邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その11、12)

https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180227-15156.html  【邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その11)】 より

クルマを反転させ、国道439号線を剣山7合目の見ノ越に向かって戻ります。

雲が切れて、剣山の山頂付近が顔を覗かせています。山頂付近は説明の案内看板に書かれていたとおりのなだらかな稜線になっています。

いったん、剣山7合目の見ノ越のお土産物屋兼食堂のところまで戻り、そこで左に急カーブして、国道438号線を貞光の方向に下っていきます。

国道438号線の見ノ越から貞光のちょうど真ん中あたり一宇峡(いちうきょう)があります。一宇峡は、徳島県美馬郡つるぎ町一宇十家を流れる吉野川水系の一宇川(貞光川)に位置する峡谷です。延長は約10km。剣山国定公園内にあり、標高1,712メートルの丸笹山とその山系を流れ出た清らかな水によって作られた険しい渓谷です。周辺に「鳴滝」と呼ばれる辺り一面に白煙のように細かい水しぶきをたち昇らせる大きな滝や、「土釜」と呼ばれる峡谷の河床にできた釜状の甌穴があり、素晴らしい渓谷美を作っています。ちょうど、紅葉が峡谷を鮮やかに彩る時期で、その紅葉の色が澄んだ川の水に映って、いつまで眺めていても見飽きません。

貞光川の一宇峡沿いの険しい谷あいに実にこじんまりした街並みが開けています。このあたりは今は2005年の平成の大合併により貞光町や半田町と合併して徳島県美馬郡つるぎ町の南部の地域になっていますが、かつては一宇村(いちうそん)という独立した村でした。ただ、村のほとんどが山林という山また山の村で、平地はほとんどありません。一宇村は剣山(標高1,955メートル) の北に広がり,四国山地の北斜面にあたります。 かつては南朝方の阿波山岳武士の拠点であったところです。剣山の北斜面は雨が少なく林業には不適で、タバコ、カキ、クリを主に産出していたそうです。そんな一宇村の中心部(仮に一宇と呼ぶ)がこのあたりでした。この一宇渓谷、川遊びや釣りなどが楽しめそうです。

この一宇は剣山をはじめとした四国山地の山岳地帯の入口に位置するところにあたります。剣山は信仰の山として古くから崇められ、この先の貞光川の上流には主だった集落がないにもかかわらず、この一宇を通る街道の往来は少なくなかったと言われています。この道路(国道438号線)が「一宇街道」と呼ばれたのは、剣山への巡礼客が多く辿ったことから名づけられたもので、峠下の宿場のような役割もあったといわれています。また、背後に高い四国山地の山岳地帯を抱えていることから、自然とここに山々の諸山村からの物資が集まり、在郷商業町としても発達していたようです。一宇街道沿線ではこれより南に一切このような固まった街並みを有するところが存在しないため、その経済範囲は広大で、山から商品を卸してくる者もここで宿泊を余儀なくされていたと考えられます。そのようなこともあり山あいの集落としては意外なほどの固まった街並みを形成していたのだと考えられます。木地師や塗師などの産業も栄え、剣山北麓にあって、おそらく一つの独立した経済圏を築いていたのではないかと考えられます。

この街並みの中心を貫く道路は国道438号です。国道と言ってもクルマで離合も困難なほどの細い道であり、国道というには余りに脆弱な道路です。その隘路はこの先剣山の麓に至るまで延々と続いています。しかしこの深い山間の地でも町家建築の古い町並が今も残っています。中山道の旧宿場でよく見掛けるような出桁造り(だしけたづくり)で二階部正面に木製の欄干を施した、見るからに旧旅籠と思える家屋もあり、かつては宿場としての賑わいを示していたであろうことが想像できます。

国道沿いからは嶮しい山岳部の斜面が見え、そこに集落がへばりつくように立地しているのが見えます。四国山地の真骨頂とも言うべき街並みです。

「つるぎ町コミュニティーバス」の停留所があります。JR徳島本線の貞光駅からこの国道438号線を走り、この一宇の先の剣橋と葛籠(つづらお)堂まで平日5往復、休日(土・日・祭日)3往復、運用されているようです。「つるぎ町コミュニティーバス」ということは、この葛籠堂までは人が住む人家があるということのようです。「登山臨時バス」という表示もありますが、この「つるぎ町コミュニティーバス」は夏季の登山シーズン限定で、見ノ越にある剣山観光登山リフトの乗り場まで運行区間を延長しているようです。右側のバス停留所は四国交通という民営バスのバス停で、既に路線が廃止になっているので、時刻表の表示は削られています。そう言えば、先ほど白い車体のマイクロバスが通っていったので、あれが「つるぎ町コミュニティーバス」なのでしょう。

