https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200127-454037.php【大石田~最上川】<五月雨をあつめて早し最上川> 破調に見つけた実り】より
芭蕉が経験した最上川下りの面影を伝える観光船の船着き場=山形県戸沢村古口
旅には、きっちりとした計画的な旅と、行き当たりばったりの旅がある。松尾芭蕉の場合は、用意周到に準備した上で旅立ったと、佐藤勝明和洋女子大教授が話していた。確かに芭蕉は、須賀川の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)や尾花沢の鈴木清風ら、長逗留(とうりゅう)した俳諧仲間の元へは、相手の在所を確かめ、手紙を出した上で訪れたようだ。
ただ、あまりスケジュール順守の予定調和な旅でも、面白みに欠ける―と、芭蕉は考えたのかもしれない。出羽の国(山形、秋田両県)に入り、大胆に寄り道をした。それが山寺(立石寺(りっしゃくじ))行きだった。そして傑作〈閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声〉が生まれた。ここまでが前回である。
全句の真蹟残す
さて、山寺の静寂に身を浸し名句を詠んだ芭蕉と河合曽良は、麓の宿坊で1泊すると翌日、再び来た道を引き返した。1689(元禄2)年5月28日(陽暦7月14日)のことだ。
ただ尾花沢には戻らず、その南西約4キロにある大石田(山形県大石田町、以下山形県)で、船問屋の主人、高野平右衛門の屋敷でわらじを脱いだ。目的は最上川を下る船に乗るためだったようだ。
大石田は、酒田(酒田市)とを結ぶ舟運の起点だった。この地で、芭蕉と曽良は6月1日まで3泊した。当然、空模様をにらみ、乗り込む船の出発を待っていたのだろうし、国境(くにざかい)を越えるため必要な通行手形を取得する手続きもあったようだ。ただ、そこは俳聖、やることはしっかりやっていた。
投宿した家の主人、高野平右衛門は、俳号を「一栄」という、清風の俳諧仲間だった。芭蕉たちが到着すると、早速、同地の大庄屋である高桑加助(俳号・川水)もやって来た。この二人、芭蕉とはすでに尾花沢で会い、歌仙を巻いて(俳諧を楽しんで)いたようだ。そして到着翌日から当然のごとく俳諧の興行が始まった。
曽良の「日記」「俳諧書留」などによると、芭蕉と曽良、一栄、川水による四吟歌仙は5月29、30の両日にわたり行われ、この時生まれたのが、世に知られる「さみだれ歌仙」である。
五月雨を集て涼し最上川 翁
岸にほたるをつなぐ舟杭 一栄
瓜畠いざよふ空に影待て ソラ
里をむかひに桑の細道 川水
(「俳諧書留」より)
この4句から始まる歌仙の出来上がる状況が「ほそ道」の大石田のくだりでは語られている。「この地にも古くから俳諧が伝わり、楽しんでいるとのこと。されど指導者もなく、新しい俳諧の詠み方を心得ずにいるので、ぜひ手ほどきをお願いしたいという。むげに断るのもどうかと思い、最初はしぶしぶ歌仙を巻き始めたところ、実に楽しい一座となった」(佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」より)
そして俳聖は「このたびの風流爰(ここ)に至れり」と、大石田のくだりを結んだ。「このたびの風流」とは、〈風流の初(はじめ)やおくの田植うた〉と芭蕉が詠んだ須賀川から始まった「みちのくの風流」(陸奥、出羽での感興、あるいは芭蕉の「みちのくの風流」探求の旅そのものだろうか)を指すと解釈されている。つまり、その「風流」が大石田で極まった観がある―と、締めくくったのである。
これをどうとらえるかは諸説ありそうだが、芭蕉が、この地での体験に意味を見いだしたのは確かだろう。大石田歴史民俗資料館の大谷俊継学芸員(36)は、確証の一つとして、芭蕉の真蹟(しんせき)(直筆)が同地に残されていることを挙げる。芭蕉は、一栄邸で「さみだれ歌仙」全36句に「芭蕉庵桃青 書/元禄二年仲夏末」と署名した書を残した。歌仙全句を書いた真蹟はまれだという。
乗船せず新庄へ
この後、芭蕉たちは大石田で船に乗らなかった。再び陸路で北上し新庄に着くと、同地の富商、渋谷甚兵衛(俳号・風流)邸で歌仙を巻いている。予定変更の理由は、さまざまに推測されるが、大石田で興が乗った芭蕉が、もっと地元の俳人と俳諧を楽しみたい―と気が変わったのではと思える。
大谷学芸員は「芭蕉の旅の目的の一つに、自分の流派『蕉風』の普及があった。ただ、尾花沢の鈴木清風は、自身の流派を確立した人。一方、一栄、風流たちは言わば田舎流。芭蕉は、自分が道標として彼らを指導しなければと考えたのでは」と言う。
さらにうがってみれば、こんなふうに思える。この時期、俳壇全体が新しい表現を求める転換期にあった。そんな中、芭蕉が、新しい表現「蕉風」の確立と普及に、手応えを感じたのが大石田での反応だったのでは。
もう一つ。大石田や新庄での歌仙が、予定外の結果だったとすれば、芭蕉は予定調和ではなく、破調の中で成果を得たことになる。芭蕉は、山寺を含む山形の場面を、ドラマの構造「序破急」の中の「破」のパートに位置付けたのではないか。
さて新庄をたった後、芭蕉たちは本合海(もとあいかい)(新庄市)の船着き場で、最上川を下る船に乗った。梅雨の時期、増水した流れが急だったことは芭蕉の句で、ありありと分かる。
〈五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川〉
「さみだれ歌仙」の発句の「涼し」が「早し」に改められた。このシャープさ、確かに新しいのだ。
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