http://www.ibaichi.com/okuno/07kurobane/7kurobane.html 【奥の細道漫遊紀行】より
大雄寺、芭蕉の館
芭蕉は日光から那須野ヶ原の道なき道をたどり黒羽に出た。黒羽では13日間も滞在している。これは奥の細道の全旅程中最大の滞在日数であるが、此処の城代家老とその弟は桃雪、桃翠の俳号を持つ芭蕉の門人で、この兄弟から手厚くもてなされことと、この後の白河の関を越えて陸奥に入る覚悟を決めるまでの日時が必要だったことが長期滞在の理由だったのだろう。
此処には黒羽城があり、城主の大関氏は秀吉の時代から明治初めまでずっと黒羽藩を治めていた。菩提寺である大雄寺は萱葺きの立派な本堂があり、曹洞宗の寺で座禅道場にもなっている。裏手には五輪の塔型や位牌型といわれる歴代藩主の大きな墓石が多く立ち並んでいて、盛時を偲ばせる。(写真は大雄寺山門と本堂及び位牌型の墓石)
大雄寺の入口のすこし先から「芭蕉の道」と名付けられた坂道の遊歩道に入ると、芭蕉の句碑が点在している。まず入口には「おくのほそ道」の旅立ちの句、 「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」の句碑が満開のあじさいの中に埋もれるように置かれている。さらに進むと 「田や麦や 中にも夏の ほととぎす」 の句碑がある。これは曽良旅日記の中にある俳諧書留に記された句で、元禄二孟夏七日 芭蕉桃青とあり、4月7日桃雪邸に滞在していた時の句である。「おくのほそ道」には、「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る(おとづる)。思いがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、----」と記されているが、「館代浄坊寺何がし」は城代家老浄坊寺高勝(俳号桃雪)のことで、喜んで弟の翠桃と共に、朝夕付きっ切りでもてなしてくれたと最大級の賛辞を記している。桃翠は兄の桃雪より1才年下の鹿子畑翠桃のことで、、二人とも江戸勤番中芭蕉の弟子になっていた。
芭蕉の道の途中にある桃雪邸跡には広い庭の中に建物が置かれ、「山も庭も 動き入るるや 夏座敷」 の句碑がある。曽良の俳諧書留によると、前文に 「秋鴉主人の佳景に対す」 とあるが、秋鴉は主の桃雪の別号である。
また近くには桃雪書信連句碑という石碑があり、曽良の俳諧書留にある 「芭蕉翁、ミチのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなたすか川といふ所にとヽまり侍ると聞て申つかはしける。 『雨晴て 栗の花咲 跡見哉 桃雪』 『いづれの草に 啼おつる蝉 等躬』 『夕食喰 賎が外面に 月出て 翁』 『秋来にけりと 布たぐる也 ソラ』」 の文が刻されている。
芭蕉は4月3日から15日まで黒羽に滞在した後、那須湯本を経て白河の関を越え、4月22日に須賀川に着いて相楽等躬宅に7日間滞在している。須賀川に到着早々「栗の花の印象などを認めた礼状を桃雪宛て送ったものと思われる。桃雪はそれに対して返礼の句を送ったのだが、それを発句にして連句を詠んだものである。
桃雪邸跡の先には芭蕉の広場という開けた場所があり、「鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし」の句碑がある。この句は俳諧書留によると「ばせおに鶴絵がけるにサン」と詞書(ことばがき)があり、絵を書いた後の讃として書いた句ということが判る。これらの句碑を読みながらさらに小径をゆっくりとたどると、「芭蕉の館」という芭蕉の記念館に着く。
芭蕉の館記念館の広い前庭には馬に跨った芭蕉と曾良のブロンズ像があり、その後方に「おくのほそ道」那須野の段の原文及び曾良が詠んだ 「かさねとは 八重撫子の 名なるべし 曾良」の句を刻んだ石碑がある。芭蕉の館は黒羽城の三の丸跡にあたり、芭蕉に関する資料が多数保管され、陳列されていて、一見の価値がある。
