https://www.hb.pei.jp/shiro/shimotsuke/kurobane-jyo/ 【下野 黒羽城】 より
歴 史
天正4年(1576年)大関高増によって築かれた。
大関氏は武蔵七党の一つ丹党(丹治氏)を出自として武蔵国児玉郡大関村に住んで大関氏を称したという説と、常陸国の小栗七郎と那須家臣角田氏の娘との間に生まれた子で、常陸国小栗庄大関郷に住んで大関氏を称したという説がある。いずれもその祖は大関高清である。
大関氏の動向が記されているのは高清を初代として六代目にあたる大関家清で、正平6年(1351年)足利尊氏と弟直義が戦った薩埵山(さったやま)の戦いで、那須氏に属して足利尊氏方として戦い、戦功として松野郷と大桶郷を与えられた。
応永年間(1394年〜1428年)七代大関増清は白旗城を築いて大関城より居城を移している。その後も十一代大関増雄の時に八幡館に移り、十二代大関宗増の時に大関城、十三代増次の時には再び白旗城に移った。
大関宗増と福原資安は、主家那須氏の信頼の厚い大田原資清を陥れ永正15年(1518年)大田原氏を攻めてこれを敗った。資清は越前国の永平寺に落ち仏門に入ったが、天文11年(1542年)越前朝倉氏の支援を受けて大関増次(宗増の嫡子)の籠もる白旗城を奇襲し、増次は石井沢にて自刃して果てた。増次には嫡子なく大関城に隠棲していた父宗増は大田原氏と和睦し、大田原資清の長男高増を養子に迎えて大関氏の家督を継がせた。これにより、大関氏は事実上大田原氏に乗っ取られる形となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、主家烏山城主那須資晴に参陣を促すも聞き入れられず、大田原氏・芦野氏など那須衆と談合して小田原に参陣した。このとき、嫡子晴増も同伴している。この功によって大関氏は高増に一万石、晴増に三千石、合わせて一万三千石の所領を賜った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、大関晴増は上杉景勝に対する備えとして黒羽城の改修を行い、徳川家康から援兵として岡部内膳・服部市郎右衛門が付けられた。関ヶ原合戦の功によって二万石の大名となり、正保3年(1646年)大関土佐守高増の没後、高増の二男増榮、三男増公にそれぞれ千石を分知し、以後黒羽藩は一万八千石の大名として明治に至る。
説 明
黒羽城は那珂川に沿って南北に延びた丘陵に築かれている。 南北1.5kmにも及ぶ山城であるが、公園となっている本丸周辺を除いて多くの部分が失われている。本丸周辺の遺構が良好なだけに残念である。
本丸を中心として北に二の丸、南に三の丸があった。本丸は四方を高土塁が巡り東に虎口がある。虎口は枡形虎口、横堀、さらに枡形虎口と、二重の枡形虎口となっており、この遺構を見るだけでも黒羽城を見る価値がある。本丸の周囲は高い切岸で南には深い堀が入り東側面に伸びて横堀となっている。西側は帯曲輪である。
二の丸は北城とも呼ばれ黒羽体育館のある所、三の丸は南にあり「芭蕉の館」がある。 本丸と三の丸の間には土塁があり、二重堀になっている。土塁はそのまま東側に回り込み横堀の土塁となっている。
案 内
本丸の東側に専用の駐車場がある。三の丸にある「芭蕉の館」に大関氏関連の展示もされている。南にある大雄寺には大関氏累代の墓があり、光厳寺には大関美作守高増の墓がある。
http://castle.slowstandard.com/08kanto/14tochigi/post_418.html 【下野 黒羽城(大田原市)】 より
黒羽城は、天正4年(1576)戦国武将大関高増が新たに築いて、白旗城(黒羽町余瀬)より移った。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、大関資増(高増子息)は他の那須衆と同様に徳川氏に味方して、黒羽城において上杉景勝の動きに備えていた。その際、徳川方から軍事援助(加勢の入城と武器供与)があり、また、黒門・中門・北坂門などが新たに設けられ、塀・築地が構えられるなど修築が加えられた。