この日宿泊した「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」です。この「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」は元々は一宇村営の施設でした。今は民間に委託され、運営されています。このあたり唯一の宿泊施設で、しかも天然温泉の宿で、泉質は単純硫黄化水素泉。陽が暮れていたのでハッキリとは分かりませんでしたが、浴場の窓からは四季折々の自然の景色が広がります (静かなので、下を流れる貞光川の渓流の音はよく聞こえました)。

ニホンジカの剥製です。このあたりの山で捕まえられたのでしょうか。シカは常緑広葉樹林や落葉広葉樹林、草原などに生息するものなので、広葉樹林の多いこの剣山系の山々はシカにとって暮らしやすいところなのでしょうね。それだけ豊かな山の自然があるってことです。

おいおいおい…、「ソロモン・アーク 秘宝伝説の山」ですか……。

アーク(聖櫃)とは約3,000年前、エジプトのシナイ山でモーゼが神から授けられた十戒を刻んだ「十戒の石板」、モーゼの兄であるアロンが持っていたとされる「アロンの杖」、それに「マナ」という天から降って来た食べ物が限りなく出てくるという「マナの壷」という「三種の神器」が納められた箱のことで、別名「契約の聖櫃」とも呼ばれます。サイズは112×68×68cm。アカシヤの木で造られ、金箔で内側、外側を覆われていたとされています。

紀元前970年からソロモン王の統治下、エルサレムに神殿を造り、至聖所と呼ばれる内陣にそのアークを納めていました。旧約聖書によると1年に1回、祭司たちが外にアークを運び出し、儀式を行なっていたのですが、紀元前900年以降突然そのアークが消えてしまったのです。それが「失われたアーク(聖櫃)」。徳島ではその「失われたアーク(聖櫃)」が剣山の山中のどこかに隠されているという伝承がまことしやかに広まっているようです。

「失われたアーク(聖櫃)」と言えば、ジョージ・ルーカス製作総指揮で、スティーヴン・スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演で映画化された『インディ・ジョーンズ シリーズ』の第1作である『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。その「失われたアーク」のことです。もしかしたら、ハリソン・フォードが演じたプリンストン大学で教鞭を執る高名な考古学者インディアナ・ジョーンズ教授がアークを探しにやって来たのは、舞台となった1936年の日本の徳島、それも剣山だったのかもしれません。実際、大東亜戦争終結直後、進駐してきた連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサーがGHQ(総司令部)に命じてその「失われたアーク(聖櫃)」を探すためかなり大掛かりな捜索隊を徳島県の剣山の山中に派遣したという噂もあるようです。

ちなみに、アークは金箔張りで、上部の蓋には2対のケルビム(天使)が鎮座し、2本の棒を箱尾についている金具に通して、担いで運ぶようになっていました。その構造から、日本の神輿はそのアークが発祥であるという説を唱える方もいらっしゃるようです。

この「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」の「ソロモン・アーク」と書かれた箱にはイタドリの茎で作った杖が入れられていて、「ご自由にお持ちください」と書かれています。イタドリの乾燥させた茎で作った杖は極めて軽量で丈夫という特徴があります。山歩きには最適なので1本貰って帰りたかったのですが、旅行中邪魔になるので諦めました。おそらく、この一宇の宿では、長い山道を歩かないといけない旅人の皆さんにこのイタドリの茎で作った杖をサービスで配っていたのではないでしょうか。その名残りなのかもしれません。


https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180302-15181.html 【邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その12)】  より

旅館のフロントに『日本建国の真実』という衝撃的な文字が踊るポスターが貼られています。この『日本建国の真実』のポスターには次のような大変に興味深い文章が書かれています。全文を掲載します。

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今から約2,700年の昔、南ユダ王国のイザヤ一行と北イスラエルの失われた10部族のうちの1部族の合併集団が葦船に乗って渡来し、四国の山を焼いてイスラエルと同じような草山の国を造りました。そして、劔山をエルサレムの山と同じ形に成形し、エルサレムの山と同じように生贄の岩場やシロアムの池も造りました。