芭蕉の館からさらに上ったところに黒羽城本丸跡の黒羽城址公園がある。そこは遥か下を流れる那珂川の先に那須連山が眺められる高台に位置しており、雄大な景観が楽しめる。黒羽藩主大関氏の居城だった場所であり、春には桜が、梅雨時にはあじさいが全山を覆い、市民憩いの場所である。
芭蕉は黒羽滞在中に那須神社と玉藻稲荷を訪れている。「おくのほそ道」 には 「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、『別しては我が国の氏神正八まん』とちかひしも、この神社にて侍ると聞けば、感応殊にしきりに覚えらる」 と記されている。
那須神社は別名金丸八幡と言い、この地の豪族那須氏の氏神である。芭蕉が書いているように扇の的で有名な那須与一はここの出身である。長い参道は荒れているが、その先にある大きな楼門や本殿は立派なもので、栃木県の有形文化財になっている。最近「那須与一の郷」という道の駅が道を隔てて出来て賑やかになった。
芭蕉は、次に篠原地区にある玉藻稲荷神社に行く。伝説によると、その昔、京の帝の寵愛を受けた玉藻の前という絶世の美女が居たがその本性は白面金毛九尾の狐だった。それが露見してこの地に飛んで逃げ蝉に化けて樹上に隠れていたが、境内にある鏡池にその本性が映り、追い掛けてきた那須三浦介義明によって殺された。しかし、その怨霊は那須山中に飛び殺生石になって長く人畜に害を与えたと言われている。後にその話を聞いた源頼朝が玉藻を哀れに思って祠を建てたのが玉藻神社の起源だという事である。
森閑とした林の中に石の鳥居が建ち、石段の奥には鄙びた赤い稲荷神社が鎮座している。境内の北側に小さな鏡ヶ池があり、由来を書いた案内板がある。建久4年(1193)に源頼朝が那須野の巻狩りを行った時、ここを訪れて玉藻稲荷大明神を祀った。社の南側には源実朝がこの地を詠みこんだ歌の碑がある。 「武士の 矢並つくろふ籠手の上に 霞霰たばしる 那須の篠原」 の歌である。
「那須の篠原」は昔は那須野が原全体の原野のことを指し、源頼朝がこの地で21日間も狩をして以来狩場としてもてはやされた。現在は玉藻稲荷神社のある太田原市黒羽町篠原地区一帯を指し、実朝の歌により、歌枕とされている。神社への上がり口に芭蕉が翠桃宅で黒羽の俳人たちと歌仙を巻いた時、発句として詠んだ 「秣負う 人を枝折の 夏野哉」 の句碑が大竹狐悠の筆で建立されている。人気の無い境内には、はぐろとんぼがあちこちに舞うばかりで、静寂そのものだった。(写真は芭蕉句碑と実朝歌碑)
芭蕉の里くろばね句碑めぐり
芭蕉は黒羽に14日間も滞在して歌仙の興行をし、あちこち見物しているので句碑もたくさん建てられている。10ヶ所あるそれらの句碑にはそれぞれスタンプが置かれ、商工会からマップ兼スタンプ台紙を貰って、マップを見ながら巡れるようになっている。芭蕉の館周辺にある4ヶ所と、玉藻稲荷神社の句碑以外は次のようになっている。
商工会の前にある常念寺には 「野を横に 馬牽むけよ ほとヽぎす」 の句碑がある。この句は黒羽から殺生石に行くときに、馬方に乞われて読んだ句である。常念寺から那珂川沿いの国道294号線を北上すると明王寺という寺に 「今日も又朝日を拝む 石の上」 の句碑がある。この句は玉藻稲荷神社にある句碑、 「秣負う 人を枝折の 夏野哉」 で始まる歌仙の中で芭蕉が詠んだ句で、曽良の俳諧書留にはその歌仙の36句全てが記されている。
芭蕉の館から大分離れたところの鹿子畑翠桃邸跡近くにある西教寺には那須野が原で詠んだ 「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」 の句碑が長谷川 かな女の筆で建てられている。
