Facebook・小早川 智さん投稿記事  よもぎの成分が癌細胞を死滅

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「アルテミシニンは、ただそれだけでも、健康的な細胞の約100倍もの癌細胞を選択的に死滅させることができるだけでなく、抗がん剤よりも34,000倍も正確に癌細胞だけを死滅させることができます。」

by ワシントン大学のヘンリー・ライ博士 https://t.co/Zc7yefpRiG

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http://inoues.net/mystery/jyofuku.html  【徐福伝説】 より

秦の始皇帝をだました男 不老不死の薬を求めて日本へ旅立った徐王国の末裔たち

はじめに

日本の古代史に興味がある人でこの「徐福伝説」を知らない人はいないだろう。特に「縄文・弥生時代」に関心の深い人にとっては、彼らが本当に日本にたどり着いたのかどうか、大いに興味をそそられる話であるはずだ。

その伝説とは、  紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた。それを先導したのが秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」である。というものだ

(この論文集には、他14名の現代中国を代表する学者・知識人が論文を執筆しており、その内容は「円仁入唐求法巡礼記 録」「阿倍仲麿」「吉備真備」「古事記」「日本書紀」「古今和歌集」「裴世清(はいせいせい)家系」「豊臣秀吉」 「日本中世文学」「刀安仁と宮崎滔天の友情」等々となっている。)

(中国における家系と家系図に対する扱いは日本のようにいいかげんなものではない。厳粛な、個人の全存在を賭けたに等 しい扱いなのである。捏造した事がわかれば家系からも社会からもはじきだされ、まともな扱いは受けられなくなる。中国 では大部分の家が、何代にも渡る家系図を保有している。

先年物故した作家の司馬遼太郎が、彼に憧れて名前をペンネームにしたという、中国の修史官 司馬遷 が著した中国で最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が登場する。『史記』は中国における最も古い歴史書で、紀元前100年頃に完成されたものと推定されるが、非常に高い学術的権威をもった大著とされている。それは、記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされているのである。徐福の事件は『史記』の完成わずか100年前の出来事である。司馬遷は当然現地を訪れその信憑性を検証したに違いない。『史記』には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」と記載されている。中国正史のなかで徐福について初めて触れたのは司馬遷であり、『史記』の「秦始皇本紀」および「准南衝山(わいなんこうざん)列伝」に取りあげられている。

