スズメウリの蔓

https://www.hitohaku.jp/publication/book/kyousei9_p67.pdf 【スズメウリの蔓は地面に潜って珠芽をつくり栄養繁殖する】 より

菊田 穰(さんだネイチャークラブ)

はじめに

 スズメウリ Melothria japonica Maxim ウリ科は植物図鑑では一年草になっている、ところが私の経験では、秋に蔓の先端が地下に潜り込み肥大し、地下茎状(珠芽)になり、翌年その珠芽から発芽して新に個体に成長することを確認している。

十数年前に鉢植えにしたスズメウリが、秋に蔓の先が植木鉢の下に潜り肥大し地下茎のよう

になり(珠芽)、翌年その珠芽から芽が伸び成長し、秋には沢山の実をつけた。

以後、私はスズメウリは一年草かなと疑問を抱いている。

再確認

昨年(2012 年)改めてスズメウリの珠芽形成の観察をすべく、鉢栽培を試みた。3月に種

子を播種し発芽した苗を4号の底面灌水鉢に植え、生育を見守った。

11 月に株の根元を引き抜き、蔓をたどると多くの蔓の先端が、土中に潜り、掘り出すと肥大した珠芽が現れた。

 蔓と珠芽の一部は人博の布施先生に標本にして貰うために持参した。

2013 年 2 月になり周辺を改めて確認すると 20 本近くの珠芽が出てきた。その後各珠芽から新芽と根が伸びだした。その1本を鉢植えにして再度栽培した。また、ネイチャークラ

ブの会員の希望者にも苗を渡して栽培してもらった。

自生地(野生)では

 自然界ではどうかと疑問を持ち、三田市下田中の自生地に確認しに出かけた。やはり自生地でも、蔓の先端が地下に潜り珠芽ができていた。自然界でも珠芽形成が確認された。

まとめと考察

 スズメウリは果実での繁殖以外にも、珠芽による無性生殖をしていることを確認できた。むしろ、果実による種子からの繁殖は、冬の間に果実や種子が野鳥やネズミなどの小動物に食べられ、春までにはほとんど無くなるため、珠芽により子孫を残すようになってきたのではないかと推察する。

 また、ヤマイモのように親芋が枯れて横に新しい芋ができる植物を「擬似多年草」と言うようだが、スズメウリも擬似多年草に属するのではないか。擬似多年草のヤマイモなども図鑑では多年草と記載されている、それから考えるとスズメウリも多年草になるのではないかと思う。

https://study-z.net/100102055 【【慣用句】「瓜の蔓に茄子はならぬ」の意味や使い方は?例文や類語を元予備校講師が解説!】 より

それでは早速「瓜の蔓に茄子はならぬ(うりのつるになすびはならぬ)」の意味や語源・使い方を見ていきましょう。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の意味は?

「瓜の蔓に茄子はならぬ」には、次のような意味があります。

子は親に似るものだ。平凡な親からは非凡な子は生まれない。

出典:デジタル大辞泉(小学館)「瓜の蔓に茄子はならぬ」

この言葉は「平凡な親からは、特別な子は生まれない。血統は争えない」という意味の慣用表現です。

「瓜(ウリ)」と「茄子(ナス)」は別の種類の植物なのだから当たり前といえば当たり前なのですが、注意したいのは「平凡な親からは」という意味合いが含まれていること。誉め言葉ではないことを押さえましょう。特別な才能があったり有名だったりする親に対して、「息子さんもすごい人物ですね」とは言えないのです。「似た者親子」というニュアンスを伝えるために使うと驚かれてしまうかも。注意してくださいね。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の語源は?

次に「瓜の蔓に茄子はならぬ」の語源を確認しておきましょう。この言葉は、特別な由来があったわけではなく、人々の生活の中から生まれたもののようです。先に述べたように、この言葉の意味は「平凡な親(瓜)からは、特別な子(茄子)は生まれない」でした。つまり「茄子」のほうが価値が高いと考えられていたことがわかります。調べてみると「茄子」が日本に伝わったのは7~8世紀になってからで、高貴な人物への捧げものとしても使われていたそう。紫色は高貴な色であったため、政治や宗教の世界でも重宝されたのかもしれません。

それに対し「瓜」は縄文時代から日本にあり、ずっと一般的なものだったようです。そんな対比の中から、「瓜の蔓に茄子はならぬ」という言葉は生まれたのではないでしょうか。「茄子」と「瓜」から、そんな当時の生活を想像してみるのも面白いものですね。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の使い方・例文

