釣舟草 Jewelweed — 場所: 石裂山神水 そば うえ田
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/7ffe8fd4b54391c621a7d799fe49aeea 【福島県の出羽三山】 より
___2福島の信夫山にも、丸子の地名が。鳥海山の伝説の丸子氏は、ここにも来ていた?
なので、出羽三山と信夫山は同じのを祀っているが、祀る人が言い伝えでは皇后とあり、月読命は闇を祀るとある。
もしかしたら、権力争いに巻き込まれ犠牲になった皇族などを弔うのが、月山なのかもしれない。または、罪を許すアジールのような場所。
神社はかくまることをしてきたのだから、熊野修験もアジールとした神社の存在を知っていて、天皇の血筋を絶やさないように道案内していた。
「誰ゆへに 憂き世を捨てて 隠れなば しのぶの里や 棲み家なるべき」(藤原兼宗)
信夫佐藤氏は、藤原秀郷の子千常を始祖とすると言われ、公清が佐渡の守に任じられたことにより、「佐渡」の「藤原」ということで佐藤を名乗った。
日本海の佐渡との交流があった福島県なのだから、福島県の出羽三山といっても過言ではない.
信夫山は、出羽三山と同じ神々を祀っており、標高280mくらいと小さい山なのですが、熊野山、羽山には月山・羽黒山・湯殿山神社を祀り、古峯神社、金華山、岩谷観音、薬師堂に七曲坂、虎捕山神、西国三十三観音などなど信仰がたんまり凝縮された里山なのです。
福島市内から歩いてもいけます。展望もよく散策コースがたくさんあってとてもよい里山なのですが、この小さな島みたいな山にたくさんの修験や講がより集まっているほど、霊山として有名な山です。
近くの阿武隈川を渡ると、松尾芭蕉の句が残る虎女伝説の巨岩もあります。
なぜ、この山がそんなに守られているのか?
不思議な物語がありそうです・・・。
その前に、登ってみないことには!!
初めて登った時は、南の羽山からけっこうきついルートで登りましたが、今回は北の古峯神社から登る。案外簡単に登れるのでお気軽コースで楽しめる。
かなり古いと思われるのは、イワクラや巨石がある事です。光もすごい!
自然のものもありますが、かなりすごいものがあります。
この小さな山でこれだけの巨石があるのも不思議で。
南から登った時はあまり気付きませんでしたが、北側は巨石だらけでした。
古峯神社の側にも大きなイワクラがありました。
看板の説明によると、「こぶがはら神社」とよび、三峯山、金剛山、石裂山の三山を祀る。
防火の神として信仰が深まり、ここからみえる村の人々が「講」をくんで、米作、養蚕の実りを祈願した。
「こぶがはら」は天狗信仰ですが、栃木県にあるので福島県でも古峯講が多いのだと思います。
ラッキーにも古峯神社を登りきって車道にでたら、ちょうどこの山のガイドをされている方に出会いました。
ちょっとお話を聞いたところ、黒沼神社というのが下にあるのですが、欽明天皇の皇后を祀っている。息子は羽黒神社に祀ったというのですが、最初は月山に祀ったという話。
その話を聞いた後に、立石に登ってみたから余計に女神の匂いぷんぷん。
黒沼神社は「みつはのみめ」を祀っている説もあります。
「闇御津羽神」の漢字の方かと。月山が闇を守ると説明にもあるので、闇=黒で月・星神かと思われます。
そこに熊野山、出羽三山が関係しており栃木県のこぶがはら神社があるのですから、余計に月や星神のイメージが強いです。
でもとても品のある信夫山!森の中はとても明るい。
古峰神社から先は、「立石」がある。(写真は一番下)その裏から見える景色は絶景です。
すぐ下に流れる松川の音がずっと聞こえているので、気持ちが良い山です。
が、放射能除去という看板が。
湧水とか水が冷たく滴る岩清水とか、飲みたいよね~。
自然豊かな森ですが、この看板は見ない方がよかったですねえ。残念ながらこれが現実・・・。
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信夫御山三社由緒
信夫山、西峯、お羽山には約弐千年以前より大山積見神、大国主神、少名彦神を斎祈する。
このお社を湯殿神社と号す。信夫山東峯、羽黒峯にはこれまた約弐千年以前、稲倉魂神(うかのみたま)を斎祈す。この社を羽黒神社と号す。
何々山という山号が無いのを注目して下さい。これはわが国に仏教渡来以前の神社である事を証明しております。
中に月山神社鎮座するのは、約千三百年前、欽明天皇、第一皇子、八田王、渟倉太命(ぬなくらふとのみこと)、信夫の里に下向なされ我福島の里でご崩御なされ、皇子の奉持されし御鏡を月読命の御霊代として奉納なされ、月山神社と号す。
そして皇子の御霊は羽黒神社に合祀する。
Sherin02山下の黒沼神社は、我信夫平野は千八百年以前は湖水であった。
その節、お羽山の烏ヶ崎より、お湯が湧き出ており、日本武尊蝦夷東征のみぎり、伏拝地内より羽黒神社、湯殿神社を拝まれたと申し、伏拝の地名残ると言い伝わる。
日本武尊がお出でになられたのは、約千八百年前である。
信夫山の蔭の本内地内に紀元弐千六百年記念の年に、鎮座。千五百年祭を執行した本内八幡神社がある。
これでも信夫山上の神社が古い事がうかがわれる。
此の湖が干し上がった際、湖の主 を黒沼大神として斎祀したのが、黒沼神社と号し、約千七百五十年前の鎮座である。
欽明天皇、后、石姫皇后は、皇子、渟倉太命、我福島に下向の後、その後を追って皇后もお出でになり、福島でご崩御なされ、黒沼神社に合祀する。
羽黒神社と黒沼神社の家紋は、それで菊、桐の紋章なのである。
・羽黒神社 五穀豊穣の神、など
・湯殿神社 福神、出雲神、など
・月山神社 暗闇を守り、災い災難を消す神。など
信夫山について----------------------------------------------------------
信夫は「忍ぶ」「偲ぶ」からであり、「篠」という奈良県の地名から由来しています。
篠の漢字源は、人の背後に水をかける禊からきている。みそぎのことを「修」といい、その時に用いる枝を篠といった。修験とは禊をすることである。
信夫山は大和からきた貴族が「忍び」「偲ばれる」所であった。
福島市の地層は古い1億年前の阿武隈山地と2千万~1千万年前の海底時代に作られた層の上に地殻運動(隆起・陥没)で陸地となったあとに堆積した土砂などで形成されている。
「福島」の地名由来はわからないが、「島」であることは展望台からみてもわかる。
ここが海や大きな沼地で、巨磐の島があったことを想像するとすごい景色だったかもしれない。
詳しくは、こちらへ(とても良いサイトです!)
