海人族

https://somosora.hateblo.jp/entry/2018/12/18/%E5%80%AD%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B%E3%83%BB%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E8%A5%BF%E5%8C%97%E9%83%A8 【倭人に迫る・九州西北部】 より

少し前にNHKの「クローズアップ現代」という番組で、マッチョな弥生人の骨について紹介していました。今年8月、人類学者の海部陽介氏が、宮ノ本遺跡(長崎県佐世保市の高島)から弥生時代の全身骨格を発掘されたそうです。一般的な弥生人はひょろっとした体型で、身長は平均162㎝ほど。今回のものは約158㎝で推定77㎏。上半身が異常に発達した筋骨隆々タイプです。

過去に発掘されたものを調べてみると、五島列島の宇久島、平戸島、下島など九州西北部の島々から同じような人骨が出ていることがわかったそうです。男性の全員が平野部弥生人の平均以上の太さを持っています。

発達した上腕骨の形から、腕をあらゆる方向に激しく動かす動作を幼い頃から繰り返していたと考えられ、舟の漕ぎ手だったと推測されます。海人族ですね。核DNAの解析を切に望みます!

(中略)

なぜ五島列島?

弓前文書の継承者であり解読に挑まれた池田秀穂氏は、祖先である倭人天族を次のように想定しています。氷河期の終わりとともに琉球諸島や九州に住み着き、やがて九州西海岸から朝鮮南端に向けて展開。紀元前5世紀頃には、中国や南朝鮮から仕入れた稲籾や鉄の農器具を本土縄文人に貸し与え、収穫を受け取るというシステムを作っていった。1世紀を過ぎると本拠地を五島列島と博多とし、広大な交易圏をもっていたと考えておられます。

どうして五島列島に?と思いましたが、安曇族の研究をされている亀山勝氏は、弥生人の航路を次のように導きだしています。

著書「安曇族と徐福」から、掲載された複数の地図と解説をまとめてみました。大きな海流を黄色の太線で、それ以外を青い線で描きました。注)簡略化しています。

青い線は1934年に行われた海流調査の一部を参考にしていますが、現在領海などの制約があってこれほど大規模な調査はできないそうです。還流は季節や潮汐流の方向、月齢などの影響を多少は受けますが、基本的な形が示されています。

亀山氏は博多の志賀島と長江河口を結ぶ航路を考え、海流と風向きによって導き出された航路がピンク色の太線です。赤い小さな印が五島列島です。

まずは対馬海流の影響を避けて志賀島から五島列島へ。そこで対馬海流を一気に横断できる東よりの風を待ちます。五島を出たら済州島を右手に見ながら、黄海暖流に乗って山東半島に向かいます。山東半島から陸沿いに南下して長江河口へ到着。帰路は長江から出る流れや引き潮などの流れに乗って東へ向かい、対馬海流に乗って五島列島へ。さらに対馬や壱岐が見えたところから志賀島を目指します。

つまり五島列島で風待ちをしたりと、ここが大事な中継点になっているのです。なので航海民にとっては、博多と五島列島に本拠地を持つということに大きな意味があるわけですね。

この航路で帰路となる長江河口から志賀島までかかる時間を大まかに計算すると、秒速6mの風の中で船速が時速7㎞であれば5日足らずだそうです。現代であればヨットのような帆船でうまく風を利用できた時には、20時間だとか。(緑のアンダーラインは2019.3.17 改定)

私たちには遭難する遣唐使船のイメージが強く、大陸へ渡るのは非常に困難なものと思い込んでいますが、亀山氏によると、当時の船体は風の影響を大きく受けやすい造りであったにもかかわらず、風上に向かう操船術や天文航法、外洋の知識に乏しい乗組員が乗っていたことが原因ではないかと言われています。

船は大きく立派になっていたのでしょうが、古の海人族たちに受け継がれた智慧や技術は、海人族の衰退とともに失われつつあったということかもしれません。マッチョな人骨もしだいに消えていったようですので。

最初に紹介したマッチョな弥生人が九州から沖縄へ海を渡る時も、黒潮が障壁となるはずです。でも1~2月の強い北風が吹く時期は、風と同じ方向に波が立つため九州から沖縄へ進めたと推測されています。

最後に文献に記された五島列島を見てみましょう。

まずは古事記から。イザナギとイザナミの国生みでは、最初に大八島(淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州)を生み、次に6つの小島を生んでいきます。児島半島、小豆島、周防大島、姫島、そして五島列島、その南の男女群島。五島列島は知訶島ちかのしま、またの名を天之忍男と記されています。古くは血鹿とも書いたそうです。こんな西の果ての島が国生みに選ばれることが不思議だったのですが、航海の要所だったわけですね。

肥前国風土記に景行天皇巡行時、平戸島から西の海を眺めて「遠いけれどまるで近いように見える、この島を近嶋というがよい」といわれたとあります。第1の島を小近おちか、第2の島を大近おおぢかと呼ぶようになったそうで、現在は小値賀島にその名残があるようです。最初の地図に場所を書き込みました。志賀島と似た名前ですが、関係は?

また、島には土蜘蛛の大耳、垂耳たちが住んでいて、天皇は安曇連百足に捕えさせ誅殺しようとしたけれど、彼らが生かしてもらえればいつまでも食事を造り御前に献じますと誓ったので許された、とあります。

島の西側には合計30余りの船を停泊させられる2ヶ所の港があって、遣唐使船はここから船出して西に向かったということです。

この島の漁民は馬と牛をたくさん飼っていて、顔かたちは隼人に似ており、馬上で弓を射ることを好み、その言葉は土地の人とは異なっている、とあります。土地の人と漁民とは別なのでしょうか。倭人海人族の弥生語が残っているのか、それとも‥‥?

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