http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1026.html 【与謝蕪村】 より
月渓筆蕪村翁図
上は、月渓の筆になる「蕪村翁図」である。こんな蕪村の姿を見ると、蕪村を愛さずにはおれなくなる。この絵を見たとき、昔、土門拳の「風貌」という写真集で志賀潔の肖像を見たときと同じくらいの衝撃を受けた。月渓は蕪村晩年の門人で、蕪村の臨終に立ち会って、辞世の三句を書きとった人物である。のち、俳諧よりも画の才能を伸ばし、応挙に学んで四条派を創始し、秋成の茶友となった人物でもある。
与謝蕪村(1716-1783年)は、今や芭蕉に次いで有名な俳諧師であるが、俳諧は趣味で本業は画家であった。絵を描いては売りまくって生活していたのである。もちろん、俳諧の才もあり、二代目夜半亭を襲名し、多くの門人を抱えたのであるが、悪く言えば、自分の画を売るのに俳諧の門人たちのネットワークを利用していたのである。良く言えば、点者として俳諧でお金を取るのを清く断わり、自分の画いた絵のみで生計を立てた貧乏絵師であり、芸術家というより職人であったのである。
享保元年(1歳)、摂津国東成郡毛馬村に生まれる。両親について、また、本名、通称についても不明。
享保二十年(20歳)、この頃江戸へ下る。
元文二年(22歳)、宋阿(早野巴人、初代夜半亭)の内弟子となり、本石町に住む。
寛保二年(27歳)、下総結城の鴈宕のもとに寄寓。以後、結城を拠点に東北行脚を敢行したり江戸へ出向いたりする。30歳のころ出家。
宝暦元年(36歳)、上京。以後、丹後行、讃岐行の二回を除き京に住む。
宝暦四年(39歳)、この年から足掛け四年間、丹後に滞在。画を売りまくる。
宝暦十年(45歳)、還俗して与謝を名乗る。このころ結婚する。
明和三年(51歳)、讃岐へ行き翌年帰京。この間、画を売りまくる。
明和七年(55歳)、夜半亭を継ぎ俳諧宗匠となる。この年几董が入門。
安永二年(58歳)、月渓が初めて蕪村の句会に参加。
安永三年(59歳)、秋成の著書『也哉抄』の序文を書く。
安永四年(60歳)、この年の「平安人物志」の画家部門で応挙、若冲、大雅に次いで四番目に記載される。ちなみに、月渓は十四番目。
安永五年(61歳)、娘が結婚するも翌年離婚。以後、作画に多忙な日が続く。
安永八年(64歳)、九月に上京中の蒹葭堂を訪問。
天明三年(68歳)、12月25日未明没す。辞世の三句は以下のとおり。
冬鶯むかし王維が垣の外
うぐひすや何ごそつかす藪の霜
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり
鶯や梅を詠んでいるということは、年の暮なのに梅が咲いて鶯が鳴いていたのであろう。
田中善信の『与謝蕪村』から蕪村の人となりを拾ってみると、以下のようなものがある。なんとなく、磊落だが粗放でない蕪村の像が浮かび上がってくる。
・江戸に住んでひとり芭蕉の幽懐を探り、句を吐くこと瀟洒
・もっぱら「みなしぐり」「冬の日」の高邁を慕った
・俳諧では俗を離れ、しかも漢詩の持つ高邁な精神を学ぶ
・書や絵画の模写に巧みであった
・大雅は正統的で蕪村は正統外だが、傑出した文人画の好敵手(竹田)
・本作りのセンスは行き届いていた
・浄土宗の信徒であった
・話し上手で年寄りに好かれるタイプ
・若い時は圭角の多い人だったが、晩年は柔軟で洒脱な人柄
・相当の芝居好きで美女好き
・病気になるとそれをオーバーに言う癖がある(杜口)
・晩年、料亭に芸妓をはべらせて酒を飲む茶屋遊びに熱心であった
http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1027.html 【与謝蕪村2】より
