https://edaddeoro.jp/okunohosomichi.html 【逆めぐり「奥の細道」】より
18 出雲崎にて銀河を想う
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
新潟県出雲崎町は日本で最初に石油の機械掘りがおこなわれた国産石油史上重要な土地である。風雅の世界に沈潜したい人にとっては良寛のふるさとであり、芭蕉が上記の句をよんだところであったといわれてきた。
出雲崎石油記念公園
『奥の細道』研究家の間では、今日、この句は実景ではなくて芭蕉の心象風景であるという解釈が一般的である。以前はこの句は出雲崎で作られたという見方が有力だったが、いまでは、出雲崎をはじめとする日本海沿いで見続けた佐渡の島影の印象を、七夕の日に句にしたのではないか、という見方が有力になってきている(堀切実編『おくのほそ道解釈事典』)。
さて、出雲崎町の海辺の集落には、芭蕉宿泊地とされる場所が言い伝えられており、その近くに「芭蕉園」という名なのこじんまりとした記念公園が作られている。その芭蕉園の中に、いわゆる「銀河の序」が刻まれた石碑がある。
芭蕉園
芭蕉園
「銀河の序」は『奥の細道』とは別に、この「荒海や」の句につけられた前詞としての俳文である。その「銀河の序」にはいくつかのバージョンがあって、そのひとつには「月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴えたるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、腸ちじれてそぞろにかなしびきたれば……」と書かれている。また、別のバージョンでは「まだ初秋の薄霧立もあへず、波の音さすがにたかからず……宵の月入りかかる比、うみのおもてほのくらく、山のかたち雲透にみへて、波の音いとどかなしく聞え侍るに……」となっている。どうも、荒海というイメージとはほど遠いようである。
波の音さすがにたかからず……
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
というのは心象風景であるにしても、矛盾をはらんでいる。
この句は芭蕉には珍しい絵画的表現になっているが、惜しいことに芭蕉はここで旅人がおかしやすい過ちをやっている。太平洋側に暮らした芭蕉は、日本海沿岸に住む人々の季節感に乏しかった。
海上保安庁の広報資料によると、「日本海及び本州北西岸における高い波浪は冬季に起こることが多い」という。低気圧と北西季節風がもたらす波である。低気圧の移動速度は、時速20-30km、風速は秒速20mで25mを超えることは少ない。発生する風浪の周期は12秒以下で、「波高は8mを超え10m以上の例もあった」という。また、「低気圧は平均して1週間に1回の割合で通過するので、波のない日はないといってもよい。春・秋両季には、波高も低く継続時間も短いが、局地的な風によって沿岸部に高い波が発生することがある。夏季には、台風時を除いて一般に静穏な日が続くことが多い」という。
このように、夏の日本海は波穏やか、というのが通り相場だ。逆に、荒海は冬の日本海のいわば代名詞である。芭蕉は晩夏から初秋にかけての風物「天の川」と、冬の「荒海」を、どうやら頭の中でモンタージュしてしまった。
その結果、日本海側の中学の国語の試験問題で、ある中学生が「荒海」が季語になるので、「荒海や佐渡によこたふ天河」は冬の俳句だと解答したという、笑えない珍談をどこかで読んだ記憶がある。この稿の筆者は中学生の感覚をまっとうだと思う。
季語のしばりと実際の季節感覚の相違によって、この句はイメージが上下真っ二つに引き裂かれた。天空は初秋、下界は冬。天の川を冬銀河と読みかえれば、この句は、真冬の強風が雪雲を吹き払った珍しい晴天の夜空に凍りついた日本海の上の銀河の歌となり、それはそれで筋がとおることになる。
佐渡はいずこ
星流れ砕け散り落つモンタージュ
銀河にかけし嗚呼美意識よ
(閑散人 2006.5.19)
17 眠気も覚める象潟の美
奥の細道で芭蕉が関心を寄せたものは自然ではなく人事だった。自然に関心を寄せることもあったが、それは歴史を背景とする場合の自然であった、と小宮豊隆は言う。自然が独立して芭蕉の関心を引くような例は非常に少ない、と小宮は指摘する。「芭蕉の頭の中にある松島と象潟とは、素裸な自然としての松島や象潟ではなくて、和歌の衣を十重二十重に纏っている自然としての松島や象潟であった」(『芭蕉の研究』)。
其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、 其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
ながながと『奥の細道』から象潟の段を引用したのはわけがある。ここでは芭蕉がめずらしも、じつにこと細かく風景を語っているからだ。鳥海山を映す象潟の入り江に船を浮かべたこと、桜の老木……と、芭蕉は松島以来の饒舌さで風景描写をする。
鳥海山
鳥海山からの眺め
そして、風景については、象潟は松島に比肩する、と芭蕉は判断した。その美しさについて、おもかげは松島に似ているが、松島は陽の美、象潟は陰の美といっている。芭蕉は松島では黙って目を閉じ、禁欲につとめて一句も残さなかった。芭蕉は、しかし、象潟では一句をものにしえている。もし芭蕉が松島で禁欲したのであれば、象潟でも禁欲して当然だった。
松島で芭蕉は、松島は「洞庭・西湖を恥ず……美人の顔を粧ふ」と、西湖を持ち出し、西湖ゆかりの西施の化粧を凝らした姿を思い浮かべたが、句はかなわなかった。しかし、象潟で芭蕉は西施を正面に持ち出し思いを遂げることができた。なぜか?
