与謝蕪村12~20

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【与謝蕪村12】

謝蕪邨(しゃぶそん)

余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女歸省郷者。先後行數里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲。

   春風馬堤曲 十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川

○春風や堤長うして家遠し

○堤下摘芳草 荊與蕀塞路 荊蕀何妬情 裂裙且傷股

○溪流石點々 踏石撮香芹 多謝水上石 敎儂不沾裙

○一軒の茶見世の柳老にけり

○茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且儂が春衣を美ム

○店中有二客 能解江南語 酒錢擲三緡 迎我讓榻去

○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず

○呼雛籬外鷄 籬外草滿地 雛飛欲越籬 籬高墮三四

○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ

○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年此路よりす

○憐みとる蒲公莖短して乳を浥

○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懷袍別に春あり

○春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋邊財主の家 春情まなび得たり浪花風流

○郷を辭し弟に負く身三春 本をわすれ末を取接木の梅

○故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくだれり

○嬌首はじめて見る故園の家黄昏 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を待春又春

○君不見古人太祇が句 藪入の寢るやひとりの親の側

これが、安永六年、蕪村62歳のときの連作詩編「春風馬堤曲」である。藤田真一氏一押しの蕪村の至高の作品である。氏の解説に添って、物語風にしてみた。どうだろう。

“   やぶ入や浪花を出て長柄川

 風が心地よく吹いている春の一日、私は、故郷の村に昔なじみの老人を訪ねることにした。長柄川を船で渡り、対岸の土手道を歩く。昔、よくのぼっては遊んだ土手だ。土手から淀川を望むと、川を上る舟、下る舟が行き交い、気の遠くなるほど長い土手の道は往来する人々でにぎわっている。そのなかに、同郷の若い娘を認めた。後になったり先になったりしながら、言葉を交わした。しばらく見ないうちにきれいなお嬢さんになり、色っぽくなっている。三年前から浪花の遊里で働いているそうだ。きょうは藪入で、お暇をもらって故郷に帰るのだという。

 娘は突如、河辺に下りて、清流に生えるかぐわしい草を摘みに行こうとする。すると、茨が路をふさぐ。

「憎らしい棘だこと。どうしてそんなにやきもちをやくのでしょう。着物の裾を引き裂いたり、太ももを引っかいたりして、痛いったらありゃしないわ」

 流れの中に石が点々とあり、その石を伝いながら娘はかんばしい芹をつみとった。

「ありがたいわねえ、水の上の石さん。お前のお陰であたいは大事な晴着の裾をぬらさずにすみましたよ」

 道草をくいながら歩いていると、やがて一軒家の茶店の前にやってきた。しばらく見ないうちに、軒に垂れている柳も、心なしか老木になったような気がする。茶店のばあさんが、すぐに娘を見つけて、ばか丁寧なあいさつをする。

「元気そうで何よりだね。別嬪さんになって、きれいなべべ着て」

 店の中には二人の先客がいた。毛馬の田舎言葉を話している。娘の顔見知りの二人だ。茶代の銭をポイと投げ出して、「さあここへお座り」といって席をゆずって、店を出て行く。娘と私は一服しながらあたりを見渡す。古びた宿駅の家々の間からオス猫のメスを呼ぶ声がする。が、メス猫は来ない。別の家では生垣の外で親鶏が雛たちを呼んでいる。垣の外には柔らかい若草がいちめんに生えている。かわいい雛たちがピヨピヨと鳴きながら先を争って生垣を越えようとするが、生垣が高いので、三、四羽が落ちてしまった。

「あら、あぶない」

 店を出て、ふたたび歩き出すと、春草の路が三叉に別れている。私たちは、誘われるように真ん中の路を進む。この路が近道なのだ。路傍にタンポポの花が咲いていた。三々五々、あっち黄、こっち白と、一団ずつかたまって咲いている。

「そう、この道だわ。昔、この路でよく遊んだのよ」

 娘は昔したようにタンポポの茎をポキリと折る。すると、中から真っ白な乳があふれ出てくる。

「幼いころを思い出すわ。やさしいお母さんだった。お母さんにこんな風に抱かれて、春のように暖かくて。ああ、なつかしい」

 娘が堰を切ったように語り出す。

「今、大人になって、浪速の町で奉公しているの。お金持ちの御主人の家は浪花橋のほとりにあって、広い邸内にはもう白い梅の花が咲いているわ。流行のファッションも身につけて、青春を謳歌しているけど、ふと故郷のことを思い出すの。弟の面倒も見ずに親の元を去り、もう三年。親木を忘れ、末の枝にいい気になって咲いている梅の花みたいなものね。お母さんや弟には本当にすまないことをしたわ」

 私は娘と別れた。今は春たけなわ。娘の行く先は深い春が息づいている。娘はなつかしい故郷の景色の中を歩いて行く。柳の立ち並ぶ長い土手の路もようやく終わり、懐かしい家にたどり着くのだろう。久しぶりに見る我家。黄昏でよく見えないが、白髪の人が幼子を抱いて出迎える。しばらく見ないうちに白髪の増えた母親と、そして弟だ。きょうは来るか明日は来るかと待ちわびていたのだ。

 君は知っているだろうか、我が旧友の太祇の句を。この句を吟ずるたびに、私が幼少を過ごした故郷の村が思い出されてならない。

   藪入の寝るやひとりの親の側“


【与謝蕪村13】 より

蕪村は俳諧師兼画家である。俳諧師としても画家としても名を成した。が、俳諧では芭蕉に及ばず、画家としては大雅に劣るという評価が大半を占めている。

中村草田男は『蕪村集』の中で、「蕪村一派の俳諧は、私などにさえ、元禄時代のそれと比較して格段に劣るもののように思われる。素材的変化が計られているばかりであって、俳句(単句)との間に根本的な本質上の相違さえ示されていない」と手厳しい。同じ、中村で尾張の絵師、中村竹洞は『画道金剛杵』で、「大雅は高遠豁達の趣きをもっているが、蕪村は大雅におよばない点がある。それは、蕪村には誹気があるからだ」と指摘している。

俳諧は遊びだと明言し、「三日も芭蕉翁の句を唱えないと口の中に茨が生える」と語っていた蕪村だから、芭蕉に及ばぬと言われても仕方ないのかもしれない。が、画家を本業と自負している蕪村であるから、大雅に劣ると言われては、さぞかし無念であろう。私は、例えば芭蕉がベートーヴェンだとすれば蕪村はモーツァルトであり、大雅がゴッホだとすれば蕪村はゴーギャンであり、才能の量でなくて質が違っているのだと思う。

  きのふ花翌(あす)を紅葉(もみじ)や今日(けふ)の月

これは蕪村の句だが、この句どこかで聞いたことがあるような気がする。と、いろいろ思案していると、なあんだ、道元禅師の歌じゃないか。

  春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり

道元の歌は、日本の一年間の四季の流れを詠んですずしい気分になっているのだが、蕪村の句は、日本の四季を「今日の月」という一瞬に感得しているのだ。これぞ俳諧のだいご味じゃないか。

蕪村は辞世の句が鶯と梅の句であったように、梅と鶯の句を多く作っている。好きなのだろう。私も桜よりも梅が好きだが、鶯よりは杜鵑に惹かれる。犬よりも猫が好きだ。人に媚びを売らず、泰然としているからだ。蕪村は、京に二十年以上住んでいて、杜鵑の啼き声を聞いたのは二回しかないと語っている。蕪村にとって鶯は身近だったが、杜鵑は遠い存在だったのだ。蕪村の句に杜鵑の句が少ないのはいたしかたのないことかもしれない。

あれえ、ひょっとしたら? 今年は2016年。蕪村生誕300年ではないか!

