか。・・・管理者)

 ① 丸雪せよ網代の氷魚煮て出さ   芭蕉

 ② 贈洒堂  湖水の磯を這い出でたる田螺一疋、芦間の蟹の鋏を恐れよ。牛にも馬にも踏まるる事なかれ。(琵琶湖の葦の潟にはヒメタニシという田螺も棲息。)

    難波津や田螺の蓋も冬ごもり    芭蕉 

 ③ あまのやは小海老にまじるいとど哉 

    十六夜や海老煎るほどの宵の闇 芭蕉

Dsc_0448_2参考リンク:びわこ産湖魚佃煮 松田魚伊商店 大津市(旧膳所)西ノ庄10-29

参考記事Ⅰ:西日本の主要な淡水域はつながっていた。・・・400万年以前、鮮新世(約500~200万年)の時期に原日本列島が大陸と地続きの平原だった頃、その西部には、第二瀬戸内湖沼群が広がっており、今の濃尾平野木曽三川流域、琵琶湖淀川水系、岡山旭川水系、筑後川水系の地域はつながっていたとみられる。この地域は、今でも日本列島の中で淡水魚類の豊富な地域となっている。

参考記事Ⅱ:古琵琶湖は一時瀬戸内海と接していた。・・・琵琶湖の南端から約20㎞の宇治市や現湖岸から約20㎞の日野付近で、約100万年前のカキの化石が発見されていることなどから、その頃琵琶湖は一時期瀬戸内海に接続いていたものとみられる。また、湖には色々な貝がが生息しているが、そのなかには琵琶湖の歴史を記録している貝がある。セタシジミがその一つであるという。セタシジミは江戸時代膳所藩主が養殖をしたことから湖中に繁殖するようになったが、もともと海水の混じったところにしか棲息しないヤマトシジミの進化したもので(淡水でしか棲息しないマシジミは雌雄同体で、セタシジミはヤマトシジミと同じく雌雄異体である。)、従って琵琶湖が瀬戸内海にじかに接していた時代があったことの一つの証拠になるものだとされている。

参考文献:「琵琶湖から学ぶ 人々のくらしと環境」 滋賀大学教育学部付属環境教育湖沼実習センター編    「内湖からのメッセージ 琵琶湖周辺の湿地再生と生物多様性保全」 西野麻知子・浜端悦治編   「琵琶湖水底の謎」 小江慶雄著   「水辺のくらし環境学」 嘉田由紀子著 他                      

2) 琵琶湖周辺の先史時代

縄文時代:琵琶湖周辺(現滋賀県)の先史文化は、前縄文時代の遺跡がほとんど地下に眠っているために、その記述にあたっては縄文時代からが主であるという。縄文時代の遺跡には湖岸に接するものと、山地または扇状地の上に位置するものとの二群があり、この二群はお互いに分布と時代を異にしている。我が国の先史時代で6000~7000年以上の長期間存続した縄文時代は、早期・前期・中期・後期・晩期の五期に大別され、さらに地域ごとに約30の小文化期に細分されるが、琵琶湖地方の縄文遺跡は、その五期全期におよんでいるという。その分布を見ると、湖岸の低湿地遺跡は湖南(例:石山貝塚)から湖東にかけて分布し早・前両期に属するものが多く、山麓の高地性遺跡は湖北を中心に分布し中期に属するものが多い。このほか後・晩期の遺跡数は少ないが、湖北の山麓と湖南の湖岸にそれぞれある。琵琶湖の北と南に縄文遺跡分布の二大中心のあるのは、琵琶湖が日本の東と西に発達した縄文文化の文化的特徴と相関し、その文化的接点をなしていたことを物語っている。この二面的な縄文文化のひろがりは、琵琶湖が地理的に東西日本の文化的境界をなし、長期間東西文化の緩衝ならびに融合地帯としての役割をになってきた④ことを示している。またこの頃の琵琶湖岸の湿地帯の周辺はハンやコナラを中心とした豊かな照葉樹林⑤が広がっていたようで、縄文人の生活にとって適した環境だったようである。

