梵我一如

物我一如とは梵我一如のことでしょうか?


https://www.freeml.com/bl/8744039/21242/【物我一如】より

物我一如(ぶつがいちにょ)客観と主観が1つになること。自他の境目のない状態。

菩薩(ぼさつ)の境界(きょうがい)。他己(ひと)をも自己(われ)と知るならばの心。


http://d.hatena.ne.jp/masami2944/20090718 【「梵我一如」と「般若直観」】 より

「仏法には<無我>にて候」という蓮如の言葉こそ,わたしたち仏教徒の基本信条である。仏教の基本思想は「無我」すなわち「アン・アートマン(ニル・アートマン)」である。これに対して,ヒンドゥイズムの正統的な哲学の中心思想は「我」(自我)すなわち「アートマン」である。「我」こそ,輪廻の主体であり,また生死からの解脱の主体である。ヒンドゥ教的な考え方は,常にこの"輪廻と解脱の主体"としての「我」を前提とする「有我説」である。ここが「無我説」に立つブディズムとヒンドゥイズムとの根本的相違点である。

 バラモンの「祀り」によって,神の恩寵を受けて,「不死」の世界に赴くという考え方の底にも,この有我説があったし,そうした見方にかえて,宇宙の絶対者たるたるブラフマンと個我であるアートマンとが本来一つであると知ることによって,「梵我一如」によって,「不死」となるという考え方の底にも,この有我説があった。ヒンドゥの宗教は,すべて「我」が何らかの意味で「不死」を得るという有我説であった。

 釈尊もまた,輪廻からの解脱を求めた。その意味で,インド伝来の不死の獲得を目指したといって良いであろう。現に,悟った釈尊は,「私は<不死>を得た。私は鹿野苑で<不死>の法鼓を打つであろう」と宣言している。ただ仏陀は,そのことを「無我」の体験によってーーより正確にいえば,「無我の我」の真実の自覚によってーー確立し得たのである。すなわち「法(ダルマ)」ーー「無我の我」の真実ーーを悟って仏陀に成ることによって,仏法的な「不死」の道を開拓したのである。釈尊もまた輪廻からの解脱の道を探し求めて出家修行し,その結果として「法」を悟った人である。

 「法」とは何か。「法」は"宇宙と自己の真理・真実"である。そして,それを釈尊が悟って,人々に"説いた教え"である。"教え"としての「法」は,「無我説」の範型として,初期仏教以来「五蘊無我」と呼ばれる。「五蘊」はまた「六入」ともいう。その一つ一つが「法」と呼ばれる。そのばあいは「自我」の構成要素である。仏説ではそれを「諸法無我」という。それは,われわれが「自我」と考えているものは,諸要素の因縁による仮和合で,その諸要素は,すべて,"が(常一主宰の不変の実体)ではない",従ってどこにも”我はない”ということである。それで,「自我」は”五蘊の仮和合”で,すべては因縁所生(「縁起」によって生じたもの)であるとし,これを「縁起説」という。

 このようにして,「法性(ほっしょう)」(「法」たること,「法」の本性)は“「縁起」の理法”を内容とする。仏教の教義では,それは「無常性」「無我性」と同じことである。「空性」とは「一切皆空」(すべては「空」<ゼロ>である)という命題を内容として,「空」は“自性がないこと“を意味する。「自性」(スヴァブハーヴァ)とは,”自己存在で常に同一の性質を保ち,他者を必要としないもの“の意であり,これがいわゆる「我」そのものである。だから,仏教の主張する「無我」とは,“無自性“で“空”で“縁起”するものを表す言葉である。

 そこで,いわゆる初期仏教学者は,釈尊は何を悟ったかと自問して,「<縁起>の理法(ダルマ)を悟った」と自答する。私は,それに対して,「何を馬鹿なことをいうか」と批判し続けてきた。確かに,「縁起」は,先に見たように仏説の基本である「無我」の言い換え語だから,もっとも中心的なキー・ワードの一つだといっても良い。しかし,「<縁起>の理法を悟った」などというのは,その人がほとんど「悟り」経験のかけらも体験したことのない証拠である。「理法」なら理詰めの思量,分別推理で思索できる。「般若」直観などということは要らぬ。「悟り」は「プラジュニャー」(般若=無分別智)であって,「ヴィジュニャーナ」(分別知)では断じて届かない霊性的直覚である。