その後も『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されている。

しかしながら、長い間中国では、徐福および不老不死の妙薬をめぐる徐福と始皇帝との出会いが歴史的事実であるかどうかについては、多くの学者は否定的、懐疑的であり、単なる民間伝承に過ぎないと関心を持たれる事もなかった。ましてや学問的に研究・評価の対象にはなっていなかった。その主な理由は、史書の記述が簡略で委細を極めていないこともあったし、そもそも徐福なる人物像が曖昧模糊としたイメージに包まれており、具体的な人物像が浮かんでこなかったことにもよる。遺跡も明らかでなく、人物像も不確か、正史の記述も簡略と来ては研究しても成果は期待できず、結局は歴史の虚構であるとされて、学問的には長いこと放置されてきたのである。 そんな中、1982年、一人の中国人学者が偶然「徐福村」(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)を発見した。学者は信憑性を自問しながらもその重要性に鑑み、研究室の中にプロジェクト・チームを結成して本格的な調査に乗り出した。そして最終的に、まさしくここが「徐福」の居た村である、という結論を導き出すに至ったのである。この調査結果論文は、日本外務省・国際交流基金の資金援助によって1985年11月北京で出版された、『中日関係史論文集(第一輯)』(中日関係史研究会編)の冒頭に「説徐福到黄遵先」として報告された。 この報告は中国内外で大きな反響を呼び、その真偽を巡って論争が巻き起こった。当然この報告に懐疑的な意見もあり、著者自身もそれは認めている。しかしこの論文をきっかけに、1987年4月「第一回徐福学術討論会」が徐州で開催され、80人以上の研究者や団体が参加し、50編以上の論文が発表された。その後も数次に渡る討論会が開催され、その結果、徐福の実在、徐福村の発見、については今日ほぼ事実として認められたと言える。(勿論、反論も依然として存在する。)又、徐福を先祖とする徐姓一門が名乗り出て、2000年の由緒正しい系図を持つ徐氏一門が、今日なお中国全土に健在である事も判明した。 中国の歴史学者で、我が国にも著名な「汪向栄(おうこうえい)」氏は次のように述べている。「もしわれわれが真剣に中日関係交流史を、とくに日本の古代における発展過程を縄文時代から弥生時代までたどり、慎重な観察と検討を加えようとするならば、この徐福伝説を軽率に否定することはできない。徐福が東渡して日本にとどまり、再び中国へ帰ることはなかったという『史記』の記述についても、そこにはなにか深い原因と理由が存在したのではなかろうか。現在の徐阜(じょふ)村の人々が悠久の歴史の流れと人の世の激しい変動のなかで、二千有余年にわたって消すことなく絶やすことなくその地名を残し、徐福という人物についての先祖からの伝承を今日まで伝えているという事実はなまやさしいものではなく、単なる偶然として片づけるべきものではない。」 「説徐福到黄遵先」の概要 【徐副村発見】 1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の「羅其湘」氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県「かん」いう字は日本の当用漢字にはない。従ってWordproでは表示出来ないので地図で参照されたし。の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見した。「ふと注意と関心を誘」い調査したところ、この村がかっては「徐福村」と呼ばれ、現地にかの「徐福伝説」の伝承が残っている事をつきとめた。 調査班は実際に現地に入り、「徐阜村」が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐副村」と呼ばれていた事を確認し、村に残る「徐副廟」を調査した。そして村の古老達の語る「徐副」伝承を採録するのである。教授の調査で明らかになった事の中に、「徐阜村」に現在「徐」姓を名乗る者が一人も居ない、という驚くべき事実がある。そして古老の語る次の伝承を紹介している。 『徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。」「それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」』 【始皇帝巡行と徐副との出会い】 西方の遊牧民族犬戒(けんじゅう)の進入によって鎬京(こうきょう)から東方の洛邑(らくゆう)に遷都した周は、さらにその後550年の長きに渡る春秋戦国時代を経て、中国の宗家としてその存在を誇っていたが、やがて東周の勢いも衰え、大陸各地に諸侯が割拠して覇を争う戦乱の世となった。いわゆる、「春秋の五覇・戦国の七雄」である。これらの諸侯は血みどろの争いを繰り返したが、やがて一頭抜きんでて周を覆したのが秦王「政」である。

諸侯をなぎ倒し乱世を統一した「政」は、紀元前221年、都を「咸陽」に定め自ら「皇帝」と称した。

中国の古代帝国「秦王朝」の誕生である。始皇帝は早くもその2年後、紀元前219年に全国巡行の旅に出る。

旅に先立って始皇帝は会稽山に登り、天下統一の功績をたたえる碑を建てた。その後琅邪に三ヶ月滞在した。この時徐副は1回目の「不老不死薬」に関する意見書を上奏している。

