https://mo6380392.exblog.jp/22020966/ 【古関蹟の碑】 より
以下、現地の案内板から
こかんせき古関蹟の碑
白河藩主松平定信(楽翁)が寛政十二年(一八〇〇)八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。
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…また780年(宝亀11年)12月22日(旧暦)には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。こうしたことから、ヤマトの軍事的要衝としての白河関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた
1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた
1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された
--Wikipedia「白河の関」2014.04/18--
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白河関跡の発掘調査
以下、現地の案内板から(一部)
白河関跡の発掘調査
「白河関(関の森遺跡)」の発掘調査は、この地が古代の白河関跡であることを実証することを目的として実施されたものです。
昭和34年から5ヶ年にわたり、遺跡を大きくA・B・C地区に分けて行われた調査では、各地点から多くの遺構・遺物の存在が明らかとなりました。
A地区…空堀と土塁に囲まれた平坦地を中心に調査が行われ、掘立柱建物跡、奈良・平安時代頃の土器が出土しました。
B地区…白河神社の社殿裏側の平坦地を中心に調査が行われ、竪穴住居跡、鍛冶跡、柵列が確認されました。遺物は、墨書土器や鉄製品が多く発見されています。
C地区…遺跡の北側斜面部を中心に調査が行われ、柵列跡、門跡の可能性が考えられる柱穴が確認されています。
この5ヶ年にわたる調査において発見された遺構・遺物の特徴や遺跡の立地条件などを総合的に考察した結果、この地が古代関跡の条件にかなうことが明らかにされ、昭和41年に「白河関跡」として、国の史跡に指定されました。
https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2020/05/13/49649 【松平定信は白河藩での手腕が抜群だった! されど江戸幕府では…】 より
人生において【マジメな性格】は間違いなく美点でしょう。
が、あまりに過ぎると周りから煙たがられるもので、今回はその中でも日本屈指では?という方に注目です。
文政十二年(1829年)5月13日、江戸時代一のカタブツとして有名な松平定信が亡くなりました。
定信の印象については、よしながふみ先生の『大奥』が出るまで「容赦なく庶民の財布を締め上げて失敗した人」というマイナスイメージしかないかもしれません。あるいは「とにかく頭の固い人」とか。
もちろんそれでも間違いではないですが、彼の生い立ちを見るとそうなったのも仕方ないかなぁ、という気がしなくもありません。
ということで、カタブツがカタブツになった所以を見ていきましょう。
田安家に生まれた松平定信
松平定信は、徳川御三卿の一つ・田安家の七男として生まれました。
残念ながら七人が全員無事に育ったわけではなく、上の四人は夭折してしまったため、実質的には三男扱いだったようです。
この時代では無理のないことですよね。定信も幼い頃はいろいろと病気がちだったといわれています。
御三卿の田安家は、徳川吉宗の系統が継いだ家であり、松平定信自身も吉宗の孫でもあります。
利発な子供として知られ、父の跡を継いだ兄・治察(はるさと)が成人しても病弱だったため、当初から「定信が次の田安家当主になるだろう」といわれていました。
事実、治察は家督を継いでから三年で亡くなっています。
しかし、松平定信がすぐに田安家当主になることはありませんでした。
その直前に徳川一門のひとつであり、白河藩主の久松松平家へ無理やり養子に出されてしまったため、しばし政治の中枢と離れることになったのです。
これは定信の高い能力と、ときの幕閣・田沼意次を堂々と批判する度胸が疎まれたからだといわれています。
飢饉で能力発揮!白河の餓死はゼロだった!?