蕪村の絵画は点数も多いが、様式が多彩で、南画風の絵、清画を取り入れた絵、南蘋派の写実的な絵、俳画風の絵などがある。蕪村の代表的な絵画を発句とともに、いくつか紹介しよう。
蕪村・夜色楼台図
まずは生涯最高の作といわれている個人蔵「夜色楼台図」。紙本墨画淡彩、一幅、28.0×129.5センチ。上半分には、墨のむらむらに胡粉をまじえた夜空。雪をはらんで暗く垂れこめる空である。その闇のなかに夜目にも白く浮かぶのが、京の東山(私は昔、東北のどこか雪深いところかと思っていた)かと思われる連峰。降ったばかりの雪のやわらかさを感じさせて高く低く連なる稜線が美しい。そしてその薄墨の山麓に、画面左上から右手へと、宵闇にまぎれ、それぞれに雪を頂いて幾十もの低い屋根がひしめく。なかに二階建ての「楼台」がいくつか、窓に代赭の薄赤い燈をにじませている。以上、「美の巨人たち」解説から。
うずみ火や我かくれ家も雪の中(蕪村)
蕪村・鳶鴉図
次も有名な北村美術館蔵「鳶鴉図」。紙本墨画淡彩、双幅、各133.5×54.3センチ。 わが国南画の大成者である蕪村の作品には俳趣的志向を示すものと漢画的志向を示すものがある。本図は後者の例であり、激しい自然に対する鳶鴉【とびからす】の姿を墨画の手法で描いたものである。「新緑杜鵑図」とともに“謝寅”落款を有し、晩年の作であることが知られる。以上、国指定文化財等データベース解説から。
鳶の羽も刷(かひつくろひ)ぬはつ時雨(去来)
日ころ憎き鳥も雪の旦(あした)かな(はせを)
蕪村・陶淵明山水図
次は、筑西市の個人蔵「陶淵明山水図」。絹本墨画淡彩、三幅、各100.3×40.5センチ。絹本著色の軸物で与謝蕪村三十歳前後の作。山水と陶淵明の三幅対で、中央の軸は無絃の琴を奏でる陶淵明の図、左右の軸は山水が画かれ、“子漢”の落款がある。今日残っている蕪村最古の筆跡で、画人としての出発点を知る唯一の資料。以上、筑西市のホームページ解説から。
桐火桶無絃の琴の撫ごころ(蕪村)
蕪村・野ざらし紀行図
最後は、山形美術館蔵「野ざらし紀行図屏風」。紙本淡彩、六曲一隻、139.0×348.0センチ、安永七年作。蕪村は芭蕉に心からの尊敬を捧げ、芭蕉の文学を絵画化することに情熱を傾けた。「奥の細道図」は遺っているものは四点におよぶ。「野ざらし紀行図」はこれだけだが、「奥の細道図」に勝るとも劣らない。ちなみに、『蕪村句集』は、『野ざらし紀行』の中の芭蕉の句“年暮れぬ笠着て草鞋はきながら”を念頭にして、“笠着てわらぢはきながら—―芭蕉去てそののちいまだ年くれず”で終わっている。以上、「新潮日本美術文庫9」の解説から。
蘭の香や蝶の翅(つばさ)に薫物す(芭蕉)
http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1030.html 【与謝蕪村3】より
君あしたに去(い)ぬゆふべのこころ千々に 何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺(なずな)のしろう咲たる 見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひなきに鳴くを聞ば 友ありき河をへだてて住にき
へげ(変化)のけぶりのはと打ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原真(おざさはらま)すげはら のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてて住にきけふは ほろろともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に 何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は ことにたうとき