常念寺と西教寺の中間あたりにある修験光明寺跡には 「夏山に 足駄を拝む 首途哉(かどでかな)」 の句碑が阿部 能成筆で建てられている。 修験光明寺は、現在は跡形も無く、田んぼの中に小山があるばかりだが、当時は寺のほかに行者堂があり、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)が履いたと伝えられる一本歯の高足駄が安置されていたそうで、それを拝し、これからの長い道中の無事を願ったのである。曽良も 「汗の香に 衣ふるはん 行者堂」 と詠んでいる。「おくのほそ道」には 「修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。」とあるが、この寺主である僧都の妻が翠桃の妹だった縁で招かれたのである。
残りのもう一つは雲巌寺にある 「木啄(きつつき)も 庵(いお)は破らず 夏木立」 の句碑であるが、これは次の雲巌寺の段で詳述する。
黒羽は芭蕉の事跡が色濃く残る町である。
[雲巌寺]
黒羽の町から八溝山地に深く入り込んだ所に東山雲巌寺がある。芭蕉は黒羽の到着早々にこの寺を訪ねた。雲巌寺は臨済宗妙心寺派の名刹として、越前永平寺、紀州興福寺、筑前聖徳寺と並んで禅宗の四大道場といわれており、現在も境内の一部しか公開されていない。
芭蕉がここを訪れたのは、江戸深川の臨川寺で参禅の師と仰いだ仏頂禅師の山居跡があると聞いたためである。芭蕉と仏頂禅師の親交は深く、「おくのほそ道」に出立する2年前には、鹿島の根本寺に禅師を尋ね月見をしたことが芭蕉が著した「鹿島紀行」に書いてある。
「おくのほそ道」 の雲巖寺の段は 「当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。『竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば』 と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。木啄も 庵はやぶらず 夏木立と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。」 と記されている。寺の入口付近にこの文面が刻まれた大きい文学碑がある。
「十景尽る所」の十景とは『曾良随行日記』の俳階書留によれば、海岩閣、竹林、十梅林、龍雲洞、玉几峯、鉢盂峯、水分石、千丈岩、飛雪亭、玲瓏石ということである。また十景と並んで五橋があり、同じく俳諧書留によれば、獨木橋、瑞雲橋、瓜テツ橋、涅槃橋、梅船橋の五つだそうである。修養道場である雲巖寺は観光客に対する宣伝は一切行なっていないので、どれが十景五橋なのかわからない。佛頂和尚山居跡に通じる路も閉ざされて進入禁止である。
雲巌寺正面にある朱塗りの反り橋を渡り、長い石段を登ったところに山門がある。その先には仏殿である釈迦堂があり、さらに本堂である獅子王殿が一直線に並んだ伽藍配置になっている。芭蕉句碑は山門を潜った左手にある。句碑には仏頂禅師の 「竪横の 五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば」 の歌と芭蕉の 「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」 の句が刻まれている。
この寺には、何時来ても心が洗われる雰囲気があり、山の形状に沿って建ち並ぶ伽藍の偉容や雨に洗われる草木の新緑の瑞々しさ、朱塗りの橋が紅葉に映えてひと際鮮やかに輝く景色など、忘れられない場所である。
(H15-10-30訪・H19-7-3再訪)
[殺生石]
鍋掛宿
黒羽に14日間逗留したあと、芭蕉と曽良は那須の殺生石に向かって出発した。途中の野間という集落まで馬で送られている。野間の近くにある黒磯市鍋掛宿に八坂神社という小さな祠があり、句碑があるというので立寄った。
