http://www.sakanaya.co.jp/history/03_08.html 【洒落者、寶井其角の一生】より
杉山杉風と並ぶ芭蕉の代表的門人に寶井其角(たからいきかく)がいます。
魚河岸生まれの生っ粋の江戸っ子俳人である其角は、寛文元年(1661年)日本橋堀江町の医者竹下東順の長男として生まれました。幼名を源助といい、何不自由のない、あたたかい家庭に育ちます。少年の頃から、医学、経済、書道を学ぶ才気煥発ぶりが、わずか十四歳にして芭蕉に認められ、たちまち高弟のひとりと数えられるようになります。
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春 夕涼みよくぞ男に生まれける
わが雪と思えばよろし傘の上 名月や畳の上に松の影
越後屋にきぬさく音や更衣
其角の作風は軽妙で庶民的な滑稽さをたたえたものが多く、師芭蕉の枯淡な風情といかにも相容れないものであったため、他の門人からはとやかく言われました。でも、芭蕉は「私が静寂を好んで細やかに唄う。其角は伊達を好んで細やかに唄う。その細やかなところは同じ流れなり」と誰よりも理解を示したと申します。芭蕉は其角にとって実によい師であったといえるでしょうし、また、其角の句は見事に江戸情緒を詠んだものであることを、何よりも芭蕉は認めていたのでしょう。
ところで、其角には面白いエピソードがいくつもあります。
たとえば有名な雨乞いの話。これは元禄六年(1693年)、其角が門人と三囲神社に参詣したおり、土地の農民らが集って雨乞いの祈願をしていました。その頃、其角は坊主頭をしていまして、それを見つけた農民たちが、
「これは和尚様、よいところへいらっしゃいました。私共は長く日照り続きで困っております。ぜひ雨乞いの妙法を唱えてください」
などと言ってきましたから、其角は驚いて、
「あたくしは坊主じゃなくて、ただの俳人なんですヨ」と断りますが、
「まあ、それでも構いませんから」とにかく頼みこまれます。
そこで、仕方なく其角は開き直って、もうどうにでもなれと一句詠みました。
夕立や田を三囲の神ならば
そのとたんに句が天に通じたのか、みるみるうちに空はかき曇り、大粒の雨がポタリポタリと落ちてくるではありませんか。農民たちは大喜び。その脇で雨にしとどに濡れながら、其角たちは狐にでもつままれた心持ちだったといいます。
また、よく講談などにも登場する赤穂浪士討ち入りの前夜、大高源吾との両国橋での別れがあります。
時は元禄十五年(1702年)十二月十三日、舞台は江都両国橋、其角が橋詰にかかると、向こうからやってくるみすぼらしい笹売りにふと足をとめました、
「お前は子葉ではないか」
はっと上げたその顔はまさしく其角の俳句の弟子である大高子葉こと源吾。はて、その格好はさても困窮してのことであろうと察し、それには触れないで様々な世間話などした後、別れ際に其角が
年の瀬や水の流れと人の身は
と上の句を詠みますと、源吾がただちに
あした待たるるその宝舟
と返しました。其角は源吾の身を哀れんだの対して「その宝舟」とつけたその真意を知らず、きっとどこかへ仕官したいのだろう、と解釈しました。
その翌日、其角は赤穂浪士討入りの報せを受けます。あの笹売りの姿こそ吉良邸密偵のために源吾が身をやつしたものだったのです。其角は己の無知を大いに恥じたといいます。
翌元禄十六年二月四日、鶯の鳴くしずかな春の日に、大石良雄以下四十六名の赤穂浪士は自刃します。家で一杯飲っていた其角は、この突然の報に、
うぐいすに此芥子酢はなみだかな
と詠み、はらはらと涙を落としました。其角四十歳の春のことです。
もうひとつ、よく知られている話に元禄期を代表する町絵師英一蝶(はなぶさいっちょう)との交友があります。
其角の俳句の弟子であり、同時に絵の師匠であった英一蝶は、「朝妻船」という絵で、時の権力に追随して立身した柳沢吉保が、自分の娘を将軍綱吉の側室にしたことを風刺的に描き、お上の怒りにふれ、三宅島に遠島となりました。
それからというもの其角は毎朝魚河岸を訪れては、
「おい、島の荷はまだ着いてないか」とあたりかまわずに大声で呼びます。
「へえ、どうかあちらの親方に」
小揚衆にうながされて、一軒の魚問屋に入ってゆくと、今度は小僧に向かって
「旦那はいるかえ、いねえ? なら番頭でも良い。ちょいと呼んどくれ」
すると、すぐに奥から番頭が飛んでまいりまして
「これは榎本の旦那さま、こんなところまでご足労いただきまして面目ございません。どうにも私共の若い者が気がつきませんもので、へえ、三宅の荷なら着いております。旦那がいらっしゃると思い、別に分けてございます」
其角はすぐに荷を開けさせると、狂ったように中を引っ掻き回しはじめました。しばらくすると中から「くさや」のひと包みをつかみ出し、「おお、無事であったか」と歓喜の声をあげるのです。
其角が大切そうに手にしている「くさや」の包み。それは、英一蝶からのものでした。一蝶は別れ際、親友の其角に三宅島での無事の知らせに、特別の印をつけた「くさや」の包みを送ると約束し、それがある限り自分は健在と思え、と言い残し去っていったのです。
其角は一蝶の身を心配しながらも、一方では反骨精神のために三宅島に流されてしまった友に比べて、時勢をうたいながら世を渡ってきた自分に対する嫌悪を感じておりました。世間で囃されるように自分は幇間俳諧師なのだ、そんな自嘲的な思いが沸き上がってきて、えもいわれぬ淋しさに襲われるのでした。
英一蝶が江戸に戻ったのは、それから十数年後。その時すでに其角はこの世を去っております。
鶯の暁寒しきりぎりす
其角辞世の句です。放蕩に明け暮れ、絢爛華美をきわめた其角でしたが、その晩年はとても辛いものでした。師芭蕉が逝き、門弟たちにも先立たれた後、長年の放蕩に見切りをつけた妻子からも去られ、失意のうちに息をひきとったのです。享年四十七歳。江戸の庶民感覚を痛快に詠んだ俳人のあまりに若く、せつない最後でありました。
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