https://www.minyu-net.com/tourist/butai/080508/butai.html 【芭蕉ゆかりの信夫文知摺】より
(福島市)数々の伝説を残す歌枕の地
緑に囲まれた境内に残る芭蕉の句碑。芭蕉が来福して105年後、京都の俳人・丈左房が追恩の句会を記念し建立した
平安時代の古今和歌集に詠まれた歌枕の地で、平安貴族と地元の娘との悲恋物語や石の伝説など数々の言い伝えを残す信夫文知摺は、後世の文人の創作意欲をかき立てた。
伝説は、娘が都に戻った貴族に会いたい一心で文知摺観音に百日参りの願をかけたところ、一瞬だが文知摺石に貴族の面影が映ったと伝えられている。
俳聖・松尾芭蕉は1689年(元禄2)年、旧暦の5月、旅の途中にこの地に立ち寄り、「奥の細道」に「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」と詠んだ。
また、「石は近くの山の上にあったが、想い人の姿を映すというので当時の女性たちが収穫前の麦の穂を取って石を磨くことが重なり、それに腹を立てた農民が石を投げ落とし、上下が逆さまになって現在の地に落ち着いたと聞いた」という記述も残している。
信夫文知摺を管理する安洞院住職の横山俊邦さんは「芭蕉はすべてを調べた上で訪れていた」という。「平安時代、夫は防人として中央にとられ、生活を切り盛りするのは残された女性たちだった。当時の女性の心の支えが伝説の石であり、観音信仰だった。芭蕉は女性の心情を田植えする手元に重ね合わせたのではないか」と話す。
芭蕉を尊敬する正岡子規もまた約200年後の1893(明治26)年7月、ここを訪れ「涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり」と句を残した。
新緑の木立に囲まれた境内は、当時に思いをはせるのに十分な静けさが広がり、訪れる人を伝説の世界に誘っている。
https://hosomichi.roudokus.com/Entry/19/ 【しのぶの里】 より
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に石半なかば土に埋うづもれてあり。里の童部わらべの来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来ゆききの人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。
早苗とる手元や昔しのぶ摺
語句
しのぶもぢ摺の石 昔、陸奥国信夫郡から産出した石。忍摺という染物の型石と伝えられる伝説上の石。この石の上に布を置いて、その上に忍草を置き、バンバン叩くと草の色素が染み付いて複雑な乱れ模様ができる。恋に乱れた心の象徴として歌に詠まれる。現福島県福島市山口の文知摺観音(もぢずりかんのん)の境内にそれと伝わる石が残っている。「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(古今・恋4 河原左大臣)。この歌は百人一首14番に採られている。また『伊勢物語』第一段にも引用されている。 ■麦草 青麦の葉 ■試侍 摺り染をやってみる。
現代語訳
夜が明けると、忍ぶもじ摺りの石を訪ねて、忍ぶの里へ行った。遠い山陰の小里に、もじ摺りの石は半分地面に埋まっていた。
そこへ通りかかった里の童が教えてくれた。もじ摺り石は昔はこの山の上にあったそうだ。行き来する旅人が青麦の葉を踏み荒らしてこの石に近づき、伝承にある摺り染を試そうとするので、これはいけないと谷に突き落としたので石の面が下になっているのです、ということだ。
そういうこともあるだろうなと思った。
早苗とる手元や昔しのぶ摺
(「しのぶ摺」として知られる染物の技術は今はすたれてしまったが、早苗を摘み取る早乙女たちの手つきに、わずかにその昔の面影が偲ばれるようだ。「しのぶ」は「忍ぶ」と「偲ぶ」を掛ける。)
解説
しのぶもじ摺りの石とは昔、陸奥国信夫郡から産出したという石で忍摺という染物の型石と伝えられる伝説上の石です。この石の上に布を置いて、その上に忍草を置き、バンバン叩くと草の色素が染み付いて複雑な乱れ模様ができました。恋に乱れた心の象徴として歌に詠まれました。
百人一首で知られる「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」河原左大臣の歌です。私の心はみちのくのしのぶもぢずり模様のように乱れに乱れています。いったい誰のためにこんなに乱れていると思いますか。外ならぬ、貴女が恋しいからですよ。
芭蕉が訪ねた時はその石はなかば土に埋もれていましたが、田植えをする早乙女たちの手元のしぐさに、ふっと、信夫摺りをした時代はこうであったかと、いにしえの雰囲気が感じられたました。「早苗とる手元や昔しのぶ摺」。
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