この日は『奥の細道』の記述では「朝日花やかにさし出る」好天気だったのに、芭蕉は句の中で雨を降らせた。『曾良旅日記』によると、象潟観光の日の朝は小雨、昼からは日照。
象潟海岸
化粧を施し嫣然と微笑む西施は芭蕉の手に余った。そこで、しとしと雨の中のものうく眠たげな西施を空想した。春雨、梅雨、夕立、秋雨、時雨とひたすら雨にぬれている湿気たジャパンを平均的日本人は美しいという。
芭蕉は華やかなものの描写が得意でなかったのかもしれない。『笈の小文』で花の吉野へいったときも、その道中の桜を詠んだ句はあったが、かんじんの一目千本吉野の桜の句は残していない。後で述懐して「われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる口おし」。ついでに、芭蕉には富士山を読んだ名句もない。ファンは「大家の大家たる所以」というのであるが。
雰しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き 芭蕉
不二ひとつうづみ残してわかばかな 蕪村
蕪村に比べて芭蕉はどうもイジケているようにみえる。
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
この蕪村の句には、江戸時代の日本人が愛好した明代第一級の詩人高啓の、
酒を高台に置けば
楽み極まって哀しみ来る
人生世に処る
能く幾何ぞや
日は西に月は東に
あるいは本邦の、
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 柿本人麻呂
という先行作品があるが、それはそれとして、蕪村の句の中にはシネマスコープのように爽やかに視野の広がった風景描写がある。芭蕉はそういうものがどうも苦手であったようだ。したがって、西行の桜の老木も、干満珠寺の方丈からの絶景も、すべてテクスト本文に書くしかなかった。しかたなく芭蕉は、雨と西施と夏の季語ねぶの花をもちだし、この三者がもつ象徴性の組み合わせと連想で――眉をひそめても、あくびをしても、眠りこけていてもさまになる傾城の美女、それゆえに殺された西施の愁いを帯びた眠たげな表情・姿態にねぶの花をかけてつなぎ――象潟を語った。夜目、遠目、傘のうち。くっきりと輪郭のあるものよりも、朦朧としたものに美を感じるのが蕉風であろうか?