「この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう」と、朔太郎は言った。この詩は、明治よりも百数十年も前の蕪村の「北寿老仙をいたむ」という詩なのだ。北寿老仙とは下総結城の俳人、早見晋我(1671-1745年)のことで、享和二年に没した。その追悼の詩をたまたま結城に滞在していた蕪村が書いたのである。蕪村30歳のときである。
明治の世になって、埋もれていた蕪村を甦らせたのは正岡子規であり、その門下生からなる根岸派の俳人たちであった。しかし、彼らは、蕪村の写実主義的、客観的側面のみを強調し過ぎて、蕪村の本来持っている抒情性、主観性を等閑視していた。このことを苦々しく思っていた詩人萩原朔太郎が筆を揮ったのが、昭和11年刊の『郷愁の詩人 与謝蕪村』である。
朔太郎は蕪村の俳句をどのようにとらえているのか、この本の中からいくつか拾ってみる。
・本然的、浪漫的、自由主義的、情感的な青春性がある
・奈良朝時代の万葉歌境と共通するものがある
・色彩の調子(トーン)が明るく、光が強烈で西洋画に近い
・時間の遠い彼岸に実在している魂の故郷に対する郷愁がある
・直截明晰な表現の骨法を漢詩から学んでいる
・範疇を逸する青春性と卑俗に堕さない精神のロマネスクを品性に支持している
そして、俳句も詩も純粋なものはすべて「抒情詩」であるとして、こう述べている。
“単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである”
朔太郎は、この本の中で、蕪村の佳句を紹介しつつ、蕪村と芭蕉の違いに何度も言及しているので、以下に列挙してみる。
(芭蕉)気質的に北国人、(蕪村)気質的に南国人
(芭蕉)憂鬱、(蕪村)陽快
(芭蕉)瞑想的、(蕪村)感覚的
(芭蕉)戦国時代懐古趣味、(蕪村)平安朝懐古趣味
(芭蕉)雄健で闊達な書体、(蕪村)飄逸でかじかんだ書体
最後に、蕪村らしい主観的な句を二つ紹介する。二つとも主観の主体である「我(われ)」で始まっている。人生の寂寥と貧困に独居するも時流に超越し自由の言葉を操る蕪村の全貌が目に見えるように浮かんでくる句である。
我を厭(いと)ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花
http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1035.html?sp 【与謝蕪村4】より
♣ 薄見つ萩やなからん此辺り ♦ 風より起るあきの夕に ♥ 舟たえて宿とるのみの二日月
♠ 紀行の模様一歩一変 ♦ 貫之か娘おさなき頃なれや♣ 半蔀(はじとみ)おもく雨のふれれは
♠ さよふけて弓弦(ゆづる)鳴せる御なやみ ♥ 我もいそしの春秋をしる
♣ 汝にも頭巾着せうそ古火桶 ♦ 愛せし蓮はかれてあとなき ♥ 小鳥来てやよ鶯のなつかしき
♠ さかつきさせは迯(にぐ)る縣女(あがため) ♣ 若き身の常陸介に補せられて
♥ 八重のさくらの落花一片 ♦ 矢を負し男鹿(おじか)きて伏す霞む夜に
♣ 春もおくある月の山寺 ♥ 大瓶の酒はいつしか酢になりぬ ♦ 五尺の釼うちおふせたり
♣ 満仲の多田の移徒(わたまし)日和よき ♥ 若葉か末に沖の白雲
♦ 松かえは藤の紫咲のこり ♣ 念仏申て死ぬはかり也
♥ 我山に御幸(ごかう)のむかししのはれて ♦ 迯(にげ)たる鶴の待(まて)とかへらす
♣ 銭なくて壁上に詩を題しけり ♥ 灯(ひ)を持出(いづ)る女麗し
♦ 黒髪にちらちらかかる夜の雪 ♣ うたへに負ケて所領追るる
♥ 日やけ田もことしは稲の立伸(たちのび)し ♦ 祭の膳を並へたる月
♣ 小商人(こあきんど)秋うれしさに飛歩き ♥ 相傘(あひがさ)せうと姥にたはれて
♦ いにしへも今もかはらぬ恋種(こひぐさ)や ♣ 何物語そ秘めて見せさる