史記の「秦始皇本紀」には、「徐市」(じょふつ)らは始皇帝の命を受けて海へ出たが神薬を手に入れる事は出来なかった。「蓬莱へ行けば必ず神薬を得ることが出来ます。しかし我々はいつも大鮫に苦しめられてついに島へ行くことが出来ませんでしたと偽って上奏した。」とある。 第二回目の始皇帝の巡行は紀元前210年である。徐副は、この時再び琅邪を訪れた始皇帝と会見し再度「仙薬」を求めて渡海すべしとの命を受ける。史記の「淮南衡山(わいなんこうざん)列伝」によれば、「・・・。始皇帝大いに喜び、良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海させた。徐副は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとどまって王となり、帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ。」となっている。 天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、特に「不老不死」の薬探しに躍起になっていた。徐副はその白羽の矢が自分に立った事を知って遠大な計画を立てた。秦の始皇帝は咸陽城や阿房宮や万里の長城の建設など多くの土木事業を興したが、なかでも驪山(りざん)の麓に造営した巨大な陵墓のためには70余万人に登る刑徒を徴発して送り出し、建設が終わると大量に生き埋めの刑にした。他にも始皇帝の残虐ぶりはつとに有名で、この不老不死の仙薬探しにしても失敗して死罪になったという話も聞こえてくる。 自分も死罪になるかもしれないという事は容易に想像できたはずである。徐副自身が「不老不死」の薬などをほんとに信じていたのかは疑わしい。しかし断れば首をはねられる。1回目は何とか騙しおおせたが2度目はもう言い訳はできない。つまり帰っては来れないと悟ったのだ。そこで「王国」を建設するのに必要な人材、技術を一族から集め、始皇帝をだまして「秦」を脱出した。 「羅」教授は、秦の始皇帝がなぜ多くの神仙方士のなかから、特に徐副に「不老不死」妙薬探しの白羽の矢を立てたのかについて、始皇帝の本来の目的は、えん楡地方、「斉」の故地を、隅々まで一掃して「秦」への反乱を押さえ、将来の禍根を絶とうとしたのだろうと言う。 「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だからこそ、3000人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江(揚子江)、准河(わいが)、泗水(しすい)、済水(せいすい)の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。 暴虐な始皇帝の統治下から逃避しようとした民衆の集団脱出事件の例は他にもある。「後漢書」の「東夷列伝」に「辰韓のある耆老は、自分は秦からの亡命者で、苦役を避けてはるばる韓の地に逃れてきたと言った。」とあり、「三国志」にも、「陳勝らが蜂起して国じゅうが秦に背き、燕・斉・趙の民衆で朝鮮に逃亡した者は数万人におよぶ。」とあるように、秦の暴虐から生き延びようとすれば民衆は浄土を求めて海外へ脱出するしか道がなかったのである。当時いかに秦の圧政が凄惨なものであったかを物語る。(概略文責:HP制作者) 『史記』は、「徐福は童男童女を引き連れて脱出する時、稲を含む五穀の種子と進んだ農耕機具や生産技術を持って(五穀百工)東渡した。かれらは広い平野と沼地のある土地へたどりついた。」と述べている。

これはまさしく「渡来人のもたらしたイネと技術」を暗示する記述である。イネはやはり朝鮮半島経由ばかりでなく、中国大陸から直接北九州や太平洋沿岸(鹿児島、四国南岸、和歌山等)地方に伝わるルートもあったのではないだろうか。加えて最近の研究では、イネが朝鮮半島・日本列島に伝わったのはほぼ同じ時期であるという見解もある。だとすれば、従来言われてきた朝鮮半島経由というイネの伝播ルートは今後見直す必要性が出てくる。東シナ海を突っ切って、江南地方から済州島を経由して日本の九州西岸にたどり着くルートがあったのかもしれない。そのためには高度な船舶製造技術と確かな渡航技術が必要で、弥生時代初期すでに中国大陸にはそのような技術が存在していたとみるべきだろう。

羅教授の第二回目の調査書では、「徐福」一行は中国を出て済州島に到ったという報告になっている。そこから果たして日本へたどり着いたのかどうかは定かでないが、日本各地に残る「徐福伝説」を紹介し、九州西海岸に上陸した可能性を示唆している。<br>

後世の「遣唐使」船は、平底船で極めて波切りが悪く、風によっては帆を降ろさねばならずその為多くの漕ぎ手を必要としたが、それでも乗員と使節団合わせて500人を4隻の船で運んだ事が記録されている。1隻あたり125名である。最近中国で「秦」代の造船所の船台跡が発見された。そこから復元できる秦代の船の想像図は総量5,60トンのりっぱな外洋船である。これなら東シナ海を突っ切って日本へ到着できたかもしれない。想像以上に、古代の建造技術は進んでいたのかもしれないのだ。 日本における徐福伝説 今日我が国に残る「徐福伝説」は、以下の表に見られるように全国各地におよんでいる。ここには載ってないが大阪や 長野にも伝説がある。おそらく、記録は無いが伝承だけが残る地域はもっと多いと思われる。この内最も可能性が高そ うな候補地は、和歌山県新宮市と佐賀県佐賀市である。両地とも相当古くからこの伝説が存在する。新宮市の徐福祠堂 は江戸時代以前に建立されたもので、毎年8月8日に挙行される新宮市主催の徐福祭りには花火大会が開かれ、9月1日に は供養のための盆踊り大会が徐福遺跡保存会によって行われている。佐賀市の金立神社では徐福が金立山に登って薬草 を探したという故事にちなんで、1980年4月「徐福2200年祭」が行われた。

