永代橋~深川~隅田川テラス

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【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その1】より

 JR東京駅の八重洲中央口に出たのは7:51。ここは「東京駅八重洲駅前広場整備」事業の真っ最中でした。

 この八重洲中央口から右折し、「JRバスきっぷうりば→」の標示を見て進むと、「外堀通り(西銀座通り)」に面した歩道の左手は、JRハイウェイバスの乗り場になっており、「昼行」して各方面へ向かうハイウェイバスに乗車する人々の行列ができていました。

 「昼行」するハイウェイバスの行き先の中には、「御殿場アウトレット」や「八ヶ岳(季節便)」といったものもあります。「夜行」の行き先を見てみると、「高知」、「萩、浜田・津和野」、「青森」といったものもある。ずいぶん先まで行くものです。

 やがて「鍛冶橋」交差点にぶつかりますが、そこに「東京国際フォーラム→200m」の案内標示が立っています。その「東京国際フォーラム」のあるところが、かつて鍛冶橋門内の土佐藩上屋敷があったところと重なります。

 その交差点を左折した通りが「鍛冶橋通り」で、「営団京橋駅250m 国立近代美術館フィルムセンター300m」と記された標示があります。

 この「鍛冶橋通り」の右側の歩道を進んで行くと、「千葉定吉(さだきち)道場跡」の案内板がありますが、この案内板は少し前の取材旅行で確認しています。

 千葉定吉は、千葉周作の弟で、この付近に「小千葉道場」などと通称される道場を開きました。高知から江戸に出て来た坂本龍馬もここで剣術を学び、安政5年(1858年)正月に、定吉から「北辰一刀流長刀兵法」の目録を伝授されています。

 この千葉定吉道場は、鍛冶橋の土佐藩邸(上屋敷)から歩いて5分ちょっとといういたって近い所に位置し、藩邸内の土佐藩士が剣術修行に通う道場の一つであったと思われます。

 この案内板には、「日本橋南京橋八丁堀霊岸嶋辺絵図」の一部が掲載されていますが、それを見ると、鍛冶橋門外の東側に「狩野屋敷」と記された一郭があり、そこに千葉定吉の道場がありました。鍛冶橋御門内の土佐藩上屋敷からは、外堀を渡った向こうの、ほんの目と鼻の先であったということになります。

 この鍛冶橋から、兆民がどういう道筋をたどって永代橋向こうの深川佐賀町の達理堂まで通ったかはよく分かりませんが、古地図を見ると、もっとも可能性のあるのは、外堀沿いに北へ進み、一石橋を渡って右折。日本橋川に沿って東へと進み、永代橋を渡るコース。あるいは東海道に出て左折し、日本橋を渡ったところで右折して、やはり日本橋川沿いに永代橋に向かうコース。江戸に不案内な兆民は、複雑な道筋は選ばなかっただろうと考えられる。

 渡る橋は、「荒布橋」→「思案橋」→「崩橋」→「永代橋」。永代橋を渡ったところが深川佐賀町で、古地図を見ると、真田藩(松代藩)下屋敷へ行くには、そこで左折し、「下之橋」の手前で右折して、やや進んだところでふたたび右折すると、その突き当たりに真田藩下屋敷がありました。

 古地図を見ると、深川一帯は堀(水路)が縦横に走っていることに驚かされます。

 私はというと、「鍛冶橋通り」が永代橋に続いていることを知り、そのまま「鍛冶橋通り」を歩いていくことにしました。

 東京メトロの「京橋駅」を過ぎ、「昭和通り」を渡って「弾正橋」に出たのが8:07。この「弾正橋」は楓川に架かっていた橋で、ここから東へと延びていた堀が「八丁堀」。

 東京メトロの「八丁堀駅」を見て、「新大橋通り」を渡って、「高橋」に出たのが8:20。この「高橋」は、かつては越前堀に架かっており、現在は「亀島川」に架かっています。

 古地図を見ると、この「高橋」を渡った先(東側)に、霊岸島の「越前福井藩」の中屋敷があり、それは大川(隅田川)の河口部に面しており、その川の流れを隔てた南側には石川島が見えます。

 「高橋」を渡って進む「鍛冶橋通り」は、古地図と照らし合わせるとその福井藩中屋敷があったところを突っ切り、永代橋の西詰、すなわち隅田川にぶつかりますが、その現在の永代橋の位置は、かつての永代橋の位置よりもやや下流に位置していることがわかります。

 永代橋の案内板によると、「『復興は橋より』、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉」であったという。この永代橋と清洲橋は、近代橋梁技術の粋を集めてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在であり、永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である、とも記されています。

 永代橋の上流には隅田川大橋が見え、下流には、「リバーシティ21」の高層マンションの群立が見えます。永代橋の下は隅田川テラスとなっており、そこをしばらく歩いた後、永代橋に戻って日本橋川が隅田川に流れ込む地点にある「豊海橋(とよみばし)」を渡ってみました。

 この日本橋川は、「江戸時代には物流の中心として市民のくらしを支え、築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸があり、たいへん賑わ」ったという説明がありましたが、隅田川からその日本橋川に入る起点のところに架かっているのがこの豊海橋。

 古地図を見ると、かつての永代橋は、この豊海橋の東側、日本橋川が隅田川に注ぎ込むところの隅田川のほんの上流のところに架かっていました。「長サ百二十間余」と記されています。

 この「豊海橋」は、昭和2年(1927年)に竣工されたものであり、「中央区民文化財」となっていて、橋のたもとに案内板がありました。

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【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その2】 より

 日本橋川が隅田川に注ぎ込む地点に架かる「豊海(とよみ)橋」の案内板には、このあたりは新堀河岸と呼ばれており、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げするところであり、川に沿って白壁の酒倉が並んでいた、とあります。