♠ 象潟(きさがた)の花おもひやる夕間暮 ♥ 朧(おぼろ)に志賀の山ほととぎす
上は、いわゆる歌仙を巻いたものである。五七五、七七を18回繰り返し、計36句から成る連句である。上の連句は下の4名によってなされた。
♣ 蕪村 58歳 ♦ 樗良 45歳 ♥ 几董 33歳 ♠ 嵐山 70歳前後
安永二年(1773年)の九月初め(おそらく二日)、伊勢より上京中の樗良が几董とうちつれて蕪村を訪れた。俳談に時を移すうち、折から病み臥す嵐山を油小路に見舞うことになった。秋の日も暮れて、雨も激しく降りはじめたので、蕪村は得意の怪談をもって嵐山を慰めようとしたが、嵐山は「いかで四吟流行のおかしきには」と歌仙の興行を望んだ。こうして四俳諧師膝押しの句座となり、四歌仙の満尾をみるのである。上はその四歌仙のうちの第一歌仙である。嵐山はこの三週間後に亡くなっている。
芭蕉七部集という連句の書がある。冬の日、春の日、曠野、ひさご、猿蓑、続猿蓑、炭俵の七部である。蕪村は、このうち、冬の日を最も評価していた。蕪村にも七部集がある。其雪影、明烏、一夜四歌仙、花鳥編、桃李(ももすもも)、続明烏、続四歌仙、五車反古の八部である。七部集なのに、どういうわけか八部なのだ。冒頭の歌仙はこの中の一夜四歌仙に収められている。
潁原退蔵氏は、この一夜四歌仙」をして、「高雅な古典趣味と豊潤な感覚美とは、四巻の中に満ち溢れて妍麗目を奪ふやうな絵物語が展開されて居る」と高く評価した。蕪村連句の代表作といってよい。
http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1036.html 【与謝蕪村5】 より
秋成と蕪村は知己であったことは間違いない。その証拠に、それぞれ、互いの著作の序跋を書いている。安永三年、蕪村(59歳)は秋成の『也哉抄』の序を書き、安永五年、秋成(43歳)は蕪村の『続明烏』の跋を書いている。両書とも俳諧の書であるから、両者の間に俳諧の応答もあったのかもしれないが、それは残っていない。
【也哉抄序】
夫切字をしらんと要せば、まづ切字となづけたるは、いかなる字義ぞと眼をつくべし、さて其むねをさとりえて後、切字といふ目は、字義あたらずといふ事をしるべし、されば我門には切字といはいはず、しばらく是を断字といふ、猶口受有、切字はありてなきもの也、なくても有ものなり、切字ありてきれぬ句有、なくて切るる句あり、此妙境に入て、字に切字ならざるはなし、夫が中に也哉の二字をおく事、きはめてたやすからず、いにしへの名ある集にもあやまち少なからず、まして今の世の人のつくり出さん句は、いはでも知べし、爰に我友無腸居士なるものあり、津の国かしまの里にかくれ栖み、客を謝して俗流に交らず、ふかくやまとの国ぶりにふけり、人しらぬ古き書をさへさがし見ずといふことなし、もとより俳諧をたしみて梅翁を慕ふといへども、芭蕉をなみせず、おのれがこころの適ところに随ひて、よき事をよしとす、まことに奇異のくせものなり、此ころ一本を著し、其門生二三子余にしめす、すなはち也哉抄となづく、其説数条、おのおの古き書によらざるなく、たまたまさとしやすからんことをおもひて、みづからの論を加ふといへども、つゆも古人ののりにもとらず、憶説といふべからず、余つらつらよみてたたむきを扼けていふ、是不朽の書也、二三子はやく木に上して、同志の人の聞につたへよ、二三子諾す、すなはち序を余に乞、余いふ、わが此言質也といへども、理おのづから明らかなり、更に序して華をもとむべからず、二三子とくされ、ともにはかれ、
于時安永甲午盂春下浣、平安夜半亭蕪村誌 几董書
【続明烏跋】
