きよしこの夜ヘルメット脱げば海

神野紗希・句集『すみれそよぐ』(朔出版)

はつなつの音符のような寝癖かな  神野紗希

きよしこの夜ヘルメット脱げば海  同

人生ゲーム抜けてさくらのすべり台  同


クリスマスは光の祭典から生れました。

https://ndv-jp.org/news/2008 【クリスマス*** 光の祭典 ***】 より

光の祭典

12月25日イエスの誕生を祝います。日本では降誕祭、「え?それって何?」という答えが返ってくるかもしれません。しかし、クリスマスといえば「そうね、待ちどおしいね」。何を祝うかわからなくても商業ベースにのせられて、クリスマスといえばプレゼントにパティーとなってしまっているようです。

この日、かつて北欧なのでは「光の祭り」が祝われていました。半年は夜となる地方で、命あるものは太陽の光と熱を必要としている以上、太陽のない世界はまさに死の世界です。そのような地方で太陽が崇められ、光の祭りが盛大に行われるのは不思議ではありません。

しかし、キリスト教が広まると「この世の光」として闇の世に生まれたキリストの誕生日を祝う日とされます。イザヤ預言者が、「闇を歩いていた民が大きな光をみた」とすでに旧約時代に予言している「闇の世に輝く光キリスト」の誕生を祝う日。

キリストの誕生によって、歴史にキリストが介入されます。「世の光」であるキリストの救いの歴史への介入の日、誕生された日、それはまさに「真の光」の祭典として全世界で祝われるようになりました。

キリストのミサ

クリスマスとは語源的には「キリストのミサ」を意味します。

キリストは世に来られたとき次のように言われました、「神よ、わたしはあなたのみ旨を行うために来ました」(ヘブライ9・7)。おん父のみ旨とは「罪人であるわたしたちが救われる」、かつて原罪によって絶たれた父なる神との和解。この救いをキリストは十字架上の死・復活によって成就されました。両手を開いて人類を祝福している馬小屋の幼な子のそばに「十字架とご受難に使われた道具(やり・茨など)が描かれた絵を見かけることがあります。それはかわいらしい生まれたばかりの幼い子のそばにはとても不釣合いに思われます。しかし、イエスの一生を貫いていたメッセージ、この世に来られたときのイエスの「おん父のみ旨」を全うする心構えが伝わってきます。

このことを心にとめるとき、「キリストの誕生の日がクリスマス、キリストのミサ(キリストのいけにえ)と呼ばれるようになったのも不思議はありません。わたしたちはクリスマスの一言にこめられたこの深い意味を忘れてはならないでしょう。

毎日がクリスマス!

ある年、クリスマスに美しいマグカップをプレゼントされました。アクセントとなる真っ赤な三段にはクリスマスのさまざまな装飾が囲まれています。「きれい!でもクリスマスにしか使えない!!」。とっさにアイディアが湧きました!「そうだ、毎日がクリスマス!」。神の子「キリストのミサ」は救いの歴史において毎日ささげられているのですから・・・。日々の生活においてキリストとともに「神よ、み旨を行うために」と毎日「キリストのミサ」を生きることを思い出すために毎日マグカップを使う・・・一日を約束する太陽がさんさんと差し込む朝、すべてが重い雲に覆われた日、短い夜まだあかつきに。その時々のコーヒー、紅茶を満たすクリスマスのマグカップは、常に「その日」をキリストのミサで自分をささげていくことを思い起こさせてくれます。「毎日がクリスマス!」。こうして闇のうちにある現代社会で少しでもキリストの光が輝きでますように毎日マグ・カップで祈ります。


海は命の源。守りを手放せば 案じる時代、崩れやすく感じる世界に命の源を取り戻せるというのでしょうか?風にそよぐ菫のように無為自然な在り方が今を今を生きる~~~むしろ自然に生かされていることに安らぐということなのでしょうか???