 河岸があって諸国から運ばれてきた酒が陸揚げされ、それをおさめるための倉がこの河岸沿いに並んでいたというのです。

 日本橋川については、「日本橋川は、慶長5年(1600)関が原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほヾ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川」だという、「日本橋川に架かる橋(豊海橋から一石橋)」という案内板の説明がありました。

 豊海橋の真ん中から隅田川を望むと、右手(下流)に水色の永代橋が見えますが、かつては左手に永代橋はあり、対岸の深川佐賀町に延びていました。

 幕末の頃に写されたものと思われる永代橋の写真が、『写真で見る江戸東京』(とんぼの本/新潮社)のP68~69に載っています。解説に「左手は日本橋北新堀大川端町 右手は深川佐賀町 現在の橋とはちがい新堀川(日本橋川)の南にかかっていた」と記されていますが、中江兆民が慶応3年(1867年)の夏から秋にかけて渡った永代橋は、まさにこの橋であったのです。また永代橋を中心とする隅田川の景観はこのようなものであったのです。今でも、この隅田川を中心とする景観は広々としたものですが、この時代は高い建物が一切ないだけに、せいせいとするような景観が広がっています。川も空も、まるで広い。

 両岸にはおびただしい数の荷船が繋留され、橋の真ん中下には、橋を潜り抜けて河口部へと進む屋根船の姿が見える。左手前には、荷船が数隻大きく写っています。ここもおそらく河岸であり、写真はその河岸の上から撮られています。

 この写真の下(P69)には、「堀川風景」という古写真も載っていますが、解説には、「場所はわからないが橋下が関門のようになっているのがわかる」とあります。

 『写真で見る江戸東京』の永代橋の古写真と同じものが、『F.ベアト写真集2』(明石書店)のP25中に載っているから、この写真はフェリーチェ・ベアトが撮影したものと考えてまず間違いはない。

 では、「堀川風景」はどうかというと、『写真で見る江戸東京』には、「ベアト撮影?」とあります。これも私にはベアトが撮影したもののように思われるのですが、この橋はいったいどこの橋を写したものか。

 実はこの「堀川風景」とほぼ瓜二つの挿絵が、『絵で見る幕末日本』エメェ・アンベール(講談社学術文庫)のP212に、「江戸の波止場」として掲載されています。またそのP265上の「江戸の永代橋」という挿絵も、ベアトの写したものと思われる永代橋の写真とほぼ同じ構図のもの。

 他の挿絵を見てみても、このアンベールの本(『幕末日本図会』)に採用されている挿絵は、ベアトの写真をもとにしたものが多い。

 「堀川風景」の写真の関門の奥に、無数の荷船が密集し、川岸に板壁や白壁の倉庫が建ち並んでいる風景は、ベアトが写した永代橋の左手、「日本橋北新堀大川端」の手前にある「豊海橋」から日本橋川(新堀川)上流にかけての風景がふさわしい。

 しかし、これは私の勝手な推測であり、河岸から撮影したとすれば、どこかの堀川(運河)をもう少し内陸部に入ったところに架かる橋なのかも知れません。

 いずれにしろ、日本橋川も神田川も、この写真のように荷船が密集し、屋根の高い倉庫が川岸にずらりと並ぶ景観を呈していたことはまず間違いがないと思われます。


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【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その3】 より

 「豊海橋」を渡って右手に回った隅田川べりの高台には、「永代橋」と記された案内板があって、その案内板には、「元禄十一年(1698)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所よりも上流約150mのこの付近に架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから『永代橋』と名付けられていました」とあります。

 また「当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁を十分高く取ったので、『西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし』といわれる程の橋上からの景観」であったという。

 この案内板には、歌川広重の天保前期の作品『江戸名所之内永代橋佃沖漁舟』が載っていますが、月下の沖合には点々と白魚舟が浮かび、また右手向こうの佃島と永代橋の間の隅田川上には、帆柱を空に突き立てた大型帆船がずらりと集結しています。この大型和船は「弁才船(べざいせん)」であり、「千石船」とも呼ばれたもの。このあたりは回船(弁才船)が帆を休める船溜りであったのです。

 その大型和船の船溜りと永代橋との間には、屋根船や荷船が行き交い、永代橋の上もさまざまな身分の人々が行き交っています。

 永代橋の橋脚は、と見ると、これはベアトの写した幕末の永代橋と同じで、あの「幕末の永代橋」と違って斜交いの柱が取り付けられてはおらず、強化されてはいない永代橋です。

 広重のこの絵では、永代橋の左半分は描かれていませんが、永代橋は中央部へと次第に高くなり、そして中央部を越えると次第に低くなっていきました。そのことは、『新版江戸から東京へ(六)』の「幕末の永代橋」の写真を見るとよくわかります。

 まるで真ん中で「へ」の字のように折れているように見える。

 『写真で見る江戸東京』の永代橋の写真では、真ん中で「へ」の字のように折れているようには見えず、もっとゆるやかにせり上がっているように見えます。

 先ほどの案内板には、永代橋は、大型船(回船)が航行するために橋桁が高くなっていて見晴らしがよかったことが記されていましたが、矢田挿雲の『新版江戸から東京へ(六)』にも、「昔の永代橋は、今よりも橋板が高かったから、富士も、筑波も、箱根も、房総の山々もよく見えたのだとは、老人連の昔自慢である。」と記されています。

 また、

 「その風情は、海山の眺めばかりでなしに、海に近いため大型巨船が輻輳(ふくそう)して、太鼓にふくらんだ高い橋の下を出入りするさまが、港らしい心持を見せていた。一つ上手の新大橋になると、もう景趣が一変して、市中の橋らしい感じが強くなる。」

