豊臣秀吉の宇都宮・会津仕置から430年

https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/365684?relatedarticle 【秀吉が大田原城に来ていた 書状公開「史実知って」 那須与一伝承館】 より

 大田原市那須与一伝承館は10月1日から、宇都宮・会津仕置(しおき)430周年記念特別展示「豊臣秀吉(とよとみひでよし)と那須(なす)氏-激動の天正18年-」を同館で開催する。那須氏に対して小田原攻めへの参陣を求めたり、再興を許して領地を認めたりした秀吉の書状を公開するほか、那須与一(なすのよいち)が用いたと伝わる太刀も展示する。重藤智彬(しげとうともあき)主任学芸員は「秀吉が大田原城に来たという史実をまず知ってほしい」としている。11月23日まで。

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 同展は、秀吉が1590年(天正18年)に小田原城の北条(ほうじょう)氏を滅ぼし、宇都宮城と会津若松城で大名の配置や改易などの戦後処理を行った同仕置から430年を迎えた節目として企画。

https://smart.shimotsuke.co.jp/articles/-/368391?relatedarticle 【那須与一の功名】より

平安時代末期の源平・屋島の合戦(1185年)で扇の的を射落とした那須(なすの)与一(よいち)。生涯は謎に包まれているものの、平家物語によって誰もが知るヒーローとなった▼出身の那須(なす)氏は、鎌倉幕府成立後に御家人となり、一族は県北部を中心に繁栄した。だが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原城の北条(ほうじょう)氏を滅ぼした際に参陣せず、激怒した秀吉に改易された。名族のプライドが軍門に降ることを許さなかったのだろうか▼天下統一の総仕上げのため、秀吉は宇都宮城を経て会津若松城に向かったが、途中で2泊した大田原城でドラマがあった。那須氏当主の5歳の息子と対面し、再興を許したのだ▼大田原市那須与一伝承館の学芸員は「東北各地で一揆が起こり、その最前線の地という政治的な思惑と、与一以来の名族を絶やすのは惜しいと判断したのでは」と解説する。一発必中の矢が、400年後に一族を救う形になった▼こうした経緯が今月から始まった同館の特別展示「豊臣秀吉と那須氏-激動の天正18年」に詳しい。小田原攻めの参陣を求めたものや、再興を認めて領地を与える書状などが展示されている▼江戸時代以降、那須氏の当主は那須与一を名乗った。現代では大田原市役所や道の駅の建物は扇をかたどっている。ゆるキャラは「与一くん」。功名は今も、地域ブランドとして息づいている。


https://www.minpo.jp/news/moredetail/2020080877825 【豊臣秀吉の宇都宮・会津仕置から430年 博物・資料館が連携展】 より

2020/08/08 08:13

豊臣秀吉(一五三七~一五九八年)の全国統一の節目となった宇都宮・会津仕置から四百三十年の今夏、会津、白河、栃木の博物館・資料館五館が連携展示に乗り出した。仕置の歴史的な重要性を再評価し、県内と北関東の秀吉ゆかりの地を巡る契機にする。

実施するのは会津若松市の県立博物館と白河市の小峰城歴史館、栃木県の県立博物館(宇都宮市)、さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-、大田原市那須与一伝承館。

福島県の県立博物館は秀吉に献上しようとしたと伝わる県重要文化財「寒山拾得図」などを紹介しており七日は担当学芸員が解説会を開いた。小峰城歴史館は仕置で改易された白河結城家についての古文書、栃木県立博物館は秀吉の先導役となった伊達政宗(一五六七~一六三六年)が、宇都宮への到着が遅れるのを秀吉にわびる自筆書状などを並べた。

さくら市ミュージアムは十一月二十八日から、那須与一伝承館は十月一日から秀吉の朱印状などを展示する。

秀吉は小田原の北条氏を滅ぼした後、宇都宮、大田原、白河を経て会津へ向かい南会津から宇都宮へ戻ったとされる。ルートは【地図】の通り。秀吉の休憩場所とされる会津若松市の背あぶり山の「関白平」、秀吉が輿(こし)から降りて見入ったとされる栃木県日光市の「太閤下ろしの滝」など各所に秀吉ゆかりの場があり、各館の担当者は「秀吉をキーワードに地域の歴史に思いをはせる機会にしてほしい」としている。

 福島県の県立博物館で開催中の企画展「会津のSAMURAI文化」(県立博物館、福島民報社主催)は秀吉がたどった県内外の道中の絵図を展示している。

※宇都宮・会津仕置 秀吉が1590年7~8月、現在の宇都宮市、会津若松市などに赴き、関東・東北地方の支配関係を整理するとともに、刀狩りや検地などの諸政策を実施した。秀吉の天下統一が完成した節目とされる。

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