https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/329c22405524704b09ab06faab257da4 【千歳山周辺散策@里山信仰と恥川】より
勧音堂すぐ下に耕龍寺があります。龍だけに龍神様がたくさんいました。(御堂の中に)
「1062年平清水の奥地深山にあって、勧音菩薩を祭礼する天台宗の寺だった。
中頃、千歳山東方の寺ヶ入に移り、さらに1394年肥前国佐賀城下の玉林寺の 徒弟自玉和尚によって千歳山西麓に移され「清水山耕龍寺」と号したといわれる。
以後、曹洞宗の名刹となった。 境内には深山以来の勧音菩薩を祀り、最上三十三観音第六番の札所として 信仰を集めている。(以下省略)」
※看板の説明より
伝説では付近一帯は湖で、そこに住む竜神を白苗和尚が成仏させたことから、湖は耕地に生まれかわり、耕龍寺の名がつけられたという。
看板の説明にある「奥地深山」というのが、瀧山(りゅうざん)だったのです!
山好きなので、瀧山はよく知っています。
姥神がある参道コースがある。きつそうなのでまだ登ったことがないのだが。
蔵王麓にあり、大山桜が有名。
※東北・夢の桜街道より https://www.tohoku-sakurakaido.jp/lineup/yamagata/sakura41.html
この桜について西行法師の歌があるのです。
「たぐひなきおもいではの桜かな うす紅の花のにほひは」(山家集)
この頃から、桜が咲いていたかは疑問ですが、 西行が奥州に来ていた頃、藤原実方を追っかけしているので、阿古耶姫伝承にも興味をもっていました。
『この地区から西蔵王高原ラインと交叉し、 標高が510㍍の高原地帯となり、神尾地区がある。この地区は滝山信仰と関係が深く、滝山信仰の盛んな鎌倉時代には、 別当(寺・行屋を含む)三百坊があったと伝えられている。滝山は1,362㍍の山、背景に蔵王大権現が鎮座する蔵王連峰をひかえている 霊山(古くはリョウゼンという)であった。
福島県の霊山と同様に修験者達の交流がなされていたことが、 福島の霊山を訪れて知ることができた。単純に慈覚大師が開山した山でなく、一連の天台密教の修行場としての役割を 果していたのが瀧山であった。
この高原では毎年5月8日に「瀧山大権現=薬師如来」の祭礼が行われる。
オオヤマサクラの下で、後藤利雄元山大教授の提唱で「西行祭」が賑やかに行われた。』
※山形市観光協会(Web山形十二花月)より
瀧山信仰が盛んだった鎌倉時代、300の坊があったという。
だから千歳山も信仰が深い場所だったわけですね。『里人が死ぬとその屍は端山に葬った。
肉体を離れたその人の魂は、美しい端山の頂きに登ると考えた。端山に登った霊は、三十三年のあいだ端山の頂きに止まるという』
※山形の自然と文化
この端山は、山形市内では千歳山であり、深山が瀧山と言われます。
瀧山麓に日本最古の鳥居と言われる社がある。 伝説には、天邪鬼が一夜で造ったが、一番鳥が鳴いたため中途半端で立ち去り、 こんな形になったという伝説。
もう一つの伝説はこの鳥居の主の龍が夜になると鳥居にからみつき、龍の赤い眼と合うと熱病にかかり死ぬ者もいたところ、 和尚が龍は霊だから首を落とせば消えると教え、侍が龍退治をしたという伝説である。
首以外に斬りつけても龍はすぐ再生するため侍は苦戦したが、砂を投げつけて龍が眼をつぶった瞬間、龍の首に斬りつけて龍の首を斬り落すと石鳥居の端が落ち、以来龍が現れなくなったという。
しかし、天台宗を目の敵にする鎌倉幕府執権北条時頼の命により瀧山は閉山されたと。
なぜ北条氏は天台宗を避けていたのか?
修験者の行動などが問題視されたというのが定説かもしれない。
修験たちは夫婦、家族をもっていたのですが、 ある説では、横暴な振る舞いが広がったということ。
妄想するに、女性の講が多かったことがあると思います。
東北地方の奥州札所三十三観音の勧請は、天台宗の開祖慈覚大師なのですが、 名取老女説もある。
盲巫を広めた宗派のお寺周辺に集中して札所観音霊場があることを考えれば、女人禁制である山岳信仰が解禁されていた可能性も考えられます。
山に女が入ることはタブーとされますが、黙認されていたこともあったのでは?