 とも。

 つまり、橋の下を大型巨船が出入りし、港らしい雰囲気が永代橋付近には漂っていて、新大橋や両国橋を渡る気分とは大いに異なっていた、ということです。

 林順信さんの『東京市電名所図絵』にも、『武江図説』の「此(この)橋勝(すぐ)れて高く、西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし、江戸第一の大橋、此処は万国廻船これより鉄砲洲をさしてかゝるなり」との文が紹介され、次のようなことが記されています。

 「戦前まで永代橋を下流にくぐるということは、江戸湾(東京湾)に出ることを意味していた。視界渺渺(びょうびょう)として開け、大海原に出る思いだった。私の少年時代には、伊豆大島への汽船は永代橋そばの亀島川の河岸から出帆した。」

 戦前までは、永代橋を潜って隅田川の下流に出ると、大海原に出る思いだったというのです。

 今は、下流には近代的な高層ビルが建ち並び、隅田川の両側にもビルが建ち並んでいて、戦前までの景観はまったく失われていますが、満満とした隅田川の水面の広がりは、かつての景観をそれなりにしのばせてくれるものです。

https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/68e69a0827af6952ec3fcd454b2605ac【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その4】より

 かつて永代橋が架かっていたところ(旧永代橋西詰)から、隅田川下流に架かる水色の永代橋を中心とする眺めを楽しんだ後、ふたたび白い豊海橋(とよみばし)を渡って永代橋の西詰に立ち(8:43)、そこから永代橋を渡りました。

 上流の隅田川大橋や清洲橋が重なって見えるその上に、墨田区に建築中の「東京スカイツリー」が見えました。デジカメをズームにすると、その上部が工事中であることがよくわかります。

 下流は、「リバーシティ21」の高層マンション群。永代橋を潜れば「視界渺渺」たる「大海原」であった戦前までの下流風景とは、もう程遠い。

 上流左手前に見える白いトラス橋は豊海橋で、その下から左奥に入っていく川は日本橋川(新堀川)。その橋の右側の樹木が繁っているところが、かつての永代橋の西詰で、先ほど私が水色の永代橋を右手に眺めたところ。

 永代橋を渡るとそこが佐賀一丁目で、ここがかつての深川佐賀町となる。その永代橋東詰から隅田川の河岸(隅田川テラス)に下り、永代橋や、対岸の日本橋川入口に架かる豊海橋を眺めた後、ふたたび上の通りに上がって門前仲町の方へ進みました。

 すぐに左手に折れる道は、「佐賀町河岸通り」。かつては「河岸」があったのです。

 「佐賀一丁目」のバス停を過ぎて間もなく、左手に「江東区登録史跡 佐久間象山(さくましょうざん)砲術塾跡」の案内板が立っていました。

 それによると嘉永3年(1850年)7月に、佐久間象山は、深川小松町の真田(さなだ)藩下屋敷で諸藩の藩士たちに西洋砲術を教え始めました。入門者は勝海舟ら。同年12月にいったん松代へ帰藩した後、翌年ふたたび江戸に出て、木挽(こびき)町に砲術塾を開くのですが、その時の門下生が、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之などであったという。

 佐久間象山が、初めて西洋砲術を教えるための塾を開いたところが、この深川小松町の真田藩下屋敷であり、このあたりがその下屋敷の跡であったというのです。

 その跡地を過ぎたところの堀川に架かる橋が「福島橋」で、そこから堀川の左側を望むと、その堀川のコンクリート製護岸の上は遊歩道になっています。その左岸の遊歩道の左側一帯が真田藩下屋敷であったということになる。ということは、真田藩下屋敷は、この堀川に接していたということになります。

 実際、『復元江戸情報地図』を見てみると、「信濃松代藩」(10万石)下屋敷は、福島橋が架かる堀川に接して建てられており、水路のようなものが南隣の「御船手組屋敷」の中を通って、松代藩下屋敷の庭にまで入り込んでいます。これは池水でしょうか。それとも船がここまで入ってきていたのでしょうか。「御船手組屋敷」に水路が入り込んでいるということは、この水路は船が入り込むものであると想像できる。江戸湾と、この堀川、および水路は続いているのです。

 この真田藩(松代藩)下屋敷は、また、幕末のフランス語学者村上英俊(えいしゅん)が「達理堂」という名前の塾を開いていたところでもあり、そこで、慶応3年(1867年)の夏から秋にかけて学んでいた青年の一人が中江兆民でした。

 はじめのうちは鍛冶橋の土佐藩上屋敷から永代橋を渡って「達理堂」に通い、途中から「達理堂」のある真田藩下屋敷に住まったか、その近くの下宿から通ったものと思われます。つまり一時期、この深川に住んでいたことになるのですが、詳細についてはほとんどわからない。

 私は、この真田藩下屋敷の北側に接して流れる堀川の遊歩道を、北に向かってしばらく歩いてみることにしました。

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【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その5】 より

 旧松代藩(真田藩)下屋敷の北側に接していた堀川沿いの遊歩道を進むと、対岸に「大島川西支川」という看板が見えました。この堀川は、現在は「大島川西支川(にししせん)」というようですが、幕末においては何と呼んだのだろう。

 やがて「大島川西支川」と記された案内板が現れました。それによると、大島川西支川は、右岸佐賀二丁目と左岸福住二丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る全長約820mの河川。両岸はおおよそ元禄期までに埋め立てられた町で、川沿いには河岸地が設けられていて、かつては荷物の積み降ろしでたいへん賑わっていた、という。

 『復元江戸情報地図』を見ると、この「大島川西支川」へは、隅田川より「巽橋」または「下之橋」を潜って入ることができるようになっており、隅田川水運と深くつながっていたものと思われます。そのかつての名前は記されていません。