蕪村は享保元年、1716年、今からちょうど300年前に生まれている。今年は生誕300年にあたる。うむ・・・天理ギャラリーで「俳人蕪村 -生誕300年を記念して」をやっていたではないか。会期は、平成28年5月15日~6月12日。すでに終わっている。いや・・・秋に京都国立博物館で「生誕300年 与謝蕪村」をやるじゃないか。そうだろう。そうじゃなくちゃ。会期は、2016年8月23日~10月2日だ。こりゃ、楽しみだ。まてよ・・・若冲と蕪村は同い年のはずだから、若冲も今年生誕300年のはず。・・・なあんだ、同じ京博で、冬にやるじゃないか。「生誕300年 伊藤若冲」 会期は、2016年12月13日~ 2017年1月15日。これも楽しみだ。

蕪村は、今でこそ有名だが、その素性は、秋成同様はっきりしない。世間では村の長の子じゃないかなど、いろいろな憶測が飛んでいるが、怪しい。一休禅師も、天皇の落とし子という説がまことしやかに説かれている。これは日本人の悪い癖だ。才能豊かな人は高貴な血筋と決めつけてしまう。ところが、天才なるものは、瓢箪から駒が出て、鳶が鷹を生むように、突然思いもよらぬところから現れ出るものなのだ。キリストも秀吉も怪しい素性じゃないか。人を見て、家柄を詮索するのじゃなく、その人自身を謙虚に見つめないといけないのだ。蕪村は、その素性が何であれ、やはり稀代の才人なのだ。

ところで、蕪村の句や絵や文は多く残っていて、その才能の結果は多く目にすることができ、性癖もある程度推測できるのだが、蕪村は実際のところどのような容貌の人だったのだろうか、と問うと、答えに窮せざるを得ない。今のように、写真も動画もないからだ。ところが、有り難いことに、弟子に月渓という優秀な絵描きがいて、その月渓が師の肖像を多数残してくれているのだ。木像さえ彫ってくれている。そのうちのいくつかを見ると、決して美男子じゃなく、愛想もよくはなさそうだが、角のとれた人好きのする容貌である。男にも女にも好感を以て迎えられていたのじゃなかろうか。

【与謝蕪村14】より

2016-06-24 Fri

東洋文庫に『蕪村句集講義』という3冊本がある。几董が編集した『蕪村句集』の全868句をすべて論議した記録である。月に一度くらいの頻度で子規の仲間が集まり、1回に十余句程度を読み討議する。初回が冬であったことから冬の部から始め、春、夏、秋と続き、明治31年1月15日から同36年4月6日まで、5年4カ月かけて読破したのである。参加者はトータル14名で、子規、鳴雪、碧梧桐、虚子、紅緑が主要メンバーである。ただし、紅緑は夏の部からの参加で、子規は明治35年9月19日に亡くなっているので、秋の部の途中までである。

内藤鳴雪(1847~1926年)東京出身

正岡子規(1867~1902年)愛媛出身

河東碧梧桐(1873~1937年)愛媛出身

高浜虚子(1874~1959年)愛媛出身

佐藤紅緑(1874~1947年)青森出身

輪講は主に、子規存命中は根岸の子規庵、子規没後は鳴雪の老梅居で行われた。予定した日が悪天となり誰も参加しないときもあったが、そんな日は子規が原案を書いて郵便で各自の意見を乞うている。輪講の筆記者は持ち回りで、初回は碧梧桐、2回目は子規、3回目は虚子と続き、最終の63回目は虚子で終わっている。

ところが話はこれで終わらない。鳴雪、碧梧桐、虚子らは、几董編『蕪村句集』を終えたのち、今度は露石編になる『蕪村遺稿』の輪講に取り組み、その成果を「ホトトギス」に明治36年5月から同39年6月まで連載しているのである。まさに、18世紀後半の文雅の熱にほだされ、蕪村に明け暮れた10年間だったわけだ。

現在分かっている蕪村の発句は2850余りである。生前、蕪村は自選句集を発表するつもりで発句1463句を撰んで筆記していたようだ。これが、『蕪村自筆句帳』と呼ばれているものである。この句帳をもとに、弟子の几董が、蕪村の一周忌に『蕪村句集』前編(868句)を上梓し、残りの後編は三周忌に発行する予定であった。が、どういう事情があったのか、出願までされながら未刊に終わった。そして、蕪村没後18年目、享和元年に『蕪村遺稿』(580句)として刊行された。『蕪村句集』868句、『蕪村遺稿』580句、合わせて1448句である。『蕪村自筆句帳』が1463句であり、その差15句であるから、『蕪村自筆句帳』の大半の句が『蕪村句集』と『蕪村遺稿』に採録されている。

それでは、蕪村直筆の『蕪村自筆句帳』はどうなったかというと、蕪村没後、弟子の月渓・梅亭らによって分割され、蕪村自筆であることを証する画を添え、屏風や軸物に仕立て直され頒布された。2011年時点で1055句が知られている。その中の最大のものが、山形県酒田市の本間美術館に蔵される「蕪村自筆句稿貼交屏風」の808句である。それを見ると、ヘ、、○、\などの合点が施されている。誰が付けたのか不明だが、蕪村の自信作ではなかったかと推量されている。

扨、

子規が参加した輪講の最後の日の記録を見てみよう。以下の文から始まる。

“碧梧桐記

明治三十五年九月十日夜、子規庵にて。会者、鳴雪、主人、虚子、紅緑、碧梧桐。是れ根岸庵に於ける最後の会合なりき。蕪村句集下巻九丁表より一枚。

  順礼の目鼻書ゆくふくべ哉

鳴雪氏曰く。順礼があって、それが何処かの通りすがひに、ふくべのぶらさがって居るのへ、目鼻を書いて行たといふのである。この文章を・・・“

当夜、子規の病はかなり悪化しており、苦痛を和らげるためにモルヒネを服用しての参加であった。弟子たちは心配して、枕もとでなくなく他所で開こうかと子規に尋ねると、子規は「枕頭でやれ」と言ったという。初めの間は、苦悶の中、冷静に思索し、時々意見を吐いていた子規であったが、途中から苦悶著しく、ただ議論を聞くのみとなったという。子規が最後に発言した場面が残っているので以下に記す。

“  人の世に尻を居(す)えたるふくべ哉

碧梧桐曰く。これは瓢の尻ぶとになって居る形と、丁度地面に座ったやうになって生って居る場合とを見て、図々しく尻をすゑて居ると、矢張多少嘲ったやうにいふた句である。「人の世に」は瓢奴が勿体なくも人間の世にといふやうな強い意味に見るのではなくて、ただ軽く人中へといふ位に見たいのである。

鳴雪氏曰く。瓢は空中にぶら下って居るのが基本であるのに、丁度土に尻をすゑて居たから、空中でない人の世にといふのであろう。

紅緑氏曰く。そこになると解釈的になっていやではありませんか。

子規氏曰く。尻をすゑるを土の上といふやうな解釈であるが、それはいかがか。普通瓢には可なりの大きさになると尻へすけ物をあてがって、それをぶらぶらしないやうに形の曲らんやうにくくりつけるものであるが、ここでも矢張其すけ物をした場合をいふのであろう。人間の世の中は誰しもあくせくとして少しも落着いて居ないが、其忙がしい中へ、すけ物へ尻をすゑてどっしりと落着いて居るといふのであろう“