おくのほそ道」の黒羽から那須殺生石までは、「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、 野を横に 馬牽きとめよほととぎす 殺生石は----」 とあり、その 「野を横に 馬牽きとめよほととぎす」 の句碑である。鍋掛宿は矢板、大田原から芦野、白河に連なる奥州街道の宿場町だが、現在の幹線である国道4号線から離れているせいか、商家は道を尋ねたコンビニが一軒あるだけの静かな集落だった。
高久宿
鍋掛宿から高久宿に向かう。県道34号線から国道4号線黒磯バイパスに出て那珂川を渡り、東北新幹線の上を過ぎると直ぐ高久である。「おくのほそ道」は高久宿に付いては何も述べていないが、曾良の旅日記によると雨に降られて高久の角左衛門宅に2泊し、那須湯元まで角左衛門に案内してもらっている。高久家は黒羽藩から名字帯刀を許された36ヶ村の大名主である。
高久の高福寺に芭蕉の句碑があるというので訪れた。ここは高久家の菩提寺で角左衛門の墓もあるという大きな寺だった。句碑は境内の入口付近にあったが何の表示もなく、庫裏で尋ねて分ったが碑文は磨耗して読めなかった。後から調べたら「高久村庄屋が家にやどりて 落来るや たかくの宿の ほととぎす 一と間をしのぐ みじか夜の雨(曾良)」 と刻んであるのだそうである。しかし曾良の句は間違っており、正しくは 「木の間をのぞく 短夜の雨」 で、芭蕉が泊った記念に角左衛門に与えたものである。
高福寺から黒磯駅の方に行くと公園らしき場所に石碑があったので立寄ると
芭蕉庵桃青君碑
落ちくるや たかくの宿の 郭公 風羅坊芭蕉
木の間をのぞく 短夜の雨 曾良
と正しく彫られた最近出来た句碑であった。(写真は高福寺の句碑と公園の句碑)
近くに芭蕉翁塚,杜鵑(ほととぎす)の墓の案内図があったのでそれに従って道を戻ると高久家跡と刻んだ石柱があり、奥に那須町史跡 芭蕉翁塚と刻んだ同じく石柱があった。そのうしろに句碑があり、前面には「芭蕉庵桃青君碑」と刻んである。解説板がありこれが「芭蕉翁塚 杜鵑の墓」であり云々との説明がある。
句碑の左側には曽良の俳諧書留に記されている 「みちのく一見の桑門、同行二人、なすの篠原を尋て、猶、殺生石みんと急侍るほとにあめ降り出けれは、先つ、此処にとゝまり候
落ちくるやたかくの宿のほととぎす 翁
木の間をのそく短夜の雨 曾良
元禄二年孟夏 」
の文と句が刻まれているという。「桑門」は出家のことを言うが、二人とも僧形をしていたのでそういったのだろう。「なすの篠原」は「黒羽2」の段にある歌枕の地である。句碑の右側には芭蕉略伝と 「宝暦四年 名主角左衛門孫 青楓建立」と刻まれているそうだが風化が激しく読めなかった。
この辺は黒磯の市街地から離れた人影もない静かな田園地帯で、道路が舗装されているのを除けば昔といくらも変わっていない雰囲気の場所だった。
殺生石
高久から県道21号線を那須湯本温泉に行く。温泉街を抜けると那須連山が目の前に迫り、その手前に那須温泉神社と殺生石がある。
駐車場から殺生石に行く遊歩道の両側には、千躰地蔵と呼ばれるたくさんの地蔵さんが合掌して立並び、曇天時や夕暮れ時の薄暗い道を行くと賽の河原を歩いている様な一寸異様な感じがする。
現在は殺生石付近から噴出す硫化水素の蒸気ガスは少なくなっているが、「おくのほそ道」には 「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず。蜂・蝶のたぐい、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」と記されており、その頃はまだ大分多く噴出していたのだろう。
殺生石には前に述べたように(黒羽2)、「玉藻の前」に化けて黒羽の玉藻稲荷神社で殺された白面金毛九尾の妖狐の悪霊がここに飛び来て凝り固まって石になり、毒気を吐いて人畜・鳥獣に害をなしていたとの伝説がある。