 「御船(みふね)橋」を過ぎて「緑橋」に至りましたが、このあたりが「佐賀二丁目13」。

 「元木橋」が架かる通りはかつては堀川が東西に流れていたところ。この堀川が隅田川に流入するところに架かっていたのが「下之橋」。

 その「元木橋」を過ぎて、「中の堀川」に架かる「豊島(としま)橋」を渡り、仙台堀川にぶつかったところに架かる橋が「清川橋」。その「清川橋」を渡った右向こうは都立清澄公園となります。

 仙台堀川には、次のような案内板がありました。

 「かつて、隅田川との合流部、上の橋から海辺橋までを仙台堀といいました。これは、北側に仙台藩松平陸奥守の屋敷があったことに由来します。この川は、以前に永代六間堀の一つであって、幅六間の堀でしたが、元禄年間に川幅を掘り広げ、さらに亀久橋の方まで新たに疎通した時、川幅を二十間に広げたので、以降この川は、二十間川と呼ばれるようになりました。(後略)」

 『復元江戸情報地図』を見ると、仙台堀が隅田川に流入するところに架かる橋が「上之橋」で、その北東角に「蔵 松平陸奥守(伊達)慶邦 六十二万五千六百石余」と記されています。そしてあの真田藩下屋敷と同様に、水路が屋敷地内まで入り、その水路は屋敷地内で、まるで船溜りのように四角くなっています。

 ほかの近辺の大名屋敷地を見てみても、下総関宿藩・筑前福岡藩・遠江浜松藩・常陸土浦藩・三河西尾藩などのように、水路が屋敷地内まで続いているところが多い。

 これはそれらの大名屋敷地(下屋敷・蔵屋敷など)と、隅田川水運(日本橋川水運・神田川水運も含めて)とが密接な関係にあったことを示しています。

 その仙台堀川に架かる「清川橋」を渡って右折し、仙台堀川沿いに「海辺橋」へと向かいました。

 『復元江戸情報地図』を見ると、「上之橋」から「海辺橋」までの間、仙台堀川には橋は架かっていませんが、現在は、「清川橋」や「清澄橋」がその間に架かっています。


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【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その6】より

「清澄橋」で右折して仙台堀川を渡ると、そこは「深川一丁目11」で、すぐに左折して堀川沿いを歩きました。そこには「芭蕉俳句の散歩道←」という看板が立てられていました。

 「明月や 北国日和 定なき」(敦賀にて)

 「荒海や 佐渡によこたふ 天河」(出雲崎にて)

 「五月雨を あつめて早し 最上川」(大石田にて)

 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」(立石寺にて)

 「夏草や 兵どもが 夢の跡」(平泉にて)

 などの俳句が記された立て札が次々と現れます。

 そしてまもなく見えてきたのが「海辺(うみべ)橋」。

 その「海辺橋」の右手に小屋のようなコンクリートの建物があって、通りに面したその建物の縁台に、杖と菅笠を持った金属製の芭蕉が腰掛けていました。

 その芭蕉像の左手に「採荼庵跡」と刻まれた碑が立っており、それには、「芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持屋であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に採荼庵を建てみずからも採荼庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び『白露もこぼさぬ萩のうねりかな』の句をよんだことがあり元禄二年奥の細道の旅はこの採荼庵から出立した」と詳しく刻まれています。

 ※「採荼庵」は「さいとあん」と読む。

 この散歩道に、『奥の細道』の俳句が記された立て札が立っているのは、それに因(ちな)んだものであったのです。

 この海辺橋から通りを深川方面へ進んで、途中で右折。大きな駐車場のある「コーナン江東深川店」を左手に見て、まもなく「大島川西支川」に架かる「松永橋」に差し掛かりました(9:24)。

 その「松永橋」の左手に「大島川西支川」と記された案内板が立っており、大島川の名称の由来が書いてありました。

それによれば、大島川の名称は、右岸の町名「大島町」にちなむもので、元禄12年(1699年)に深津八郎右衛門により、付近の埋立と同時に開削されたもの。やはり荷物の積みおろし等で大変賑わった堀川であったようです。

 この「松永橋」の手前で左折し、「大島川西支川」を、先ほど歩いた側とは反対側の歩道を歩いて「元木橋」まで進み、その「元木橋」を渡って通り反対側右手に見えた赤い鳥居の並ぶ神社に近寄ってみました。

 その一番手前の鳥居には「紀文稲荷神社」という黒枠の額が掛かっています。

 境内地に入ると、「紀文稲荷神社縁起」という詳しい由来が記された案内板があり、それによるとこの神社は、あの有名な元禄時代の豪商紀国屋文左衛門が、京都の伏見稲荷神社を勧請して造った神社であることがわかりました。

 当時、紀国屋文左衛門の店は八丁堀にありましたが、下屋敷は「現在の第一勧業銀行深川支店」のあたりにあり、付近には運河が縦横に走っていてこのあたりには紀国屋文左衛門の船蔵があったらしい。その船の航海の安全と商売繁盛を祈って祀られたのが「お稲荷さま」であったわけです。

 やがて荒れ果てていた祠(ほこら)を、昭和の初めに再興したのが肥料商人であった中田孝治という人。この中田孝治は、富士講の講元もしており、そのことからこの境内地には「富士浅間神社」も勧請されて祀られていたようです。また境内には大石が置いてあるのですが、これらは、米問屋や肥料問屋などで働いていた力自慢の人たちが、自分が差し上げることができた大石に自分の名前を刻んで記念にしたものだという。

 もとは、「紀文稲荷神社」はこの地にではなく、現在地より北西へ30mほど入ったところにあったようです。

 この案内板の記述から伺えることは、豪商紀国屋文左衛門の活躍も、この地域に縦横に張り巡らされた掘割(堀川)の存在と密接に関わっており、その水運・海運の安全と商売繁盛を祈って「お稲荷さま」の信仰が行われたこと。また昭和になっても肥料問屋や米問屋が付近にあって、船の積荷の積み下ろしをする多くの労働者がこの付近には居住していたということです。