  ④路通の「芭蕉翁行状記」によれば、芭蕉は膳所・義仲寺に葬られたいとして「ここは東西のちまたさざ波きよき渚なれば生前の契り深かかりし所也」と言い残したとある。

  ⑤ハン・コナラ・タブ・樫・椎などは照葉樹林の構成樹であり、芭蕉が幻住庵に入庵したときの幻住庵の周りは神社の鎮守の杜であったこともあり保存された照葉樹林であった。椎の実は食料となり隠者と縁があるとはいえ、椎の木にたのむ心性のなかに、日本人の縄文の記憶が感じられないであろうか。

  先たのむ椎の木もあり夏木立

参考記事Ⅰ:琵琶湖のかたちの変遷・・・古琵琶湖層(かって湖底だった白灰色粘土層と化石を含む)の分布によって、およそ100万年前の古琵琶湖のかたちは、今の琵琶湖の二倍ぐらいの広さをもっていたと推測される。その後は湖底の段丘線から10万年前の湖のかたちが、現在の約二分の一ぐらいに狭まっていたようだ。その後一万年前を中心とする年代に陥没のため湖のひろさは増したが。現在の湖よりやや狭く、さらに1000年前頃(平安延喜の頃)にまた広がり、現在は逆に狭小化の現象が見られるという。

参考記事Ⅱ:比良山地、琵琶湖北湖の地形・景観は断層運動・地震の所産?・・・1995年1月17日の阪神淡路大震災は、その甚大な被害と、あらためて日本における地震対策・防災のあり方を深刻に提起しました。しかし地質学的時間の中では「起こるべくして起きた」のであって、六甲山地と「大阪湾~瀬戸内海」の地形そのものが、この長い地質学的時間の中での断層運動・造山活動の所産であったという事実をおもい知らされました。実は琵琶湖の北湖の「比良山地~北湖湖盆」も、この「六甲山地と大阪湾~瀬戸内海」とよく似た性格なのだそうです。六甲山地と同じように比良山地も花崗岩でできていて、比良の花崗岩が断層運動によって隆起し、一方琵琶湖側は相対的に沈下しているそうです。(そういえば、堅田あたりから見た比良山系は、須磨・明石あたりから見た六甲山地の姿と何か似ています。⑥・・・管理者)琵琶湖西岸では湖底・湖岸に断層が存在しています。西岸にくらべると比較的緩傾斜の東岸においても、最近湖底断層が見つかっており、古琵琶湖もふくめ琵琶湖の歴史は、全体としてこのような断層運動を中心とする大地の動きによってつくられてきたのです。⑦⑧⑨(「琵琶湖から学ぶ 人々のくらしと環境」 滋賀大学教育学部付属環境教育湖沼実習センター編より)

  ⑥芭蕉が近江八景を詠じたという句(存疑)のうち、須磨・明石になぞらえたものがある。芭蕉真作か疑義はあるが、その時代、湖南の風光を須磨・明石になぞらえても不自然でなかった文化的な空気があったことが解る。

  近江八景・石山秋月    

    汐やかぬ須磨よこの海秋の月(あさかり)

  近江八景・矢走帰帆

    夕霞明石の浦を帆の表    (あさかり)

  ⑦比良三上雪さしわたせ鷺の橋  芭蕉

  ⑧「洒落堂記」

 山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情を癒す。静・動二つの間にして、すみかを得るもの有り。・・・・そもそもおものの浦は、勢田・唐崎を左右の袖のごとくし、海を抱きて三上山にむかふ。海は琵琶のかたちに似たれば、松のひびき波をしらぶ。日えの山・比良の高根をななめに見て、音羽・石山を肩のあたりになむ置けり。長柄の花を髪にかざして、鏡山は月をよそう。淡粧濃抹の日日にかわれるがごとし。心匠の風雲も亦是に習ふ成るべし。       はせを

   四方より花吹き入れてにおの海 芭蕉

  ⑨行く春を近江の人とをしみける   芭蕉

 去来抄に「先師曰く、尚白が難に、近江を丹波にも、行く春は行く年にもなるべしといへり。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春を惜しむに便りあるべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都にをとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行く年、近江にゑたまはば、いかでか此の感ましまさん。行く春、丹波にゑまさば、もとよりこの情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかなと申す。先師曰く、汝や去来、ともに風雅をかたるべきものなりとことさらによろこびたまひけり」