殺生石の奥手にひときわ大きい句碑が建っている。「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上 芭蕉」とあるが、実際の作者は越中の人で加賀千代女と同時代の蕉門俳人である「へつほつ庵麻父(まぶ)」と言う人なのだそうである。建ててから間違いに気付いて芭蕉という文字をコンクリートで隠した筈だったが、コンクリートが崩れて名前がはっきり見える。どんな経緯で建てられたのか判らないが、撤去した方が恥さらしにならないで良いのではないかと思う。
本物の芭蕉の句碑は殺生石から少し下手にあり、こちらには芭蕉句碑との案内標識が立っている。 「いしの香や なつ草あかく 露あつし 芭蕉翁」 という小振りの句碑である。前夜、那須湯本温泉に泊ったあと、毒気が残る殺生石を見て詠んだと曽良旅日記に記されている。
那須温泉神社
殺生石駐車場の左手に那須温泉(ゆぜん)神社がある。創建は7世紀の頃で、那須湯本温泉も同じころ開湯したといわれる。扇の的の那須与一が的を射る時に念じたのは前に述べた(黒羽2)黒羽近くの那須八幡では無く、この湯本の那須温泉神社で、与一が奉納した鳥居が建ち、また与一が使用した鏑矢などが宝物として残って居るそうである。
境内にある見事な紅葉を眺めながら長い参道を行くと、左手に芭蕉の句碑がある。「湯をむすぶ 誓いも同じ 岩清水」 というもので、曽良旅日記に記されている。参拝したのはまだ15時前だったが、山間の神社は静寂そのもので既に夕霧が立ち込める趣きがあった。平地に戻ると快晴の中に那須連山が望まれ、紺碧の空に茶臼岳の噴煙が微かに立ち上っているのが目に焼付いた。
(H15-10-30訪)
[芦野 遊行柳]
芭蕉一行は那須の殺生石を見た後、旧陸羽街道の宿場町である那須町芦野宿に出た。此処には「遊行柳」という歌枕の地である。
「おくのほそ道」には 「清水ながるるの柳は芦野の里にありて田の畔(くろ)に残る。この所の郡守戸部某(こほうなにがし)の『この柳見せばやな』と折々にのたまひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立ちより侍りつれ。 田一枚 植ゑて立去る 柳かな」 とある。
この「清水ながるるの柳」とは、西行が詠んだ 「道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ」 のことで、それを基に謡曲『遊行柳』が作られた。この柳は朽ち果てていたが、一遍上人(遊行上人)が訪れたとき、柳の精が現れて西行の出家と奥州下向の話をし、かつ道案内をしたとされている。(写真は遊行柳碑と西行歌碑)
芦野は芦野氏三千九百石の城下町で、当時の領主である芦野資俊は桃酔という俳号を持ち、芭蕉は江戸に居た時に遊行柳のことを聞かされていたのである。芭蕉の句は、柳の緑陰に西行法師を偲びつつ憩ううちについ一刻を過ごし、出立の時刻に追われるように柳のそばを立ち去る名残惜しさを詠唱したものであるという。
近くを走る294号線沿いに遊行庵農産物直売所と無料休憩所がある。そこから5分位歩くと田んぼの中に何代目かの遊行柳があり、その下に西行の歌碑と芭蕉の句碑が向かい合って置かれている。更に蕪村の「柳散 清水涸石 処々」との句碑もある。(写真は芭蕉句碑、蕪村句碑)
そこからさらに奥には樹齢数百年の大銀杏が聳え立つ上の宮神社があり、遊行柳はその社頭の鳥居の位置にある。
この辺りは刈り取った稲のおだ掛けの作業もまだ行なわれており、のんびりした田園風景が連なる場所である。城跡からの那須連山の眺望が素晴らしく、また宿場町として面影も残っており、また何時かゆっくり歩いてみたいところである。
(写真の右上方の茂みが遊行柳)
(H13-10-8訪・H19-10-30再訪