【与謝蕪村15】より

 時は安永二年秋、西暦でいうと一七七三年、江戸時代の中頃である。所は京。まず、この物語の登場人物を紹介する。以下の四名。いずれも俳諧を職業または趣味としている者たちである。

 与謝蕪村〔ぶそん〕(1716~1783年)58歳。摂津国毛馬村の生まれ。関東東北を遍歴したのち、二十年ほど前から京に住んでいる。絵を生業とし、俳諧を趣味とし、55歳のとき夜半亭二世を継承し、室町通綾小路下町に居を定めている。

 三浦樗良〔ちょら〕(1729~1780年)45歳。志摩国鳥羽の生まれ。14歳のとき伊勢山田岡本町に移り住み、俳諧を紀州長島の百雄に学び、北陸加賀に遊んだ後、宝暦十二年、岡本町に戻り、無為庵を結び門人多数を擁した。明和三年に無為庵を退き、諸国を遍歴し各地の俳人と交わり、安永2年以降、しばしば上洛するようになる。

 高井几董〔きとう〕(1741~1789年)33歳。京の人。巴人門人である父几圭について俳諧を学び、明和七年に蕪村の弟子となる。

 竹護嵐山〔らんざん〕(?~1773年)70歳前後。江戸の生まれ。佐久間長水、のち蓮子につき、二師没後、蕪村の俳友楼川に師事する。明和七年ころ京に出て、嵯峨にある雅因の別墅、宛在楼に寄寓した。

 秋のとある日、昼から暗雲が立ち、雨もはげしく降り始めた。蕪村、几董、樗良の三人は油小路の嵐山の幽居の戸を敲く。窓からは灯りが漏れている。主人の嵐山は病臥に付している。元気づけようと三人はやってきたのだ。蕪村は得意の百鬼夜行の怪奇譚をする。蘇東坡の酔狂をまねたのだが、主人は耳をふたぎ、「そんな話より、四人で四吟歌仙を巻く方がよっぽど面白い」とつぶやく。そこで、蕪村が狐狸の寝所を思い、「薄は見えるが萩はどうか」と立句すると、樗良が夕べの秋の風情で付け、几董は舟便が終わった旅の憂いで第三句をつなぎ、主人の翁、嵐山もそれに続き、そのまま俳諧趣向とあいなった。

 蕪村が口火を切った。

「この辺りは薄が生い繁って、今にも狐や狸が出てきそうだけれど、萩の花はどこかに咲いているのだろうか」

 嵐山の幽居から外を見ると、暗い雨にかき消されて何も見えない。樗良が応える。

「薄も萩もあるのだろうが、何も見えない。雨に混じり、時折冷たい風が吹き込んでくる。もう、秋の日も暮れたのだろう」

 同じく、窓の外を眺めていた几董も感慨深げに語る。

「日が暮れ、渡し場の舟はもう出ませんから、宿に泊まらざるを得ません。昨日が九月の朔日だから、おぼろながらも今夜は二日月が出ているはずなのですが、あいにくの雨です」

 「そうだね。旅の様子は、日々一変して、そこがまた一興で楽しくはあるのう」

と、主人の翁がつぶやく。すると、旅好きの樗良が即座に切り込む。

「貫之の娘は幼くして亡くなったんだよなあ」

と、遠い遠い土佐日記の昔を偲ぶ。蕪村も追慕する。

「土佐から帰った貫之の悲しみはいかばかりか。半蔀(はじとみ)を開けて、しょぼ降る雨を避けても、したたり落ちる雨の音はやるせなかったろう」

 主人の翁も同情的だ。

「貫之は悲しみのために病に伏した。近侍の者が病魔退散を祈願して打ち鳴らす弓弦(ゆづる)の音も、夜のしじまにこだまし、かえって悲しみを増すばかりだったのだろうのう」

 「私も五十歳になり、気が弱くなってしまったようです」

と、几董が続くと、みな唖然とした。蕪村が言う。

「お主、まだ三十そこそこではないか」

「いえ、平安の昔を偲んでいますと、ついつい自分も年をとったような気になります」

「では、この古火鉢も年をとったことだから、頭巾をかぶせてあげようか」

 二人のやりとりに樗良が割り込む。

「過ぎ去った夏の日に清らかな花を咲かせた蓮も、枯れてしまって今は見るすべもない。蓮を愛でた宋の文人周茂叔(しゅうもしゅく)が偲ばれるわ」

 自分が五十歳と口に出したことから、冬枯れの風情になってしまい、すまなく思ったのか、几董が明るく話す。

「枯蓮の浮かぶ庭に小鳥がやって来ましたよ。春になったら鶯も飛んできます。待ち遠しいですねえ」

 少し場が明るくなったのか、主人の翁も続く。

「田舎の春の宴席で、娘さんに一杯お酒をすすめようかのう。でも逃げられるが落ちだろうな」

「その宴席は、おそらく若き貴公子が常陸介にでも任ぜられての祝賀の会であろう」

と蕪村が言うと、愛弟子の几董が続く。

「八重の桜の花一片が散って、その宴席の盃の中に浮かんだとしたら、さらにめでたいことでしょう」

 八重桜というのは花弁全体がぽたりと落ちる。一片がはらはらと落ちることはない。若い几董は知らないのだ。それはそれとして、この二人の師弟関係を羨んでか、樗良がちょっかいを出す。

「その春の宴も終わり、夜となり、霞も深くなってきた庭先に、ガサっと音がするので、よく見ると、矢傷を負った牡鹿が迷い込んでいるではないか」

「牡鹿が迷い込むとすれば、奥深い山寺の庭だな。里は春たけなわであるが、この山寺の春はまだ浅い。ふと上を見上げると、霞におぼろだが、月が出ている」

と、蕪村が興じると、几董が続く。

「そんな山奥では、訪れる人もおらず、寺に蓄えておいた大甕の酒も飲む者がおらず、いつしか酢に変じてしまいましょう」

 樗良が再びちょっかいを出す。

「その酒を酢になるまで寺の和尚が放っておくことはありますまい。山深いさびしいお寺の中だ。寂しさを紛らすためにも、おそらく独酌を楽しんでおられるはず。私は、鍛刀の精進潔斎ゆえの酒断ちと見定めたい。馬上の打ち物による合戦に用いるための五尺の釼でも鍛えていたのではあるまいか」

 ここで、蕪村が得意の古典の蘊蓄を語る。

「平安の武将に、源満仲(みつなか)という者がおった。摂津国の多田に住んでいたので、多田満仲(まんじゅう)と呼ばれている。あるとき、城を移ることになり、その居城鎮護のために、筑前より良工を招き、六十余日を費やして「鬚切」「膝丸」という二つの刀を鍛えさせ、代々伝家の宝刀としたというから、鍛えた刀はこの両刀であろう。天気もよく日柄もよいから、貴人の転居である移徒(わたまし)には絶好の日和である」