イスラエル人はその国を「アルツァレト」と呼びましたが、日本人は「高天原(たかまがはら)」と呼びました。また、中国人はその国を「邪馬台国」と呼んだのです。

7世紀の後半に、日本が持っている契約の聖櫃(アーク)を唐が奪いに来るかもしれないという噂が流れ出し、それを恐れた大和朝廷は必死に対策を考えましたが、「四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけて、契約の聖櫃を守ろう」という結論になり、天武8年5月6日の吉野宮の会盟から、大和朝廷は大秘密政策を断行したのです。

「天孫降臨」とか「神武東征」という事実はあったのですが、大和朝廷の本拠地が四国であることは絶対に判らないようにカムフラージュだらけの記紀を編纂し、更にそれを信じさせるため、全国に偽の神社や山を多数作ったのです。

尚、古代イスラエル人達は難民になって渡来したのではありません。「周囲の国々に邪魔されないため、東の果て果ての地へ行って国を創り、そして、神様の教えを守って暮らそう」と言って、神様の国を創るために渡来したのです。素晴らしい渡来の理由ではありませんか!!

私達日本人には、その血が混じっているのです。私達は、素晴らしい大移動を成し遂げた遠い先祖に誇りを感じます。

葦船に乗れなかった残存部族は、ユーラシア大陸を徒歩で横断して、日本に来ました。応神天皇の頃、弓月君に率いられて渡来した秦氏が実は、ユーラシア大陸を歩いて渡来した人達です。葦船に乗った先遣隊がアークを持って先に渡来したので、残存部族は何百年掛かってでも日本列島まで渡来し、遂に葦船組の後裔と徒歩組の後裔が、この日本で一つになれたのです。

アークは唐に奪われることも無く無事に、劔山の鍾乳洞の中に御鎮座下さっています。

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この『日本建国の真実』と題するポスターの製作者は徳島県三好市池田に本部を置く「倭国(いのくに)研究会」というところ。倭国(いのくに)研究会と言えば、『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』の著者、そして私が剣山の見ノ越のお土産物屋兼食堂で購入した3冊の本の著者である大杉博さんが設立した団体ですね。このポスターに書かれていることが、これらの著書の概要ということなのでしょう。

ちなみに、このポスターで四国の地図のうち茶色で示されたのが、「アルツァレト」=「高天原」=「邪馬台国」ということのようです。この説からすると、邪馬台国は四国山地の周辺全体のことのようです。

高天原(たかまがはら)といえば天岩戸(あまのいわと)です。この日、宿泊する宿の名前が「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」。まさに岩戸です。高天原とは、日本神話において天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめ八百万(やおよろず)の神々が住んでいたとされる天上の世界のことです。『古事記』『日本書紀』の神代巻がその典拠で、国つ神の地上の世界「根の国、底つ国」に対して、天つ神の国のことを指します。また、それらの中間に「葦原(あしはら)の中つ国」「顕国(うつしくに)」があるとされています。天孫降臨神話では、天界の高天原で諸神が協議し、日神天照大神(あまてらすおおかみ)の子を地上界にある「葦原の中つ国」に天降すことにしたところ、地上界には大国主(おおくにぬし)神を頭目とする荒ぶる神々が跳梁していて……となっています。

天岩戸とは、日本神話に登場する高天原にある岩でできた洞窟のことです。建速須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒った太陽神である天照大神がこの洞窟に隠れ、世界が真っ暗になり、様々な禍(まが)が発生したという岩戸隠れの伝説の舞台でもあります。この岩戸隠れで天照大神を岩戸の外へ引きずり出す際に大活躍したのが天太玉命(あめのふとだまのみこと)。その天太玉命を祖とする古代氏族が忌部氏。中でも阿波忌部氏は天太玉命の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)を祖であるとしています。

こうしたストーリーが無理なく繋がるのがこの徳島の謎めいたところです。ちなみにこの一宇には天岩戸(磐戸)神社という神社があります。国道438号線の「つるぎ町コミュニティーバス」の終点である葛籠(つづらお)堂のさらに先から右手に分岐する細い林道(その名も天ノ岩戸線)があり(よそ者には気付かれたくないのか、小さな案内看板が出ているそうです)、さらにその道の終点から2時間近く山道を歩いて登ったところにある神社です。「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」のフロントでその天岩戸(磐戸)神社写真を見せていただいたのですが、いったい誰が何の目的でこんな奥深い山の山頂近くにこんな神社を建てたのか…と思えるほどの古くて趣きのある神社です。