[白河の関 ]
境の明神
遊行柳のある芦野から国道294号線(旧陸羽街道)をさらに20分北上すると栃木県と福島県との県境の白坂峠に着く。そこが11世紀ごろに陸羽街道が開かれた後、江戸時代の頃まで白河の関の置かれていたところであるといわれる。
それ以前の古い白河の関は奥羽三関の一つとして勿来の関、念珠の関と共に推古天皇の時代の5~6世紀に蝦夷への備えとして置かれたといわれ、坂上田村麻呂や源頼朝が通ったのは旗宿という集落にある現在の白河の関跡の方である。その後蝦夷が討伐されて10世紀頃に廃絶され、新道が開かれた後新しい関が白坂峠に置かれた。(写真は栃木側の境の明神玉津島神社)
この場所は境の明神といわれているが、それは福島側に境神社,栃木側に玉津島神社がありそれぞれ住吉明神と玉津島明神が祭られているためで、福島側の境神社にその由来を記した解説板がある。また別名 「二所の関」 とも云われ、道路の向い側に同じく由来を記した石碑が置かれている。相撲の二所ノ関部屋はそれから名付けられたとの話である。(写真は福島側の境の明神解説板と境神社及び二所の関碑)
福島側の境神社境内には 「風流の初めや奥の田植歌」 の句碑がある。また大江丸という俳人の「能因にくさめさせたる秋はここ」という句碑もある。これは能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」の有名な句があるが、実際には白河の関には行かなかったという噂があったので詠んだ句である。(写真は芭蕉句碑と大江丸句碑)
この関は江戸時代にはすでに無くなって、ただ境と云われていただけだそうであり、芭蕉はここが歌枕の白河の関跡と思いこんできたが、古い関跡は旗宿の方だと言われて現在の白河の関跡に廻った。
白河の関跡
境の明神から旗宿にある現在の白河の関跡までは、旧陸羽街道から離れて卯の花街道と呼ばれる細道を行く。 この旗宿の場所を白河の古関跡と認定したのは芭蕉より約100年後の白河楽翁松平定信である。芭蕉が行った頃は関跡が判らず、曽良の随行日記でも尋ね歩いたことが記されている。おそらく判らないままに越えたので出立の時に 「白河の関越えんと」 と意気込んだ場所であるにも拘わらず、芭蕉は句を残せなかったのだろう。
なお、定信の認定は明確な証拠によるものでは無く、推定によるところが多かったので真偽についての異論があったそうだが、昭和30年代に発掘調査が行なわれ、平安初期の9~10世紀に役人や兵士が駐屯していたことを証拠付ける出土品や遺構が見つかり、白河の関跡ということで正式に史跡として認定されたのである。白河の関跡は、白河神社の境内になっているが、入口を入った右手に松平定信が建立した「古関蹟碑」がある。
平安時代には陸奥の行政・軍事の中心は多賀城(宮城県)であり、さらに北方の胆沢城(岩手県)もあったので、白河は関としての軍事的重要度は薄れていたようである。更にまた時代が下がった室町・戦国時代は関そのものが消滅し、陸奥街道の境の明神が二所の関として残ったのである。
しかし平安時代には能因法師を始めとしてこの関を詠った和歌が多く残されており、歌枕の地として芭蕉にとってはぜひ訪れねばならない場所だったので、期待に反して場所も特定出来ずさぞ不本意だったと思われる。
おくのほそ道には 「心許なき日かず重るままに白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求しも断(ことわり)也。中にもこの関は三関の一にして,風騒の人心をとゞむ。秋風を耳に残し,紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする」 とある。
