大なる自己の実現

Facebook・清水 友邦さん投稿記事

三木獄死の直接の原因は疥癬、栄養失調でした。

「9月26日の朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下に落ちて、床の上で死んでいた。干物のように。

日本政府は、敗戦後にも、三木清を釈放しなかった。そして日本人民は、三木清を救い出すことができなかった。。。日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った。 (中略)

三木清の死が東久邇宮内閣を崩壊に導いたと話したとき、そして、ひとりの人間の人権が蹂躙されたことにたいする一人の人間の怒りが、ひとつの政府を倒した。

三木清の獄死のニュースを聞いて、ロイター通信の記者がすぐに事情を調べた。そして政治犯のすべてがまだ獄中にいるということを知った。

おどろいた外国人記者は、山崎巌内相に面会を求めた。

すると山崎内相は答えて「思想取り締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する・・・さらに共産党員であるものは拘禁を続ける・・・政府形体の変革、とくに、天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と語る。

そのインタビュー記事は『スターアンドストライプ』紙(日本占領軍将校向けの新聞)の10月4日に発表された。

これが問題となりマッカーサー元帥は、4日夕刻に「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令した。

なすすべを知らない東久邇宮内閣は、辞職。9日に幣原内閣誕生。10月10日に獄中18年組をはじめとする政治犯が釈放される。

敗戦後二ヶ月半たって、山崎内相は平気で、しかもおそらくマッカーサー司令部によってさえ支持されるだろうと信じて、こうした信念を吐露したというのはひとつの喜劇である。その喜劇のおかげで、三木清の獄死という悲劇がある。

8月15日、敗戦と同時に、あるいは数日後に、あるいは1ヶ月後に、だれひとりとして、政治犯釈放の要求を掲げて、三木やその他政治犯の収容されている拘置所・刑務所におしかけなかったということは、いうまでもなく日本敗戦の性格を物語っている」日高六郎『戦後思想を考える』(岩波新書)

清水 友邦さんがアルバム「大なる自己の実現」に写真7件を追加しました。

哲学者の西田幾多郎は真理を知るということは大なる自己の実現と言いました。

西田の晩年の日本は軍国主義に向かっていて哲学者も戦争に飲み込まれて行きました。

西田幾多郎は明治19年(1886)、石川県かほく市に生まれました。

西田は若い頃自由民権運動に共感をおぼえますが、薩長藩閥による中央集権により薩摩の校長になった規則だらけの学校に反抗して退学します。

大学に進みますが差別的な待遇に苦しみます。教師になりますが、内紛により職場を転々としました。

西田家は裕福な家柄でしたが父の事業が失敗して一家は破産、姉・弟の死、妻との離縁、長男と娘二人の死と悲しみの連続に苦悩します。

西田は「哲学の動機は『驚き』ではなくて、深い人生の悲哀でなければならない」といっています。

「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりした者が、忽ち消えて壷中の白骨になると云うのは、如何なる訳であろうか。若し人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ」西田幾多郎

人生の問題を解決するため、西田は古今東西の文献を読み込み、四高時代の同級生で生涯の友となる鈴木大拙の影響もあり、10年間、朝も昼も夜も徹底して禅に打ち込みました。

金沢郊外の洗心庵に通い京都相国寺の荻野独園の法を嗣いだ雪門玄松老師より「寸心」という居士号をもらっています。

そして、西田は京都帝大で哲学を教えることになり『善の研究』を書きました。

「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。(途中略)純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん)なる者である。」西田幾太郎

自分の主観と客観がまだ分かれる以前の直接的な経験を「純粋経験」と名ずけました。

そして直接的な経験を(直観)思慮分別を(反省)とよびました。

原初の状態の純粋経験から「意識する自己」(直観)と「意識される自己」(反省)の両方を生じさせる能動的自己を「自覚」のはたらきといいました。

つまり西田はマインドを通さずに世界を全体として見ること、経験することを「自覚」と言ったのです。

西田は禅を通して無分別智に気がついたのでしょう。

しかし、西田は禅の用語を一切使わずに西田独特の概念で説明したので西田哲学と呼ばれました。

西田が教えた多くの生徒たちは京都学派とよばれました。

軍国主義が色濃くなった昭和12年(1937)日中戦争が勃発時した時の政府は近衛内閣でした。

近衛文磨は西田と同じ京都帝国大学出身ということもあり、東亜新秩序を目指し、その理論的ブレーンとして「昭和研究会」を組織しその中心に弟子の三木清をむかえました。

昭和14年(1939)2月、海軍の高木惣吉・海軍省臨時調査課長(終戦時少将)は、民間人を動員したブレーンをつくり、そこで大東亜共栄圏を理論化しようと西田と京都学派に接触してゆきました。

西田の弟子たちは帝国主義に向かう日本に概念だけで良しとするのではなく、具体的に社会を動かそうとしました。

東亜共栄圏の理論は日本が盟主となってアジアを西洋の支配から解き放って共存共栄を目指すものでした。

しかし、三木清がみた戦争は想像していたものとは全く違っていました。

占領地で日本は軍政をしいていました。理念は共存共栄でしたが現実は支配と服従の関係だったのです。

支配される側の立場にまで考えは及ばなかったのです。

三木は、治安維持法違反者を匿った政治犯として収監され、戦争が終わっても出獄を許されないまま、不衛生な環境がもとで獄中で悲劇的な死を迎えました。

西田たちは自分たちの哲学を政治に反映させて日本が帝国主義化することを戒めようとしました。

しかし、帝国主義を擁護し哲学的空論に終始したと戦後、批判されたように、結果として政治的に利用されることになってしまったのです。

戦場を経験した哲学者、三木清は1943年に戦場から帰国したとき、「私が戦場において経験したのは近代戦というものの仮借なき非情性であった。日本が当面している厳しい現実は、甘い観念論、浪漫的な形而上学で乗り切れるものではない」と書いています。

西田は、1945年6月終戦を2ヶ月待たずして75歳で急逝しました。

「古来武力のみにて栄えた国は ありませぬ 永遠に栄える国は 立派な道徳と文化とが 根底とならねばなりませぬ 我国民今や 実に此の根底から 大転換をやらねばならぬ時ではないでしょうか」西田幾多郎

「我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。」西田幾多郎

「真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる。」西田幾多郎

参考 NHK Eテレビ「日本人は何を考えてきたのか」 第11回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」