弥生時代:今から約2300年前、日本列島に大陸からその栽培技術とともに大陸から稲作が伝わってきた。(イネそのものは縄文時代後期には伝わっていて最近は一部栽培の可能性が指摘されてきているが)弥生時代になって人為的にか、琵琶湖周辺の植生が照葉樹林から二次林であるアカマツ林が目立つようになったようだ。この時代度重なる河川の氾濫で、湖岸に水田耕作に適した場所が広がり、湖辺のあちこちに農耕集落が営まれた。守山市の服部遺跡、安土町の大中の湖南遺跡など弥生前・中期の遺跡がある。弥生時代は、日本で最初に稲作文化が定着した時代であると言うのが一般的な理解であるが、稲作をひろげた人々はまた舟を利用し、かなり移動性に富んだ集団だたようで、その証拠に大きな弥生遺跡跡は舟の利用しやすい場所に作られていることが多い。(例:湖南遺跡)こうした弥生遺跡は単なる農村ではなく、物資の交換などを行う地域の交易センターの役割をはたしていたのではないか。特に広域的な交易・水運に便利な琵琶湖周辺のこの地域では、その傾向が顕著で、広域的なネットワーク交流の形跡がかなり認められるという。

 弥生の集落は、稲を作ることと舟を主要な交通手段としていたため、湖や川に近い低湿地に営まれた(低地性集落)。しかし、起源一世紀から三世紀ごろ、弥生中期・後期になると、集団が高いところに住み始める。この時期、社会的に非常に大きな緊張状態(戦乱状態)にあった時代で、そうした集落を「高地性集落」と呼んでいる。弥生時代中期の近江最大の巨大環濠集落跡である下之郷遺跡、中央に方形区画を有する弥生時代後期の伊勢遺跡、24個の銅鐸を出土した大岩山古墳群などの遺跡がある。

参考記事Ⅰ:待たれる湖底遺跡の全面像の解明・・・葛籠尾崎湖底遺跡の謎:大正十三年の暮れも押しせまったころ、湖北・尾上の漁師が葛籠尾崎の約三十尋(一尋は約1.8メートル)あまりの深さの湖底から初めて網で引き上げて以来、多くの土器がここから次々に引き上げられた。不思議なことに、これらは縄文、弥生から奈良まで、まんべんなくわたっており、しかもほとんど完全な姿のまま水中に眠っていた。この不思議な遺跡の成立過程の解明には、考古学のみならず気候学・地理学・民俗学・宗教学・海洋学・湖沼学等などの学際的・総合的な解明を必要としており、また湖北にはこの水域をふくめ多くの興味ある伝承が残され、遺跡と伝承をつなぐ領域の解明には想像力も必要であり、夢とロマンをかき立てられる。・・・その後、この葛籠尾崎湖底遺跡について多くの調査・研究がなされて来たが、いかんせん70メートルもの水深の水の壁に阻まれ、技術的な課題もあり,未だこのたぐいまれな遺跡は解明途中である。琵琶湖水域にはこの葛籠尾崎湖底遺跡のほかにも湖底遺跡は、粟津・膳所本町地先(両現大津市)や近江八幡沖の島周辺・宮ヶ浜、旧新旭町森・針江、深溝の湖底遺跡など八十カ所ほど知られており、近年粟津湖底遺跡、針江浜遺跡など水深の浅いものは解明が進んで、琵琶湖の水辺をめぐる生活・文化・環境史などのトータルな解明が期待され、今後の水中考古学などの学問分野の進展と詳細な調査・研究が待たれる。葛籠尾崎湖底遺跡情報:湖北町尾上公民館  滋賀県文化財学習シート:葛籠尾湖底遺跡  日本の神秘:海底・湖底遺跡集リンク

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参考記事Ⅱ:わりにスムーズだった?近江の縄文と弥生の交流・・・縄文時代の終わりから弥生時代の最初期の遺跡を調査すると、縄文時代の特徴を持った土器(「突帯文土器」:とったいもんどき)と、弥生時代の特徴を持った土器が混在して出土することがたびたびあります。このようなことから考えると、この近江にやってきた弥生人は、多少の衝突はあったかもしれませんが、比較的スムーズに、もとから住んでいた縄文人のムラと交流を深め(もしかしたら一緒に住んでいたかもしれません)、徐々に溶け込んでいったのかもしれません。(滋賀県埋蔵文化センター:埋もれた文化財の話より)