一ことをたも教へを得しはやかて師なめりとて、秋をにあしの丸屋に魂むかへいとなまれしは、五十余人にみてるよしを、物のたまふ始に先いひ出られしそ、いと有かたき例に人はいふめり。今はや廿とせのむかしとなりにき、几圭のおち適難波に来たらるることに、蓮歌のあそひ夜となく昼となく人々らあつまりて、すすけたる耳をかたふけ、句ことにめさむるものにもてはやせし。吾其席にあれは必しも打えまひつ、若き人よ、さる句はかうそつくるものなりなと、まめたちて教へられしかうれしうて、ひたすら阿弥陀ほとけに崇まへしよりいつかなしまれて、さやさやしき古家をとひもしやとりもしてかたらはれしものから、此句作るわさにはやかて師にてそます。をこのあそひわすれゆくめるまま、おちにもうとうとしうてわかれぬ。さるをこの四とせかほとのゐなか住に、むかしのすさひ稀稀いひ出るに、几董そ今の世にたくひなきと聞て、をりをり文のいきかひして言かたらふも、おちかむかしの契の末むなしからぬになん。ことし十まりななとせの手むけすと聞に、ありし世の仏まつおもひいてられて胸つふれ、何こともえいはすなむなりぬ。
無腸隠士書
この「続明烏」には、蕪村のあの“菜の花や月は東に日は西に”で始まる「春興二六句」の連句があるので、以下に記しておく。実際は36句あって、歌仙が巻かれていたのだが、どういうわけか、この集には以下の26句のみ採用されている。27句以降は几董の『宿の日記』から採録。とまれ、これ、最高。
♣ 蕪村 61歳 ♦ 樗良 48歳 ♥ 几董 36歳
♣ 菜の花や月は東に日は西に ♦ 山もと遠く驚かすみ行(ゆく)
♥ 渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春くれて ♣ 御国かへとはあらぬそらこと
♦ 脇差をこしらへたれははや倦(うみ)し ♥ 蓑着て出る雪の明ほの
♣ 仁和寺を小松の屋と誰かいふ ♦ 恋しき人の馬繋きたり
♥ 葺(ふき)わたす菖蒲(あやめ)か軒をしのふらん ♣ 雨にもならすやかて燈ともす
♦ 尺八の稽古くるりと並ひ居て ♥ 賊とらへよと公(おほやけ)の触(ふれ)
♣ 早稲(わせ)刈て晩稲(おくて)も得たる心也 ♦ 天気の続くあふみじ路の秋
♥ 門前の舟とき出(いだ)す月の昏(くれ) ♣ 弟子の僧都はよき衣着て
♦ 花の中家中(かちゅう)の衆に行あひぬ ♥ 歌舞伎のまねのはやる此春
♣ 永き日や蒔絵の調度いとはしき ♦ 御法(みのり)の道に心よせつつ
♥ 古郷(ふるさと)の妻に文かくさよふけて ♣ 若大将に頼まれし身の
♦ 酒一斗牡丹の園にそそきけり ♥ 日は赫奕(かくやく)と佳(よき)墨を摺ル
♣ 翌(あす)ははや普陀落山(ふだらくせん)を立出(たちいで)ん
♦ 豆腐に飽(あい)て喰ふものもなく
〈以下、『旅の日記』から〉
♥ 我袖は少しの銭の重たくて ♣ 海ややちかく石を行(ゆく)川
♦ 飛ぶ霍(つる)の羽(は)に影うつる朝の色 ♥ 神に仕ふる老の身のあき
♣ 露しもの古傘(ふるからかさ)を捨かねつ ♦ かねを春日の里へ宿がへ
♥ 起いでて落首よみくだすおかしさよ ♣ 茶に汲(くむ)水の浅くてに澄ム
♦ なかなかに風のなき日を散る桜 ♥ 暮おそしとて欄(おばしま)に立(たつ)
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【与謝蕪村6】 より
蕪村・澱河曲
春水梅花を浮かべ 南流して菟(と)は澱(でん)に合す
錦纜(きんらん)君解くこと勿れ 急瀬(きふらい)舟雷の如し
菟水澱水に合し 交流一身の如し
舟中願はくは寝を同にし 長じて浪花の人と為らん
君は水上の梅のごとし花水に
浮て去ること急(すみや)か也
妾(せふ)は江頭の柳のごとし影(かげ)水に
沈てしたがふことあたはず
上は、安永六年(1777年)、蕪村62歳の春興帖『夜半楽』所収の「澱河歌(でんがか)三首」である。前書きに、「伏見百花楼に遊びて浪花に帰る人を送る。妓に代はりて」とある。すなわち、纏綿たる妓女の恋情に託して自己の惜別の情を述べたもの、ということになっている。紀貫之が女になり代わって「土佐日記」を書いた趣向と同じである。