「象潟や雨に西施がねぶの花」は、さまざまに英訳されている。訳者は俳句を英訳するという絶望的な難事業に真摯に取り組み、いまのところ芭蕉の翻訳不可能性を追認したのみである。では、そのいくつかを紹介しよう――。
Kisagata:
Seishi sleeping in the rain;
Flowers of mimosa. (R. H. Blyth)
Kisakata---
Seishi sleeping in the rain
Wet mimosa blossoms. (Keene)
In Kisakata in the rain His-shih’s silk tree flowers (Sato)
Kisakata (ya
In rain Seishi
Silk-tree blossoms (Corman)
A flowering silk tree
In the sleepy rain of Kisagata
Reminds me of Lady Seishi
In sorrowful lament. (Yuasa)
Kisagata---
In the rain, Xi Shi asleep
Silk tree blossoms (Barnhill)
Kisakata rain:
The legendary beauty Seishi
Wrapped in sleeping leaves (Hamill)
In Kisakata’s rain,
Mimosas droop, like fair His-shih
Who languished with love’s pain. (Britton)
ところで、『奥の細道』象潟の段では、どうやら一句をものしたが、『奥の細道』にあっては珍しい逆転現象が生じている。芭蕉の散文の部分の方が、その句よりもイメージが鮮明なのだ。
象潟そのものは1804年の地震で隆起し、陸地になってしまった。たった一度のグラッで、今では地名と記録を残すだけだ。したがって、芭蕉が見た風景を見ることができなくなって、すでに久しい。
象潟
象潟の日本海
地は揺らぎ潟消えとりつく島もなし
ねぶの妃妾の生死は知れず
(閑散人 2006.5.21)
16 けはいも妖し湯殿山
修験者は羽黒山頂から月山を目指し、月山山頂から湯殿山に下る。芭蕉も同じコースで月山に登った。『奥の細道』では、
八日、月山にのぼる。木綿しめに引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
雲の峰幾つ崩て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
芭蕉の月山のぼりの記述は、法顕の小雪山越え、あるいは玄奘のパミール越えの記述よりも大仰で、標高2000メートルにも満たない月山の夏山の登山記としては過剰である。この稿の筆者は、かつて6月中旬ごろ、羽黒山から冬季閉鎖が解かれたばかりの月山登山道路を車で8合目のレストハウスまで登った。8合目はTシャツだけではちょっと涼しすぎた、程度だった。
月山を下った湯殿山神社のご神体は、今ではすでに語りつくされている。温泉を噴出す岩である。ただし、写真撮影は、いまなお禁止。
「語られぬ」理由をもっとありていに言えば、その岩は女性の性器を連想させる。そのため、ながらく「女人禁制」だったといわれる。修験道のおっさんたちは月山からここまで下りてきて、冷えた体をあたためつつ男同士で隠微な会話と空想にふけった。だが、これは昔の話、いまでは女性もやってきて、キャアキャア騒いでいる。
月山を雲中凍えて湯殿山湯加減いかが男女で足湯
(閑散人)
と、座が華やいできたので、蛇足として、湯殿山からちょっと北へ、岩手・花巻の大沢温泉の金勢神社の祭りはもっとアッケラカンとしたもので……これはもう説明するよりサイトを開いてしばしそのままスライドショーの始まりをお待ちあれ。
大日坊山門
大日坊山門
芭蕉のころはまだつくられてはいなかったが、その後、出羽三山周辺は坊さんのミイラ、品よく言うと「即身仏」の産地になった。芭蕉がこのあたりを歩いてから、およそ100年あとのことである。湯殿山神社からさほど遠くない大日坊というお寺をのぞいたら、即身仏を展示公開していた。
大日坊本堂
大日坊本堂
このほか、『月山』を書いた森敦が食客としてとぐろを巻いていた注連寺にもミイラがある。酒田の海向寺には、なんと二体あった。ミイラはたいてい寺に安置されているが、庄内の即身仏のうち、1体は個人の住宅に置かれているといわれている。ミイラのおわすホーム・スイート・ホームとなると、これはもう、ヒチコックの『サイコ』の世界だ。土中の餓死である即身仏のつくり方の詳細について文献が図書館にあるので各自お調べねがいたい。
