http://www.basho-bp.jp/?page_id=20 【野ざらし紀行(43句)】より
貞享元年(1684)8月〜貞享2年4月末 芭蕉41歳
貞享元年(1684)8月、芭蕉は門人千里を伴い、初めての文学的な旅に出る。東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。千里と別れて大和・美濃大垣・名古屋・伊賀上野へ帰郷し越年。奈良・京都・大津・名古屋を訪ね、江戸へ帰るまでの9か月にも及ぶ旅。「野ざらし」を心に決意しての旅であっただけに収穫も多く、尾張連衆と巻いた『冬の日』は風狂精神を基調として、新風の萌芽がみられる。
紀行文の名称は、『草枕』『芭蕉翁道の記』『甲子吟行』など多数みられるが、今日では『野ざらし紀行』が広く用いられている。「漢詩文調」からの脱却と蕉風樹立の第一歩となる。芭蕉自筆の画巻や元禄11年(1689)刊の『泊船集』などの刊本の形で伝わっている。
野ざらしを心に風のしむ身哉 秋十ととせ却かえって江戸を指さす古郷
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白おもしろき 猿を聞人きくひと捨子に秋の風いかに
道のべの木槿むくげは馬にくはれけり 馬に寝て残夢ざんむ月遠し茶のけぶり
三十日みそか月なし千年ちとせの杉を抱だくあらし
芋いも洗ふ女西行おんなさいぎやうならば歌よまむ
蘭らんの香かやてふの翅つばさにたき物す 蔦植つたうゑて竹四五本のあらし哉
手にとらば消きえん涙ぞあつき秋の霜 わた弓や琵琶びはになぐさむ竹のおく
僧朝顔幾死いくしにかへる法のりの松 碪打きぬたうちて我にきかせよや坊が妻
露とくとく試みに浮世すゝがばや 御廟ごべう年経て忍しのぶは何をしのぶ草ぐさ
義朝よしともの心に似たり秋の風 秋風や藪やぶも畠はたけも不破ふはの関
死にもせぬ旅寝たびねの果はてよ秋の暮 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
明けぼのや白魚白きこと一寸 しのぶさへ枯かれて餅買ふやどり哉
狂句木枯こがらしの身は竹斎ちくさいに似たる哉 草枕犬も時雨しぐるるかよるのこゑ
市人いちびとよ此この笠うらう雪の傘 馬をさへながむる雪の朝あした哉
海暮れて鴨の声ほのかに白し 年暮くれぬ笠きて草鞋わらぢはきながら
誰たが聟むこぞ歯朶しだに餅おふうしの年 春なれや名もなき山の薄霞
水とりや氷の僧の沓くつの音 梅白し昨日きのや鶴を盗ぬすまれし
樫かしの木の花にかまはぬ姿かな 我がきぬに伏見の桃の雫しづくせよ
山路来て何やらゆかしすみれ草 辛崎からさきの松は花より朧おぼろにて
命二つの中に生たる桜哉 いざともに穂麦ほむぎ喰くらはん草枕
梅恋ひて卯花うのはな拝む涙哉 白しろげしにはねもぐ蝶てふの形見哉
牡丹ぼたん蘂しべふかく分出わけいづる蜂の名残哉
行駒ゆくこまの麦に慰むやどり哉 夏衣いまだ虱しらみをとりつくさず
https://kotobank.jp/word/%E8%95%89%E9%A2%A8-79793 【蕉風】より抜粋
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 俳諧で、松尾芭蕉およびその門流の俳風をいう俳諧史的な呼称。幽玄・閑寂の境地を主とし、さび・しおり・細み・軽みを尊ぶ。また、付句の付け様は、におい・うつり・ひびき・くらいなど、微妙複雑な余情・風韻やイメージのかかわり、対応によってはこび、賦物(ふしもの)・去嫌(さりきらい)など形式的外面的制約に対しては、かなり自由柔軟な姿勢になっている。正風。蕉流。
※俳諧・蕉門一夜口授(1773)「貞享元年の頃は、翁、貞徳の風を離れ、此蕉風の一門を起す始也」
[語誌](1)この語が使われはじめたのは、芭蕉および蕉門の俳諧の意義を再認識するようになった江戸中期になってのことと考えられる。
(2)芭蕉回帰・蕉門復興のなかで蕉風こそ不易の俳風であると考えられて、音読みの一致とあいまって、蕉風=正風の価値観が作り上げられていった。
http://www.ip.mirai.ne.jp/~binyou/basyou6.htm 【俳聖 芭 蕉 翁 (2)】より
野ざらしの旅