ここには巨岩が割れてできた洞窟があり、入口はまさに岩戸の趣きがあり、幅約1メートル、奥行き約9メートル。その前に神楽石と呼ばれる約45平方メートルの長方形の平磐があります。これら奇岩の神秘さは古事記や日本書紀に登場する天岩戸神話にぴったりの舞台で、江戸時代の上期より、年に一度、神楽歌と舞が奉納されていたと伝わっています(この神楽は、現在、貞光町の松尾神社で 除夜の鐘と共に 奉納されているのだそうです)。神楽石の下方には天岩戸神話において岩戸の前で踊ったとされる天宇受賣命(天鈿女命:あめのうずめのみこと)と猿田彦神(さるたひこのかみ)の石像があり、そのまた下方には天照大神と、天岩戸神話において岩戸から天照大神を引きずり出した手力雄神(たぢからおのかみ)を祀る天岩戸大神宮が鎮座しています。これは……。時間の関係で今回は行けませんでしたが、次回機会があれば、是非行ってみたいところです。ただ、ちょっと“怖いもの見たさ”のようなところもあり、いささか怖い感じがしてしまいますが…。

高天原に関しては、宮崎県高原町や高千穂町、岡山県真庭市の蒜山、奈良県御所市の葛城・金剛山高天台など、全国各地に「ここが高天原である」と主張している場所があり、天岩戸に関しても宮崎県高千穂町をはじめ、奈良県橿原市、三重県伊勢市など幾つかの「ここが天岩戸である」と主張している場所があります。残念ながらそういうところはまだこの目で見ていないのでハッキリとした断定はできませんが、この徳島県美馬郡つるぎ町一宇の奥深い山の中にある天岩戸は、なにやらかなりの説得力があります。

この徳島県美馬郡つるぎ町一宇の奥深い山の中にある天岩戸神社の関しては、ネットで「徳島 一宇 天岩戸神社」で検索してみると、天岩戸神社に実際に行かれた方の情報が幾つも出来てきます。是非そちらのほうをご覧ください。

まったくの余談になりますが、もしこの倭国研究会のポスターに書いてあるとおり、天武8年(西暦679年)5月6日の吉野宮の会盟で「四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけて、契約の聖櫃を守ろう」という結論になり、大和朝廷は大秘密政策を断行したのだ……との仮説を置いて、その前後の日本の古代史を(私の仮説と組み合わせて)時系列を追って超簡単に眺めてみると次のようになります。

日本古代史上最大の対外戦争である「白村江の戦い」が行われたのが西暦663年。新羅・唐連合軍から百済を救済するために派兵を決断したのが第37代の斉明天皇(女帝)。実際に白村江の戦いを戦った時の天皇は第38代の天智天皇(斉明天皇の子)。天智天皇の崩御後、後を継いだ第39代の弘文天皇(天智天皇の子)と壬申の乱を争い、弘文天皇崩御後の西暦672年に第40代の天皇に即位したのが天武天皇(斉明天皇の子)。西暦679年に問題の吉野宮の会盟なるものがあり、その5年後の西暦684年には南海トラフ沿いで発生したとされる超巨大地震「白鳳大地震」が発生しました。この地震では四国の中央構造線に沿ったあたりは中央構造線がズレ動いたため非常に大きな揺れがあったと思われます。これにより、徳島にあったとされる倭国(和国)は完全に崩壊。別の地への遷都を余儀なくされたのではないか…と私は推察しています。

天武天皇は白鳳大地震の2年後の西暦686年に崩御なされ、その後を継いで即位したのが天武天皇の皇后であった第41代の持統天皇(女帝)。持統天皇は天武天皇が進めていた政策を継承し、持統天皇の代の西暦690年に都城制を敷いた初めての都・藤原京の建設に着工。4年後の西暦694年に遷都しました。日本史上、最初の体系的な律令法とされる飛鳥浄御原令の制定を行なったのも持統天皇で、氏姓制度を導入したのも持統天皇です。日本に伝存する最古の正史『日本書紀』は天武天皇が編纂を命じて、持統天皇がその後を継ぎ、第44代の元正天皇の代の西暦720年に完成したとされています。

