https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12478835545.html 【今日の「癒しの一句」「いのち二ツの中に生きたる桜かな(松尾芭蕉)」芭蕉レポート<1>】より
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田中裕明・森賀まり著「癒しの一句」より。3/30。
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🌏いのち二ツの中に生きたる桜かな(松尾芭蕉)
「いのち二ツの中に生きたる桜かな」、これ一読してわかりますか?
「いのち二ツ」その「中に生きたる桜かな」。「いのち二ツ」とは何だろう?「その中に生きた桜」、どうもわかりません。何回読んでも私はわかりませんでした。
解説によると、「20年振りに再会した先生と弟子の悦びを桜の花の盛りが包み込んでいる」とありましたが、そういう表現になってますかね~?「いのち二つ生きて桜の盛りかな」ならわかると思うのですが。
ですのでもう少し調べてみましたら、この句は「野ざらし紀行」にあり、芭蕉42歳の時の作品なんですね。「野ざらし紀行」によると、大津から亀山に至る間の東海道の宿駅、滋賀県甲賀郡水口町で、こちらも旅の途中の伊賀上野(つまり同郷)の服部土芳と会うんですね。しかも偶然に。そして芭蕉は、
「命あって奇しくもめぐりあえた二人の間に、お互いに生きてきた命の証でもあるかのように、桜が生き生きと咲き匂っている。」
と書いているのです。
でもやっぱりそういう表現にはなってないですね。恐れ多いとは思いますが、背景がわからなければ、つまり「野ざらし紀行」を読んでなければわからない句です。
※明日(3/31)の「癒しの一句」は、
★鈴に入る玉こそよけれ春のくれ(三橋敏雄)
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🍀松尾芭蕉レポート1.(略歴<1>。Wikipedia他より。🌏生地~~江戸・芭蕉庵まで)
🔹寛永21(1644)~元禄7(1694)年10/12(新暦11/28)。50歳没。
現在の三重県伊賀市出身。幼名・金作、通称・甚七郎、甚四郎。名・忠右衛門宗房。俳号・宗房→桃青・芭蕉。北村季吟門下。兄一人、姉一人、妹三人。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だった、苗字帯刀ではあったが身分は農民。
・明暦2(1656)年(13歳)父死去。 兄の半左衛門が家督を継ぐ。
・寛文2(1662)年(19歳)、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号・蝉吟)に仕える(厨房役か料理人)。
🔹兄の良忠とともに京都の北村季吟に師事。その年の年末、立春の日作↓
★春や来し年や行(ゆき)けん小晦日(こつごもり)
🔹寛文6(1666)年(23歳)、兄・良忠が歿し仕官を退く。
(この間不詳、私がです。)
🔹寛文12(1672)年(29歳)、処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納。
🔹延宝2(1674)年(31歳)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授を受け、これを機に翌年江戸へ向かい、日本橋小田原町(後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の宅)に入る(諸説あり)。
(それまで芭蕉は、家業の農業をしてたのでしょうか?そして両親は?)
🔹江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになる。
・延宝3年5月、西山宗因を迎え開催された興行「九吟百韻」に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。ここで触れた宗因の談林派俳諧に大きな影響を受ける。
・延宝5(1677)年、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事がある(人足の帳簿づけのような仕事だったらしい)。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられている。
・この期間、現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。この年もしくは翌年の延宝6(1678)年、宗匠となり文机を持ち、職業的な俳諧師となる。
・延宝8(1680)年、深川に居を移す。(この理由については諸説ある。点者生活に飽いた、火事で日本橋の家を焼け出された、談林諧謔に限界を見た、など。)
・「深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある」(Wikipedia)
🔹『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に、
★侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥
と侘びへの共感が詠まれている。この『むさしぶり』で初めて「芭蕉」使われた。門人の李下から芭蕉の株を贈られ、これが大いに茂ったことからで、居も「芭蕉庵」へ変えた。
★芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
↑上五は字余りです。
🔹天和2(1682)年12月、天和の大火(所謂八百屋お七の火事)で庵を焼失。甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建された。
・その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調で、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれ、その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めた(Wikipedia)。
↑🍀侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥(わびてすめつきわびさいがならちゃうた)
まず言葉などの調べからしないとこの句、よくわかりませんね。大体芭蕉の若い頃の句はその傾向が強いです。長い時間をかけていろいろ調べてみて意味がわかれば意外と平凡な内容であったりしました。この句はどうか。この句は芭蕉38歳の頃の作。
「月侘斎」→隠者の雅号めいた名→芭蕉自信の生活を例えたのでしょうかね?