その後、大関氏は一度の改易・転封もなく明治4年(1871)の廃藩置県までの295年間黒羽城を本拠とし続けた。これは関東の外様大名としては、大田原氏と共に極めて異例のことであった。
但し、黒羽城は、宇都宮・ 壬生・ 烏山・ 大田原などの諸城とは異なり、江戸幕府からは陣屋という評価を受けていた。『現地説明板(2箇所)より』
現況・登城記・感想等
私にとって、北関東の戦国時代の諸大名は、いずれも上杉氏・武田氏・後北条氏の抗争の波の中で、生き残るために、あえぎもがきながら、謀略と裏切りを繰り返していたというイメージが強い。中でも、大関高増はその筆頭である。そんな大関氏が、よく明治まで生き残れたものだというのが登城前までの感想で、必ずしもイメージは良くない。
さて黒羽城であるが、これが実に素晴らしい。ましてや黒羽城は陣屋と位置付けられていたとのことであるが、とんでもない。
まず会所跡の駐車場に車を停めると、その周りが土塁や水堀のオンパレード。しかし、そんなのは序の口だった。
登城口を入って行くと、いきなり深くて広い、しかも折がある姿のよい空堀に出会う。その上に架かる橋を渡ると、本丸への枡形虎口が待ち構えていた。石垣が使われずに、これだけ大掛かりな枡形虎口は見たのは初めてではないだろうか? そして本丸に入ると本丸が実に広く、高い土塁が周りを囲んでいる。本丸の一番奥(北側)土塁上に、望楼が建っている。北側土塁下は絶壁になっている。
本丸西側の虎口を出て、堀底へ降りて見上げると、その空堀の深さと広さに感激する。本丸土塁上まで15mはあるであろう。また幅も20mほどあるのでは?その堀の上に橋が架かっている。橋をくぐってさらに進んでいくと、堀底の一部が少し高くなって、障子堀というほどではないが、その向こうは水堀になっている。
次に、この上に架かっている橋の上に行った。ここから見る、深くて広い空堀とそこに架かる橋の光景もなかなかのものである。橋を渡り三の丸に向かうと、もう一つ、立派な空堀があり、その向こうが三の丸である。三の丸には「芭蕉の館」というのがあり、かなり破壊されてしまったのか遺構はよく分からない。
二の丸はかなり広かったようであるが、現在「黒羽町山村開発センター」の建物が建っている。
黒羽城は、とても1万8千石の大名の城とは思えないほど大規模なものであった。
今回は、奥の細道旅行(北関東・東北のみ)のついでに寄った。何度見ても、深い空堀と高い土塁には圧倒される思いだ。
https://ameblo.jp/settunokami-0106/entry-12475292424.html 【下野 黒羽城】 より
那須七騎のひとり、大田原資清の長男・大関高増はかつて資清を讒訴した大関宗増の養嗣子となり、白旗城主となった。天文18年(1549)那須氏が宇都宮氏と戦った喜連川早乙女坂の戦いで初陣し、戦功を挙げた。
資清が亡くなった永禄3年(1560)、白河結城氏・蘆名氏が侵攻してきた小田倉の戦いで、甥である主君・那須資胤が負傷するほどの苦戦となり、弟・大田原綱清とともに資胤の叱責を受けると、資胤と高増・綱清の対立が表面化する。
高増は常陸の佐竹義重の義尚(那須資綱)を養子にとして擁立を画策し、義重の援軍を得て資胤と戦いを繰り返すが、永禄11年(1568)資胤が実子・資晴に家督を譲り隠居することを条件に和睦した。
その後高増は資晴の後見人として那須氏内の最実力者として天正6年(1578)次男・清増に家督を譲った後も権勢を誇り、天正13年(1585)那須七騎の千本資俊・資政父子を謀殺して遺領の一部を綱清らと分配したり、翌年にかけては同じく那須七騎の伊王野資信領に清増を攻め込ませて領地を割譲させるなど専横とも言える行動をとった。