 仏教の「悟り」は,道元のいうように,『法華教』の説く「唯仏与仏[乃能究尽諸法実相]」である。「悟り」経験なしには,ウンもスンもいえない,という消息がある。小数点以下何十位の一という極小の数字でも,ゼロとは違う。たとえ「ノミのキンタマ八つ割り」(川尻宝岑居士の語)ほどの「悟り」でも,「悟り」は悟りである。その体験があったら,「プラジュニャー」と「ヴィジュニャーナ」の区別の大事さがわかるはずである。それが分かる者なら,「釈尊は<縁起>の理法を悟った」などということはいえないはずである。

 では,何を悟ったのか。私はあえていうーー釈尊は「無我の我」を悟った,と。それは臨済のいう「無為の真人」(黄檗のいう「無心の心」)であり,久松抱石のいう「無想の自己」である。私はそれを「本来の自己」という(初期教典のいう「心性本清浄」である)。

 そして,この内観を,仏陀は「苦悩とその原因に関する<縁起>の理」として,教説の形で示したのである。論者は,よく釈尊が「十二因縁の<順観>と<逆観>を観想して悟った」というが,それは順序が逆であろう。仏陀は悟って覚者と成った。その直覚の内容を,あとで思索して「縁起」の教説が成ったというべきである。

 繰り返しいう。“輪廻の主体”である「我」が宇宙の根元である「ブラフマン」に帰一・合一するという「梵我一如」の説は,仏法の基本思想である「無我」説と相容れない。私は仏教教義に,「ウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学の教える『梵我一如』の説と全く同じ構造の考え方があらわれ」るとき,それを許容し,その流れに賛同するより,それが本来の仏法を誤ることに逆に注意し,このことをはっきり批判して,正しい仏法を説くことにつとめるべきだと思う。


http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/51660374.html 【我とは常一主宰なり】より

――横山紘一著『仏教思想へのいざない』30頁~――

仏教では自我は無いという。しかし、ここにこうして自己は存在し、自己が物を視、悩み、苦しみ、喜んでいるではないか。どうして自己が存在しないといえようか、と人びとは反論する。だが、仏教が否定する自我とは、そのような、いわば日常的ないし概念的に考えられる自己でない。それは、「永遠に存在しつづける」つまり「常住する」という意味の自我である。しかもそれは自己の肉体や精神とは別の何か実体として存在するものであり、輪廻

と解脱の主体である。

インド人の考える我とは、いわば西洋でいう理性としての我、カントの超個人我(意識一般)、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルによって絶対化された超個人我のようなものではない。インド人のいう我とは、自己の業風に吹かれて生死の大海を漂流しつづける、そのような我である。自己自身の意志と決定に基づき、さまざまな行為を行い、業を造り、自らその業の結果を受け止めつつ、過去・現在・未来に存在しつづける、そのような意味の我である。

我は次の三つの作用をもつと考えられる。 ①主宰の我  ②作者の我  ③受者の我

主宰とは国王や宰相のこと。たとえば国王が自己の思い通りに行動できる、あるいは宰相が自己の判断に基づいて政策決定を下すことができるように、「我」は自由自在に活動できる自在力をもつ。次の作者と受者とは相い関連する概念である。すなわち、「我」は、動く、語る、考える、などのさまざまな業(行為)を為し、その影響なり結果を自分自身が受けとる。

もちろん、「我」にはこのほかにもさまざまな作用や属性がある。それぞれの観点から、「我」はまた有情・意生・摩納縛迦・養育者・数取趣・命者・生者・士夫・知者・見者などと呼ばれる。しかし、その作用の面からすれば、前記した主宰・作者・受者が重要なよび名であり、とりわけ「主宰」が最も強調される我の働きである。「我とは主宰なり」あるいは前述した常住を加えて「我とは常一主宰なり」と定義される。