 師が言った“絶好の日和”の時期を、弟子の几董が定める。

「その日は、若葉が香る夏がよろしいでしょう。その若葉の先の方には、大海原が広がり、そのはるか沖合には白雲が立ち昇っております」

 几董が夢見るように遥か彼方を追っていると、樗良が此方の現実に引き戻す。

「浜辺の松の枝には、遅咲きの紫の藤が垂れておるようだが、いかがか」

 すると、元坊主の蕪村が反応した。

「その紫の房の束、人が死ぬるとき現れるという紫雲に見えるではないか。ただただ、念仏申して死ぬるばかりであろう」

 几董が受ける。

「その死ぬるお方は、叡山の慈鎮様でございましょう。上皇などがいでましになった昔を思い出しておられるのかもしれません」

 すると、今度は樗良が反応した。

「老僧山中隠棲の趣き、中国の林和靖(りんわせい)も負けておられぬ。客が来れば、湖上に舟を浮かべ、鶴を放って空に舞わせたという。その鶴が帰って来ぬのも趣きがある。いかがか」

 慈鎮、林和靖と、ちょっと場が高踏となりすぎた。そこで、蕪村が俗に転じる。

「鶴を待つ穏士であれば、紙を贖う銭もなかろう。興にまかせて壁上に詩を書き記しておるぞ」

 少し軽くはなったが、中国古典趣味が続いている。そこで、若い几董が華やいだ気分に転じさせる。

「穏士が詩を書くころは、日もとっぷりと暮れて薄暗くなっております。そこに、女が灯をともして持ってきます。灯に照らし出される女の麗しい姿態からは、ほのかに色香が漂っております」

 樗良も興味津々。

「灯を持つ女の黒髪に淡い雪がちらちら降り注ぐ。これから、恋人にでも会いに行くのだろうか」

 蕪村は決して女が嫌いなのではないが、恋の駆け引きは苦手。そこで、無粋な現実に転ずる。

「女が灯を持って急ぐ先は、訴訟に敗れて所領を奪われた人のもとだろう」

 弟子の几董が補足する。

「所領を奪われて立ち去る人が、後ろを振り返ります。目に入ったのは、灯を持った女ではなく、自分が丹精込めて耕した田であります。去年は旱で水の便が悪く干上がってしまいましたが、今年はその日焼田も稲がよく育っています。去るのはさぞ無念でありましょう」

 几董の言葉に豊作の光景を見た樗良が言う。

「豊作だ、豊作だ。秋の祭りで座敷に祝膳を並べよう。並べ終るころは祭の夜だ。折から座敷の膳に月の光がさし込んでくる。これからにぎやかな祝宴が始まるところだ。いかがかな」

 祭り好きの蕪村が続く。

「秋の祭りもたけなわ、通りを小商人が、さわやかな秋日和を喜んで、軽い足取りで飛ぶように歩いている。村は豊作で、商いも上々なのだろう」

蕪村「又平花見図」

 浮かれた小商人は、蕪村描くところの又平を髣髴とさせる。又平は近松の浄瑠璃『傾城反魂香』に登場する絵師である。几董も浮かれ気味に続く。

「小商人は、浮かれついでに道すがら、相合傘をしようと、おどけて日傘をさしている老女に声をかけるしまつでございます」

 樗良も納得。

「しかり。昔も今も変わらぬは、男女の間の恋心である」

 蕪村も曲がりなりにも恋の蘊蓄を語る。

「娘は何を隠して読んでいるのだろう。恥じらって見せないのは、きっと古の恋物語であろうか」

 途中から寝所で蒲団をかぶって寝ていた主人の翁、嵐山がやおら起き出した。消えかかった恋の燃えさしに火が点いたのであろうか。いや違う。翁の口から出たのは、やはり、俳諧の先達への思いである。

「春の夕間暮れ、娘が思いを馳せたのは、日本海に面した東国の景勝地、象潟の入江であったのであろう。かの西行や芭蕉が訪れて、“象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐ蜑の釣舟”、“ゆふばれや桜に涼む波の花”などと詠んだ、あの象潟の桜を偲んでいたのであろうのう」

 そこで、いよいよ若い几董が歌仙を〆る。挙句である。

「東国の桜といえば、千載集に“さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな”というのがあります。この古き都の志賀の山々は霞に覆われていますが、今も、ときどきホトトギスの鳴き渡る声が聞こえて来ます」

 ひと巻が終わった。四人は少し腹ごしらえをし、次の歌仙に入る。しばらく続けていると、お互いに興が乗り、腹鼓を打って、樗良が“秋のくれ泣を此日のあそびかな”とやる。とまれ、深夜の鐘の音が響くころ、歌仙四巻を終えた。一夜四歌仙のできあがりである。蕪村はその巻を小脇に挿んで持って帰り、夜が明けて読みかえしてみると、少し物足りない。前夜は小判と思っていたのが、今朝見ると、柿の古葉に様変わりしている。しかし、昔風の優雅な薫りをかもしだしているのは値打ちもの。「此辺(このほとり)」と題して、書肆の橘仙堂に渡した次第である。


【与謝蕪村16】より

2016-06-26 Sun

 時は安永三年3月23日。所は京。前年9月2日に、蕪村、樗良、几董、嵐山の四人で一夜四歌仙を巻いてから、およそ半年後である。伊勢の樗良は、前年から引き続き京に滞在していて夜半亭一門との交流もさかんであったが、嵐山は9月24日に亡くなり、今回は嵐山を除く三人による歌仙となった。昼に、蕪村の“菜の花や月は東に日は西に”を立句とし、夜は樗良の“彳(たたずめ)ば花もたたずむ山路かな”を発句として歌仙を巻いた。蕪村59歳、樗良46歳、几董34歳のときである。

 このころ、菜の花は魚油に替わる菜種油の原料として摂津を中心に広く栽培されており、陰暦二月に黄色い花がいっせいに開花する。蕪村が口火を切った。

「見渡すかぎり菜の花の咲つづく野に月がさしのぼり、日は西に傾いている。この情景、まさに陶淵明の“白日西阿に淪(しづ)み、素月東嶺に出づ“じゃ」

 横溢する色彩感、確かな絵画的構成、これぞ蕪村である。柿本人麻呂の歌に、“東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ”というのがある。当然、この歌も蕪村の脳髄に寄宿していたはず。後世、蕪村を慕った堺生まれの与謝野晶子の歌に、“川ひとすぢ菜たね十里の宵月夜母が生まれし国美しむ”というのがある。昔、上方は、菜の花の咲誇る国であったのである。樗良が付けて、春の夕景の余情を深める。

「その暮れなずむ春の日、遠くの山麓をさして鷺が霞にまぎれ飛んでゆく。絵になりますなあ。これでいかがかな」

 横溢する色彩に鮮やかな一筋の白が加わった。“見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ”、というのがあったが、やはり、昔の上方は美しむ国だったのだ。それはそれでいいが、あまりにも典雅で俳諧らしくない。そこで、几董が転ずる。

