https://www.ohtawara.info/spot_detail.html?id=117 【芭蕉公園 (旧浄法寺邸を含む) (大田原市の観光案内)】 より
エリア:黒羽
種別:公園
「おくのほそ道」で芭蕉が歩いた足跡を辿りながら、由緒ある黒羽(くろばね)の見どころを散策することができるコースの入口といえる所にあるのが「芭蕉公園」です。芭蕉の句碑、浄法寺桃雪邸跡があり、芭蕉の広場、黒羽芭蕉の館へと続きます。
浄法寺桃雪邸跡 句碑 「山も庭も 動き入るや 夏座敷(なつざしき)」
https://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/shiro/jouhouji.htm 【黒羽藩家老浄法寺邸 大田原市黒羽字前田、芭蕉公園内】より
この屋敷の主の浄法寺高勝は黒羽藩の城代家老だったので、浄法寺邸があるのも家老屋敷と
いう事で黒羽城三の丸跡になるのですが、現在は芭蕉公園と名付けられた俳人松尾芭蕉の句碑の立つ整備された公園となっています。高勝は俳号を桃雪と称した芭蕉の弟子でもあったので芭蕉が奥州へと向かう奥の細道の途中で黒羽に立ち寄ると、その縁でこの浄法寺邸にも数日に渡って滞在していたそうです。
浄法寺邸
外回りはブリキ屋根にアルミサッシと大分改装されている感もあるのですが、内部の座敷などは当時のままに残されているようです。
http://urawa0328.babymilk.jp/hosomiti/natuzasiki.html 【浄法寺桃雪邸跡】 より
大田原市前田に浄法寺桃雪邸跡がある。
元禄2年(1689年)4月4日(陽暦5月22日)、芭蕉は浄法寺桃雪邸に招かれ、11日まで滞在。再び翠桃宅へ。4月15日(陽暦6月2日)、芭蕉は再び浄法寺桃雪邸に招かれ、翌16日に黒羽を発ち、殺生石に向かう。
浄法寺桃雪邸跡に芭蕉の句碑があった。 山も庭も動き入るるや夏座敷
松尾芭蕉と曾良は元禄2年4月4日(陽暦5月22日、1689年)に浄法寺図書(俳号桃雪)に招かれた。「おくのほそ道」によれば、「黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る、思いがけぬあるじの悦び、日夜語つづけて伝々」とある。一族をあげて歓待したのでずい分居心地がよかったのだろうか、黒羽で13泊、あしかけ14日の長逗留であった。わけても桃雪亭に8泊した。
芭蕉は、桃雪のため次のような挨拶の句を詠んだ。
曾良の『俳諧書留』に
秋鴉主人の佳景に対す 山も庭にうごきいるゝや夏座敷
浄法寺何がしは、那須の郡黒羽のみたちをものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。
地は山の頂にささへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるようになん。水の音・鳥の声、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや。
とある。
桃雪主人の開け放した夏座敷に坐して遠くの山や前庭の佳景に対していると、山も庭も青々としてそよぎ、さながらこの座敷に入り込んでくるような躍動した生気が感じられるとの意であろう。
芭蕉の里 くろばね
秋鴉は浄法寺図書高勝の別号。昭和34年(1959年)5月、建立。句碑の向かいに連句碑があった。
芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て申つかはしける
雨はれて栗の花咲跡見かな 桃雪 いづれの草に啼おつる 等躬
夕食くう賤が外面に月出て 翁 秋来にけりと布たぐる也 ソラ
出典は『俳諧書留』。
昭和55年(1980年)2月、第十七代桃雪亭々主浄法寺直之建立。旧浄法寺邸
元禄9年(1696年)4月1日、天野桃隣は黒羽を訪れ浄坊寺桃雪宅に泊まっている。
行々て、舘近、浄坊寺雪桃子に宿ス。 翌日興行
○幾とせの槻(けやき)あやかれ蝸牛
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