 『東京 隅田川の歴史』の中の、塚田芳雄さんの「隅田川の船」には、利根川水系から江戸東京に入ってきた物資として、米・油・材木・薪炭・酒・紙などが挙げられ、また逆に江戸東京から運ばれていった物資として、塩・茶・小間物・干鰯(ほしか)・しめ粕などが挙げられています。

 また「五大力」という船のことが触れられていますが、これは「大平田」のなお大きいものを言い、米や薪炭などを、武蔵・相模・安房・上総・伊豆方面などから江戸沖へと運んできたものであるという。

 「弁才船」のような大きな船は永代橋を潜ることはできずに永代橋と佃島の間あたりに碇泊したわけですが、この「五大力」は棹(さお)を使うことができたので、永代橋を潜り堀川へと入って行くことができたようです。

 その「五大力」や「大茶船」、「茶船」などが、諸物資の積み下ろしをするために河岸地に碇泊したわけですが、その運搬、積み込みの仕事を担う労働者たちが大勢住んでいたのが、河岸地近辺の棟割長屋であったのです。

 神社を出て、「元木橋」に続く通りを奥に進んで、すぐに左折。角に入口の上に斬新な意匠のある3階建ての古いビルがありました。大正末か昭和初期頃のものかと思われる。角に面した部分がカーブ(面)になっていて、レトロで由緒ある建物のようですが、木製の重厚な扉にも社名などはありませんし、また案内板などもありません。

 玄関口で見上げると、3階の屋根部分の半円形のカーブが青い空をバックに美しい。2階の窓が縦長の長方形に対して、3階の窓は上部が半円になっています。ゆとりあるデザインが施されており、とても印象に残る建物でした。

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【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その7】 より

 「佐賀一丁目南」交差点を永代橋東詰の方向へ進んでいくと、左手に「大和永代ビルディング」という大きな建物がありますが、このあたり一帯が真田藩(松代藩)下屋敷があったあたりであると思われます。

 「ウチダエスコ株式会社」のビルの前に、「赤穂義士休息の地」碑を見て、永代橋東詰にふたたび出たのが9:40。

 そこで左折し、「佐賀一丁目」バス停を過ぎ、大島川西支川に架かる「福島橋」を渡りました。福島橋を渡った左手に「渋沢栄一宅跡」の案内板。それによると渋沢栄一は、明治9年(1876年)に深川福住町の屋敷を購入して修繕を加え、そこを本邸としました。同21年(1888年)に兜町(かぶとちょう)に本邸を移設したため、この深川の屋敷は別邸として利用されることになったのだという。

 栄一は早くから倉庫業の重要性に着目。明治30年(1897年)に、当地に渋沢倉庫部を創業。本区に関係する栄一が設立した会社は、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などが挙げられる、とのこと。

 渋沢栄一の倉庫業の重要性の着目は、この深川の堀川沿い、あるいは日本橋川に沿って甍(いらか)や白壁をずらりと並べていた河岸蔵の存在と無縁ではないでしょう。

 その近くには「澁澤倉庫発祥の地」を示す碑も立っていました。

 左手にある巨大ビルは、「澁澤シティプレイス永代」というものであり、そのビルの右手奥に「澁澤倉庫」と名前のある建物が見えました。

 歩道橋を渡って「葛西橋通り」を渡って「門前仲町一丁目」に入りました(9:56)。

 「清澄通り」を越えると、そこは「門前仲町」の商店街であり、いきなり人通りが多くなって賑やかになりました。「深川仲町通商店街掲示板」というのがあるから、この商店街は「深川仲町通商店街」というらしい。

 やがて左へと折れる道が現れ、その奥に「深川不動尊」の屋根らしきものが見えたので、その道を進みました。その通り両側にも、門前町を思わせる商店が並んでいます。

 「深川不動尊」の案内板によれば、深川不動堂は、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878年)にここに遷座したもので、堂宇が建立されたのは明治14年(1881年)のこと。

 ということで、この「深川不動尊」は、幕末・明治初期にはここにはなかったことになる。

 その門前から「富岡八幡宮」の方へ。

 朱塗りの鳥居を潜った左手奥が、富岡八幡宮の社殿でした。

 永代通りに面した大鳥居の方へ石畳の参道を歩いていくと、「伊能忠敬銅像」や「世界測地系の採用を記念して」のモニュメント、「大関力士碑」などがありました。興味深かったのは、「巨人力士身長碑」。釈迦ヶ嶽雲右エ門は、身長が七尺四寸八分(二米二六)もあったのです。

 永代通りを左へと進んで、「汐見橋」を渡ったのが10:26。下を流れるのは「平久川(へいきゅうがわ)」。

 そこから戻って右折し、「八幡堀遊歩道」へと向かいました。

 この八幡堀遊歩道には「八幡橋」というのがあって、それは「旧弾正橋」であるという。

 この「弾正橋」には、私は記憶がありました。それは『百年前の東京絵図』に収録されている1枚の絵。山本松谷の描く「三つ橋(みつばし)の現況」というもの。P84~85に掲載されています。

 その絵の左端中央に描かれている鉄橋が「弾正橋」でした。

 この絵はとても印象的な絵で、東京の市街の真ん中に堀川が十字に交差するところがあったことがわかる絵です。場所は本八丁堀町あたり。左下から右上へ流れる堀川が「八丁堀」で、左奥に入っていく堀川(弾正橋が架かる堀川)が「楓川(かえでがわ)」。この楓川に沿って奥へと進んでいけば、「日本橋川」に架かる「江戸橋」へと至ります。