「奈良茶歌」→奈良茶飯を食べて歌う歌。とうもこれも造語らしいですよ。「奈良茶飯」は、煎じ茶に炒大豆や炒小豆・焼き栗などを混ぜたもので、それをご飯と一緒に焚きこむのだそうです。
そうすると、私「月侘斎」には奈良茶飯と奈良茶歌があればいい。人間、奈良茶飯でも食って、自然を愛でながら歌でも歌う心境(つまり「侘」)でいられれば、こんな強いことはない、というほどの意味になりますでしょうか。
↑🍀芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉(ばしょうのわきしてたらひにあめをきくよかな)
これも38歳。字余り、破調。
「茅葺きの粗末な庵。野分の風が庭の芭蕉葉を烈しく吹き荒す心細い夜中、草庵に独座して盥に漏り落ちる雨の音に耳を傾けつつ、じっと寂しさに堪える。」(川端茅舎による)
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12478835547.html 【芭蕉レポート<2>今日の「癒しの一句」「鈴に入る玉こそよけれ春のくれ(三橋敏雄)」】 より
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松尾芭蕉レポート1-2.(略歴<2>Wikipedia他より。🌏『野ざらし紀行』~『鹿島詣』~『笈の小文』・『更科紀行』)
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🔹貞享元(1684)年8月(40歳)、『野ざらし紀行』の旅に出る。→伊賀→大和→吉野→山城→美濃→尾張→伊賀→木曽→甲斐→江戸。約8ヶ月。(前年母親他界。その墓参も兼ねる。門人の千里=粕谷甚四郎同行)
★野ざらしを心に風のしむ身哉
野ざらしを覚悟の芭蕉の句です。
この旅の途中に芭蕉の句に変化が起きたようです。
・「前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する。」(Wikipediaによる)
・「途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。」(Wikipediaより)
🔹野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3(1686)年の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な、
★古池や蛙飛びこむ水の音
を詠みました。
・「和歌や連歌の世界では<鳴く>ところに注意が及ぶ蛙の<飛ぶ>点に着目し、それを<動き>ではなく<静寂>を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風=蕉風俳諧を象徴する作品となった。」(Wikipediaより)
・上のような手法は、『野ざらし紀行』の中の次の句にも見られます。
★馬をさへながむる雪の朝哉(うまをさへ ながむるゆきの あしたかな)(『野ざらし紀行』)
一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮だったかを、平凡な馬でさえ眺めてしまうという風に表現し、雪の朝を強調しているわけです。そして最後の「哉」でさらに強調します。
・また芭蕉の句の特徴の一つに、「~~や~~~~~~(体言止め)」が挙げられます。
★菊の香やならには古き仏達(きくのかや ならにはふるき ほとけたち)(『笈日記』)
大体この頃になると、芭蕉の俳諧が一応の形に定まるという風に言えると思いますね。俳諧を始めて弱20年後です。
それと「取り合わせ」の手法も完成してますね。「取り合わせ」による句の広がりに気づいたんですね。
🔹貞享4(1687)年8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行く。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作る。
★月はやし梢は雨を持ちながら
🔹同年貞享4(1687)年10月25日から『笈の小文』の旅に出る。→鳴海→熱田→伊良湖崎→名古屋→伊賀上野→伊勢神宮→伊賀→伊勢→吉野→大和→紀伊→大坂→須磨→明石→京都→江戸。
※京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。→大津→岐阜→名古屋→鳴海→信州更科の姨捨山(月を展望)→善光寺→江戸。
※明日に続きます。
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田中裕明・森賀まり著「癒しの一句」より。3/31。
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🌏鈴に入る玉こそよけれ春のくれ(三橋敏雄)
<「癒しの一句」での解説>
春の暮は、暮春すなわち春も闌けたころのこともいうが、現在では春の日暮れのことをさすことが多い。掲出句の場合ももちろんそうだろう。うららかな一日がゆっくりと暮れていく。「よけれ」「春のくれ」というひらがなの表記から作者の穏やかな心持ちが伝わってくる。単純で澄んだ音色をたのしみながら作者は鈴の中でひたすら揺られている玉のことを思っているのだ。(「癒しの一句」より)
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12478835550.html 【芭蕉レポート<3>今日の「癒しの一句」「万愚節に恋うちあけしあはれさよ(安住敦)」】 より
🍀松尾芭蕉レポート1-3.(略歴<3>Wikipedia他より。🌏『おくのほそ道』『猿蓑』『幻住庵記』『すみだはら』)
🔹西行500回忌に当たる元禄2(1689)年3月27日、曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出ます。→下野→陸奥→出羽→越後→加賀→越前→大垣→伊勢神宮→伊賀上野→京都→近江(義仲寺・無名庵)
・西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る旅。ここに多くの名句が詠まれたことはご承知の通りです。