参考記事Ⅲ:湖畔の弥生集落の祈り、呪的信仰の痕跡?木製彫像・木偶・・・琵琶湖周辺の弥生遺跡、特に方形周溝墓の溝からは、お供物を入れていたとおぼしき土器や、葬祭などの際に使われたと考えられている木偶(もくぐう)などが発見されることがある。これらの木偶は何を物語るのであろう。これらは縄文の呪術性の高い文化を引き継ぐものと同時に、琵琶湖の水位の上下や、度重なる洪水など弥生の土木技術では守りきれない集落の稲作など生産手段・管理の脆弱性に対し、ムラの連帯性や農耕の継続性を精神的に保証していくための儀礼に登場したのであろう。(イコンとしての大津絵の呪術性の伝統?)また、弥生も後期・後半になると、地域社会の統合が進み、環濠集落の中に首長の台頭や、銅鐸の用途に対する宗教儀礼の変化によって(宗教儀礼の道具から権力の誇示へ?)、野洲町大岩山遺跡のように多数の銅鐸が一カ所に集められたと思われる例もある。(滋賀県埋蔵文化センター:埋もれた文化財の話  小江慶雄著「琵琶湖水底の謎」  「滋賀県の歴史」山川出版

参考記事Ⅳ:度重なる地震の痕跡、湖底に沈んだムラ・・・琵琶湖の水位は瀬田川からの湖水の流出量の多少に主に左右されるが、水位と陸地との相対的高低関係は局地的ではあるが、地震による地殻変動にも左右される。1995年1月におきた兵庫県南部地震は、マグニチュード7.2で、それのよる液状化現象により、大きいところで二メートルもの地盤沈下があった。琵琶湖周辺には、記録に残るだけでも古代からマグニチュード七前後の多くの地震が起きていて、寛文二年(1662年、芭蕉19才)、湖の周辺一帯に大被害を与えたマグニチュード7.5前後と推測される大地震など、数え上げればきりがない。そして実際に地震により湖底に沈んだとおもわれるムラが発掘されている。湖北西部、高島市旧新旭町針江の湖岸から沖合に広がる針江浜遺跡がそれで、現湖岸から沖合140~200メートルの地点で噴砂跡が検出された。噴砂跡が見つかったのはその第二遺構面で、この遺構面には大規模な液状化現象による噴砂跡がみいだされ、吹き上げた砂が第二遺構面に広がった状態で認められた。この為、弥生中期前葉にマグニチュード6以上の大地震が起きたことがわかった。この遺構は弥生中期前葉の時点でかなりの地盤沈下を起こしたと思われるが、その後、古墳時代にまた人が住むこととなり、その後の地震でまた沈下、湖底に没した可能性が考えられる。(滋賀県の歴史」山川出版より)

参考記事Ⅴ:弥生中期頃、安曇川河口の湖畔には朝鮮半島の青銅器文化の影響の色濃い弥生集団(有樋式鉄剣の出土など)が定着していたようである。事実、この地は海洋民族の安曇族の一群が移住・定着した土地だといわれている。その頃、湖の北部には、安曇の他に物部・息長・和邇の集団が形成されたようである。安曇族は古代栄えた有力な海人族で、綿津見の三神(海神)を祖とし博多湾を擁する筑紫国の糟屋郡安曇郷(魏志倭人伝の奴国にあたる)を本拠地とし、安曇は渥美・安積とも表記されるが、もともと同一祖先から分かれた海人の居住地を表しているという。この安曇族がいつごろ、どのような経路で湖西に定着したのか明らかでないが、「万葉集」の「志賀」の枕詞「神楽声波:ササナミ」④⑩⑪はもともと博多湾の志賀島の枕詞で、それが近淡海にかかるようになったのは、安曇の首長に率いられた志賀の海人族の移動によるものだとされている。(小江慶雄著「琵琶湖水底の謎」より)