注連寺本堂
一方、補陀落渡海(ふだらくとかい)という水死による成仏のしかたもあった。
しかし、この話の恐ろしいところは、渡海がルーティン化すると、坊主はそれに応えることを心理的に強制され、拒否すると、まわりの人がよってたかって坊主を土左衛門にしたころにある。
月山周辺の即身仏も、その出来上がりが飢饉の年と微妙に関連していることから、困窮した農民が、食い詰めた流れ者を寺に入れ餓死ミイラをつくり、領主に対するあてつけにしたのだという説を立てた人もいるそうだ。真偽は不明。
大日坊では多弁な住職がミイラを背に観光客に講釈をたれたあと、「即身仏のお召し物は数年に一回取り替える。これはそのときの古着のきれはして作ったお守り袋」と、くだらぬものを売りつけていた。ミイラがまとっていた布を持ち歩くのは気持ちわるいことだろう。そうでもないか。むかしむかし、ミイラは万能薬木乃伊と称して、木乃伊を砕いて飲んでいた人々がいたそうだから。
ところで、芭蕉が出羽で詠んだ3句、
①涼しさやほの三日月の羽黒山
②雲の峰幾つ崩して月の山
③語られぬ湯殿にぬらす袂かな
に関して、面白い解釈が出されているので、ここで言い添えておこう(加藤文三『奥の細道歌仙の評釈』地歴社、1978年)。
加藤によると、安東次男は、③の湯殿山の句の「語られぬ」「湯殿」「ぬらす」に土俗的なエロチックなイメージを感じ、芭蕉は男女の営みを俳諧に持ちこんだと解釈した。①の羽黒山の句では、「ほの三」は「仄見」、「羽黒」は「女人の秘められた部分のイメージを通わせたもの」とした。さらに、②の「月の山」では、月に女性の「月のもの」を掛け合わせ、句中の「崩れて」が描き出す雲の姿態は心憎いまでに艶っぽい、とした。これに対して、加藤は出羽3句すべてにエロチシズムを嗅ぎとろうとする安東解釈は独創的だが「夜の女体のフォルムが描き出す肢体」説となると、もはやとてもついて行けない、と評した。
注連寺天井画
もち肌の出羽の山々ほのつつむ
エロス三昧死と五目和え
(閑散人 2006.5.24)
15 羽黒に三日月貼り付けて
羽黒山もまた、月山、湯殿山と並んで妖気ただよう山である。
羽黒山の圧巻は、ふもとからてっぺんの出羽三山神社にいたる2キロほどの森の中の上り坂である。不精な筆者は、自動車道路で山頂の駐車場まで行き、坂道を下って、国宝の五重塔を過ぎ、ふもとに出た。タクシーで駐車場に帰るつもりだったが、もう一度歩きたくなって、頂上目指して山道を登った。坂道の上の方に、修験者のうしろ姿がふと見えたりした。
羽黒山登る仏に下る神
途中の茶店でやどうもどうも 閑散人
芭蕉もこの登り坂を歩いたのだろう。彼が残したのは、
涼しさやほの三日月の羽黒山
と、遠くから標高400メートルほどの山影をうたった趣の句であった。現代の人々は木々につつまれた坂道を珍重するが、芭蕉のころは単なる木立の中の坂道で、特筆に価するものではなかった。どこにでもあった山道だった。
ところで、
あはれをもあまたにやらぬ花の香の山もほのかに残る三日月 定家
涼しさやほの三日月の羽黒山 芭蕉
どこか似てませんか?
芭蕉は羽黒山そのものより、定家を見ていた。「山もほのかに残る三日月」を「羽黒山もほのかに残る三日月」とし、さらに羽黒山と三日月の語順を入れ替え、言葉を刈り込み整理して「ほの三日月の羽黒山」と整えた。
「涼しさやほの三日月の羽黒山」の句の初案は「涼風やほの三日月の羽黒山」で、曾良の俳諧書留などに記録されている。芭蕉にとって「ほの三日月の羽黒山」は既定の路線で、工夫はそこにどんな5文字をのせるかだった。
「ほの三日月の羽黒山」は、どうやら羽黒山を見る前から彼の頭の中に確定的に存在していたようである。安東次男の『おくのほそ道』によると、芭蕉は6月3日の三日月の日に羽黒山につくように、最上川周辺で日程を調整し、羽黒山着を意図的におくらせたという。羽黒山では、季語をあたまに持ってくるだけでよかった。
その最上川の中流の船着場大石田で、芭蕉は次の句をものしている。
五月雨をあつめて早し最上川
芭蕉は川岸から最上川を眺めて、まず「五月雨をあつめて涼し最上川」と詠み、川くだりの舟に乗って、『奥の細道』では「涼し」を「早し」に改めた。実感を入れたわけだ。
Gathering seawards
The summer rains, how swift it is!
Mogami River.
と、ドナルド・キーンは訳した。上記の英文だけを聞いた普通の人は、はたして何を思うか?
“Really? Wow, good for shooting the rapids!”
あたりか? ところで、日本語だとどうなるか。
五月雨をあつめて早し最上川――芭蕉
河川洪水水防警報発令――国土交通大臣
なんで筆者はこんな愚にもつかないことを言っているのか?
