西行と芭蕉

https://tabi-mag.jp/os0191/  【西行塚】より

漂泊の歌人といわれた西行は、晩年を現在の大阪府河南町の弘川寺に庵を結び、そこで没しています。弘川寺は再行の籠もった吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)と同じ、役行者創建と伝わり、空海にもゆかりがあります。西行は空寂上人を慕って訪れ、ここを終の棲家(ついのすみか)にしたのです。境内に西行塚が残されています。

江戸時代に「今西行」と呼ばれた歌僧・似雲が発見!?

後鳥羽上皇が病気になった際に、弘川寺の空寂上人が祈祷したところ、病気が治ったので後鳥羽上皇は来山し、「山深みこのはの下の隠し水なかれの末は滝つ瀬の音」の歌を残しています。

西行はこの空寂上人を慕ってここに庵を結びます。

江戸時代、その西行を慕って「今西行」と呼ばれていた歌僧・似雲が弘川寺を訪れ、西行塚を発見しているのです。

西行

『新古今集』に94首(入撰数第1位)という歌を残す、歌人・西行。

本名(俗名)は佐藤義清(さとうのりきよ)で、出家して法号は円位、のちに西行となっています。

藤原秀郷の末裔という名家の出で、紀伊国那賀郡田中荘(田仲荘)竹房(現在の和歌山県紀の川市竹房)を拠点に活躍した裕福な豪族。

西行も巨額の絹の献納によって兵衛尉という官職に任官し、佐藤家の財力は都にも知られていました。

出家以前は鳥羽院の北面の武士で、武芸に優れて容姿端麗であったと伝わります。

保延6年(1140年)、23歳で出家。

出家後は心のおもむくまま全国を旅し、草庵を営むという漂泊の歌人となります。

吉野山の奥千本に隠棲したことは有名です。


http://www.kaorihanafusa.jp/weblog/setsugekka/page/4/【ブログ更新 その81「桜物語1 ~西行桜~」】 より

奈良県吉野山4月初旬から末にかけ下千本から奥千本へと山桜が開花してゆく春の日を淡くいろどる桜の花は、見るものの心をなごませこの国に生まれた幸せを感じさせてくれる存在といえるでしょう。

日本の野山には、もともと野生種である山桜が自生していました。桜の名所といわれる奈良県吉野山には、平安時代の歌人“西行法師”がむすんだ小さな庵があります。

吉野山はその昔、“役小角(えんのおづぬ)”が桜の樹に蔵王権現をきざんだことにより、桜がご神木としてあがめられるようになりました。

その後、修験道の聖地となった吉野には桜の苗木をたずさえて参詣する人が多くなり、現在のような麗しい景色へと移り変わっていったのです。

役行者像(五流尊瀧院)

役小角(えんのおづぬ) 飛鳥時代の呪術者・山伏の元祖

修験道(山岳修行)の開祖とされ鬼神を操る霊力をもつと伝わる

平安時代末の乱世に生まれ、生きることに無常観をつのらせていった西行法師は23歳の若さで出家の道を選びます。

そしてどの宗派にも属さず、山里の庵にひとり住み孤独の中で心の安らぎを求めるのでした。

吉野山最奥にある金峰神社近くの小さな西行庵春になると山々を優しく染める山桜は西行にとってただ美しいだけのものではありませんでした。

咲き誇りそしてハラハラと散りゆくその姿に、みずからの心情を託しじつに多くの歌を詠んだのです。

「花に染む 心のいかで のこりけむ   捨て果ててきと 思ふわが身に」

“現世での執着を捨て去ったと思うわが身なのになぜこれほどまでに桜の花に心を奪われるのでしょうか”

「ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば  散る別れこそ 悲しかりけれ」

“ずっと眺めていたからでしょうか。情がうつってしまったようです。散りゆく桜の姿が悲しくてなりません”

決まり事にとらわれず自分の弱さや戸惑う心を素直に詠んだ西行法師の和歌のかたちは、

俗語を用いてもなお気品をそこなわず独特の抒情感を生みだし当時の歌壇中心人物らに大きな影響をあたえることになります。

鞍馬、高野山、伊勢など心のおもむくまま諸国を巡った西行は、1190年2月16日73歳でこの世を去りましたが、終焉の地もやはり修験道の開祖といわれる役小角が開いた大阪河内の弘川寺でした。

空海そして行基も修行したといわれるこの寺の裏山にむすんだ小さな庵で、病に伏し亡くなるのです。

~和歌を一首詠むのは、仏像を一体彫るのと同義~と語ったことからわかるように、歌作りは仏道修行の一環でもあったのでしょう。

また、西行は没する数十年前にこのような和歌を残していました。

「願はくは 花に下にて 春死なん  そのきさらぎの 望月のころ」

“願いが叶うものならば満開の桜の下で死にたいものです。お釈迦様が入滅されたという如月の望月の頃に(2月15日)”その願いどおり2月16日の桜の盛りに終焉を迎えたことで、西行の生きざまは人々にさらなる感動を与えることになります。

誰にも邪魔されず心ゆくまでながめた桜の姿は、人生の様々な場面と重なって見えたことでしょう。

これより桜は植物という枠を超え、日本人の死生観にまで入りこむ特別な存在となっていくのです。


http://www.kaorihanafusa.jp/weblog/setsugekka/page/4/ブログ更新 【その82「桜物語2 ~松尾芭蕉~」】

後世にいたり“松尾芭蕉”を漂白の旅へといざなったのも西行法師のそうした生涯でした。

俳句の師にあまんじている己に危惧感をつのらせた松尾芭蕉は、自らの内面を尊敬する西行のような高みにまで引き上げることを祈願し1684年、大和から吉野・尾張へと旅立ちます。

秋の日、吉野山へとたどりついた芭蕉の脳裏には、花の姿は見えずとも香りほのかに柔らかくそして静かに咲きほこる桜の花が浮かび上がってきたことでしょう。

西行の草庵を見詰め残光のように漂う偉人の気配を感じながら、生涯を旅と歌に捧げた西行に対する憧憬をつのらせたのかもしれません。

松尾芭蕉像(葛飾北斎画)

この旅で「野ざらし紀行」を記した芭蕉はその後、西行没後500年を機に1689年、東北から北陸をめぐる巡礼の旅へ旅立ちます。

人生50年といわれた江戸時代、40代後半を迎え病気がちだったにもかかわらず住まいであった芭蕉庵を売り払っていどんだ俳諧の旅は、じつに多くの名句を生み出し「奥の細道」として編纂されました。

「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の後」岩手県平泉

「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」山形県立石寺

「五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川」山形県大石田町

『荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」新潟県出雲崎

『奥の細道』より

その後も旅への執着衰えることはなく挑み続けた芭蕉でしたが、次第に病に伏すことが多くなり「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を最後に1694年静かに息を引きとるのでした。


芭蕉はなぜ木曽沖中の隣に葬られることを願ったのでしょうか???


今日のFacebook投稿記事を連想します・


Facebook・矢加部 幸彦さん投稿記事

古来より、¨山の行より里の行¨という言葉がありますが、人里離れて己を整えていくのは、案外容易なもの。この社会の中で、自分の務めを果たしながら、この世界を何処でも磐境(イワサカ・神域)であるとし、我が身をヒモロギの生宮として、禊ぎ祓いを常とし、環境に支配されず、淡々と腹を据えて、うれし楽しの 神ながらの道を歩んでいきたいものです。。


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