  ⑩近江蚊屋汗やさざ波夜の床  芭蕉

  ⑪さざ波や風の薫の相拍子    芭蕉

古墳時代:古墳時代の約300年を言い表す場合、前期・中期・後期と三期に分け、ほぼ四世紀・五世紀・六世紀をあてている。その前後の時期を発生期、終末期と呼んでいる。滋賀県の前期古墳時代を代表するのは、弥生の湖南遺跡の近くの安土瓢箪山古墳(全長160メートル)で大津の皇子山一号噴もこの期のものである。中期では、膳所茶臼山古墳があるが、この時期、全国的な古墳の巨大化の時期にもかかわらず、京都・滋賀では、どういう訳か巨大化しておらず、全長122メートルである。後期の古墳としては、高島市の鴨稲荷古墳がある。金製の耳飾りや金製の冠、金でつくった沓など、朝鮮的な副葬品がセットで埋葬されており、新羅(近くには白髭神社という新羅との関係の深さをおもわせる神社がある)の支配者の政治的な儀式のスタイルを踏襲しており、前記・参考記事Ⅴの安曇族の移住・定着と共に半島との交流の歴史をうかがわせて、注目に値する。滋賀県の西部から(三尾君氏か・・・東部坂田郡の息長氏・坂田氏との関係もあったという説あり)越前にかけての地域を政治的な基盤として登場する継体天皇を生み出した勢力で、継体帝より一代前ぐらい前の世代のものである可能性がある。近江の古墳時代は、中小豪族が盤踞し、近江全体を束ねる大豪族は存在しなかった。中小豪族はそれぞれの支配地域で奥津城としての古墳群を残している。(「滋賀県の歴史」山川出版他より)

参考記事Ⅰ:近江には渡来人の足跡を示す伝承やが縦断し、「記紀」「正倉院文書」他など文献資料や、木簡資料からも域内各地で渡来人の活躍を示す資料や、遺跡にもそうした痕跡が認められる。滋賀郡の現在の坂本・穴太・滋賀里・南滋賀・錦織の一帯は、古代において大友郷・錦部郷と称され、「志賀漢人」と総称される渡来人達が本拠地としていた。坂本から錦織まで現在800基前後の後期古墳が確認されており、その大半が渡来系集団(一部はその集団を包摂した在来氏族のものか)の墓と考えられている。県下で、この他渡来系墳墓と見られる主なものに「和田古墳群」(栗太郡)「三ッ山古墳群」「天狗前古墳」「竜石山古墳群」(以上、蒲生郡)、「金剛寺野古墳群」(愛知郡)、北落古墳群・塚原古墳群(犬上郡)、などがある。それら墳墓の近傍には渡来系集団の集落跡と見られる遺跡例も確認されている。こうした渡来人がこの時期どのような活躍をしたか具体的な状況は明らかではないが、大陸・半島の種々の先進技術の伝承や、七世紀後半には大津京(大津宮?)の造営などに大きくにかかわっていったとみられる。(「滋賀県の歴史」山川出版他より)


https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/d/20080215【近江・湖南 芭蕉への旅 その五】より

古典のなかの近江・湖南

先人の風雅の道をたずねた芭蕉が「近江の人と」と詠じ、永眠する地になるに至った近江・湖南は、どのように古典のなかに描かれ、詠われてきたのであろうか。ハルオ・シラネの語彙によれば文化的記憶(cultural memory)・伝統的テクストを概観してたどってみたい。

やはりまず、万葉集、柿本朝臣人麻呂の「過近江荒都」であろう。

玉欅 畝火の山の 橿原の 日和の御代ゆ生まれませし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽波の 大津の宮に 天の下 知らしめすけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処といえども 春草の 繁く生いたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

              万葉集 巻一 二九

 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌

   反  歌

 ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ

              万葉集 巻一 三○

 ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも 

              万葉集 巻一 三一

 また、この巻一の近江旧都回顧と同時の作か不明だが。

 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのにいにしへ思ほゆ

             万葉集 巻三 二六六

 また、高市黒人の大津京・比良を詠じた歌四首。

 古の人にわれあれやささなみの故き京を見れば悲しき

             万葉集 巻一 三二

 ささなみの国つ御神の心さびて荒れたる京見れば悲しも

             万葉集 巻一 三三

 如是ゆゑに見じといふものを楽波の旧き都を見せつつもとな 

            万葉集 巻一 三○五

 わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり

            万葉集 巻一 二七四

 「雑談集」頼政の一首。(但し「新百人一首」では初句は、近江路や。)