つまり、言いたのは次のこと。芭蕉の句には、彼の体質、思考、嗜好、感情の起伏などに、こちらが必死で波長をあわせる作業をし、それが成功して、波がピタリと合った場合に限って意味をなす孤高の芸術―独善の文芸―的な作品が多い。芭蕉の作品のほとんが「作者の気分を托するに外界の事物を以ってする一種の象徴詩めいたもの」(津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』)である。
同じ五月雨と川を題材にして、蕪村は
五月雨や大河を前に家二軒
と詠んだ。
「避難勧告が出ました」と野次をとばしてもかまわないが、流れが速いだけの最上川の描写に比べれば、大河、そのほとり、家、2軒(この2軒がすごい。1軒でも3軒でも構図が崩れる。蕪村はすごい計算をしている、とほめる識者もいる)と描写は具体的で、NHKニュースの台風報道のシーンのようなリアルさと緊迫感がある。一方で、なぜかノホホンとした気楽さもあり、もし心配そうに川面を眺めている人でもいれば、上空の取材ヘリからファインダーをのぞきながら、つい “your last photo” と冗談を言ってみたくなるような描写でもある。筆者などはボクは芭蕉より蕪村の方が面白いと思うのであるが、一方で、「蕪村はわかりすぎて、浅い」と蕪村を軽蔑する人もいる。芸術のコツはabracadabraだよ、というわけであろう。
(閑散人 2006.6.1)
14 心澄む立石寺の静寂
山寺こと立石寺山寺について芭蕉は以下のように書いている。さほど力を込めているようには感じられない。
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
さて、立石寺そのものは小さな岩山を利用して造った箱庭風の山岳寺院群である。
立石寺4
山門下にお土産屋がたちならぶ。大形観光バスが忙しく出入りする。入場料を何がしか取る。お堂めぐりの山道に清涼飲料水を並べたお休みどころがある。玉こんにゃくを串刺しにしたおでん風のものを「力こんにゃく」と称して売っている。
てっぺんのお堂からの眺望と、涼風はなかなか結構である。しかし、実は、それ以外にはなにもないところである。芭蕉は岩と、松と、苔と、お堂と、あとは静寂と書き残した。それから、蝉を鳴かせてみた。だが、蝉はどんな風に鳴いたのか?
立石寺2
鳴いたのはあぶら蝉であると斎藤茂吉はみたてた。「あぶら蝉の鳴き声ではどうも『閑さや』というような感じが出そうもない」(『芭蕉の研究』)と小宮豊隆は、斉藤茂吉のあぶら蝉説を否定し、にいにい蝉説を唱えた。芭蕉が立石寺を訪れた太陽暦で7月13日ころには、普通、あぶら蝉はまだ山に現れていないそうである。
曹洞禅のとあるホームページに、
禅語に「一鳥鳴山更幽」(一鳥鳴いて山更に幽なり)があります。静寂の中に響き渡る鳥の一声によって更に静寂感が深まる情景です。これは、山の静寂に身を置くものならば、だれでも分かる静寂かもしれません。一方、松尾芭蕉の句に「静けさや岩に染み入る蝉の声」というのはどうでしょうか。この句は夕立のような蝉時雨の声が涅槃寂静を詠じているといわれます。それは蝉時雨の音と一体となった自分があるからです。うるさいほどの蝉しぐれを、ただ聞いている。聞くともなしに聞いている。からだ全体で聞いている。諸行無常と対立しない静かさとは、諸法無我(無心)の中にいるということです。
という、ありがたいお話がのっていて(合掌)、芭蕉が聴いたのは蝉時雨だったというのである。芭蕉は「物の音きこえず」といっているのに、禅坊主は「心頭を滅却すれば蝉時雨もまた静寂」と言い張るのである。たしか中学の国語の授業では、「一鳥鳴山更幽」の解釈を教師はとっていたと記憶する。蝉をめぐって、論争は果てないが、ここでは深入りはしない。
立石寺3
声と静寂は洋の東西を問わずありふれた詩材である。
A voice so thrilling ne’er was heard
In spring-time from the Cuckoo-bird,
Breaking the silence of the seas
Among the farthest Hebrides.