「鷺のいた場所は水辺であります。そこの渡し船の船頭は、舟客のくれる酒手が貧しいために、少々しょぼくれ気味なのです」

 暮春の情感に俗な人情がほどよくマッチしていて、俳趣がある。以後、蕪村、樗良、几董と順番に最後まで行く。

 村「酒手をはずまない客は、横柄ずくの武士の一行と見よう。国替の途中と言うが、酒手をけちるほどだ、真っ赤なうそだろう、と船頭がぐちっておる」

 良「この武士の一行、国替にみせかけて脇差をこしらえたものの、いいかげん飽きてしまったようだ」

 董「夜が明けて、外を見ると雪です。退屈しのぎに、雪見としゃれて、一人、簔を着て外に出ます。雪中の簔の姿は、鶴が立つごとく、豊かで美しいものです」

 村「雪見の簔姿とは、風雅な人だ。武士は合羽で出仕するから、簔姿は庶民に身を隠す武士だな。そんな御仁が行くところは、仁和寺のある御室(おむろ)の辺りだな。“君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ”というのは小松の帝といわれた孝行天皇の詠まれた歌だ。その小松帝の御陵があるから、いつとはなく、誰ともなく、御室の辺りを小松の里と言うておる」

 良「御室の仁和寺といえば、門主覚性法親王と平経正との恋でござろう。清盛の甥っ子の経正が馬を繋ぎとめて、颯爽と入ってくる場面としゃれてみたいが、いかがかな」

 董「経正の住む家は、端午の節句のころで、軒に菖蒲を葺いてあります。経正の恋人が、経正のことを思い、その軒を偲んでおります」

 村「端午の節句といえば五月五日、この日に雨が降ると、“薬降る”といって、効多く珍重するのだが、軒下にいても雨の降る気配はない。日も暮れて灯をともすころとなった」

 良「すると、尺八の音が聞こえて来る。虚無僧たちがずらりと並んで尺八を吹いている光景はいかがかな」

 董「これらの虚無僧に幕府からお触れが出ました。激増する浪人を取り締まるようにとのお達しであります」

 村「年貢の取り立てにあたる庄屋が、村内を回り、早稲(わせ)の刈り入れもすみ、順調に晩稲(おくて)を収穫する見通しもついて、安堵しておるぞ。虚無僧が賊を捕えてほっと一息ついた気分と同じじゃ。」

 良「豊作なのは、天候が順調だったからで、近江路もからりと晴れ上がり、秋晴れのもと、人々がゆったりと満ち足りた気分になっておる。そんなところでござろう」

 董「夜になって、月も明るく琵琶湖の湖面を照らしております。琵琶湖のほとりの民家では、門前に繋いである舟の艫綱を解いて漕ぎ出し、月見としゃれるのであります」

 村「その門を、民家ではなくお寺の門としたらいかがかな。高貴な師僧の弟子で、僧都の位についた者が、立派な衣を身にまとい、周りの僧たちもほほえましく眺めておるぞ」

 良「その僧の一行は、花見に行く。そのにぎやかな花見の人出の中に顔見知りの家中の侍衆を見かけて一声かける、というのはいかがかな」

 董「花見の遊宴では、あちらこちらにたむろした人々が小袖幕を引きめぐらして歌舞伎の所作をまねて興じています」

 村「そんな華やいだ喧騒を嫌う御仁もいる。歌舞伎の真似や豪華な蒔絵の調度をかえって疎ましく思う人たちだ。そういう人たちには、春の日永も、もの憂く、けだるく感じられるのじゃ」

 良「そういった連中は、仏の御教えにひたすら執心するのだろうなあ」

 董「そういう信仰心の篤い人たちも、旅先で夜にでもなると、やはり故郷に残した妻子のことが気がかりで、手紙を認めるのでしょうね」

 村「そういうことは、武家にもあろう。老臣で若殿に頼りにされていれば、やはり、旅先で故郷の主君の屋敷のことが気がかりとなろう」

 良「若殿の信頼をほしいままにしている家老であれば、牡丹の園で開かれる豪奢な園遊会で、酒一斗も飲み干すのでしょうな」

 董「昼間であれば、日が赫奕(かくえき)と光り輝く中で、墨の芳香をただよわせ、墨痕淋漓(りんり)と名筆をふるわれる才人の姿がありましょう。唐に渡って文才をとどろかしたかの弘法大師空海や阿倍仲麻呂などが思われてなりません」

 村「渡唐の僧が、修行の功成って、観音示現の霊場である普陀落山(ふだらくせん)を、はや明日には立ち出るまでになっておる」

 良「中国趣味が続きましたので、ここらで転じることにしましょうぞ。件の僧は、精願成就とは関係なく、豆腐の精進料理に飽いたので、観音霊場を立ち去るのでござる。いかがかな」

 董「豆腐しか食えない僧であれば、普段は銭など持ち歩いたことはないでしょうから、わずかな銭でも戴くと、きっと袖袂は重たく感ぜられることでしょう」

 村「その貧乏人を譬えれば、海が近くなっているにもかかわらず、石ころだらけで、水深も浅い川のようなものだ」

 良「その河原に鶴が飛び立ち、折からの朝日で羽が輝いているのはどうだろうか。絵画的で色彩豊かで美しいと思うが」

 董「鶴の神々しさは、長年にわたって神に仕えてきた神官に通じます。しかし、この神官も、世間から疎遠となり、老いを感じているのでしょう」

 村「それは、露霜を前に捨てかねている用なき古傘の風情じゃな。用なしとて捨てるわけにも行くまい」

 良「古傘のように零落した身であれば、金策のために宿替えも必要で、春日の里へ移り住むということもあろう」

 董「早朝、起きぬけに辻に出ますと、この落書。おかしくもありますが、身につまされる話であります」

 村「この落書を書いた御仁は風雅穏逸の人であろう。茶の水を汲もうとして手をさしのべると、浅井の水がきよらかに澄んでいることよ」

 良「風のある日より、かえって風のない日に桜の花は散るもんだ。その花が浅井の澄んだ水に落ちて行く。絵になる。いかがかな。」

 董「暮れなずむ春の日に、欄干に立ち、この落花を見ながら、春の思いにふけっている男がいます。私には在原業平の姿がありありと浮かんできます」

【与謝蕪村17】より

歌仙とは、5.7.5の長句に7.7の短句を付け、順次これを繰り返し36句をもって完成する連句の形式。第1句(発句)、第2句(脇句)、第3句(第三)・・・第36句(挙句)。初表6句、初裏12句、名残の表12句、名残の裏6句からなる。おおよそ、以下のようなゆるい決まりに従う。

◆ 初表は優雅に、神祇、釈教、恋、無常、人名、地名などは避ける。

◆ 初裏は転じて、叙事、叙情に豊か な変化起伏をつける。

◆ 名残の表は、さらに変化に富み、乱拍子の運びもあってよい。

◆ 名残の裏は、おだやかに、めでたく結ぶ。

◆ 想が後戻りして、打越(前々句のこと)ともつれることを嫌う。

◆ 恋の歌は必ず2句仕立てとし、恋離れの句が大切。

◆ 月の定座(じょうざ)は初表5句(5)、初裏8句(14)、名残の表11句(29)。

◆ 花の定座は初裏11句(17)と名残の裏5句(35)。

『ももすもも』の第二歌仙を見てみる。安永9年、蕪村65歳は、弟子の几董40歳と、3月頃から両吟歌仙を始め、書簡をもって付け合い、11月に夏・冬二巻を完成させた。信頼できる弟子と時間をかけて推敲した連句である。蕪村の自信作となった。その第二歌仙は几董の冬の句を発句として展開されている。花の定座は二座とも守られているが、月の定座は三座とも外してある。