 さざ浪や真野の入江に駒とめて比良の高根の花を見るかな  

 平家物語に、上記の人麻呂の「志賀の都」の歌をふまえた一首がある。有名な忠度の都落ちの一節である。謡曲「俊成・忠度」でも唄われている。

 薩摩守忠度はいづくによりかかえらりたりけん  侍五騎 童一人 わが身とともに七騎とつて返し・・・・・其後世しづまって 千載集を撰ぜられけるに・・・勅勘の人なれば 名字をばあらはされず 故郷の花という題にてよまれたりける歌一首ぞ 読人しらずといれられける

 さざ波や志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

 その身朝敵となりにし上は子細にをよばずといひながら うらめしかりし事ども也。

(下の映像は皇子山の公園の山桜です。)


また同じく平家物語の粟津での義仲・兼平主従の闘死の条り。(映像は粟津の今井四郎兼平の墓碑)

・・・・・やがて頭をば太刀の鋒に貫き、高くさし上げ、大音声を揚げて、「この日頃日本国に鬼神と聞えさせ給いつる木曽殿をば、三浦石田次郎為久が、討ち奉るぞや」と名乗りければ、今井四郎は軍しけるが、これを聞いて、「今は誰をかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛び落ち、貫かれてぞ失せにける。                              

               巻九「木曽最後」

 また、この場面は、謡曲「兼平」でも謡われている。

 西行は晩年、時に七十二才、「御裳濯河歌合」と「宮川歌合」の神宮奉納という事業の完成を間近にして、比叡山をたずね、無動寺に宿をとった。奉納する歌合の清書を慈円に依頼した件についての相談のためであったかもしれない。その折の歌。

 円位上人(西行)無動寺にのぼりて、大乗院の放出(テラス)に湖を見やりて

 にお照るや凪ぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の波だにもなし

 (慈円上人もまたこれに和して一首詠む)

 ほのぼのと近江の海を漕ぐ舟の跡なき方に行く心かな

 新古今歌人、藤原良経の歌。

 桜花比良の山風吹くままに花になりゆく志賀の浦波

                 千載和歌集


 また、同時代の若い女流歌人、宮内卿の歌。

 花さそふ比良の山風吹けにけり漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで

                新古今和歌集

 同じく新古今歌人として著名な藤原家隆の歌二首。

 におの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり

 志賀の浦や遠ざかりゆく波間よりこほりて出づる有明の月

                新古今和歌集

 また、後鳥羽院の歌二首。

 におの海や霞の空に漕ぐ舟の波に消えゆく志賀のあけぼの

 志賀の浦やにおてる沖は霧こめて秋もおぼろの有明の月

                 後鳥羽院集

明応九年(1500年)佐々木高頼の招きで近江に訪れた近衛政家の近江八景の詠。  

大津市歴史博物館 近江八景情報

   勢田夕照

 露時雨もる山遠く過ぎ来つつ夕日の渡る勢田の長橋

   石山秋月

 石山や鳰の海てる月影は明石も須磨も外ならぬかは

   粟津晴嵐

 雲払ふ嵐につれて百船も千船も浪の粟津にぞよる

   唐崎夜雨

 夜の雨に音は譲りて夕風を外に名立つる唐崎の松

   比良暮雪

 雲晴るる比良の高根の夕暮は花の盛りに過ぐる春哉

   堅田落雁

 峰あまた越えて越路にまず近き堅田に靡き落つる雁金

   八橋帰帆

 真帆引いて矢橋に帰る舟は今打出の浜をあとの追風

   三井晩鐘

 思ふその暁ちぎる始めぞとまず聞く三井の入相のかね

 能・謡曲と近江

  芭蕉の句には、謡曲をふまえたものも多い。近江は謡曲の舞台としてもたびたび登場している。といっても、近江の登場パターンはいろいろらしく、滋賀県立大学能楽部のホームページでは、次の三つ他に分けている。以下、記事によれば。「近江のお能」はじまりはじまり