上記の通り吉宗の孫である松平定信は、当然、徳川宗家から見てかなり近い血筋。
五代将軍・徳川綱吉以降、たびたび後継者問題に直面していた江戸幕府としては、立派な「次期将軍候補」でありました。
この時点の将軍・徳川家治には嫡男・徳川家基(いえもと)がおりましたが、他に男子はなく、万が一……ということが考えられたのでしょう。
ただ、それは他の御三家も同じこと。特に一橋家の当主・治済(はるさだ)は次期将軍のライバルとして、定信を敵視していたともいわれています。
果たして家基は家治の将軍在任中に急死し、徳川姓を名乗る者の中から、治済の長男・徳川家斉が家治の養子となり、次期将軍に確定しました。
松平定信としては残念だったかもしれません。が、根が生真面目ゆえにグレることはなく、養子先の白河藩で仕事をきっちりやっていたようです。
その成果は天明の大飢饉(1782~1788年)で発揮されました。
白河藩では、あらかじめ米や雑穀などを買い込み、自ら質素倹約を実践、いざ飢饉が起きてからは領民に買い込んでおいた食糧を配給するなどして、この危機を乗り切ったのです。
日本中が苦しんだこの飢饉でも、同藩では餓死者が出なかったといわれているほどでした。
ちなみに同じ東北の米沢藩でも上杉鷹山の手腕で餓死者を出さなかったとされます。素晴らしいですね。
飢饉が過ぎ去ってからも松平定信は備えを忘れません。米以外の作物を奨励し、収穫した穀物を貯蔵するための蔵を作らせたりもしていました。
現在、白河市の名物となっている「白河そば」も、定信が「蕎麦は寒さに強いからどんどん作れ!」と言い出したのがきっかけだったそうです。
そして、その手腕を買われて、田沼意次失脚後は期待の星として幕閣に入り、寛政の改革を行うわけですが……。
いかんせん飢饉対策と幕府の財政では感覚が違いすぎました。
単純な話、飢饉対策は「米がなければ粟や稗を食べればいいじゃない」でも何とかなりますが、大都市・江戸の政治経済を担う幕府ではお金の流通も非常に大切であり、白河藩と同列では考えられません。
当時すでに世界有数の超過密都市になっていた江戸では、誰かから何かを買って暮らすのが当たり前でしたので、「金を使わずに暮らせ!」と言われてもどうしようもないわけです。
確かに、農村の復興や失業者の救済など、良い政策もやりました。
が、演劇や貸本(当時の図書館もしくはレンタルビデオ屋)といった娯楽や、贅沢な衣服&装飾品を禁止。さらには違反者をとっ捕まえるのはやりすぎだったでしょう。
また、悪政の代名詞こと棄捐令もやっています。旗本・御家人の借金をチャラにしたり、軽くして計画返済させたりするもので、当然ながら貸主からすれば大不評なやり口です。
なぜ松平定信ほどの人が、こんな誰も成功したことがない政策を実行したのか。ちょっと理解に苦しむほどです。
どうも定信という人は「こうすればウチはうまく行く!!」と思ったが最後、他のデメリットに一切気が回らないという悪癖があったように感じます。
天明の大飢饉の際も、自藩のために食料を買い込んだのはいいとして、その分、他の藩が買えなくなるわけですから、餓死者が「どこで死んだか」という点しか変わっていないわけです。
そんなわけでそのうち世間でも悪評が上回るようになり、松平定信もまた意次と同じように失脚したのでした。
現代の刑務所は定信の人足寄場と同じ発想
松平定信がやったことの中で一つ、後世にも大きく役立ったものがあります。
ホームレス救済施設こと「人足寄場(にんそくよせば)」です。
ものすごく大雑把にいうと「お上が三年間だけ衣食住と体調不良の面倒を見る代わりに、ここで働いて金を貯めて、日常生活を送れるようになろう」という施設で、軽犯罪者の更生施設も兼ねていました。
仕事の内容は主に大工や農作業、手工業(縄ないやろうそく作りなど)で、経験がある者はそのまま行い、素人には指導をしてやらせていたとか。
これ、現代の日本の刑務所とほぼ同じですよね。
「社会復帰のための準備をさせる」施設であり、そういった意味では、現在の日本にも影響を及ぼしている政治家といえるかもしれません。
もちろん、人足寄場でも物資をちょろまかしたり、屁理屈をこねて開き直ったりする不届き者はいたそうなので、全てがうまくいっていたわけではないのですけどね。
現在では福祉の方面から人足寄場を研究している先生もいらっしゃるようです。なので、今後、松平定信についてもっとクローズアップされる日が来るかもしれません。
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