ここで、「澱」は淀川のことで、「菟」は宇治川のことである。しかも『澱河歌の周辺』の著者、安藤次男氏によると、「兎」は男根、「澱」は女陰を意味するという。したがって、「菟水澱水に合し 交流一身の如し」は、まぎれもなく秘義の描写となる。さすれば、「錦纜君解くこと勿れ 急瀬舟雷の如し(錦のとも綱をしっかりと結えておけ、舟はいなずまのように急流を下るのだから)」の句も痴情の限りを謳っていることになる。「君」は女から男への呼称で、「妾」は女の自称である。すると、最後の四行も男女の交情の描写となる。
若竹図
蕪村の句に、
若竹や橋本の遊女ありやなしや
というのがある。ここに詠まれている橋本というところは、竹林に囲まれた遊里で、ちょうど宇治川と桂川と合流して淀川となるあたりで、背に男山をひかえ対岸に天王山をのぞむ幽篁の地に当る。そして、安藤氏は、「まぎれもなくそこには二本の脚(宇治川、桂川)をやや開き気味に、浪花を枕として、仰向けに寝たなまめく女身(淀川)が彷彿として浮かび上ってこざるをえない。橋本の幽篁はちょうどその秘部にあたり、蕪村の生れた毛馬は胸許になる」、と想像する。若いころ見た高嶋春松の『大川便覧』の淀川の絵図から得た発想であるそうだ。どことなく、モヂリアニの描く裸婦に似ているという。
大川便覧・橋本付近
安藤氏は、また、晩年の蕪村は、淀川を三十石の川舟で下ることに秘かな楽しみをいだくようになっていた、と推量する。それは、幼いころ過ごした故郷への懐旧の情もあったであろうが、それよりも、情人とか隠し子と云ったものが、ひょっとしたら浪花にあったかもしれないと考える。老醜の可憐さを蕪村に見ているのだ。実際、このころの蕪村は、遊里の小糸という妓女と深い情を交わしていたことも分かっている。蕪村の遊里通いについては、秋成も『胆大小心録』でこう言っている。
“蕪村が絵は、あたひ今にては高まの山さくら花、俳かいしが信じて、島原の桔梗やの亭主がたんとかいてもろうて、廓中のざい宝も価が今は千金。富民の吝嗇、やつぱり徳もつかぬ物ぢゃと思ふよ”
ただし、辛辣な批評家の秋成ではあるが、蕪村に対してはさすがに悪口など漏らしていない。蕪村の死についても、「今や老さりて終をよくせられしをうらやみ、かつ其麗藻ををしみつつも、かな書の詩人西せり東風吹て」と、悼んでいる。
下の図は、暁晴翁著述、松川半山画図「淀川両岸一覧、上り船之部」の中の毛馬の場面である。毛馬は蕪村の生まれた郷である。淀川の下流にあり、南流して大阪湾にそそぐ当時の本川とそのまま西流する支流中津川(今の本川で、昔の長柄川)の分岐点にある。
【与謝蕪村7】 より
安永五年12月、蕪村は娘のくのを西洞院の町家に嫁がせ、翌年、その娘を送る親の心境に託し秘めた恋情を謳ったと安藤次男が推量する「春風馬堤曲」をものした。が、その年、僅か半年で娘の結婚生活が破綻し、5月、娘くのを婚家から取り戻す。蕪村61歳のときである。このころを境に、蕪村は絵画、俳諧ともに傑作を生みだしていくのである。
安永九年、蕪村65歳のときに、几董と巻いた両吟の二歌仙がある。「桃李(ももすもも)」というもので、歌仙の句もいいが、蕪村の序文もいかしている。
“いつのほどか有けん、四時四まきの歌仙あり、春秋はうせぬ、夏冬はのこりぬ、一人請て木にゑらんといふ、壹人制して曰、夫歌仙ありてやや年月を経たり、おそらくは流行におくれたらん、余笑て曰、夫俳諧の活達なるや、実に流行有て実に流行なし、たとはば一円郭に添て、人を追ふて走るがごとし、先んずるもの却て後れたるものを追ふに似たり、流行の先後何を以てわかつべけむや、ただ日々におのれが胸懷をうつし出て、けふはけふの俳諧にして翌(あす)は又あすの俳諧也、題してももすももと云へ、めぐりよめどもはしなし、是此集の大意なり”