1:タイトルから舞台から、すべて近江のもの。 竹生島、三井寺、関寺小町、蝉丸、志賀など

2:あからさまではないが、じつは近江のもの。  望月、大会、烏帽子折、自然居士、巴、兼平など

3:近江は歴史回廊! 都の隣り、交通の要衝。通過過程のもの。  田村、安宅、花筐、山姥、絵馬など

4:その他  摂待、融、俊成忠度など

また上記を含めて、観世流の現行曲211番中、実に47曲に近江、滋賀県が登場するそうである。(調査は継続中で若干ずれがあるかも。だそうです。)


https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/d/20080215  【近江・湖南 芭蕉への旅 その六】より

 近江・湖南の社会環境

芭蕉の生きた時代、近江・湖南はどのような社会的・文化的環境におかれていたのだろうか。資料をあたり、考えてみる。

参考資料:「滋賀県の歴史」山川出版社  「近江百町物語」大津の町家を考える会編、「城と湖と近江」「琵琶湖がつくる近江の歴史」研究会 サンライズ出版 「芭蕉の風景 文化の記憶」ハルオ・シラネ著角川叢書他

 大津が大津と呼ばれるようになったのは、七世紀半ば、天智天皇がこの地に都を移した時(いわゆる大津京)であり、遷都にともない港が整備され、難波大津(今の大坂)、梛大津(今の福岡県)などとならんで、この地も大津と呼ばれるようになった。              大津市歴史博物館 大津京情報

 しかし、このいわゆる大津京(正式に大津京と呼ばれたことはないらしく、歴史学的には、大津宮と呼んだほうが正確らしい。)は誕生からわずか五年後に起こった壬申の乱(勢田は最後の激戦地となった)により廃都とされ、都は藤原京、平城京へと移る。奈良時代、近江は勢田に地方行政を行う国府が置かれ、一地方国となる。そのころ大津は過去のものと考えられてか、「古津」(「ふるつ」近江輿地志略では「こづ」)と呼ばれるようになっていたが、延暦十三年(794年)桓武天皇が平安京に遷都すると、都の外港として再び栄えることとなる。同年、桓武天皇が詔の中で「近江国志賀古津は先帝の旧都、今輦下(天子のひざもと)に接す。昔号を追い、改めて大津と称す可し」(日本紀略)といい、もとの地名が復活した。

 その後、大津は北国から都への物資輸送のとしてルートの拠点として、また園城寺(寺門)に付随する寺院街として、またこの寺門と山門(延暦寺)との大津湖岸の支配をめぐる争いの場ともなった。源平の争乱の時、勢田・粟津は鎌倉方と木曽義仲・平家方との二度も決戦場となった。その後鎌倉・室町時代を通じて、寺領や堅田など湖族・宗門の拠点をのぞけば、南近江は、おおむね近江佐々木氏(六角佐々木氏)の支配に依ったが、その支配は安定せず、同族の京極氏との勢力争いや、家臣の反乱や離反などもたびたびで、室町時代も後期になると足利将軍家との角逐もあり、一時は戦国大名化して勢力をのばしたが、湖北の浅井氏の台頭などもあり弱体化し、ついには信長に滅ぼされる事となる。永禄十一年(1568年)上洛を果たした織田信長は足利将軍家による近江・山城などの知行を辞退、堺・草津・大津の代官による直轄支配を要求したといわれ、大津の地政的な重要性に着目したセンスはやはりさすがである。そして、実質的に大津が発展するのは秀吉が琵琶湖岸に大津城を築き、東国・北国の諸物資の大集散地に導いたことによる。

(映像は、堅田の浮御堂から坂本・唐崎・大津方面)

 秀吉に命じられ、初代大津城主浅井長吉は坂本や堅田の港から船を集めて「百艘船仲間」として船持たちをまとめ、一切の課役を免除、大津浦から出る荷物・旅人の独占権を与えた。また秀吉は大津も含め琵琶湖のすべての船に「極印」を押し、登録制を義務ずけ(これが徳川幕府の成立後も引き継がれる)、それらを統括する船奉行を置いた。京都での秀吉の伏見城普請などもあり大津の港は活況を呈する。             大津市歴史博物館 坂本情報 堅田情報 