 左手前の「八丁堀」に架かる木橋は「白魚橋」。右手の堀川に架かる木橋が「真福寺橋」。

 縦横十文字に堀川が流れているところに三つの橋が集中しているので、「三つ橋」の名称がついた、とあります。

 交差する堀川の水面には、荷船や屋根船を初めとした「茶船」が多数行き交い、弾正橋を渡った右手の河岸には荷船が繋留され、広場には多数の諸物資が積み上げられています。重い荷物を肩に乗せて運ぶ人足たちの姿たちも描かれています。その河岸地の奥には白壁の蔵が並び、河岸通りに面して黒漆喰塗りの重厚な土蔵造りの商店が軒を並べています。

 手前の通りには、荷物を満載した大八車や、荷物を載せた車を引っ張る馬や馬引きの姿が描かれています。

 小雨の降るあいにくの天気ながら、堀川の河岸沿いを中心とした、ありし日の東京の風景が描かれていて、鉄橋や人力車が描かれているように明治東京の風景でありながらも、江戸の風景(堀川沿いの)を髣髴(ほうふつ)とさせる貴重な風俗画です。

 この「楓川」が「八丁堀」と交わる手前、本材木町と本八丁堀町とを結んでいた鉄橋、山本松谷が描いたところの「弾正橋」が、この「八幡橋遊歩道」に移設保存されているというのです。

https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/05fa826bf172d374e64806987f6d8bf3 【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その8】より

 「八幡堀遊歩道」には、保育士に連れられた保育園児たちが集団で散歩をしていました。右手に「八幡橋(旧弾正橋)」の案内板があり、それには、旧弾正橋は、明治11年(1878年)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した国産第一号の鉄橋であり、昭和4年(1929年)に現在地に移されて八幡橋と改称された、とありました。

 国の重要文化財になっています。

 「八幡橋」の「八幡」とは、もちろん隣接する富岡八幡宮に由来します。

 やがて石敷きの歩道の上に架かる赤い小ぶりの鉄橋が見えてきました。歩道の両側は植栽になっており、その橋の上に上がっていく通路はないので、橋を潜って八幡堀遊歩道から右折することにしました。

 右手に人力車が2台、相対しているモニュメントがあり、その柵に案内板がありました。その「八幡橋(旧弾正橋)」の案内板を見ると、八幡橋は、明治11年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていた、とあります。この弾正橋は、馬場先門から本所・深川とを結ぶ主要街路の一つで、文明開化のシンボルとして架橋されたとも記されています。

 また「東京名所図会」の「三ツ橋の現況」の絵が載せられていますが、これはもちろん山本松谷の描いたところのもの。

 「新田橋」という鉄橋も保存されていますが、これは、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結んでいた人道橋。「新田橋」の「新田」とは、この橋を架けた「木場の赤ひげ先生」、新田清三郎さんにちなむもの。かつての、大横川に架かる新田橋の写真も、その「旧新田橋」の案内板に載せられています。

 八幡遊歩道から右へ入ってぐるりと戻り、富岡二丁目の町内に入ると、またまた「国指定重要文化財(建造物) 旧弾正橋(八幡橋)」という案内板が現れました。

 長さは15.2m、有効幅員は2mの、「単径間アーチ形式の鉄橋」とある。

 右手の細い道を入って行くと、きれいな階段があって「旧弾正橋」がありました。橋の奥の杜は富岡八幡宮の森。橋の下は、先ほど歩いた八幡堀遊歩道。左手下の遊歩道には、保育士に連れられた保育園児たちが遊んでいます。

 橋を渡りきって階段を下りたところで振り返ると、橋の向こう側の両側にはビルが建ち並んでいます。

 富岡八幡宮の方へ進むと、右手に古そうな木造平屋の家屋。そこからふたたび「旧弾正橋」を渡って、「八幡堀遊歩道」の入口に戻ったのが10:40。

 この「八幡堀遊歩道」があるところは、『復元江戸情報地図』を見てみると、「富ヶ岡八幡宮社地」の東側、「永代寺門前東仲町」とその社地との間を隔てる堀がありますが、その堀を埋め立てて造られた遊歩道であるようです。その「永代寺門前東仲町」の東側には「三十三間堂」と記された一郭があり、その東南部に「汐見橋」がある。その「汐見橋」が架かる川が、平久(へいきゅう)川で、先ほど永代通りの富岡八幡宮門前を進んで渡った橋ということになる。

 「七渡(ななわたり)弁天社」の横を通り、かつての「深川蛤(はまぐり)町」の通りを「黒船橋」の方に向かって進みました。

https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/512ee6169f0743cb96da5cc40dbdacc7 【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その9】 より

細い通りを進むと、左手に「東京都江東区立臨海小学校」がありました。「臨海小105周年大運動会」のポスターが貼ってあり、この小学校が105年の歴史を持つ小学校であることがわかります。

 福島橋に出たのが11:02。それから永代橋東詰に出て(11:08)、そこから橋の下の隅田川テラスに下り、そのまま隅田川東岸沿いに浅草まで歩くことにしました。

 隅田川大橋を潜ったところで、対岸に門のように大きく建つ建物は「読売新聞」とあり、地図で見ると「リバーサイド読売ハイツ」となっています。下部の四角からその向こうの建物群が、まるで額縁の中の絵のように見える。そのスルーの四角は、7階の高さがある巨大なもの。

 川沿いの遊歩道には「隅田川テラス案内図」があって付近の橋の名前や地理を知ることができます。

 隅田川の水面には、貨物船や遊覧船が行き来していますが、それほど頻繁ではない。

 清洲橋を潜ってまもなく「←萬年橋」の標示があり、右手に「万年橋」が現れました。この「万年橋」が架かる堀川が「小名木川」。

 「川船番所跡」の案内板がありました。

 それによると、川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれており、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査したとのこと。また、江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間にはすでに整いつつあって、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通って神田・日本橋など江戸の中心部へ運ばれた、とも記されています。