初表

1.冬木だち月骨髄に入夜哉【几董】

2.此句老杜が寒き腸(はらわた)【蕪村】

3.五里に一舎かしこき使者を労(ネギラヒ)【村】

4.茶にうとからぬあさら井の水【董】

5.すみれ啄(ハム)雀の親に物くれん【董】

6.春なつかしく畳帋(たたう)とり出て【村】

初裏

7.二の尼の近き霞にかくれ住(すみ)【村】

8.七ツ限リの門(かど)敲(たた)く音【董】

9.雨のひまに救(スクヒ)の粮(かて)やおくり来ぬ【村】

10.弭(ツノユミ)たしむのとの浦人【董】

11.女狐の深き恨みを見返りて【村】

12.寝がほにかゝる鬢(びん)のふくだみ【董】

13.いとをしと代リてうたをよみぬらん【村】

14.出船つれなや追風(おひて)吹秋【董】

15.月落て気比の山もと露暗き【村】

16.鹿の来て臥す我(わが)草の戸に【董】

17.文机(ふづくゑ)の花打払ふ維摩経(ぎょう)【村】

18.頭痛をしのぶ遅き日の影【董】

名残の表

19.鄙人の妻(メ)にとられ行旅の春【董】

20.水に残リし酒屋一けん【村】

21.荒神の棚に夜明の鶏啼て【董】

22.歳暮(さいぼ)の飛脚物をとらせやる【村】

23.保昌が任もなかばや過ぬらむ【董】

24.いばら花白し山吹の後【村】

25.むら雨の垣穂とび越スあまがへる【董】

26.三ツに畳んで投(ほ)ふるさむしろ【村】

27.西国に手形うけ取(とる)小日のくれ【董】

28.貧しき葬の足ばやに行【村】

29.片側は野川流るゝ秋の風【董】

30.月の夜ごろの遠きいなづま【村】

名残の裏

31.仰ぎ見て人なき車冷(すさま)じき【村】

32.相図の礫(つぶて)今やうつらし【董】

33.添ぶしにあすらが眠(ねぶり)うかゞひつ【村】

34.甕(モタヒ)の花のひら\/とちる【董】

35.根継する屋かげの壁の下萌に【董】

36.巣つくる蜂の子をいのり呼(よぶ【村】

蕪村連句の注釈書はいくつかある。以下が主なものである。

・潁原退蔵編『蕪村全集〈第2巻〉連句篇』(1948年刊)

・昭和女子大学連句研究会編『蕪村連句研究』(1962年刊)

・野村一三著『蕪村連句全注釈』(1975年刊)

・暉峻康隆監修『蕪村連句―座の文芸』(1978年刊)

今回は、野村一三著『蕪村連句全注釈』に従って、解釈してみる。

初表

1.冬木だちあり。寒月のきびしさが骨身にしみわたる。

2.この発句は杜甫のいたいたしい腸にも通じている。

3.勅使など、高貴な使者のために五里ごとに一軒の休む家を設けてある。

4.使者に出す茶の水は浅い井戸の水で結構間に合う。

5.使者がすみれを啄む親雀に何か食べ物をやってやろうとしている。

6.使者は春を懐かしんで、懐紙をとり出して歌でも詠もうとする。

初裏

7.二の尼が隠棲しているところは都に近いが霞にかくれている。

8.二の尼の住む門を午後四時ごろ誰かが敲く音がする。

9.雨のすき間を縫って、救いの兵糧を送ってきた。

10.兵糧が届いたのは角弓で北辺守る能登の浦人のところだ。

11.能登の浦人に弓で打たれた女狐が深い恨みで振り返りながら逃げる。

12.狐を射た浦人の寝姿は後悔の念で鬢が乱れている。

13.就寝中の恋に悩む女性に同情して代作の歌を相手の男に贈る。

14.秋の追風がどんどん船を遠ざけてしまい代作の歌を届けられない。

15.出船のあと月が落ちて、敦賀の山里は霧が深く暗くなってしまった。

16.鹿がやって来て私の草庵の戸口に臥した。

17.花も迷いの種とぞと、文机にある花を維摩経で花を打ち払った。

18.春の日永の頭痛が耐えられず、いらだって維摩経を使ってしまった。

名残の表

19.田舎に嫁ぐために引っ張られて行く春の旅のいとわしいことよ。

20.洪水で助かったのは酒屋一軒とは、いやはや恐れ入った。

21.荒神の神棚に鶏が飛び乗って夜明けを報じるとは、これも恐れ入った。

22.それで、歳暮物を持ってきた飛脚に物をくれてやった。

23.保昌も任期半ばを過ぎ、任国に名残を惜しむ気分が湧いてきたようだ。

24.山吹の花が散ったあと、続いて茨が白く咲き立った。

25.驟雨があり、雨蛙が元気に垣根を跳び越える。

26. 驟雨のため、干してあった莚を急いで三つに畳んでしまいこんだ。

27.西国の問屋筋では、冬の日暮れ時、証文の受け渡しがせわしく行われる。

28.片や貧しい家では、葬列が足早に野辺送りに向かって行く。

29.野川の片側に家々が並ぶ町にわびしく秋風が吹く。

30.月のある夜ごとに遠くの方で稲妻がピカリと光る。

名残の裏

31.仰ぎ見ると帰って来た牛車は空である。何とすさまじいことか。

32.空車の主は合図の礫を打ち付けて、誰かを連れ出そうとしているよ。

33.礫の合図で、阿修羅の横に添い寝している女が、阿修羅の寝息を窺う。

34.花瓶の花は風もないのにひらひらと散り落ちる。

35.柱の根継をしている部屋の陰で春の草が一斉に咲き出そうとしているよ。

36.根継ぎに驚いた親蜂が子の無事を祈ってぶんぶんと啼きたてている。

参考のために、昭和女子大学連句研究会編『蕪村連句研究』の解釈を見てみよう。この本では、複数の先生方が、一句、一句、子規たちの『蕪村句集講義』のように論議していく形式である。本歌仙については、玉井幸助(昭和女子大学学長)、吉田澄夫(埼玉大学教授)、石森延男(昭和大学教授)、木俣修(宮内庁御用掛)の四人が語り合っている。初裏の4句目の場合を覗くと以下のようだ。面白い。

【玉井】 次へ行きましょう。次へ。 ○女狐の深き恨ミを見返りて 妖怪趣味が出ている。前の句とのつづきは男狐を射てしまい、恨んでいる女狐を見て立ち去る光景ですね。

【吉田】 女狐が見かえりてか、猟師が見かえるのか。

【水俣】 それは猟師でしょう。

【石森】 私は実は、自分の夫を殺されたので生き残った女狐がうらめしそうに見かえしたと女狐と解釈する。

【吉田】 そうですね。猟師が見かえったのを「深き恨みを」とは少し無理なような気がするが。

【木俣】 にらみかえして居なおるのだ。

【吉田】 狐はふりかえってみる習慣がある。逃げる時にチラッとこちらを見かえる。

【木俣】 そうなると「を」がちょっとね。

【石森】 しいて言えばね、少し無理だが・・・

【玉井】 俳諧ではそう使いますね。


【与謝蕪村18】 より

2016-06-28 Tue

蕪村の手紙は多数残っている。現存するのが400通ほどある。芭蕉の場合のおよそ2倍である。しかも、家庭を持たなかった芭蕉に比べ、蕪村の場合は妻子がいて、しかも遊里での遊びも嫌いではなかったから、庶民的な匂いがプンプンしていて面白い。祇園の妓女、小糸への老いらくの恋の手紙はすでに紹介したから、ここでは、まじめに俳諧を扱った手紙を紹介しよう。