「e-夢まなびと:信夫山の自然と歴史」
http://www.yumemanabito.jp/e-learning/channel/img/pdf/sinobuyamazenpen.pdf
信夫山は巨大わらじ祭りで有名だが、やはり伝説も多い。
信夫山の伝説--------------------------------------------
①黒沼のオロチと七曲坂の大ムカデ
昔々、公園入口の黒沼には、沼を七巻もするオロチ(大蛇)が住んでいて、周囲は常に生臭く、人間や獣の骨がそこここに転がっていたという。
ところが、これまた山の北側には数百年をへた大百足がいて、その大きさは七曲坂いっぱいもあって、人々を苦しめていた。あるとき、この二匹が争って、烏ヶ崎あたりで共に滅びてしまった。
この二匹の骨は、文久の山火事で燃えてしまったが、その焔は不気味に青白く、九日間も燃え続けたという。
②石姫皇后と羽黒大権現の話
29代目の欽明天皇のとき、その第一皇太子と第二皇太子の間で、王位を継ぐ争いが起き、第二 皇太子が30代敏達天皇になった。敗れた第一皇太子ヌナカフトノミコト(八田王)と、兄を応援していた石姫皇后様は前後して信夫山に逃れてきた。
その後、お二人が亡くなられたので、皇后様を黒沼神社に黒沼大明神として祀り、皇太子は羽黒山に羽黒大権現として祀ったと言われている。
また 六供は黒沼皇后についてきたお供の子孫だともいわれ、石姫伝説はほかにも沢山残されている。
③ねこ稲荷(西坂稲荷)の話
信夫山には、御坊狐といわれる人を化かすのが上手な狐がいた。また、一杯森には長次郎という狐が、石が森には鴨左衛門という狐がいた。(信夫の三狐)ある日、御坊狐は鴨左衛門に騙され、冬の黒沼で尻尾で釣りをしていたところ、氷が張り詰めて大切な尻尾を切られてしまった。神通力を失ったゴンボ狐(ゴンボとは尻尾が短いこと)は改心して、ねずみを追い払う蚕の守り神となって、ねこ稲荷に祀られたという。
④五つ石と熊野のババ
第一展望台の上に五つ石と云われる石が並んでいる。五匹の犬が吠えてうずくまる姿をしているが、その昔「熊野のババ」という老女が住んでいて、五匹の犬をかわいがっていたが、年をとり死んでしまうと犬たちは老女の死を悲しんでそのまま石になってしまったという。五つ石の付近は昔「熊野婆のお花畑」といわれ沢山の花が咲き乱れていた。
⑤なかんじょ池の老婆
羽黒神社の下には、寂光院というお寺があって、昔、女の人はその脇を女坂といわれる道を通って羽黒山にお参りしていた。その女坂になかんじょ池というのがあって、夕方になると手ぬぐいをかぶった老婆が小豆をとぎながら、なにやらぶつぶついっていた。「ショリショリショリ小豆とぎましょうか、それとも人とって食いましょうか」だから、日が暮れたら決してなかんじょ池には近づかなかったと。
昔々、どこからか大徳坊という大男がやってきて、たんばら(背負い籠)に三背ほど山土を入れて背負ってきた、ぽつんぽつん土をあけたところが羽黒山、熊野 山、羽山になった。たんがらの底に残っ土くれを、ぽんと空けたのが一杯森である。ひる飯にしようと飯曲輪(わっぱめし)を開けてみると、飯の間に小石が混ざっていたので、箸ではさんで投げたの が石が森だという。
⑦弁慶の膝頭石
義経と弁慶が信夫山にきたとき、弁慶が思わず膝をぶつけたら、ポコンと岩が凹んだという。膝を当てがってみるとぴったりとあう。
本参道入口に弁慶の足跡石もある。
信夫山散策MAP 史跡探訪編より
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___2_2信夫山は「御山」とよばれていた。
金山跡などがあるので、鉱山資源の宝庫であったと考えられる。
また、蜂子皇子と同じく、息子を追って逃れてきた母の小手子姫(女神山)の話と全く一緒。
古墳時代、跡目争いで破れた欽明天皇の長子淳中太尊がこの地に逃れて、息子に会いに信夫山まで訪ねてきたのですが、王子はすでになくなった後でした。
嘆き悲しんだ皇后は、腰掛石に座ったまま亡くなったという悲しい伝説が残っています。
磐座はそのときの記憶をもっているはず。と期待したい。
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