 「神田・日本橋など江戸の中心部へ運ばれた」というそのルートは、もちろんここからいったん隅田川へ出て、左折して日本橋川を豊海(とよみ)橋を潜って入り、右折して神田川を柳橋を潜って入る、日本橋川水運と神田川水運を利用するものであったでしょう。

 北関東からの物資は、この小名木川を通って、隅田川水運・日本橋川水運・神田川水運を利用して、江戸中心部へと運ばれていったことになります。

 その小名木川に架かる「万年橋」を渡って左折すると、「芭蕉庵史跡展望公園」がありました。いったん堤の上へ上がり、そこから下の町屋に下りたところにその展望公園の入口がありました。入口の「お願い」によると、開園時間は9:15~16:30まで。石段を上がっていくと、ゆるやかにカーブして流れる隅田川を広々と見晴るかすことのできるテラスがあり、そこに「芭蕉翁之像」がありました。

 案内プレートによると、この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(さんぷう・1647~1732)が描き、京都の画家吉田偃武(えんぶ)が忠実に模写した芭蕉翁の像画により制作したものだという。

 顔はやや細めで、首が長い。「芭蕉はこういう顔だったのか」と思わせる像。

 座って眺めている方向は、もちろん広々と流れる隅田川。

 周囲には芭蕉に関係する作品や絵などの解説プレートが、植え込みの中に並んでいます。

 北斎の描く「冨嶽三十六景 深川万年橋下」の絵も見ることができる。

 太鼓橋である万年橋の橋脚の間に、隅田川の流れと、その奥の江戸の町と白い雪を被った富士山が見える「冨嶽三十六景 深川万年橋下」。

 ということは、芭蕉翁之像の視線の先には、隅田川の向こうの江戸の町、そしてはるかに富士山の秀峰があることになる。

 現在は対岸にビルが林立し、首都高速が走り、おそらくどんなに天気がよくてもここから富士山を見ることは出来そうにありませんが、かつて高い建物がなかった時には、隅田川の東岸からはおそらくどこからでも富士山を望むことができたものと思われます。

 そのテラスからの風景を楽しんだ後、公園の階段を下りて右折。少し住宅地へ入って行くと、「芭蕉庵史蹟 芭蕉稲荷神社」と記された額の掛かる朱鳥居があり、その両側には「芭蕉稲荷大明神」と赤地に白抜きで染め出された幟(のぼり)のようなものが賑やかに垂れ下がっていました。

https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/de47bd7ec5c9e3ccef43512e184da0c5【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その10】 より

 「芭蕉稲荷神社」の「深川芭蕉庵旧地の由来」には、芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年(1680年)から元禄7年(1694年)までここを本拠とした、とあります。「第一次芭蕉庵」→「第二次芭蕉庵」→「第三次芭蕉庵」と続いたわけですが、よほど芭蕉はこの隅田川を見渡せる地を愛していたと思われます。

 芭蕉没後、この地は武家屋敷となったとありますが、『復元江戸情報地図』を見てみると、その場所は「紀伊和歌山藩(和歌山)紀伊中将慶福〔徳川〕五十五万五千石」の「拝領屋敷」となっています。

 大正6年(1917年)の津波来襲のあと、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことが、この地に「芭蕉稲荷」が祀られるきっかけとなったらしい。

 境内地には「史蹟 芭蕉庵跡」の碑や「おくのほそ道旅立参百年記念碑」などがあり、またその碑の前には石造りの蛙が置いてありました。

 あらためて『復元江戸情報地図』を見てみると、この小名木川の川べりにも多くの大名屋敷が並んでいます。紀伊和歌山、遠江浜松、遠江掛川、常陸土浦、和泉岸和田、上野館林、信濃上田などの各藩です。

 小名木川と横川が十字に交差するところには、「新高橋」・「猿江橋」・「扇橋」の三つの橋が架かっており、そのように堀川と堀川が十字に交差するところがほかにもあって、いわゆる「三つ橋」は江戸の下町にいくつかあったことがわかります。

 「芭蕉稲荷神社」をあとにして、ふたたび隅田川テラスに出ました(11:35)。

 テラスには、万年橋を渡って左手に下りたところから始まった「大川端芭蕉句選」の碑が続きます。

 やがて左手前方に大きく見えてきた橋は「新大橋」。

 もともとはもう少し南へ寄ったところ、「芭蕉記念館」と「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望公園)との中間あたりにあったことは、すでに触れた通り。

 『復元江戸情報地図』を見てみると、「新大橋」の西詰には「因幡鳥取藩」の中屋敷があり、東詰には「御籾(もみ)蔵」があります。

 現在の「新大橋」を潜ったところの「隅田川テラス案内図」には「深川神明宮」の説明があり、“深川”の地名の由来を知ることができました。それによると、深川神明宮は、深川において最も創立の古い神社であり、大坂摂津の深川八郎右衛門がこの付近に深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元年(1596年)に伊勢神宮の御分霊を祀って創建したと言われているとのこと。

 私はこの案内板の説明で、初めて「深川」の地名の由来を知りました。やはり、「町歩き」をする者にとって「案内板」というのはありがたい。

 「竪川」にぶつかったところには「竪川水門」がありますが、これは周辺流域を高潮の侵入から守るための防潮水門。地震による津波に備えるためのものでもある。

 もちろんかつてはなかったもので、そこから右手へ入っていって通りを左折したところに、「一の橋」が架かっていました。この「一の橋」が架かっている通りを「一の橋通り」という。

 この「一の橋」の中ほどから「竪川水門」を眺めてみると、青色の水門は開いており、手前右側には屋形船が繋留されています。竪川の上空には首都高速の高架が走っています。

 橋のたもとには「忠臣蔵 一之橋」という案内板があり、この竪川などが本所の低湿地帯を洪水から守るために開削された排水路であったことが記されています。その縦の排水路の代表格が竪川で、隅田川から入って一ツ目の橋ということで、「一之橋」と命名されたとのこと。「竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました」とも記されています。