★夏草や兵どもが夢の跡(岩手県平泉町)
★閑さや岩にしみ入る蝉の声(山形県立石寺)
★五月雨をあつめて早し最上川(山形県大石田町)
★荒海や佐渡によこたふ天河(新潟県出雲崎町)
・「この旅で(略)、芭蕉は歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から
<不易流行>に繋がる思考の基礎を我が物とした。」(Wikipediaより)
※「不易流行」については、コメント欄に他のこととともに少し書きました。
🔹元禄3(1690)年正月、一度伊賀上野に戻る。3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在。この頃芭蕉は風邪と持病の痔に悩まされていた。
🔹元禄4(1691)年4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在しました。5月4日には京都の野沢凡兆宅に移り、ここで去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組みます(7月3日刊行)。
★初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中での詠)
『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』も収録されています。
『猿蓑』には次の代表作がありますね。
★蛸壺やはかなき夢を夏の月(たこつぼや はかなきゆめを なつのつき)
芭蕉は『三冊子』において、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言い、及ばないところというのは「俗」であり、俳諧は「俗」を取り入れ他の3つに並ぶ独自性の高い文芸になのである、と言っています。
「<蛸壺>という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している」(Wikipediaによる)
🔹10月29日に江戸に戻り、翌年新築なった蕉庵へ。このあと元禄6(1693)年夏、暑さで体調を崩し、約1ヶ月間庵に篭る。
・冬に、三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集。
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田中裕明・森賀まり著「癒しの一句」より。4/1。
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🌏万愚節に恋うちあけしあはれさよ(安住敦)
<「癒しの一句」での解説>
4月1日はエイプリルフール、すなわち四月馬鹿と呼ばれて、西洋ではこの日に限り、かるい嘘をついたり、いたずらで人を担いだりしても、とがめられないという風習がある。
その4月1日に恋を打ち明けてしまった。相手の女はエイプリルフールと思って(あるいはそのふりをして)本当にしない。はじめから、振られたときに冗談とごまかすつもりで、この日に告白したのか。それも考えてみれば哀れなことである。作者の若い頃を振りかえってのものか、または若い後輩の姿か分からないが、ほろ苦い味わいのある俳句だ。日本風の情感のあるユーモアと言えないこともない。(「癒しの一句」より)
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12478835553.html 【芭蕉レポート<4>今日の「癒しの一句」「外にも出よ触るるばかりに春の月(中村汀女)」】 より
🍀松尾芭蕉レポート1-4.(略歴<4>芭蕉最期の旅。Wikipediaその他より)
🔹元禄7(1694)年5月、寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち伊賀上野へ向かい5月28日に到着。その後湖南→京都→へ行き伊賀上野へ。
・9月に奈良→(生駒暗峠)→大坂。
・大坂行きの目的は、不仲の之道と珍碩の間を取り持つため。最初は若い珍碩の家に行くが、彼は受け入れず失踪。この時芭蕉は心労の為か健康を害し、之道の家に移る。しかし、ある日の夜、発熱と頭痛を訴え、容体は悪化の一途をたどり、約一ヶ月後死亡。
🔹その間の御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷での「病中吟」が、
★旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
です。この句が辞世の句になっているのはもうご承知の通りです。
🔹この句を作る時でも芭蕉は病床で、推敲を繰り返したそうです。
☆旅に病んでなほかけ廻る夢心
☆旅に病んで枯野を廻るゆめ心
などなど。
🔹遺骸は、近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、木曾義仲の墓の隣に葬られました。
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田中裕明・森賀まり著「癒しの一句」より。4/2。
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🌏外にも出よ触るるばかりに春の月(中村汀女)
昭和21年作だそうです(『花影』所載)。 長い戦争が終った後ですね。何かの集まりからの帰り際、あまりにも月が美しいのに感動した中村汀女さんがまだ残っている仲間に向かって呼びかけた句のようです。「触るるばかり」にその時の感動が伝わってきますね。
昭和21年は、前年の3月に東京大空襲があり、危うく難を免れた中村家でありましたが、ご主人がパージを受けたりなどして、物心両面で大変な時でしたが、この句からはそういう中でも久振りに明るい春の月を見上げ感動した時の喜びも伝わってきます。中村さん、40代ですね。
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