https://edaddeoro.jp/okunohosomichi.html 【逆めぐり「奥の細道」】より
24 片腹痛き山中の
山中や菊はたおらぬ湯の匂
意味的には隔靴掻痒のこの句をあげて、ホモっ気のある芭蕉が、山中温泉で逗留した温泉宿・和泉屋の主人である当時14歳の久米之助少年の姿をめでつつも、まあやめておこうか、と考えたという意味の句だと、嵐山光三郎『奥の細道温泉紀行』の一節「山中温泉『菊』の謎」はいう。芭蕉がこの少年をかわいがって、「桃妖」という意味ありげな俳号を与えているので、ひょっとしたら芭蕉は「手折ったのかも」と嵐山はかんぐるのである。
芭蕉の衆道好みについては、芥川龍之介も『芭蕉雑記』で取り上げている。芥川は、芭蕉もまた「分桃の契り」を愛したかもしれないが、本格的なものだったとは考えにくいとしている。
山中温泉外湯「菊の湯」
それはさておき、芭蕉が泊まった和泉屋は今日すでになく、その跡地付近には外湯「菊の湯」が建てられている。男湯と女湯が別々の建物になっている豪勢な外湯だ。男湯につかってみたが、浴槽は泳げるほどに広く、また深かった。1メートル以上の深さだった。「菊の湯」の近くには「山中座」がある。ここではピアノ・トリオによるモダンジャズの演奏会もやる。公演予定表にそのような案内があった。
芭蕉は山中でお供の曾良と別れた。
『奥の細道』は次のように物語る。
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
行き行きてたふれ伏とも萩の原 曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にま
よふがごとし。予も又、
今日よりや書付消さん笠の露
『笈の小文』の同行者で芭蕉とのホモ仲を疑われている(芥川は畢竟小説と言下に否定している)杜国との旅で芭蕉は「乾坤無住同行二人」と笠の内側に書いた。曾良との旅でも同じような内容の書付があった、と推測されている。
しかし、胃痛にがまんできず曾良は長島に旅立つ。ひとりになった今となってはこの書付は消さなくてはならない。笠についている涙の滴でこれを消そうか、と解釈されている。山本健吉(『奥の細道』)などがこの説をとる。ドナルド・キーンの英訳(The Narrow Road to Oku, Tokyo, Kodansha, 1996)も
Today I shall wipe out
The words written in my hat
With the dew of tears.
と芭蕉が自らの手で消す、という解釈にたっている。
一方、「笠の露が消してくれるであろう」という解釈もあり、 Nobuyuki Yuasa訳のMatsuo Basho: The Narrow Road to the Deep North and Other Travel Sketches, London, Penguin Books, 1966 は、
From this day forth, alas,
The dew-drops shall wash away
The letters on my hat
Saying ‘A party of two’.
としている。
自分で消そうが、露で自然に消えようがたいしたことではない。だが、次のことはわけがわからない。今日の常識から考えると、病人を一人で旅立たせるのは異常かつ薄情な行為である(元禄でもそうだったろうと愚考する)。普通であれば、温泉滞在を延ばして友の回復を待つだろう。芭蕉は無情にも曾良をひとり先行させた。曾良の気分は、
行き行きてたふれ伏とも萩の原
によくあらわれている。
それを受けて芭蕉が、
今日よりや書付消さん笠の露
と、ボルテージをあげた。
与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から山中の段 (逸翁美術館本)
そうか、これまた『奥の細道』の作為なのだ。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」の延長上にある創作なのだ。ただ、作為が過ぎ現実味に欠けるので、ドラマツルギーとしては下手くそだ。
それはさておき、ヘロドトス、法顕、玄奘、イブン・バトゥータ、マルコ・ポーロ、河口慧海といった長距離旅行者からみれば、ほんの箱庭散歩にすぎない東北旅行で、これほどの愁嘆場はいささか過剰であろう。
もし、「笠の露」が演技でないのであれば、芭蕉と曾良の間に何かきまずい行き違いがって別れたという説にも説得力がある。
曾良「ああ、先に行きますよ。行けばいいんでしょう。私なんぞ道中一