安永9年に、弟子の几董に出した「ももすもの」の歌仙推敲の書簡が多数残っているで、その一部を以下に記す。

安永9年7月23日

“此のほどの御会不座、甚だ残念に御座候。愚老所労も最早よろしく候。御安心下さるべき候。

  冬こだち月骨髄に入夜哉 キ董

   沓音寒き柴門の外

   此句老杜が寒き腸

   杜詩を諷へば寒き唇

右三句いづれも然るべくや、御定めの上、第三あんじ下さるべく候。「無げいのおもひ」もよろしく候へども、とかくワキしみたれ候方にて、一巻引き立て申しまじく候。右の「冬木だち」は実に杜子美が語風これあり候。早々御返書相待ち申すことに候。以上“

安永9年7月25日

“  冬木立月骨髄に入夜哉

    此句老杜が寒き腸

   五里に一舎かしこき使者を労ひて

右のワキ・第三に相い極め候。四句、五句早々工案なさるべく候。とかく表は余りむつかしきは見倦いたす物故、さらさらといたす方よろしく、「冬木立」の句は悲壮なる句法にて、実に杜子美がおもむきこれあり候。それ故、直に右のワキ付け候。第三の意は、もろこしにて隣国或ひは遠き境などへ使をつかはし、諸侯のむつびをいたすおもむき也。五里五里ほどに休み茶店などを置て、使をもてなす光景にて候。右二句それに尋常の句法にてはなく、くわしき事は筆談につくしがたく、猶面語を期し候。以上“

以上、発句から脇句、第三句までの推敲のあとがよく分かる。蕪村は、几董の発句“冬木立・・・”に杜甫の趣きがあって気に入っている。そして、自分の脇句を3句考案し、几董にいずれがよろしいか問い、それを踏まえて第三句を案ずるよう催促している。が、その二日後には、すでに、脇句を“此句・・・”に決め、さらに、第三句まで自分で作ってしまっている。そして、第四、第五句を早く作るよう催促している。句作りへの執念が彷彿としてくる。

この時期、蕪村は本業の画の方は多作であった。したがって、趣味の俳諧の方は、その画作の合間にせざるをえないため、直接会っての論議ができず、そのために手紙のやり取りになったのかもしれない。そうであるとすれば、後世の我々には幸いであったのである。吟詠の結果のみならず、その苦吟する途中経過を垣間見ることができたのであるから。とまれ、面白い。日ハムの大谷が本業の投手として活躍する傍ら、打者としても相当の貢献をしている、いわゆる二刀流の姿を、画と俳諧の蕪村にも見ることができる。


【与謝蕪村19】より

蕪村の手紙には、秋成の消息に関する話題が入っているのがいくつかある。二人は、俳諧仲間として親密な交流を図っていたことが分かる。

安永3年11月23日 大魯宛

“無腸子(=秋成)へ御会いなされ候はば、よくよく御致声下さるべく候。梅女(=大阪新地の妓女、のち月渓の後妻)へも然るべく。念珠御せわ、忝く存じ奉り候。家内のこらず無事にくらし申し候。かしく”

安永5年2月18日 正名宛

“今日几董より申し来たり候は、大魯書通これ有り候。東菑様(=正名)と雅俗とも絶好いたし候との事、これはこの程、蚊しま法師(=秋成)上京にて、あらあら承り候。さも有るべき御事とは存じ候へども、左様に急に絶好とは驚き入り申し候。もちろん芦陰法師(=大魯)不埒は嘸(さぞ)と存じ候へども、しばらくも御懇意なされ候御義に候へども、何とぞ思し召しかへられ、今一度和平を御調ひ下され候はば、愚老(=蕪村)においても大慶の至りに存じ候。此の義くれぐれ春作様ならびにかしまのおやじ(=秋成)とも御相談なされ下されたく候・・・むめ女(=梅女)、此のほど相達申し候。貴君御男ぶりも至極に候ゆへ、何ぞおかしきもの揮毫仕り候はば、御慰みに進上仕るべきと心がけ罷りあり候。御近作承りたく候。はいかい大の御上達恐れ入り申し候。かしく”

安永5年2月21日 几董宛

“むてふ(=秋成)発句参り候由、すり物の事はいかが致すべくや。御めにかかり御そうだん仕るべく候。しかしいらぬものかにて候”

安永6年5月24日 正名・春作宛

“さても無腸(=秋成)はいかが御入り候や。絶ておとづれもなく候。御ゆかしく候。宜しく御伝へ下さるべく候”

以上の手紙によると、秋成は安政3年から5年ごろにかけて京の蕪村、几董、大坂の大魯、正名らと頻繁に交流している。実際、蕪村は、安永3年に秋成の『也哉抄』の序文を書いているし、秋成は安永5年に蕪村の『続明烏』の跋文を書いている。

このころ、秋成は、安永2年に加島村で医業を始めたばかりで、安永5年には『雨月物語』が刊行されて評判を呼んでいる。国学の勉強も進んで、宣長との論争もそろそろ始まろうかという時期である。四十前半、秋成のもっとも油ののっていたころなのだ。

蕪村の方は、画では『平安人物志』画家の部に掲載され、俳画も画き始めたころで、俳諧では夜半亭宗匠として樗良、暁台など遠来の俳人との交流も盛んで、安永6年春には「春風馬堤曲」の入った『夜半楽』を刊行している。蕪村の方ももっとも油の乗った時期なのである。ただ、娘くのを安永5年暮れに結婚させたが、半年後には離縁させている、そんな時期でもある。

蕪村と秋成を結びつけていたのは几董と正名のようだ。二人とも俳諧をきっかけとして、秋成と私的にも親密な交流を結んでいたと思われる。

大魯は蕪村がその才を高く評価していた弟子だが、性格に難しいところがあり、蕪村の門人たちとよくトラブルを起こしていた。そして、そのトラブルが原因で、安永2年夏、京から大坂に移っていたのである。しかも、上の手紙によると、その大坂でも自分の弟子の正名と問題を起して絶交してしまった。このあと、大魯は兵庫へ引っ越していくのである。

また、上の手紙によると、どうも秋成は大坂新地の妓女梅女とも親交があったようだ。秋成は遊里に関係あるところの生まれであり、若いころ遊里で放蕩三昧していたのだから、梅女と関係が出来ていても不思議でない。後年、秋成と月渓は茶友として親密になっているから、月渓と梅女の間をとりもって結婚させたのは秋成であったのかもしれない。

こんな手紙もあったぞ。

安永5年9月6日 正名宛

“一、ちよ良下坂、御出会なされ、御はいかいもこれ有り、蚊しま法師(=秋成)も出合いのよし、佳興さぞと想ひやられ候。樗良、発句題を出し候所、不雅なる由、文章家(秋成のこと)のさた、さもこれ有り存じ奉り候。

一、御句いづれもよろしく候。扨「今更」の句評の事、樗良も蚊しま(=秋成)も御気に入らず候よし、いかさま画法師(=蕪村)の添削のごとくこれ無く候て、随分よろしき御句と存じ奉り候。愚評は只々、「今更に・・・・・・我に添」 是にて至極と存じ奉り候。しかと御極めなられ然るべく存じ奉り候。しかし蚊しま法しへは御さたなし、然るべく候“