(Wordsworth)
室生犀星はこの芭蕉の句を「この閑寂の境には定家も西行もまだ行き着いていない……この風流は日本の古い詩歌道の極北であり……閑寂の地平線である」と絶賛したそうだ。さきに禅坊主が引用した「一鳥鳴…」のもとは漢詩の対句「蝉さわぎて林いよいよ静かなり。鳥鳴いて山さらに幽なり」のかたわれである。芭蕉の句はこの漢詩の蝉の部分の改案であると安東次男(『おくの細道』)はいう。改案と模倣はどう違うのか? 文芸におけるオリジナリティーとは、そもさん、何であるか?
おそらく芭蕉は上記の漢詩に縛られて、禅家が「隻手の声」あるいは「無弦の琴の音」を聴くように、未生の空蝉が鳴く声を必死に聴くしかなかったのだろうと、筆者は思う。芭蕉にとっては、「にいにい」であるか「あぶら」であるか、そんなことはどうでもよかった。
立石寺1
晴れ間には人さみだれる山寺は破鐘ほどのドラ声もあり
(閑散人 2006.6.4)
13 光堂は入れ子構造
中尊寺を訪ねるよりさき、芭蕉は高館へ行った。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢のあと
どうもここで泣きたいがため、芭蕉は、はるばると歩き続けて来たのではないか、という気もする。『奥の細道』の構成は、松島―平泉―最上川―出羽三山―象潟を頂点とする構成になっており、とくに、平泉がその絶頂・極致である、と識者は言う。
蕪村筆「奥の細道画巻」高舘(逸翁美術館本)
したがって、芭蕉の高館の描写は「細道の旅の頂点」「芭蕉独自の自在境」などと、俳人や研究者から評価が高い。注釈書によると、芭蕉の詠嘆にはネタ元があって、「国破れて山河あり城春にして草木深し」(杜甫)、「白骨城辺草自ら青し」(湖伯雨)、「憂え来つて草を敷きて坐せば…」(杜甫)などから借りた。「草木深し」を「草青みたり」と変え、「草をしく」かわりに「笠をうちしい」た。
それはさておき、時の流れは冷酷で、「国富んで山河破れ」た。高館の最近の写真がそれを物語る。
ところで、今から40年ほど前、大学をおえて、筆者は盛岡へ働きに行った。そこで2年間働いた。折悪しく、このときは中尊寺金色堂は昭和の大修理の最中で解体されていた。
実際に金色堂を見たのは、ずいぶん後のことだ。そのとき、金色堂はコンクリート製の覆堂の中にきゃらきゃら納まっていた。金色堂は入れ子構造だ。覆堂の中に、強化ガラスにくるまれたコンピューター制御の空気調整システム完備の空間があり、その中に金色堂がすっぽり入り、そのまた中に内陣をしつらえ、その中に棺を納めて、棺の中に藤原さんたちのミイラがいる。
芭蕉は、
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の佛を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり
五月雨の降のこしてや光堂
と書いた。
光堂の描写については、ニ堂、三将、三代、三尊、七宝と、「数詞が多く用いられ、それが文体を引き締め、仏像のように典雅な、均整のとれたアポロン的な美をなしている」と賞賛されてきた。
句については、識者の解説によると「あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているように思える」ということらしい。『奥の細道』本文にあるように「四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌」構造になっていたそうだから、簡易なものとはいえ、覆堂は芭蕉に時代にはすでにあったわけだ。したがって、五月雨、秋雨、時雨、雪、春雨が降り残したのは当然であった。そのための覆堂だったわけだから。
中尊寺
月見坂のお堂
そこで、富士正晴(『奥の細道』)は、「この句、光堂の光の文字に目がくらんで、五月雨が光堂の威光にやられて降り残したみたいな解が、わりと一般にあるみたいだが、四面と上を覆っていた覆堂があるから五月雨は光堂を降りのこしたのかなというだけのことのようにおもわれる。光堂の荘厳の詠嘆ではなく、中尊寺の大荒廃の詠嘆であると思う」としている。富士流に解釈すると、高館の「夢のあと」の詠嘆と、中尊寺の詠嘆がすんなりとつづく。
ところで、芭蕉は「兼て耳驚したる二堂開帳す」と、光堂と近くの経堂がともに公開されていたと書いた。しかし、曾良の日記によると、経堂は閉ざされていた。また、経堂の中に、藤原三代の当主の像は存在しないので、2、3、3、3、7の数詞の連続のうち、3の1つは嘘である。