人でくたばればいいんでしょう」
芭蕉「お前の名前なんか笠から消してしまうぞ」
実は、曾良が去ったあとも、芭蕉の旅は一人旅ではなかった。金沢から芭蕉と曾良に同行して山中温泉まで来ていた北枝が、芭蕉を福井付近までエスコートして行った。
「旅人と我名よばれん初しぐれ」「野ざらしを心に風のしむ身かな」などと、漂泊のベテランをきどりつつも、芭蕉は曾良なしの旅は心細かったことであろう。曾良は江戸では芭蕉の弟子兼執事兼秘書役、奥の細道の旅路では加えて、コース・ガイド、資料収集係、パーサー(ありていに言うと金の工面係)などを担当したといわれている。曾良は芭蕉より一足先に敦賀にたどり着き、後から来る芭蕉のためにと、その地の知人に金1両を託した。サンチョのセコンドがなければキホーテはなく、曾良がアテンドしなければ芭蕉の奥の細道はありえなかった。
笠ふたつ秋霖に揺れみぎひだりいずれ三途の岸でまみえん (閑散人 2006.4.27)
23 那谷寺の白い秋
芭蕉は『奥の細道』那谷寺の段で、
石山の石より白し秋の風
と句を添えている。
この句の解釈をこれまでにめぐって、少なくとも3つの見解が立てられてきた。
①那谷寺の石山より秋の風はもっと白い。
②近江の石山より那谷寺の石山の方がさらに白い。
③近江の石山より那谷寺の石山の方が白い。秋風はさらに白い。
芭蕉研究者の間では、①芭蕉の時代には那谷寺の石を近江の石山の石と比べる慣わしがすでにこの地にあった、②「青春、朱夏、白秋、玄冬」の中国の五行説にもとづいた発想である、③いや、白く身にしみる秋風は和歌の伝統的情感である。芭蕉はそれに従ったのだという説など、侃々諤々のディベートがあった。
吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思いけるかな 紀友則
白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色のあきかぜぞふく 藤原定家
おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風 西行法師
上記のような和歌の伝統にのって、芭蕉は那谷寺境内の森閑とした静けさ、石山の冷厳な姿のなかに、寺ゆかりの人として伝説になって残っている花山院の生涯に思いをはせ、自然と人生の寂寞感を対置させたという解釈(尾形仂『おくのほそ道評釈』)には、それなりの説得力がある。
さらに、安東次男は大胆不敵にも、下記の金沢での句①②に続いて那谷寺の③を入れることで、
①塚も動け我泣く声は秋の風 (凄)
②あかあかと日は難面もあきの風 (紅)
③石山の石より白し秋の風 (白)
「凄日、紅日、白日」秋三部を工夫したのだとしている(『おくのほそ道』)。
とはいうものの、那谷寺の石山そのものはすでに写真でご覧のとおり白くはない。しかし芭蕉にはこの石山を白くみる必要があった。初めにわが詩の構想があり、それに合わせて彼は現実をそのように脚色したのである。写生ではないのだ。
ただ、「塚も動け我泣く声は秋の風」「あかあかと日は難面もあきの風」「石山の石より白し秋の風」という風が吹き続くとやはり疲れる。芭蕉は読み手を疲れさせることが多い。こうしたときに、
大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる 山田無文
などを読むと、正直ホッとする。
かあかあと烏さわぎいる夕陽に
白々しくも秋風ぞ立つ
(閑散人 2006.4.30)
22 小松の兜にむせび泣く
金子兜太他編『現代歳時記』で「きりぎりす」をひくと、
むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
きりぎりす赤子の呼吸見てをりぬ 日原傳
柱多き生家の奥のきりぎりす 大石雄鬼
一匹は愛人のいるきりぎりす 川崎ふゆき
きっかけの風を待っているきりぎりす 山本敏倖
と例示されている。芭蕉以下、難解な句ばかりである。すべてが心象、あるいは寓意、または象徴の風景である。その心は17文字におさまりきらず、重要なキーが積み残されている。
たとえば、芭蕉の『甲の下』という句は、関が原の古戦場ででも詠んだ句であろうか?それとも、一の谷だろうか、壇の浦だろうか、桶狭間だろうか?
芭蕉は鎧と兜を意味する「甲冑」の「甲」の方を句に読みこんだが、現在では実は「冑」あるいは「兜」の方だったと一般に考えられている。「兜の下」よりも「鎧の下」のほうが、重みを感じさせると芭蕉は考えたのだろうか? 単に彼が字の意味に無神経だっただけのことだろうか?