…中略…

この「自由な我」「自在な我」という定義は「常住な我」とならんで、仏教の無我思想を理解するキィーポイントである。ところで仏教は、そのような常住の我というものは、自己存在の内の、あるいは外のどこにも見当たらない、なぜなら、あらゆる現象的存在は「縁起の法」であるから、つまり因と縁という他なるものを原因として生じ、生じてはただちに滅する無常の存在であるからである、と主張する。この点に関してはあとで詳しく述べること

になろう。

とにかく、インドの哲学・宗教は「我追求の歴史」であるといっても過言ではない。この点、デカルトの「われ思う、故にわれあり」に始まる近世西洋哲学の「我の自覚史」に通ずるところがある。しかし、インドにおける「我」は、あくまで「業」「輪廻」「解脱」というインド独自の概念を通してとらえられた自我である。どうすれば、自分は苦悩の此岸から安楽の彼岸に達することができるか――この問いかけこそ、深遠なインド思想を形成してきたインド人固有のエネルギーであった。


http://xn--eqr886jk9h.com/@wisesaw 【名言集】より

人生は生きるに値するということが、あらゆる芸術の究極の内容であり、慰めである。 (へルマン・ヘッセ)


http://book.geocities.jp/marumiitibi/newpage1haikaisennsyuu.htmlより 【俳諧撰集】より

「おくのほそ道」の旅の主題は、無常が常であるという世相の中で、不変(不易)なものは、いったい何であろうか。それを実感することではなかったか。消えては残る歴史との感合の中で、実感したものを言葉に結晶させることであった。風騒の人々が、心をとどめた白河の地では句に成らず、多くの歌枕を探索し、「壺の碑」を眼前にして、「時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑いなき千歳の記」と、歴史の厳粛な事実の前に、感涙を催す。そして「今眼前に古人の心を閲す(まざまざと古人の心を見る思いがする)」と述べる。人の誠が千歳(永遠)の時を超えて、蘇りつづけることへの感動である。それは、高館での

 「夏草や兵どもが夢の跡」

にもそのまま代入できよう。「兵どもが夢の跡」が、訪れる者の心に、時を超えて生々しい感動を与える。すべてのものが変化・流転していく中で、なお滅びないもの・不易なるものを形象化していく努力・工夫、これが「ほそ道」の旅の意義の主題であった。旅を終えた年の12月、芭蕉は、去来に「不易流行」の教えを説いたという


https://www.iwanami.co.jp/book/b256149.html  【俳句のユーモア】 より

秀れた俳句はユーモアを湛えている.ユーモアによって個人を,表現を,俳句を,世界を,開いてゆくのだ!

俳句はいろいろな読み方をしていい.秀れた俳句であればあるだけ,ユーモアを湛えているもの.ユーモアによって,個人を,表現を,俳句を,世界を,開いてゆくのだ! ちょっと口ずさんで,言葉遊びから,句会の笑いから,自分と他者の感受性や精神のこわばりをほぐしましょう.ネンテン先生が説く,俳句の魅力,その広がり.

俳句をこよなく愛するご存知ネンテン先生が,さまざまな俳句作品をひきながら,どのように俳句を楽しむべきか,俳句とはどのようなものなのか,楽しく説く俳句入門書です.

正岡子規は俳句について,「読者をして己と同様に面白く感ぜしめん」(「叙事文」)と書いています.そもそも俳諧・俳句では,作者の楽しみが読者と共有されるのが伝統であり,そのための場として句会が重んじられていました.

作者の恣意性から生み出された五七五の音は,読者のいろいろな読みの場に出されることによって,作者の内を離れ,あらたな輝きを得ます.そのような,自分と他者の感受性や精神のこわばりをほぐす力こそが,まさに,「俳句のユーモア」なのです.

俳句はいろいろな読み方をしていい.そして,秀れた俳句であればあるだけ,ユーモアを湛えているものです.だから,俳句は楽しい.楽しいことには笑いがある.その笑いによって広がる,さらなる俳句の楽しみ,その可能性を,ぜひ本書を読んで実感していただきたいと思います.

