服部嵐雪の句

http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19970928,19991029,20011013,20011102,20030302&tit=%95%9E%95%94%97%92%90%E1&tit2=%95%9E%95%94%97%92%90%E1%82%CC 【服部嵐雪の句】 より

 甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋

                           与謝蕪村

甲賀衆は、ご存じ「忍びの者」。江戸幕府に同心(下級役人)として仕えた。秋の夜長に退屈した忍びの者たちが、ひそかに術くらべの賭をしてヒマをつぶしているという図。忍びの専門家も、サボるときにもやはり忍びながらというのが可笑しいですね。ところで、このように忍者をちゃんと詠んだ句は珍しい。もちろんフィクションだろうが、なんとなくありそうなシーンでもある。蕪村はけっこう茶目っ気のあった人で、たとえば「嵐雪とふとん引き合ふ侘寝かな」などというちょいと切ない剽軽句もある。嵐雪(らんせつ・姓は服部)は芭蕉門の俳人で、蕪村のこの句は彼の有名な「蒲団着てねたるすがたやひがし山」という一句に引っ掛けたものだ。嵐雪が死んだときに蕪村はまだたったの九歳だったから、こんなことは実際に起きたはずもないのだけれど……。『蕪村句集』所収。(清水哲男)

 蒲団着て先ず在り在りと在る手足

                           三橋敏雄

たしかに、この通りだ。他の季節だと、寝るときに手足を意識することもないが、寒くなってくると、手足がちょっと蒲団からはみだしていても気になる。亀のように、手足を引っ込めたりする。まさに「在り在りと在る手足」だ。それに「在」という漢字のつらなりが、実によく利いている。例えば「ありありと在る」とやったのでは、つまらない。蒲団の句でもっとも有名なのは、服部嵐雪の「蒲団着てねたるすがたやひがし山」だろう。このように、蒲団というと「ねたるすがた」は多く詠まれてきているが、自分が蒲団に入ったときの句は珍しいと言える。ま、考えてみれば当たり前の話で、完全に寝てしまったら、句もへちまもないからである。ところで、蒲団を「着る」という表現。私は「かける」と言い、ほとんど「着る」は使ったことがない。もとより「着る」のほうが古来用いられてきた表現だけれど、好みの問題だろうが、どうも馴染めないでいる。「帽子を着る」「足袋を着る」についても、同様だ。もっと馴染めないのは英語の「wear」で、髪飾りの「リボンをwearする」にいたっては、とてもついていけない。『畳の上』(1988)所収。(清水哲男)

 はぜ釣るや水村山廓酒旗風

                           服部嵐雪

季語は「はぜ(鯊)釣」で秋。私には体験がないのでわからないのだが、江戸期、嵐雪の時代の釣り方が『和漢三才図会』に出ている。「綸(つりいと)の端、鈎(つりばり)を去ること二三寸許の処に、鉛の錘を着、鈎を地に附しむ。微動の響を俟(まっ)て竿を揚ぐ。秋月、貴賎以て遊興の一ツとす」。餌には「小エビ」を使った。さて、嵐雪も秋晴れの一日を入り江の村に「遊興」に出かけた。山に囲まれた一郭では、居酒屋の旗が風にはためいている。気持ちの良い浮き浮きした気分が、伝わってくる。ただ、字面を眺めていると、どことなく釣り場の風景が日本的ではないことに気がつく。それもそのはずで、句の「水村山廓酒旗風(すいそんさんかくしゅきのかぜ)」は、晩唐の詩人・杜牧(とぼく)の五言絶句の一節をそっくりそのままいただいたものだからだ。和歌の本歌取りの手法である。だとすれば、嵐雪はこれを机上で作ったのかという疑問もわいてくるけれど、そうではあるまい。やはり、鯊釣りの現場での発想だ。人間、心持ちがよくなると、見立てもまたどんどん気分の良い方にふくらんでいく。いまの自分は杜牧のような大詩人なのであり、杜牧の詩と同じ景色の中にいるのだと……。卑近な例では、日本のどこかの路を歩いていて、なんだか有名な外国の通りを歩いているような気持ちになったりするが、そんな見立てにも通じている。鯊の天麩羅が食べたくなった。(清水哲男)

 菊添ふやまた重箱に鮭の魚

                           服部嵐雪

俳諧の宗匠は忙しい。連日のように、あちらこちらの句会に顔を出さねばならぬ。したがって食事は外食が多く、嵐雪の時代にはその都度「重箱」を開くことになるわけだ。この日の膳の上には「菊」が添えてあり、おっなかなかに風流なことよと蓋を取ってみて、がっかり。またしてもメインのおかずは「鮭(さけ)」ではないか。このところ、どこへ行っても鮭ばかりが出る。いくら旬だといえども「もう、うんざりだ」と閉口している図だろう。「鮭の魚(うお、あるいは「いお」と読ませるのかも)」と留めたのは、「鮭」と留めると字足らずになるからではなくて、「鮭」にあえて「魚」と念を押すことで、コンチクショウメという意味の、ちょっと語気を荒げたような感じを表現したかったためだと思う。今風に言えば、料亭の飯にうんざりしているどこぞのおエライさんのような贅沢にも思えるが、江戸元禄期あたりの「重箱」は、現代の仕出し弁当に近かったようだ。たとえば正月用の「重箱料理」などの豪華さは、もっと後の時代(18世紀半ばくらい)からのものらしい。となれば、嵐雪のがっかりにも納得がいく。いまの仕出し弁当もたまにはよいが、連日となると辟易するだろう。その昔、人気絶頂のタイガー・マスクが、控室でしょんぼりと仕出し弁当をつついていた姿を思い出した。きっと、うんざりしてたんだな。(清水哲男)

 出替や幼ごころに物あはれ

                           服部嵐雪

春は別れの季節。昔もそうだった……。季語は「出替(でがわり)」で春。いまや廃れてしまった風習だ。奉公人が契約期間を終えて郷里に帰り、新しい人と入れ替わること。その日は地方によって一定していないが、半期奉公の人が多かったので、三月と九月に定められていたようだ。三月に郷里に戻る人は、冬の間だけ出稼ぎに来て、戻って本業の農作業に就いた。現代で言う季節労働者である。なお、秋の出替は「後の出替」と言って春のそれと区別していた(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』参照)。新しい歳時記からは削除された項目だけれど、それでも1974年に出た角川版には掲載されている。たとえば『半七捕物帳』で有名な岡本綺堂の句に「初恋を秘めて女の出代りぬ」があるから、昭和初期くらいまでは普通に通用していた季語であることが知れる。掲句は、半年間慣れ親しんだ奉公人の帰る日が来て、主家の子供が「幼(おさな)ごころ」ながらも、物の「あはれ」を感じている。よほど、その人が好きだったのだろう。もう二度と、会えないかもしれないのだ。相手も去りがたい思いで、別れの挨拶をしたに違いない。この子がもう少し長じていれば、綺堂の句の世界につながっていくところである。『猿蓑』所載。(清水哲男)

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