白河の関を越えていよいよ奥の細道の旅に入る覚悟が見受けられる。この中の 「いかで都へと」 とは、平兼盛の 『たよりあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと』 であり、「秋風を耳に残し」 とは、能因法師の 『都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関』 であり、「紅葉を俤に」 とは、源頼政の 『都には まだ青葉にて見しかども 紅葉散りしく白河の関』 である。「卯の花の白妙に」 とは、藤原季通の 『見て過ぐる 人なければ卯の花の 咲ける垣ねや白川の関』、「雪にもこゆる」 は久我通光の 『白河の 関の秋とは聞きしかど 初雪わくる山のべの道』 であるという。
遊歩道には加藤楸邨筆の「白河の関」の段を記した「奥の細道碑」がある。(写真は奥の細道碑)
この頃の芭蕉のような風流人や江戸や京の知識人は古い時代の詩歌・故事来歴を知り、文章にも取り入れることが教養の程度を示す尺度になっていたのであろう。ともあれ芭蕉は白河の関跡では曾良の 「卯の花を かざしに関の 晴着かな」 だけを記して自分の句は残していない。その後須賀川で等窮と云う旧知の俳人に白河の関での句を聞かれたとき、 「風流の 初めや奥の 田植うた」 を示すが、これはその後に作った句だとのことである。
白河神社の境内に入り、 「古関蹟碑」 を見て、長い石段が続く参道を上ると白河神社がある。社殿脇には能因法師、平兼盛の上記の歌と、梶原景季の 「秋風に 草木の露をはらわせて 君がこゆれば関守もなし」 の3句を刻んだ 「古歌碑」 が置かれている。(写真は白河神社社殿と古歌碑)
白河神社に参拝した後、ぐるっと遊歩道を廻ってくるのが順路だが、前に述べた 「奥の細道碑」 や訪れる人も少ない古歌の碑や平安時代の歌人藤原家隆が植えたという従2位の杉などという由緒のあるものを見ながら辿ると、古人が都から遠く離れた「みちのく」に始めて足を踏み入れた時の感慨が伝わってくる気がする。
関跡に隣接して「白河関の森公園」という広い園地があり、家族連れで賑わっている。この入口近くに芭蕉と曽良の像が置かれており、台座には 「卯の花を かざしに関の 晴着かな」 と 「風流の 初めや奥の 田植うた」 の句が刻まれている。園内にはそば処もあり、7月上旬には1万株のあじさいが花を付けるそうで、白河の関跡を見学した後休息するには打ってつけの場所である。
(H13-10-8訪・H19-10-30再訪)
[須賀川]
可伸庵跡
白河の関跡を見付けられぬままに旗宿に泊まった芭蕉一行は矢吹宿に泊まり、翌日須賀川宿に着いた。須賀川で芭蕉は7日間逗留したのでその事跡は多く残っている。
その跡を辿るには市役所の敷地内にある芭蕉記念館に行くのが良い。平成元年芭蕉が須賀川を訪れてから300年を記念して建てられた記念館には芭蕉関連の展示物がおかれており、まず、ここで須賀川での芭蕉の足跡についてのビデオを見、案内図と共に句碑巡りの道順を教えてもらった。
まず芭蕉が滞在した旧知の俳人、相楽等窮(躬)の屋敷の近くにある可伸庵跡に行く。芭蕉は栗の木があるこの場所に庵を結び、隠棲していた僧可伸を訪れた。此処にはおくのほそ道にある 「此宿の傍(かたわら)に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと�蝓覆靴困�砲乏个蕕譴董△發里暴馼媚�襦B胸譟覆修里海箸弌法��箸い嬖源悊論召量擇判颪董∪省��擇吠悗△蠅函�坿霾郢Г琉貔絃鵑砲眞譴砲盧〔擇鰺儺襪佞箸�筺� 世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」 という須賀川での一節を記した「栗の木」という碑と 「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」 の句碑がある。
芭蕉記念館から2~3分くらいの距離だが道順を教えて貰わなければ判らない小路の先にある小さな坪庭のような所で、東屋や栗の木もありきれいに整備されていた。