虚実皮膜の間。芭蕉は見聞の中に嘘をちりばめ、旅ののち5年がかりで『奥の細道』を脱稿した。『曾良本おくの細道』では、光堂の句は「五月雨や年々降るも五百たび」となっており、この実写的表現が月日のたつうちやがて抽象化され、「降りのこしてや光堂」となった。金子光晴の『マレー蘭印紀行』と同じように、体験を時間をかけて醗酵させ、濾過し、抽象化し、足りないものは添加してつくりあげるのが、作家が「紀行文」と称するものである。それをジャーナリストのルポルタージュか、文化人類学者のモノグラフのように読んだあげく、事実と異なると立腹してもしょうがないか。
中尊寺2
モダンやな降りのこされて光堂季語も健忘空調の檻
(閑散人 2006.6.7)
12 胸に迫ってことば松島
芭蕉は『奥の細道』で松島の風景を饒舌に語っている。
松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、淅江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたはめて、屈曲おのづからためたるがごとし。其気色えう然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
雄島へは橋を渡る
雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人稀々見え侍りて穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。
それはそうだろう。『奥の細道』序文で、「三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて」と書いたほどの待望の地であった。
松島へ
蕪村筆「奥の細道画巻」松島へ (王舎城美術宝物館本)
にもかかわらず、芭蕉は『奥の細道』には松島を題材にした句を入れていない。よく芭蕉作といわれる「松島やああ松島や松島や」は、物知りによると、江戸後期の狂歌師・田原坊が作ったものという。
芭蕉はなぜ松島でこれといった句を残さなかったのか? 2つの説がある。ひとつは芭蕉の表現能力限界説。松島の美しさは言語を絶し、さすがの芭蕉も、散文では厚化粧の上塗りができたが、その絶景を17文字のうちに凝縮することはかなわなかった、という説である。『奥の細道』の松島の段、芭蕉は「予は口をとぢて眠らんとしていねられず」と書いている。山本健吉は「私は句が浮ばず、眠ろうとしたが眠れない」と現代語に訳した。田原坊の「松島や…」が芭蕉の作として流布しているのは、芭蕉の表現能力の限界への嘲笑と関係があるのかも知れない。
いまひとつは、禁欲説である。芭蕉びいきには、彼の松島での沈黙がたえらず、「ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ」をあげて、語りえぬものについては沈黙しなければならないとばかり、芭蕉は自ら禁欲を貫いたという説である。「予は口をとぢて」を「口を開くことができなかった」のではなく、「あえて口を開かなかった」のだ、と解釈している。たとえば、「師、松島にて句なし、大切のことなり……絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」(土芳『三冊子』)。なかでも、来雪庵後素堂(『奥のほそ道解』天明7年)は、松島で同行の曾良が詠んだ句「松島や鶴にみをかれほととぎす」は、曾良にはできすぎの秀句で、じつは芭蕉が作って曾良に与え、芭蕉は「一句にも及ばず無言にして高尚をなすものならんか」と、熱烈弁護している。(曾良には気の毒なことだ)。現代の解説者では麻生磯次(『奥の細道講読』明治書院、1961年)が、大自然が創った美をまえにして「どういう名人の筆も限りがあることをしり……人間の無力を歎ずる芭蕉の謙虚な姿が、はっきりと出ている……詩人としての芭蕉の尊さが、まざまざと感ぜられるのである」と、擁護論を開陳している。
芭蕉は松島を以下のように句にしていた。
島々や千々にくだけて夏の海
いまでこそ「千々にくだけて」はリービ英雄の本でなじみがでてきたが、当時の芭蕉はこれを何とか推敲して『奥の細道』に入れる気になれなかったのだろう。そこで曾良の句を入れるしかなかった。松島に関しては、自分自身の句よりも曾良の句の方が、俳聖芭蕉のおめがねにかなったわけである。
島々や千々にくだけて夏の海 (芭蕉)
おほ海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけてちるかも (実朝)
「砕ける」同士を並べてみると、十七文字と三十一文字のキャパシティーの差が歴然としている。
松島のあまりの美景息をのみ
身は焦がれども筆はふるえず
(閑散人 2006.6.8)
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