 『復元江戸情報地図』を見てみると、この竪川流域は、小名木川流域とは対照的に、河岸や町屋がずっと続いています。地図では「一ツ目之橋」、「二ツ目之橋」、「三ツ目之橋」と続き、横川と交差するところに、いわゆる「三つ橋」(新辻橋・北辻橋・南辻橋)が架かっているのがわかります。

 この「一の橋」界隈にわずかに残る、大正末~昭和初期頃のものと思われる古い商店を見た後、ふたたび「隅田川テラス」へ出ました(11:53)。

 上空右半分は首都高速の高架によって覆われ、隅田川の上流には両国橋が見えてきました。

 その両国橋を潜ると、そのテラスの右手のコンクリート防潮堤の壁に、両国橋を中心とした隅田川の賑わいを描く浮世絵の拡大コピー図が現れましたが、それはなんと蔵前橋の手前まで次から次へと続いていました。「隅田川テラスギャラリー」というらしい。

 これはなかなか見応えがあり、一枚一枚をデジカメに写しながら、ゆっくりと「隅田川テラス」を歩いていくことになりました。

https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/8e5e1097f960cc3861044c755cf19d8f 【2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その最終回】より

 デジカメで撮った「隅田川テラスギャラリー」の絵は、数えてみると全部で43枚。実際はそれ以上の50枚ほどはあるのではないか。

 拡大コピー図だから、絵の細かいところまで隅々をよく観ることができるのがありがたい。

 北斎の『絵本隅田川 両岸一覧』の絵もあれば、歌川一派の絵もあり、広重の『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』の絵もある。

 永島春暁の「東京両国橋 川開大花火之図」は、明治23年(1890年)5月印刷とあるから、明治20年代初期の両国橋界隈を描いたもの。洋風2階建ての建物や「人力車組合」という提灯を掛けた人力車、橋の上を走る鉄道馬車などに、江戸とは違う「文明開化」の東京を伺うことができます。左端の屋形船には「両国丸」という船名が見え、また洋風の建物の右側には「川一丸」という船名が見える。

 「東都両国ばし夏景色」の作者、「橋本貞秀」とは、あの「空飛ぶ浮世絵師」として有名な五雲亭貞秀のこと。群集であふれんばかりの両国橋が上空から描かれていますが、その隅田川の川面にもなんとおびただしい数の船が浮かんでいることか。屋形船や屋根船や猪牙船などが、うじゃうじゃと群がり集まっている様子が描かれている点において、稀有の浮世絵ではないだろうか。手前右側の葦簀(よしず)囲いの店が並ぶ通りにも、人々がうじゃうじゃと歩いています。実際に川開きの時の両国橋界隈の賑わいは、このようなものであったのかも知れない。

 東京水辺ラインの「両国発着場」を過ぎても、まだ「隅田川テラスギャラリー」は続きます。

 小泉癸巳男の「昭和大東京百図絵版画完成版第六十六景 両国の川開き」は、昭和10年(1935年)に描かれたもの。ここに描かれている両国橋は現在と同じもの。

 歌川豊国(3代)の「東都両国川開之図」には、画面中央やや右上の屋根船に「川一丸」の船名が見えますが、これは永島春暁の絵にも見られた船名。また画面中央の隅田川の中に「大山石尊大権現」と赤地に黒く書かれた幟(のぼり)のようなものがあって、その下で裸になっている男たちの姿が見えますが、これは「大山詣(もうで)」に出かける大山講の人々が水垢離(みずごり)をしている場面。

 この大山講の水垢離の姿は、歌川国芳の「東都名所 両国の涼」にも描かれています。

 「川一丸」という船名の屋形船は、歌川国利の「東京名所 両国橋花火」にも出てきます。よほど有名な屋形船であったのでしょう。

 3代広重は「文明開化」の横浜も描くが、「文明開化」の東京も描く。

 幾英の「東京名所之内川開之図 両国橋大花火」は、明治21年(1888年)の4月に印刷されたものですが、隅田川に東京大学の学生たちが漕ぐボートが描かれているのか面白い。

 葛飾北斎の「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」は、前に両国橋を渡った時にその東詰の工事現場で見かけた絵ですが、これにも橋を渡ろうとしている群集の中に「奉納大山石大権現」と墨書された木太刀を持っている人々が描かれています。「尊」が抜けているのはご愛敬。相模の大山に向かう「大山講」の信者たちです。

 北斎の「隅田川両岸一覧」の絵は、この「隅田川テラスギャラリー」の絵の中でもっとも枚数の多いものですが、さすがに船が行き交う隅田川の景観や両国橋の賑わいを的確に、また格調高く描いています。北斎は、隅田川を、あの芭蕉とともに最も愛した芸術家の一人であったのかも知れない。

 「両国の百本杭」と「当時の護岸の復元」という案内パネルがありましたが、このパネルに掲載されている「明治期の柳橋の写真」は日下部金兵衛が写したもの。ここには「百本杭」と当時の護岸の石積みの一部が復元されていました。

 黄色い蔵前橋を潜ったのが12:44。この手前で「隅田川テラスギャラリー」は終わり、若草色の厩橋(うまやばし)を潜ると、歩道の隅田川沿いには小さな水路と草の繁りがしばらく続き、かつての隅田川岸の様子をわずかに偲ばせました。

 厩橋の次に現れたのは水色の駒形橋。

 駒形橋の次が赤色の吾妻橋。

 その吾妻橋に上がって左折し、橋を渡るとそこは東京メトロ銀座線浅草駅の入口。そこから後ろを振り返ると、アサヒビール吾妻橋ビルの左手に東京スカイツリーが見え、それを携帯電話のカメラで写している人たちがいました(13:01)。

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