そもそも、この伝説そのものは一体いつ頃日本に伝わったのだろうか? 当然「史記」を読める人達が出現してからである。おそらくは、「遣唐使」制度が定着し、盛んに学僧達が中国の文化吸収に努めた頃からだろうと思われる。

「史記」を持ち帰った僧達はこの話を広めやがて日本中の人が「徐福」を知る。そして自らの故郷にある「渡来人去来」の言い伝えはこれに違いないと思う。そうか「徐福」だったのだ、という訳である。やがて「徐福」を祀(まつ)った祠(ほこら)が建ち寺が建つ。

実際本当に、その地を渡来人が訪れたのかもしれない。しかしそれが「徐福」一行だったのかどうかは謎である。3000人もの集団がもしほんとに日本に上陸したとすれば100人づつ乗ったとしても30隻、50人で60隻の船が要る。おそらく大半の船が航海中に離ればなれになるだろうから、日本のあちこちの海岸線に漂着した可能性もある。

今日「秦」(ハタ)さんと呼ばれる人達は渡来人の末裔である、という事になっており、京都や大阪に残る太秦(うずまさ)という地名も秦から来ているという。また、畑、羽田というような姓も「秦」から変化したものと言われている。

秦(ハタ)は秦(シン)でもある。秦の時代に来た渡来人という事で、十把ひとからげに「秦」(ハタ)と呼ばれたのかも知れない。

徐福が本当に一族郎党 3,000人を引き連れて日本に来たのかどうかは今となってはもう確認するすべもない。しかし実在

はほぼ確認できたわけだから、「秦」を出ていずこかへ旅だったのもおそらく事実であろう。「徐福」に象徴される中国人達の集団が、大挙して或いは散発的に日本列島に渡来したのはほぼ間違いない。「渡来人」と言うと我々はすぐ朝鮮半島からのルートを頭に浮かべがちだが、中国大陸から済州島経由で日本列島へ渡来した中国人達も結構な数に上るのかも

知れない。私には、「イネ」のルートはどうも朝鮮半島経由よりこれらの中国系渡来人たちがもたらしたもののような気がしてしようがない。

半年ほど前、家族でTVを見ていて現代中国の若者が写っているシーンがあった。若者だけではなく多くの中国人もまた出演していたのであるが、音楽を志す若者を特集している番組だったように思う。その時私の娘がふと呟いた一言は、今も私の脳裏から離れず大きな音響となって脳内をこだましている。「この人達の顔、私たちとそっくりね。」

そうなのだ。日本人にそっくりなのである。顔は生活レベルや環境により大きく変わると言われるが、好き嫌いや余分な先入観などを抜きにして言わせて貰えば、私には韓国人より中国人の顔のほうがより日本人に近いような気がするのである。NHKの特集でDNAの謎に迫る番組があった。4,5回のシリーズだったが見た方も多いと思う。あの中で現代日本人のDNA

がどこの国のDNAに一番近いかという話があった。その時は、現代日本人の20%は中国人、20%は韓国人、日本古来のDNAが10%以下、残りその他(東南アジア等)という構成だった。 「徐福」はやっぱり来ていたのかもしれない。

いずれにしても、渡来人達のもたらした灌漑稲作技術や神仙思想などは、縄文時代から弥生時代へ移ろうとしていた当時の日本に大きな影響を与え、以後の日本社会の方向も大きく定める事になるのである。