この流れの中で、西暦679年の吉野宮の会盟で「四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけて、契約の聖櫃を守ろう」という結論になったという部分だけが実に“座り”が悪いのですが、それを除くと私が「エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)」に書いたとおりで、すんなり論理的に受け止められます。と言うことは、『日本書紀』という正史の編纂は、四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけるための手段であったということになります。

この“座り”が悪い西暦679年の吉野宮の会盟とは一般的には「吉野の盟約」と呼ばれているもので、第40代天武天皇と皇后の鸕野讚良皇女(後の第41代持統天皇)がその間にもうけた草壁皇子を次期天皇にすると事実上宣言した盟約のことです。ちなみに、この盟約に従い西暦681年に草壁皇子は皇太子となるのですが、器量の優れたライバルの大津皇子も政治に参加することとなり、天武天皇の後継は曖昧なものとなってしまいました。 天武天皇崩御後。草壁皇子の母・鸕野讚良皇女は大津皇子に謀反の疑いをかけて自殺に追い込んでしまい、さらに肝心の草壁皇子も天皇に即位することなく28歳の若さでお亡くなりになってしまったことから、鸕野讚良皇女が第41代の持統天皇としてピンチヒッターで即位し、草壁皇子の孫(第42代文武天皇)が即位するまでの間の中継ぎ役を務めることになるわけですが、文武天皇も25歳の若さで崩御なされ、天武天皇の子孫はほとんど滅亡してしまいました (あとは天智天皇系の天皇が即位します)。なので、吉野の盟約で「四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけて、契約の聖櫃を守ろう」という話があったようには、大杉博さんや倭国研究会の皆さんには申し訳ないのですが、ちょっと考えにくいところがあります。

大杉博さんをはじめとした倭国研究会の皆さんの説では、日本が持っている契約の聖櫃(アーク)を唐が奪いに来るかもしれないという噂が流れ出し、それを恐れた大和朝廷が必死に対策を考えた結果、近畿地方(藤原京・平城京)に遷都した…ということになっているのですが、それじゃあ遷都という世紀の一大事業のきっかけとしては、あまりに動機が希薄すぎるように思えます。私が唱える「白鳳大地震により徳島にあったとされる倭国(和国)は完全に崩壊。別の地への遷都を余儀なくされた」…とするほうがよっぽど現実味があるように思えます。ちなみに、大杉博さんの著書には白鳳大地震に関する記述はまったく出てきません。どうもそれほどまでに大きな地震が発生したとは思っておられないようです。しかしながら、日本列島の各地でこの地震により大きな被害が出たことは隠しようがなく、各地で記録に残っていることから、南海トラフが動いて超巨大地震が発生したことは事実と思われます。やはりこの白鳳大地震が遷都と大移住のきっかけでしょう (ここが理系の歴史学です)。

そして、契約の聖櫃(アーク)を隠したとされる剣山山中の鍾乳洞も超巨大地震の影響で崩落してしまい、契約の聖櫃(アーク)を取り出せなくなってしまったのではないでしょうか。そう考えたほうがしっくり来ます。なので、その契約の聖櫃(アーク)を奪われないように、さらには大和朝廷を財政的に支える水銀(丹)や金、銅などの四国山地に眠る鉱物資源を守るために見張りの人間を四国の山中に残して、その上で正史の編纂を通して「四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけて、契約の聖櫃を守ろうとした」……とするならば、論理的にも納得できる感じはします。

ですが、日本が持っている契約の聖櫃(アーク)を唐が奪いに来るかもしれないという噂が流れ出し、それを恐れた大和朝廷が必死に対策を考えた結果……なのかどうかは分かりませんが、大和朝廷が大陸からの脅威の来襲を十分に意識していたことは確かなようです。白村江の戦いにおいて自分達が大船団を率いて朝鮮半島に攻め込んだわけですから、反対に大陸から攻めてくるかもしれないというリスクは十分に考えられることで、国家としてその脅威に備える準備をする…というのは当たり前のことですからね。唐が攻めてくる理由が契約の聖櫃(アーク)を奪うことなのかどうかは知りませんが…。このあたりの私なりの仮説を『おちゃめ日記』の「全国の越智さん大集合!(追記編)」に書いておりますので、是非お読みください。