http://bogoda.jugem.jp/?eid=1745 【◇ 芭蕉の足跡を追って =2/2= ◇】より
1684~85年、芭蕉は9カ月かけて現在の東海・近畿地方を旅して回り、後に最初の紀行文となる『野ざらし紀行』を書き上げる。芭蕉が得意とした散文に発句を織り交ぜたスタイルで書かれ、その詩趣に富んだ紀行文は、後に芭蕉の名声を大いに高めることとなった。
40代半ばになった芭蕉はその頃、いまだに心の愁いが晴れないと周囲に漏らしていたという。門人や俳壇の名士たちからは句の添削や指導の依頼が引きも切らず、疲れきった芭蕉は、死ぬ前にひと目見たいと願っていた各地の歌枕(古典の和歌に詠まれた名所)を訪ねる巡礼の旅を思い立つ。
そして1689年の3月(新暦5月)、芭蕉は弟子の河合曽良とともに江戸から奥州へと出発する。最低限の荷物をたずさえて各地の山野や村々をめぐる、総行程2400キロ、5カ月にわたる旅が始まった。情趣と魅力的なエピソードにあふれたこの旅が、傑作『奥の細道』を生みだしたのだ。
『奥の細道』につづられているのは、芭蕉の心の旅路だ。その意味では、俗世のあらゆる所有物を捨てて運命を風に任せる、出家者の巡礼にも似た漂泊の旅であった。ただし、実際の旅にはもちろん、現実的な面も伴った。俳諧の宗匠として生計を立てていた芭蕉は、行く先々で門人や支持者たちの世話になり、代わりに俳諧の極意を教授することで、旅の費用をまかなっていたと考えられる。
この旅の数年後、芭蕉は1694年に世を去った。それから約300年。漂泊の賢者、世捨て人の芸術家、究極の旅人、高潔な聖者、幕府の隠密、悪党すれすれの大山師、そして稀代の詩人――。さまざまな人々が、それぞれの視点から、芭蕉について語ってきた。『奥の細道』には、どこか自虐的なユーモアや旅の記録、仏教に根ざした受容の精神、絵画的な描写、時には不潔な環境への不平不満までもが、自在に織り込まれている。
同時に、この紀行文は旅人にとって、時空を超えた心の案内書でもある。言語学者のヘレン・タニザキはかつて私に、こんな風に話してくれた。「哲人めいた変わり者の案内人――芭蕉にはそんな風情があります。読者はしばしば遠い辺地に置き去りにされ、一人でその土地を旅するはめになるのです。ものごとを理屈で説明するよりも観察にこだわり、周囲とのつながりを強く求める姿勢が、そこにはあります」
そして今、私もまた自分なりの芭蕉の面影を胸に秘め、その足跡をたどる旅に出ようとしている。旅路の先で待ち受ける風景は、『奥の細道』に描かれた、いにしえの日本とはいささか違っているだろう。だが、日本文学研究者のドナルド・キーンもこう書いている。「作中に描かれた場所は、どこもすっかり変わってしまった。
芭蕉が最初に足を止めた千住はにぎやかな商業地区となり、最初の宿とされる草加にはマンモス団地が立ち並ぶ。それでも『奥の細道』の真髄は、そのような変化の中でも、決して失われることはないだろう」と。そして旅の道中には、今なお変わらぬ風景や古い寺社も数多くその姿をとどめ、旅人の心を往時へと誘ってくれるはずだ。なぜなら、美とは見る対象への深い洞察はもとより、孤独な自己を見つめることによっても感じとれるものなのだから。
芭蕉は、偉大な中国の詩人や日本の歌人といった古人と、よく対話したと伝えられる。私自身も、芭蕉の足跡を一歩ずつたどるこの旅で、その魂との対話に胸弾ませて臨むだろう。旅の道中、月が望める好天を願い、ノートに思いをしたためる静かな夜に恵まれることを祈りながら。
寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。
しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。
寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた。そしてこれらを機に、宗房(松尾芭蕉)は江戸へ向かった。
死去 : 元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った。
9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日、「病中吟」と称して
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午前4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った。
13日、遺骸は陸路で近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。
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