善の研究

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/92_nishida/index.html 【善の研究】より

日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。しかし「哲学」という言葉が翻訳されたばかりの日本では、およそ自分たち独自の哲学を構築できるなど思いもよらないことでした。そんな時代に、禅などの東洋思想や西洋の最新思潮と格闘しながら、日本だけのオリジナルの哲学を独力で築き上げようとした人がいました。西田幾多郎(1870-1945)。彼のデビュー作にして代表作が「善の研究」です。西田の思想的格闘が凝縮したともいえるこの名著を、現代の視点から読み解くことで、「生きるとは何か」「善とは何か」「他者とどうかかわるべきか」といった、人生の根本的な問題を深く考えていきます。

西田は、近代の西洋哲学が確立させた、認識する主体/認識される客体という二元論を乗りこえるべく、「純粋経験」という概念を考案しました。主体と客体は抽象化の産物にすぎず、実際に我々にもともと与えらえた直接的な経験には、主体も客体もありません。たとえば私たちが音楽に聞き入っているときには、「主体」が「対象としての音楽」を把握しているのではなく、主客未分の純粋な経験がまず根源にあるといいます。そこからさまざまな判断や抽象化を経て、主/客の図式ができあがるのです。経験の根源である「純粋経験」に立ちもどらなければ、真理は見えてこないと西田はいいます。

この立場から世界を見つめなおすと、「善/悪」「一/多」「愛/知」「生/死」といった様々なに二項対立は、一見矛盾しているようにみえて、実は「一なるもの」の側面であり、「働き」であることがわかります。西田哲学は、合理主義的な世界観が見失ってしまった、私たちが本来もっている豊かな経験を取り戻すために、非常に有効な手立てを与えてくれるのです。

この難解な西田哲学を読み解くためには、4つの章を逆順に読み進めるのがよいと提案するのが批評家の若松英輔さん。西田が強靭な思考力で歩みぬいた過程は、問いの繰り返しであり常人には歩みがたい。けれども結論部分を実感的に読むのは意外にも容易で、頂上から降りていくように読み進めると、自ずと西田自身の言葉が語りだしてくるといいます。

番組では、日本近代思想に詳しい若松英輔さんを講師に招き、新しい視点から「善の研究」を解説。現代に通じるメッセージを読み解き、価値感が混迷する中で座標軸を見失いがちな私達の現代人がよりよく生きるための指針を学んでいきます。

第1回 生きることの「問い」

認識する主体/認識される対象という二元論によって構築されてきた西洋哲学。それを乗り超えるために格闘してきた西田幾多郎は、「愛」という独自の概念で、「知」のあり方を根本から問い直す。冷たく対象を突き放すのではなく、あえて対象に飛び込み没入していくことで対象の本質をつかみとる作用を「愛」と呼び、「知」の中にその作用を取り戻そうというのだ。第一回は、西洋近代哲学の限界を乗り超え、「知」の新たな形を追求した西田幾多郎の奥深い思索に迫っていく。

第2回 「善」とは何か

旧来多くの倫理学は、善と悪を外在的な基準から位置づけ判断してきた。しかし、西田が東洋思想から練り上げていった独自の哲学では、善は人間の中に「可能性」として伏在しており、いかにしてそれを開花させていくかが重要であるという。そのためには、主体/客体という敷居を超えて、「他者のことを我がこととしてとらえる」視座が必要であり、真にその境地に立てたときに、「人格」が実現される。それこそが善なのである。第二回は、西田がこの著作の根本に据えた「善とは何か」という問いに迫っていく。

第3回 「純粋経験」と「実在」

「愛」や「善」といった概念を、主観と客観に二分しない独自の思考法から再定義していく西田哲学。その根幹を支えるのが「純粋経験」という特異な概念だ。たとえば、音楽を聴くという体験は音源から伝わる空気の振動を感覚器官がとらえるという物質過程ではなく、主体も客体も分離される以前のあるがままの経験が何にも先立って存在する。これを「純粋経験」という。この立場から世界を見つめると、私たちが「実在」とみなしてきたものは、単なる抽象的な物体ではなく、世界の根底でうごめている「一なるもの」の「働き」としてとらえ直されるという。第三回は、合理主義的な思考では排除されてきた人間本 来の豊かな経験を取り戻すために、「純粋経験」や「実在」といった西田独自の概念を読み解いていく。

第4回 「生」と「死」を超えて

「善の研究」をベースにして西田はさらに自らの哲学を発展させてゆく。そんな彼が晩年にたどり着いたのが「絶対矛盾的自己同一」という概念だった。主観と客観、善と悪、一と多といった一見対立する者同士が実は相補的であり、根源においては同一であるというこの考え方は、自らの子供と死別するという実体験を通して獲得したものだと若松さんはいう。生と死は一見矛盾しながらも、その対立を超えて一つにつながっているものだという西田の直観がこの思想を生んだのだ。第四回は、西田哲学の中で最も難解とされる「絶対矛盾的自己同一」という概念を解きほぐし、人間にとっての生と死の深い意味や、矛盾対立を超える叡知を学ぶ。