それはさておき、『奥の細道』について、井本農一は「紀行が普通の散文ではなく、俳諧と一体不可分の関係にあり、俳諧の発句を抜きにして紀行が考えられない」と説明している(『芭蕉の文学の研究』)。というよりも、『奥の細道』全編が発句とその前書きをつなぎ合わせて構成されているように、この連載の筆者は感じる。前詞としての紀行の地の文があってはじめて、発句の解釈が成立する(それでもなお、成立しないものもある)。一方、地の文は独立した紀行文としてはそもそも力不足を否めない。
『奥の細道』小松・多太神社の段で、芭蕉は実盛の亡霊を呼び出している。
此所、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
上記の前書きがあって初めて、「甲の下のきりぎす」の句意がはじめてわかる。
1943年に書いた評論「甲の下のきりぎりす」で、保田與重郎は「ともかくも『奥の細道』には、さふいう義士烈婦に感動した作が多く、ついで慟哭した作がつづいている。その慟哭は、個人の義挙に対する道徳的感情を、己の生命の道として生きるところに現れる」とする(『保田與重郎全集 第18巻』)。芭蕉は人心の創造力を彷彿させるような道徳・義心を表現した美談に感心し喜んだ。「その志が激しい義心に泣き、その心が慟哭の作を生む。その心はつねに慟哭する状態にある心で、何に当たって慟哭するかは第二義の問題でさえあった」と保田は説明する。「何に当たって慟哭するかは第二義の問題でさえあった」という保田のユニークな説明が、『奥の細道』の作為的なテンションの高さの理由をよく説明している。
山本健吉は「知的解釈の必要性や感情の露骨な説明、古典への未練がつき纏い、それが一句の完成を妨げたように思う」という萩野清のコメントを酷だとする。山本は「冑から実盛の首級を想起し、それがきりぎりすの幻想へ連鎖することを思えば、それはまさに実盛の亡霊の化身である。実盛の亡魂を登場させる謡曲を発想の典拠とすることによって、彼の詩的イメージは幾重にも延び広がって行くのだ」と芭蕉を弁護している。(『山本健吉全集 第5巻』)
芭蕉の句には一句独立しての鑑賞が困難なものが目につく。鑑賞に「理屈」が必要なものが多い感じがする。たとえば、『猿蓑』冒頭の二句。
初しくれ猿も小蓑をほしけ也 芭蕉
あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声 其角
其角の時雨は説明抜きでストンと落ちるが、芭蕉のそれには何がしの前詞が必要であろう。芭蕉はしょせん五七五の文字数では表現できかねるような世界を、推敲に推敲を重ね、無理やり17文字につめこもうと悪戦苦闘していたように思える。Bashoistはそれを名人芸と褒め称えるが、一方で、それらの力技とも思える作品は、鑑賞する素人に、読解のための多大なエネルギーを強いることになった。
ところで、現在の多太神社には、こぢんまりとした「松尾神社」が作られていた。
むざんやな鎧兜をむしられて白骨むせぶ虫すだく野に
(閑散人 2006.5.4)
21 感きわまって金沢の慟哭
金沢市・香林坊の交差点から犀川に向かって繁華街を下る。やがて片町のスクランブル交差点にいたる。その交差点の歩道に小さな「芭蕉の辻」の石碑が建っている。芭蕉と曽良が金沢で宿泊した宿屋、宮竹屋がかつてあったところだそうである。
そこから犀川へ出て、川っぷちをふらふら歩くと、室生犀星の記念館や文学碑がある。高浜父子句碑もあって、
北国のしぐれ日和やそれが好き 虚子
秋深き犀川ほとり蝶飛べり 年尾
父・虚子のサラダ日記風の句と、子・年尾のへたうま風凡庸句が刻まれている。
芭蕉は『奥の細道』金沢の段を、
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け我泣声は秋の風
ある草庵にいざなはれて
空き涼し手毎にむけや瓜茄子
途中吟
あかあかと日は難面もあきの風
と、短く、つれなく書いている。
さて、「塚も動け」だが、芭蕉は一笑に会ったことがなかった。直接言葉を交わしたことのない人の死に、これほどまでの慟哭が可能だろうか? 山本健吉は「この句はあまりに誇張に感じられて、長らく好きにはなれなかったが……最近はそんなことはないと思うようになった」という。まだ会ったことはなかったが、書信で長らくにわたって師弟関係を結んでいた人物の死に対する激しい思いが「言語に絶する感情」となり「絶唱」となった、と山本は言う。「塚も動け」と激しく始まり、「蕭状たる秋風」のなかに感情のすべてが吸収されている。ここに俳句の「ひねり」をみる、と山本はいう。(『山本健吉全集 第5巻』)
途中吟の「あかあかと日はつれなくも秋の風」について、子規は、「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」という古歌があり、これは芭蕉の剽窃であると批判した。