出羽三山信仰が広がる鶴岡で生まれた「黒川能」の「鐘巻」 の話し(『法華験記』)を読めば、なんとなく理解できるのかも。。。
女は男を惑わす魔物と考えられていた中世。罰を受けるのは、女だった時代です。
黒川能は世阿弥、音世弥が作成された部分があるそうですが、 謡曲「名取ノ老女」も音世弥が作成したものです。
熊野修験なのですね。
女性も行っていた山岳信仰を、黙認?していた天台宗のバックに、 広大な荘園をもち、
在地の長から「庄」に変えて、 熊野修験が武将たちの力になっていたことがありました。
阿古耶姫伝承も、羽黒・熊野信仰が関係していると思います。
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さて、「恥川」という川がありますが、こんな阿古耶姫伝承があります。
「父の眠る千歳山の墓を訪ねんと遥か京の都から幾山河を越え悪路の 雑草の露を踏み分け
やっとの思いで千歳山の麓に辿りつき、 墓参りに詣でるため旅姿の乱れを直そうと近くに流れていた小川に自分の姿を写してみたところ余りの顔のやつれ、髪の乱れ、衣服の乱れに驚き恥じ入り口ずさんだのが、
「いかにせん 写るすがたは つくも髪 わが面影は 恥かしの川」と呟いたそうです。
すると歌に感じ入った水神は姫が渡る所の流れを地下に流し水を無くしたと言われます。
その後、四十年間千歳山万正寺に庵を結び父の霊を弔い1036年9月15日に没した説もあります。
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焼きものの里・平清水のはじまりは、江戸中期の頃。
常陸笠間の小野荏兵衛が、 平清水の丹羽治左ヱ門方に寄寓して窯業を始めたといわれ、
現在では陶祖として崇められているが、実際には、 それを引継いだ岩波村の伊藤藤十郎らによって成功し、世に平清水焼の名を知らしめた。
看板横の御堂に、おびんずる様が祀られていました。
わ~、こっちからみる千歳山は新鮮。
この後、平泉寺(へいせんじ)の後に参拝した大日堂がすごかった!
黄泉の世界に迷いこんだみたいです。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/hayama.html 【端山信仰】 より
山形県建設業協会の機関誌「建設月報」に千歳会長が平成十年八月号より十回シリーズで山形の風土論をお書きになっておられますが、その中で、端山信仰についても名文をお書きになっていますので、以下にそれを紹介しておきます。
山形の風土論や景観論を考えるとき、欠かせないのが端山・深山の山岳形である。
山脈に連なる山々で里に近く、あまり高くもなく美しい山が端山と呼ばれ、里に住む人々に親しまれていた。端山の奥にさらに高く聳えるのが深山である。この重なるように結び会う端山と深山の形が山形に住む人々に篤い信仰心を育んできたのである。
人間にとって死は最大の関心事である。かつて端山の近くに住む里人も、死と死後の世界のことを葬送の中で想念したと思う。
里人が死ぬとその屍は端山の麓に葬った。肉体が腐敗する頃、その人の魂は肉体を離れて美しい端山の頂きに登ると考えた。端山に登った霊は、残してきた子供や家族を山頂からじっと見守って、三十三年のあいだ頂きに止まるという。
そしてさらに高い深山に登りそこから天のアノ世に行くと考えたという。
天に昇った先祖の雲は、お正月にお彼岸にお盆にと年に数回里に帰り家族と交じり、死者と生者は永遠に関わり語り続けると考えるのである。それは、死はすべての終りではなく、コノ世のひとつの終りであるという。これは人生最大の苦である死を越える人間の叡智であると思う。
端山・深山信仰の名残は県内各地にある。米沢地方の「羽山と吾妻山」、長井地方の「葉山と朝日岳」、上山地方の「葉山と蔵王山」、村山地方の「葉山と月山」、庄内地方のでは「羽黒山と月山」「葉山と麻耶山」などである。
山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育てた。この精神世界こそ日本人の心の原風景でもあると思う。
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