樗良と秋成が連句の付け合いをして、樗良の発句に対して秋成がケチをつけたらしい。それを、蕪村は、文書家の秋成のことだから、と納得している。秋成のことを、「かしま法師」と呼んでみたり、「かしまのおやじ」と呼んでみたり、「文章家」と呼んでみたりと、どうも蕪村は、秋成を才あれども変人だとみなしており、とうてい学者とも、いわんや医者なぞとはこれっぽっちも思っていないようだ。また、正名の「今更に・・・」の句を、樗良も秋成も気に入らぬと申しているようだが、自分はいいと思うとゴマを摺り、これは秋成には内緒だと、蕪村の気配りが感じられて面白い。

蕪村は、最晩年の手紙でも秋成の消息を気にしているので紹介する。

天明3年10月5日 正名宛

“愚老も此ほどは持病の胸痛、よほどこまりはて申し候。しかし持病の事と、さわぎ申さず候。その後上京も御座なく候や。さてもさても浪花も寥々として、一向風雅のさたも聞こへず候。京師はまだ息が通ひ候かと存じ奉り候。道立子、折節御うはさ申し出で候。余り御遠々しく候故、かくのごとくに候。扨も近年画と俳とに諸方よりせめられ、ほとんどこまり申す事に候。春作様、よろしく頼み奉り候。無腸御出会も御座候はば、御伝下さるべく候。此の方、妻・むすめ、くれぐれ御致声申し上げ候”


【与謝蕪村20】 より

与謝蕪村絵入り書状

蕪村の手紙は、そのほとんどが門人や俳友へのもので、中には絵入りのものもあって楽しい。上の書簡は、安永7年10月21日付け、尾張の俳諧師弟、暁台、士朗宛のものである。冗談なのか、本気なのか、上京しながらさっさと帰ってしまった暁台たちに不満たらたらである。が、手紙の最後にジョークを利かした俳画が付いているから、おそらく親愛の情を込めた恨み節なのだろう。

“先頃は不思議なる御上京よろこばしき事に御座候。寒気の節三君御無恙(むよう)にて御帰郷なされめでたく存じ奉り候。しかし余り草々たる御滞留にて、残念の事ども筆紙に尽しがたく候。殊に暮雨叟(=暁台)はあとに御残りなられる候つもりに候処、さたなしに御同行、さりとはつまらぬなられかたと、道立・我則・月居・これ駒など打ち寄り罵り申し候。別して道立・月居・これ駒はいづれも一会宛の亭主をつとめ、三会はおもしろく楽しむべしとかねておもひ居り候所に、いかなることにやと恍惚として夢の心、甚だ遺憾の体(てい)に候。

一、士朗君仰せ置かれ候ものども此のたび揮毫相い下し申し候。「龍門」の二字も下し申し候。是は余り拙き物に候間、御用ひ御無用になし下さるべく候。

一、宰馬子・最平子・大野屋の主人・求馬(もとめ)公へもよろしく御致声下さるべく候。かねて御たのみの画は不日に相い下すべく申し候。

一、おくの細道の巻、書画ども愚老揮毫仕り候物、近々相い下すべく申し候。御覧下さるべく候。是は両三本もしたため候てのこし置き申したき所願に候。貴境は文華の土地に候故、一本はのこし申したく候。しかし紙筆の費えもこれ有り候故、宰馬子などの財主の風流家にとどめ申したく候。

一、閭毛(りよもう)君へ別に書状上げず申し候。くれぐれ御伝声下さるべく候。とかく筆不性御あはれみ下さるべく候。此のせつ画用せはしく、発句は一向に意を得ず、何事も追々貴意を得べく候。かしく

十月廿一日         蕪村

暮雨主盟 士朗国手

  茶の花や石をめぐりて道を取(とる)

    又春の句にしては

  道を取て石をめぐればつつじ哉

かくのごとくふれ候はんかと猶予いたし候。「つつじ」にては只の親父に相いなるべく申すか、両子の御高論相い待つべく申し候”

以上が手紙の全文で、末尾の戯画には「蕪村写於雪楼中」とある。以下の拡大図のとおり、女を右手に抱えている暁台、頭を丸めて法体にしている士朗、片手を挙げて踊っている蕪村が描かれている。そして、暁台の上に「ヨウこちのこちの、かうも有う歟、尾張名古屋は士朗でもつ」と文句を添え、士朗の上には「朱樹台(士朗の別号)を已来やくたいと改マショ、口合でまいろう、久村キヤウトイキヤウトイ」とあり、蕪村の上には「歯の痛みもとんとわすれた」とある。

与謝蕪村絵入り書状・部分

「雪楼」というのは蕪村行きつけの料亭で、この画から、暁台が色好みであったこと、法体の士朗は医者であったこと、そして士朗も蕪村もその表情から、やはり色が嫌いではなかったことが分かる。ところで、よく考えると、この戯画は蕪村の貴重な自画像ではないか。蕪村って、こんな顔だったのか、と思いきや、どこかで見た顔だ。そうだ、あの「学問は尻からぬけるほたるかな」の自画賛の居眠りしている書生の表情とそっくりではないか。あの「書窗懶眠」と題された俳画は自画像だったのだ。

蕪村筆 「学問は」自画賛

翌年9月12日に、今度は、蕪村が几董、百池をともない、粟津の幻住庵に暁台、臥央らを訪い、二日間にわたって俳諧三昧している。そのときの様子が、弟子の田福に宛てた9月15日付けの手紙から偲ばれる。

“・・・十二日、几董・百池同伴、粟津幻住庵に暮雨(=暁台)を尋ね申し候。社中にとめられ、十三日帰庵仕り候。湖上の月夜おどろき入候。御在京ならば御同行有るべきにと、いづれも御噂のみ申し出し候・・・十二日、三井山頭にて夜半過るまで、はいかいいたし、下山の序(ついで)、柴屋町(大津の花街)の富永にうちいり候て、夜明るまで遊び候て、翌十三日又幻住庵のはいかい、ほとんど疲れはて候て、一向帰路は泥のごとくにて候き・・・”

なんということだ。蕪村門と暁台門の連中は、今度は大津の色町で夜遊びである。よく詠んで、よく遊ぶ、といったところか。蕪村このとき64歳である。相当な体力・気力の持主である。

蕪村は弟子の面倒見もよい。無頼漢で多くの仲間から厄介者扱いされた大魯や月居にも細やかな気配りをしている。もちろん、優秀な几董や月渓の才能を引き出すのにも尽力を尽している。天明3年9月14日付け、灘大石の酒造家、士仙宛ての手紙(月渓の紹介状)でも弟子思いの一面が顕著に出ている。

“・・・此の度愚老門人月渓と申す者は至って篤実の君子にて、なかなか大魯・月居がごときの無頼者にては御座なく候間、少しも御心置きなく御出会下さるべく候。愚老きっと御請け合ひ申す人物にて御座候。もちろん画は当時無双の妙手にて候。御なぐさみに画も仰せ付けられ下さるべく候。はいかいもよほどおもしろくいたし申し候。横笛なども上手にて候。かれこれ器用なるおのこにて、別して画は愚老も恐るるばかりの若者にて候・・・”

ちょっといいのを見つけた。蕪村門の田福、月渓、百池揃い組の蕪村筆「三俳人画賛」である。挿入句は以下の通り。

  薄月夜山は霽(はれ)の影法師【田福】

  其夢のかれ野も匂ふ小春哉【月渓】

  西山の棚雲よりしくれ哉【百池】