狭い道から「軒の栗通り」というやや広い通りに出ると商家ごとに芭蕉の句を軒先に掲げてある。更に進むとより広い通りとの交差点に「軒の栗庭園」という小さな園地があり、等躬の小さな坐像がある。また少し離れて芭蕉と曽良の可愛い像が置かれているのが微笑ましい。
十念寺・歴史民俗資料館・長松院
「軒の栗庭園」から案内板に従って10分ほど歩くと、芭蕉も参詣したと云う十念寺に着く。この寺には幕末(安政2年)に須賀川出身の女流俳人,市原多代女が建てた芭蕉の 「風流の 初めや奥の 田植うた」 の大きな句碑がある。多代女の 「終に行く 道はいづくぞ 花の雲」 という辞世の句碑もある。 案内の道標に従って10分ほど歩くと翠ヶ岡公園という大きな公園があり、その敷地内に福島県須賀川市歴史民俗資料館が建っているが、その前庭に乙字ヶ滝で詠んだ 「五月雨の飛泉(たき)ふりうづむ 水かさ哉 翁」 の句碑が置かれている。
さらに15分くらい歩くと長松院がある。ここには芭蕉が世話になった相楽等躬の墓がある。等躬は須賀川の豪商で、江戸にも度々訪れ芭蕉とは旧知の間柄だった。おくのほそ道には、等窮(躬)から 「『白河の関いかに越えつるや』」 と問われて 「『長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断てはかばかしう思いめぐらさず。風流の 初めや奥の 田植うた 無下に越えんもさすがに』と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。」 と句を作らずに越えるのも面目ないので、と披露した「風流の---」の句を発句にして等躬と曽良との3吟歌仙(連句)にしたと記している。長松院境内には等躬の句碑 「あの返は 筑波山哉 炭けふり」 がある。 (写真は等躬句碑)
芭蕉は等躬の家に7日間宿泊した。黒羽での14日滞在以来の長逗留である。白河の関を越え陸奥に入ったところでほっと一息ついて歌仙を開いたり、また等躬の家の田植を手伝ったりして気分転換をしたようである。須賀川入りしたのは陽暦の6月9日でそろそろ梅雨の季節になり、奥州街道に沿って流れる阿武隈川が増水して渡れず、出発を1日延期したとの記録もある。ともあれ芭蕉一行は長逗留の後、等躬から馬を出して貰って乙字ヶ滝を見た後郡山に向かっている。
長松院から5分ほどで芭蕉記念館に戻る。約1時間で一回りでき、歩いて探勝するのに丁度良い距離である。須賀川の町には近頃あまり見かけなくなった近所の人を相手にしている小さな八百屋・魚屋・菓子屋などの店が残っていて、買い物をしながら話をしている人や町並みの風情を眺めながら気持ちの良い散策が楽しめた。
乙字ヶ滝
国道118号線が阿武隈川を渡るところに乙字ヶ滝がある。滝全体が大きく湾曲して乙の字に見えるのでこの名がある。芭蕉は須賀川から奥州街道を郡山に北上する途中、この滝に立寄った。近くの滝見不動堂には芭蕉が此処で詠んだ 「五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉 はせを」 の句碑と芭蕉と曽良の小像がある。滝の落差は3~4メートルほどだが、阿武隈川船運の最大の難所と云われたところであり、芭蕉が見た増水した時の滝はさぞかし壮観だったことだろう。
曽良旅日記には 「石河滝(乙字ヶ滝の別名)見ニ行。----阿武隈川也。川ハヾ百二、三十間も有之(これあり)。滝ハ筋かへニ、百五、六十間も可有。高サ二丈、壱丈五、六尺、所ニヨリ壱丈計(ばかり)ノ所も有之。」 と滝幅450~480メートル。高さ3~6メートルもあった。と記している。
(H13-10-8訪・H19-12-3再訪)
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