こぼれ話。

日常を深めゆく西田哲学

西田幾多郎「善の研究」との出会いは、大学生時代、哲学を研究していた頃のことですから、1980年代後半のことと記憶します。当時は、たとえば、中村雄二郎さんによる「西田幾多郎の脱構築」といった書籍が出版され、現代思想やポストモダン思想の文脈と関わらせつつ西田哲学を読み解きなおすという試みが各所で行われ、少しだけ西田幾多郎ブームのようなものが盛り上がっていました。

そんなブームにのるようにして手に取った「善の研究」ですが、正直なところを告白しますと、序文を読み終えて、第一章にはいったあたりで挫折。「西田語」とも呼ばれる、その独特な述語に全くついていけず、読み進むことができませんでした。結論部分だけを読んでみようと思って、かろうじて第四章のみを読み終えたことを今でもよく覚えています。

意外にも第四章は、するっと読むことができました。相当、我流な読みだとは思うのですが、おおよその以下のようなことを主旨に書かれていたと記憶します。

西田幾多郎は、「愛」という独自の概念で、「知」のあり方を根本から問い直そうとしているように思えました。冷たく対象を突き放すのではなく、あえて対象に飛び込み没入していくことで対象の本質をつかみとる作用を「愛」と呼び、「知」の中にその作用を取り戻そうとしているのだと、読みながら感じました。もちろんわからない部分は多々ありましたが、自分の日常ともつながるような言葉がいくつか胸に刺さりました。

そればかりではありません。若気の至りといった感もあるのですが、西田のこの「愛」という言葉に、私は結構やられました。この言葉に背中を押されるようにして、ドイツ語を選択していたにもかかわらず、当時心を揺り動かされたフランス現代思想を勉強したいという思いをあきらめず、独学でフランス語を学びながら、メルロ=ポンティという哲学者を研究することを選んだのです。効率性という観点からいえば、これほど無駄と思えることもないでしょう。しかし、その当時の私は、「愛」なくして「知」は生きえないという強い思いを西田から受けとっていました。

それは相当ないばらの道で、中途半端な語学力ということもあり、研究としては相当低いレベルのものしかできませんでしたが、後悔はありませんでした。「愛」をもって研究対象に向かえたという自負はありますし、そこで得たものは、今も、私の日常の中でしっかりと生き続けていると思います。いわば、西田幾多郎は、そんな大学生時代の恩人ともいえるような存在だったのです。完読できていない中途半端な読者としてですが(笑)。

そんなわけで、西田幾多郎はずっと気にかかる存在ではありましたが、全く太刀打ちできない難解な哲学という学生時代の印象がトラウマとなって、「100分de名著」のプロデューサーに就任してからも「善の研究」に取り組むことには、及び腰だったということも告白しておきます。

ご縁とは不思議なものです。30年以上の月日を経て、その西田と再会することになりました。今回の講師の若松英輔さんとは、公私ともにさまざまなことをご相談する間柄で、番組についてのアドバイスも時々いただいています。ちょうど一年くらい前のことだったと記憶しますが、今後取り上げる名著についてご相談した折のこと。

私の中では、若松さんにやっていただくとしたら、ご専門の一つでもある井筒俊彦かなと思ってご提案もしたのですが、若松さんからは、「まずは、西田幾多郎の著作としっかり取り組んだほうがよいのではないか」というご提案をいただきました。井筒俊彦をやるにしても、柳宗悦をやるにしても、まずは、その源流ともいえる西田の哲学を最初にやったほうがよいというのが若松さんのご意見でした。

その際に、今回の番組でも紹介した、最終章から逆順に読んでいく…という方法も教えていただきました。西田が強靭な思考力で歩みぬいた過程は、問いの繰り返しであり常人には歩みがたい。けれども結論部分を実感的に読むのは意外にも容易で、頂上から降りていくように読み進めると、自ずと西田自身の言葉が語りだしてくると若松さんはいいます。この言葉に、強く反応したのは、私が大学生時代、第四章をいきなり読んで、西田哲学の本質の一端を少しながらでも理解できたという経験を思い起こしたからです。

ならば…とばかり、この斬新な読み進め方も含めて、若松さんに番組で指南していただこうとその場で決心しました。この若松さんの解説がどのようなものだったかは番組をご覧いただいた皆さんにはいわずもがなですが、私自身、あれだけ難渋した「善の研究」をこの機会に完読することができました。そして、この哲学は私たちの日常から離れていない。その日常をこそ深めていく哲学なのだということもあらためて知ることができました。

とはいえ、「善の研究」は、若松さんの解説を経ても、相当な噛み応えのある著作です。どうしても読み進められないときには、若松さんもテキストに書いておられますが、彼の随筆集からはいっていくのも一つの手かと思います。論文とは全く異なる情感あふれる文章、でも読み方によっては、あの難解な「絶対矛盾的自己同一」という概念が難解な述語を使うことなく、さりげなく日常の風景の中で語られていることに気づかされ驚きます。ぜひこの番組を見終わったあとは、西田幾多郎の原文に触れることをおすすめします。人生の「悲哀」を噛みしめ続けた西田の生の言葉は、きっとあなたの心の琴線に触れることでしょう。

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