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の使い方を例文を使って見ていきましょう。この言葉は、たとえば以下のように用いられます。

・僕が選んだ大学も専攻も、実はお父さんと同じだったことが判明して、瓜の蔓に茄子はならぬなんだなあと我ながら感心してしまった。

・将来、子供がどんな考え方や能力で進路を決めるかは子供次第なので、瓜の蔓に茄子はならぬと親が決めつけてはいけませんと有名な教育家が言って話題になった。

・人間の性質が、瓜の蔓に茄子はならぬという説が本当なのか確かめてみたかったら、自身の親を確かめてみるといいだろう。

「平凡な親からは非凡な子は生まれない」というニュアンスが伝わりますでしょうか。例文3番目のように「血統は変わらない、争えない」という意味でも使えますが、その場合も「特殊な血筋ではない」という含みが感じられるでしょう。

その為、この慣用表現は自身で冗談めかして言うくらいがちょうどいいかもしれません。他者に使う場合、よほど親しい間柄で、相手の家のことまでよく知っていない限りは、「大きなお世話」と取られてしまうかも。注意して使いたい言葉です。

「平凡さ」は別段悪いものではないが、自分で言うのと他人から言われるのとでは全然意味が違うな。使用シーンには気を付けよう。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の類義語は?違いは?

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の類義語は「蛙の子は蛙(かえるのこはかえる)」がいいでしょう。

「蛙の子は蛙」

「蛙の子は蛙」は「何事も、子は親に似る」「凡人の子は凡人である」と言った意味を持つ慣用表現です。ただ「似る」という表現に使うこともできますが、こちらも「凡人」というニュアンスが含まれます。

たとえば「あの世界的なピアニストの子もやはり有名な音楽家になった。蛙の子は蛙だね」と言っても、褒め言葉なのかそうでないのか、聞く方は混乱してしまうでしょう。蛙に対するイメージなのかもしれませんが、褒め言葉としてはこちらも使わないほうが無難です。

先生から良書たくさん進められたが、私は読書が苦手で全然進まないでいたら、蛙の子は蛙だなと親は苦笑いをしていた。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の対義語は?

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の対義語は「鳶が鷹を生む(とびがたかをうむ)」「親の七光り(おやのななひかり)」などがあります。

「鳶が鷹を生む」「親の七光り」

「鳶が鷹を生む」「平凡な親が優れた子どもを生む」こと。「瓜の蔓に茄子はならぬ」とは逆に、子の方が優れているということを表す慣用表現です。どちらかと言えば、親の平凡さより子供の才能を褒めるのに使うことが多いでしょう。

一方で「親の七光り」は「偉大な親から、子が色々な面で良い計らいを受けること」。「血筋」のニュアンスはほとんどありませんが、こちらは親の方が優れていることを表します。必ずしも子供が凡人であるとは言われていないのですが、偉大な親との対比からか、子供が低くみられることも多くある表現です。他にも「親子とその対比」に関する慣用句は非常に多くあります。自分なりに調べてみるのも面白いでしょう。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の英訳は?

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の英語訳は「Eagles do not breed doves」「The apple never falls far from the tree」などがあります。

「Eagles do not breed doves」「The apple never falls far from the tree」

それぞれ日本語訳をすると「タカはハトを生まない」「リンゴは木よりも遠くに落ちない」。「瓜の蔓に茄子はならぬ」と同じく「別のものが生まれない」パターンや、「生まれたところから遠くに行かない」パターンなど、表現方法も様々です。英語でも、親と子の関係、血筋がどのように影響するのかということに大きな関心があるということがわかりますね。

ことわざ表現そのままのため、今回は例文はありません。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の使い方がわかったな。血筋に関する感性は、現代よりも昔の方がもっと強かっただろう。そんな意識が、表現の多さから読み取れるようだな。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」を使いこなそう

この記事では「瓜の蔓に茄子はならぬ」の意味・使い方・類語などを説明しました。

調べてみると、同義語・対義語の多さに驚く慣用表現でした。日本語だけでなく英語でもそうなので、こうしたことへの関心は世界共通なのでしょうね。

それにしても「親と同じく平凡」と「親より優れている」、どちらの慣用表現もあるということは、結局は一般論ではなく個人の問題なのでは、と思ってしまいました。みなさんはどうでしょうか。考えてみてくださいね。