天正15年(1587)清増が23歳の若さで病死、白河氏を廃嫡され佐竹氏の客将となっていた長男・晴増が家督を継いだ。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に資晴は参陣せず改易となった。一方、高増・晴増はいち早く小田原に参陣して1万石の所領を安堵され、さらに3千石を加増されて大関氏は独立した大名となった。
以下、現地案内板より
黒羽城の由来
黒羽城は天正4年 大関高増 新に築いて余瀬の白旗城より移った。北(玄武)に高山の丘陵連り東(青竜)に流水の前田川走り、南(朱雀)に汙地の阿久津村あり(田町と称す)西(白虎)に那珂川を隔てて大道の石井沢村通じて(向町と称す)四神相応の地相を占めた城造りで本高1万8千石であった。
其の後慶長5年 嗣子資増の代、會津の上杉景勝が徳川家康に叛いたので、家康はそれに備える為、臣下を黒羽城に遣し資増に命じて更に修築させ且つ鉄砲を給与した。
築城と共に余瀬から寺院大雄寺 帰一寺 新善光寺が移転した。
明治4年廃藩置県となるまで295年間大関氏累代の居城であった。
幕末に当り肥後守増裕は出仕して陸海軍奉行の重職を奉じ勝海舟と並びて偉名を天下にとどろかせた。
且つ、ひそかに開国勤皇の志を抱いて深く謀る所があったが不幸慶応3年卆去した 行年31。
大正7年 朝廷 増裕生前の功を賞して正四位を贈られた
昭和40年10月 黒羽町観光協会
黒羽藩大関氏 御本城御住居全図 「創垂可継」「居館規矩」文化14年(1817)による
大関氏居館
大関高増は、進展する戦国の世に対処すべく新たな構想のもと、四神相応の地としてこの丘を選び、複郭型居館形式の黒羽城を築き、天正4年(1576)余瀬の白旗城から移った。以後、近世大名大関氏代々の居館として、明治4年(1871)廃藩となるまで続いた。
残存する土塁・空壕は、戦国末期の山城の機構を今によく伝えている。
平成2年9月 黒羽町
黒羽城跡について
黒羽城は、那珂川とその支流松葉川との間の丘陵部に構築された複郭居館型の山城であり、黒羽藩主大関氏(外様大名・1万8千石)の本拠であった。その規模は、南北約1,500m・東西約250m、面積約37.5haで、栃木県北部では最大である。本城を本拠に定めたのは、戦国武将大関高増であり、高増は、戦国騒乱の深まりの中で、天正4年(1576)、白旗城から黒羽城に移った。同時に、白旗城内にあった大雄寺や帰一寺・新善光寺も、黒羽城内に移された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、黒羽城主大関資増(高増子息)は、他の那須衆と同様に、徳川氏に味方して、黒羽城において上杉景勝の動きに備えていた。その際、徳川方から軍事援助(加勢の入城と武器供与)があり、また、黒門・中門・北坂門などが新たに設けられ、堀・築地が構えられるなど、黒羽城にも修築の手が加えられるところとなった。
その後、大関氏は、一度の改易・転封もなく、近世(江戸時代)を通じて、明治4年(1871)の廃藩置県までの約300年間、黒羽城を本拠とし続けたのである。これは、関東の外様大名としては、大田原氏と共に極めて異例のことであった。但し、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、江戸幕府からは陣屋という評価を受けていた。
廃藩置県によって、黒羽城は廃城となったが、本丸跡(黒羽城址公園)とその周辺を中心に土塁・堀などの遺構は比較的よく残存しており、城下町黒羽のシンボルともいうべき史跡である。黒羽城跡の公有地部分(本丸跡・二の丸跡・水堀跡・三の丸跡の一部)を対象として、黒羽町指定史跡となっている。今後も永く保存されていくべき貴重な史跡である。
平成15年6月 黒羽町教育委員会
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