『国歌大観』のCD-ROM版で縦横斜めから検索してみたが、この歌は見つからなかった。一説によると足利尊氏の歌だともいう。
子規の剽窃よばわりを不当だとして、芭蕉を弁護したのが寺田寅彦で、「天文と俳句」というエッセイで次ぎのように書いた。
あか/\と日はつれなくも秋の風 芭蕉
といふ句がある。秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る。すると氣層は其透明度を増して、特に雨のあとなど一層さうである。それで乾燥した大氣を透して來る紫外線に富んだ日光の、乾燥した皮膚に對する感觸には一種名状し難いものがある。……此句も亦一方では科學的な眞實を正確に捕へて居る上に、更に散文的な言葉で現はし難い感覺的な心理を如實に描寫して居るのである。此の句の「あか/\」は決して「赤々」ではなくて、から/\と明かるく乾き切り澄み切つて「つれない」のである。しかも「つれない」のは日光だけでもなく又秋風だけでもなく、此處に描出された世界全體がつれないのである。かういふ複雜なものを唯十七字に「頭よりずら/\と云ひ下し來」て正に「こがねを打のべたやう」である。ところが正岡子規は句解大成といふ書に此句に對して引用された「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」といふ古歌があるからと云つて、芭蕉の句を剽竊であるに過ぎずと評し、一文の價値もなしと云ひ、又假りに剽竊でなく創意であつても猶平々凡々であり、「つれなくも」の一語は無用で此句のたるみであると云ひ、むしろ「あか/\と日の入る山の秋の風」とする方が或は可ならんかと云つて居る。併し自分の考は大分ちがうやうである。此の通りの古歌が本當にあつたとして、此れを芭蕉の句と並べて見ると、「須磨」や「明石」や「吹く」の字が無駄な蛇足であるのみか、此等がある爲に却つて芭蕉の句から感じるやうな「さび」も「しをり」も悉く拔けてしまつて殘るものは平凡な概念的の趣向だけである。
しかしながら、寺田寅彦はうかつにも東京の秋の感覚で、日本海側の金沢の秋を推測してしまった。『理科年表』によると、東京の年間平均湿度は64パーセントで、夏高く秋から冬に向かって低くなる。寅彦のいう「秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る」がこれにあたる。一方、金沢の年間平均湿度は東京より10ポイント高い74パーセント。金沢では春3月から5月にかけて湿度が平均より低く、6月から夏、秋、降雪の翌年2月までは月間平均湿度が年間平均湿度かそれを超えて横ばい状態である。金沢の秋の平均湿度は、東京の梅雨時並みである。寅彦の言うような乾燥した気象と紫外線に富んだ日光の皮膚感覚は、平均的にいえば、金沢ではありえない。
権威を弁護するにあたっては、論理がえてしてずさんになる。健吉にして、寅彦にしてそうだ。
ところで、「あかあかと」は、朝日か? 白日か? 夕日か?
日本海に沈む夕日を眺めていると、1950年代の朝鮮戦争を背景にした米軍射爆場をめぐる内灘闘争を思い出す。日本では成田闘争を最後に大がかりな闘争はすっかり影をひそめ、けち臭い功利主義的競争ばかりが流行るようになった。五木寛之の『内灘夫人』なんて、いまでも読む人がいるのだろうか。
絶唱が絶叫となる多感症君つれなくも一笑に付す
(閑散人2006.5.6)
20 トイレは歌う那古の浦
親不知・市振から金沢に至る越中路をたどった芭蕉と曽良は、射水市―平成の大合併前は新湊市―の放生津八幡宮を訪ねた。
あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠るみゆ 大伴家持
月出でて今こそかへれ奈呉の江に夕べわするるあまのつり舟 葉室光俊
なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波 徳大寺実定
なごの海の荒れたる朝の島がくれ風にかたよるすがの群鳥 平経正
逢ふことも奈古江にあさる蘆鴨のうきねをなくと人しるらめや 藤原忠道
などで有名な歌枕・那古(奈呉)の浦にある神社だ。
そこを訪ねたあと、芭蕉はいまひとつの歌枕である氷見の有磯海を訪ねようとしたが、泊まるところとてありませんよと言われて、氷見へ向かうのをやめた。
わが恋はありそのうみの風をいたみしきりによする浪のまもなし 伊勢
くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。
わせの香や分入右は有磯海
北陸自動車道の有磯海サービスエリアの芭蕉碑
大伴家持は官僚として越中で5年間ほどの地方勤務をしたことがある。この間越中の風物を材料に大量の歌を詠み、多くの歌枕を残すことになった。有磯海も家持が使った「荒磯」(ありそ=現石=あらいそ)から発生したものだとされている。
かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを
『奥の細道』は、松島、平泉、羽黒、象潟で芭蕉が思いのたけを筆先にこめたあと、北陸路を南下する日本海沿いの記述は、芭蕉得意の人情ものを除いて、その記述が淡白になる。その中でも、越中路の記述は特にそっけない。芭蕉がここを通りかかったのは、旧暦7月14日、新暦で8月28日。暑い日だった。曽良日記は「快晴、暑さ甚だし……翁、気色不勝」と記録している。暑さと疲れで観光に身が入らなかったのだろうか。
ところで、現代の放生津八幡宮で特記しておきたいことがある。それは“歌うトイレ”である。神社の敷地内に立派な公衆トイレが作られていた。トイレに入ると、センサーが入場者を感知して、突然、自動的に演歌の演奏が相応な音量で流れ出す。利用者は用をたしながら、よろしければこの伴奏に合わせてカラオケ風に歌えるのである。
那古の浦泡とはじけてカタルシス沖のかもめよ歌の翼よ
(閑散人 2006.5.14)
19 市振の虚構の宿
市振の宿の遊女の件は芭蕉の創作である。一般的な評釈書はそう見立てている。芭蕉はこのあたりで、ちょっと色模様をちらつかせておきたかったようである。
蕪村筆「奥の細道画巻」市振の段(逸翁美術館本)
今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし*」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
蕪村筆「奥の細道画巻」市振の段(京都国立博物館本)
『奥の細道』で芭蕉が書こうとしたのは旅行のことではなく「風雅的世界」のことではなかったか、と井本農一は言う。旅はその風雅的世界をつむぎだすための素材に過ぎなかった。旅をする一人の世捨て人を主人公に風狂の世界を具象化して見せたのであると井本は言う(『芭蕉の文学の研究』)。
紀行文は事実を書き、そこにフィクションは加えない。芭蕉にルール違反ではないかと、せめてもはじまらない。芭蕉は紀行文を書くつもりはなかった。読者が勝手に『奥の細道』を紀行文だと思い込んで読んでいるだけである。
親知らず・子知らずの絶壁
芭蕉にとって人生は無常流転の旅である。「人生ハ無常ニ流転ス」が芭蕉の世界観である。芭蕉はこの世界観の枠組みの中に自然と人をはめ込む。旅しては過去に焦点をあわせる。過去と現実を二重写しにする感傷主義者であった。「畢竟、芭蕉の芸術は、彼の世界観から派生する感傷的情緒の感覚化をその特徴としているということになり、その発想はすこぶる構成的であり、表現は象徴的傾向を帯びている」(小島吉雄『芭蕉と奥の細道ところどころ』)。
トンネルを抜けた北陸道は磯伝いに海の上を走る
ところで、金子光晴は『マレー蘭印紀行』を次のように書き出している。「川は森林の脚をくぐってながれる。……泥と、水底で朽ちた木の葉の灰汁をふくんで粘土色にふくらんだ水が、気のつかぬくらいしずかにうごいている」。また別のところでは「密林の闇は、緑なのだろうか。その闇を割って、密林よりも暗い水が、ひそひそと森から遁れてゆくほとりに出た」。
金子のマレーとオランダ領東インドは、彼の記憶が作り上げた想像上の領域であった。ひところ若者がこの本を手にマレー半島をうろつくのが流行したが、よほどの感応力がないと金子が表現したような風景を現地で見ることはできなかったろう。芭蕉の奥の細道は金子ほどには空想と幻想に満ちていないが、作り出された風景はあちこちにある。
『奥の細道』は芭蕉と曽良の奥州行脚の数年後に書かれた。金子の『マレー蘭印紀行』は旅行のおよそ10年後に書かれた。両書に書きこまれていることがらは、旅人が実際に見聞した風景が時間をかけて筆者の記憶の中で発酵され、形が崩れ、ついには幻影と化したのち、それらが再びかき集められたものである。現実には存在しない、再構成された詩的世界なのだ。
それにしても市振の遊女の物語には、腑に落ちないところが一点ある。芭蕉は「哀さしばらくやまざりけらし」と詠嘆した。若い女2人が人買いに連れられてゆくのを見たのであれば、まことに哀れであるが、お伊勢参りとなると、ちょっと雰囲気が違うのではあるまいか。定めなき契、日々の業因から身を引き離し、万人憧れの霊域に向かうのである。芭蕉は「不便の事には侍れども」という言い回しをしているから、この「哀さ」はかわいそうの意味であろう。遊女であれ誰であれ、お伊勢参りともなれば、それが抜け参りであろうと、年季が明けてのお参りであろうと、「かわいそう」とは違う風景になるのではあるまいか。
蕪村筆「奥の細道画巻」市振の段 (王舎城美術宝物館本)
ひそやかに遊女の語り襖ごし浅ましながら聞き耳をたて
(閑散人 2006.5.15)
0コメント