天和2年(1682)12月28日駒込大通寺から出た火は江戸の大半を焼き尽くし、芭蕉庵も類焼し芭蕉は「潮にひたり笘をかづいて煙のうちに生きのび」ようやくにして逃げのび、甲斐の谷村に寄寓することとなった。
もう再ぴ江戸に戻る気はないとまで考えたが、友人知己たちが喜捨(きしゃ)して芭蕉庵を再建しようというので江戸に帰った。
その芭蕉のもとにまたひとつの悲報が届いた。天和3年(1683)6月20日郷里の母が死去したというしらせであった。
同じ年の冬、深川の新庵ができあがった。新庵で春を迎えた芭蕉はその境涯を
似合しや新年古き米五升
と詠んで打ち寛いでいたが、望郷の想いから久々、郷里へ旅立つこととなった。いわゆる「野ざらしの旅」である。この旅は母の墓参を兼ねて、すでに初老を迎えた芭蕉が自己の生き方や風雅に、新しい俳諧の確立を意図したもので、旅の詩人としての芭蕉らしい旅がここに始まる。
千里に旅立ちて、路糧をつつまず、三更月下無何入といひけむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋をいづる程、風の啓そぞろに寒げなリ
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十とせ却て江戸を措ス故郷
旅立ちにあたり芭蕉の心情を叙した「野ざらし紀行」の一節は、とりもなおさず古人のあとをならおうとする、やむにやまれぬ気持をあらわしたもので、目己ときぴしく対決しようとした真情が切々とあふれている。
この旅は門人千里を伴って東海道を上り、伊勢に赴き「松葉屋風瀑が伊勢にありけるを尋音信れて、十日ばかリ」滞在。9月8日郷里伊賀上野に帰り着いた。
芭蕉にとって9カ年振りの帰省であった。しかし、以前の帰省とは違い母の姿に再ぴまみえることのできなかった芭蕉は、今は亡き母の自髪を拝みて
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜
とよんだ。
墓参をおえた芭蕉はそれから大和に赴き、千里の故郷竹ノ内村を尋ねた。ここで千里と別れた芭蕉は独り吉野の奥に足を延ばして西行の遣跡を訪れたのち山城を経て近江路、美濃路から木因の案内で尾張に出た。
尾張では木因の紹介で桐葉、荷*、野水、杜国らと初対面し、あちこちで歓待をうけて約ニカ月逗留をつづけ、「尾張五歌仙」を巻いた。それが蕉風俳諧史上特筆すべき「冬の日」の完成である。
その巻頭句が
狂句木枯しの身は竹斎に似たる哉
であり、わぴやさぴを志向する風狂的な精神が俳諧の精神として把握ざれ、蕉風俳請確立の初歩を強く印象づけている。
12月下句名古屋を発った芭蕉は再ぴ散郷に帰るため伊賀上野に向った。
上野に着いたのは12月25日、「ここに草鞋を解きかしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮」を過した。
その頃、芭蕉は漂白の旅人という自意識を強く抱いていたらしく、生家での滞在にも「旅寝」といい、「山家に年を越して」「山路を越えて」などというわぴしい寂しい情趣を深める作品が多くなっている。
年があけ2月10日すぎ奈良に出て二月堂のお水取を見物し、京に上って三井秋風を鳴滝の山荘に訪れて、暫く滞在。大津の辺りにも足をむけ尚白、千那、青鵜ら江南の俳人とも面談した。
ここから東海道を下り、桑名への途路、水口の宿まで後を慕って馳せてきた伊賀の旧友土芳と再会した。土芳はこの再会を機に蕉門に入り、元禄元年3月、上野の南郊に草庵をひらき俳諧一途の生涯を定めることとなった。
芭蕉のために土芳は最も忠実な門弟のひとりとして伊賀蕉門を支える柱となり、芭蕉の没後には『蕉翁文集』『蕉門句集』『三冊子』などの遺句・文・遺語を編み、芭蕉の文学を後世に伝える大きな役割を果すことになる。
水口を発った芭蕉は東海道を桑名に出て、海路熱田に着いたのが3月24日頃である。そこで再ぴ桐葉の許に止宿し、知足らとも知己をむすんで俳交を重ねたが4月10日名古屋より木曽路にむかい甲斐に高山**を尋ねた。
江戸に帰庵したのが4月の末であリ
夏衣いまだ虱をとりつくさず
と吟じ、疲れのなかに安堵のおもいを示している。
9力月にわたるこの旅は『野ざらし紀行』と『冬の日』という大きな収種をもたらし、蕉風俳諧の展開にとって、最も重要な意味を待つものとなった。
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