 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの折、大津城の豊臣大名である京極高次は、東軍に加担し城兵3000余人をして大津城籠城戦を敢行したが、西軍寄せ手の長等山からの大筒の攻撃など水陸からの猛攻により、関ヶ原の戦い直前、高次は大津城を開城した。(高次はその功で小浜に封じられた。)その後、覇権を掌握した家康は、大坂方(豊臣方)の動きを制する目的から大津城へ譜代の戸田一西をいれたが、翌年廃城、勢田の唐崎を扼する「膳所崎」へ新たに城を築かせた。(「膳所」の名は、天智天皇のころ、いわゆる大津京の「御厨所」:料理をするところに定められたことに由来するとも、京都の八坂神社に食物を献上したところからともいわれる。)大津城が廃城となった理由は、その地形による軍事的な脆弱さと、大津の都市的・経済的機能を優先したためといわれる。大津市歴史博物館 大津城の復元情報 

 膳所城には代々徳川譜代大名が入り、東国から京・西国を抑える要衝の意味合いを持ち続けた。戸田一西のあと氏鉄、元和三年(1617年)三河西尾より本多氏が入り、元和七年(1621年)伊勢国長島より菅沼定芳がはいった。その後寛永十一年(1634年)に下総佐倉より石川忠総がはいり七万石を領有した。この石川氏が二代続いた後、、慶安四年(1651年)伊勢国亀山から本多俊次が30年ぶり膳所に戻った。石高六万石。以後、明治まで本多氏の藩政が十二代にわたって続いた。大津市歴史博物館 膳所六万石情報

 関ヶ原の合戦のあと徳川家康は戦後処理を大津城でおこなった。焼け野原となった大津町中を復興のために地子免除とし、幕府直轄地として大津城跡に奉行所(間もなく近江国と畿内の幕府領を管轄する代官所となる)を置いた。その時、諸国代官頭として街道整備とその支配を管掌した大久保長安が大津奉行についていたといわれていることからも家康がいかに大津の経済的機能に期待していたかがわかる。以後、大津は東海道の宿場町、琵琶湖水運の最大の集散地、そして米取引の経済都市として栄えていき、徳川政権下で大津は、大津・天領・経済都市、膳所・譜代・軍事都市の二眼レフ状態が続くこととなる。

 十七世紀の大津の町の規模について伝えるものは少ないが、元禄十四年(1701年)の記録には町数100町、家数4,728軒(内家持1,927軒、借家2,801軒)、人口17,497人(内男9,154人、女8,343人)でようやく「大津百町」と称されるにふさわしい町の成立をみた。また膳所については、貞享二年(1,685年)の家数は、930軒で人口は3,094人であった。(「淡海録」より) 大津市歴史博物館 大津百町情報

また、この十七世紀は日本史をマクロ的に俯瞰してみたとき、文化のパラダイムにおける劇的な変動期であった。ハルオ・シラネの「芭蕉の風景 文化の記憶」の評論がわかりやすい。一部要約すると・・・十七世紀においては、町人が経済的・文化的に有力な階級として台頭するとともに、武士における藩校、庶民に対する寺子屋というかたちで多人数教育が普及した。また印刷術が登場し、印刷資本主義(print capitalism)が発展をとげた。その結果、俗語(vernacular)による俗文学(popular literature)の生産・消費が拡大し、俗文学は大きな市場向けの商品となった。これと同時期、それまで一部の特殊な階層・少数のエリート集団の専有物だった伝統的な和漢のテクストが出版され流通し、はじめて広い読者層によって読まれることになった。十七世紀の中頃までには、官僚政治体制のエリートとなった武士はほとんど文字が読めるようになり、上級農民、商人、職人階級についても同じことが起こった。中世には限られた範囲の社会集団によって行われていた俳諧を、極めて民衆的なかたちに変容させたのである。十七世紀、京都の版元を総計すると初版だけでも約三十万点の書物が出版されたが、そのうち俳諧関係は六百五十種類を越え、1667年出版の季寄「続山井」末尾の注には、「作者九百六十八人、国数四十八カ国、句数五千三十五句」とある。

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