巻末には,俳句索引ほか,ブックガイドも付いています.


https://blog.goo.ne.jp/osan3/e/a3e01bd9704f5de5df29382fee8a0e2e 【ユーモアあれこれ】より

落語が好きだから、 “ユーモア”について聞かれることが多い。皆さんはどうだろうか? 落語とユーモアが無関係だとは云わないが、一般の理解の仕方には大いなる誤解が存在するようだ。

先日も、旧友から《「駄洒落」、「滑稽」、「ユーモア」の差は何だろうか》と尋ねられて窮している。

フロイトは、ユーモアの典型例として……

《月曜日、絞首台に引かれて行く罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」》といったのを挙げている。

 結核で死ぬことを運命づけられていた子規は、『死後』というタイトルで、ほとんど落語的な考察を続けている。棺が窮屈なのは厭だとか、土葬も火葬も厭だといって……

子規自画像 明治33年

《土葬も火葬もいかぬとして、それでは水葬はどうかといふと、この水といふやつは余り好きなやつで無い。第一余は泳ぎを知らぬのであるから水葬にせられた暁にはガブガブと水を飲みはしないかと先づそれが心配でならぬ》。

さらには、ミイラも気に入らぬと云う(明治34年「ホトトギス」:「死後」)。

子規の精神的姿勢は、フロイト流にいえば、ユーモアであろう。        

フロイトは、誰かが他人に対してユーモア的な態度を見せる場合について……

《この人はその他人に対して「ある人が子供に対するような態度を採っている」》のだと云う。

《いってみれば、ユーモアとは、「ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ」とでもいうものなのである》(フロイト『ユーモア』)。

 ユーモアには「一種の威厳」があるらしい。


http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5

【モンタージュ】 より

映画技法で、複数の映像の断片を組み合わせてひとつの連続したシーンを作る方法。モンタージュは映画の初期に発明され、その後1920年代には、一方でドイツ表現主義やロシア・アヴァンギャルド、そして他方では初期ハリウッドで、単なる表現手法を超えた思想や政治的な志向を反映する方法論として発展した。二つのモンタージュはいわば逆のイデオロギーや美学に基づいている。ハリウッド型のモンタージュは主にアメリカの映画作家D・W・グリフィスに代表されるが、ひとつのシーンの連続性を失うことなく、それを複数の視点から構成することで、ダイナミックなイメージを作り出すというものである。この場合は、なめらかなモンタージュによって観客に違和感を感じさせることなく、その意図は映像の背後に隠されたままになされなければならない。一方、ソ連の映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインに代表されるヨーロッパ型のモンタージュは、より作家性や左翼的なイデオロギーと結びついており、むしろ観客の安定した日常を揺さぶり、それを積極的に問いかけるものとして提示された。その後モンタージュは、アンドレ・バザンやヌーヴェル・ヴァーグ派が『カイエ・デュ・シネマ』誌で展開した映画をめぐるリアリズム論争において、リアリティを失わせ、虚偽的なイメージを捏造するものとして批判されていくが、そのようなリアリズム対モンタージュという対立構造は、もはや有効ではないといってよいだろう。特にエイゼンシュテインのモンタージュ論は、単なる映像形式的な方法論を超えて、いわば映像というメディアそのものの本質を思想として捉え、開発していこうとする試みであった。その内容は現在では通用しない部分が幾分ありながらも、その広い教養と深い洞察に根ざした映像的な思想そのもののダイナミズムを、むしろ新しい射程において捉え直すことこそが、現代の課題であろう。


取り合わせは

①補色ではなく反対色のもの ~~引き立てあう

②波動共鳴しあうもの・響きあうもの(シンクロ現象)~~倍音効果

③対極のもの【ここでは不易と流行  潜象と現象  闇と光(陰陽)ミクロとマクロ(フラクタル) 正と負 】 

③調和バランスの織り成す世界を生む「要素」のピックアップ(相克でなく相生しあうもの・五行の考え参考)季語の参考

④花鳥風月の奥の4、または5大元素を観る

⑤エネルギー感覚でとらえる 

⑥あるいは VAKの駆使。聞いたものと見たもの、フェルトセンスの組み合わせ等の視点も加えられるのではないでしょうか

コズミックホリステック医療・教育企画