天明三年9月半ば、68歳の蕪村は、宇治田原の門人奥田毛条に招かれて、キノコ狩りに行った。そのときの模様を、「宇治行」の中でこう記している。清澄な響の挿入句、三句もいいいが、文もいかしている。
“宇治山の南、田原の里の山ふかく、茸狩し侍けるに、わかきどちはえものを貪り先を争ひ、余ははるかに後れて、こころ静にくまぐまさがしもとめけるに、菅の小笠ばかりなる松たけ五本を得たり。あなめざまし、いかに宇治大納言降国の卿は、ひらたけのあやしきさたは書いとめ給ひて、など松茸のめでたきことはもらし給ひけるにや。
君見よや拾遺の茸の露五本
最高頂上に人家見えて高ノ尾村といふ。汲鮎を業として世わたるたよりとなすよし。茅屋雲に架し、断橋水に臨む。かかる絶地にもすむ人有やとそぞろに客魂を冷す。
鮎落ていよいよ高き尾上かな
米かしといへるは、宇治河第一の急灘にして、水石相戦ひ奔波激浪雪の飛がごとく、雲のめぐるに似たり。声山谷に響て人語を乱る。銀瓶乍破水漿迸、鉄騎突出刀鎗鳴、四絃一声如裂帛と、白居易が琵琶の妙音を比喩せる絶唱をおもひ出て、
帛(きぬ)を裂(さく)琵琶の流や秋の声“
蕪村は、同年12月25日の未明に死んだ。「宇治行」から3カ月後のことである。その死の前日の夜のことを、几董が「夜半翁終焉記」にこう記している。辞世の句、三句ともいかしている。
“病体いと静かに、言語も常にかはらず、やをら月渓をちかづけて、病中の吟なり、いそぎ筆とるべしと聞るにぞ、やがて筆硯料紙やうのものとり出る間も心あはただしく、吟声を窺ふに、
冬鶯むかし王維が垣根哉
うぐひすや何こそつかす藪の霜
ときこえつつ猶工案のやうすなり。しばらくありて又、
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
こは初春と題を置べしとぞ。此三句を生涯語の限とし、睡れる如く臨終正念なして、めでたき往生をとげたまひけり“
終生、盛唐の漢詩人兼画家、王維を慕い、「輞川集」「輞川図巻」を日ごろから座右に置いて親しんできたはずの蕪村である。枕もとに届いた鶯の声が王維の垣根を現前せしめたのだろう、“冬鶯むかし王維が垣根哉”と吐いた。終生、俳聖、芭蕉を慕い続けた蕪村である。死の床でも呻吟し、「夢は枯野をかけ巡るなどいへる妙境、及べしとも覚えず」と、ぐちった蕪村である。が、最後の最後、“しら梅に明る夜ばかりとなりにけり”を得た。まさに神が降り、芭蕉の妙境に達したのである。
【与謝蕪村8】 より
『月に泣く蕪村』の著者、高橋庄次氏は、蕪村の真骨頂は連作詩編にあるとおっしゃる。有名なのは、夜半楽三部曲(「春風馬堤曲」18首、「澱河歌」3首、「老鶯児」1首)の漢詩、和詩、発句の連作であるが、もちろん蕪村は連句や、発句のみの連作詩編も多く作っている。いくつか、高橋氏の取り上げたものを紹介しよう。
蕪村は、其角や太祇のごとく、おおらかで小事にこだわらない磊落な句をよしとし、“(蓑虫は)北吹けば南へふらり、西吹けば東へふらり、物と争はざれば風雨に害(そこな)はるる悲しびもなし”と語り、その自然体の美しさ、“ゆかしさ”を愛でている。さらに、蓑虫に感じたと同じ“ゆかしさ”を落ち葉にも感じ、発句連作をものしている。
北吹けば南あはれむ落葉かな
西吹けば東にたまる落葉かな
細道を埋みもあへず落葉かな
長生きの宿りを埋む落葉かな
扨、
蕪村には飛騨山の貧村を詠んだ連作三句がある。飛騨の山は良材を出すゆえに、御林山として幕府直轄になっていて、百姓林がなく、村民は豊かな山林を眼の前にして木材に困るという事態に陥っていた。盗伐は死罪だったのだ。
飛騨山の質屋戸ざしぬ夜半(やは)の冬
鋸の音貧しさよ夜半の冬
冬の夜や古き仏を先づ焚(た)かむ
安永六年、蕪村62歳。前年12月に悩みの種であった娘くのを嫁がせて心機一転、文学的勧興が最高潮に達し、前人未到の創造性が発揮された年である。2月に、「春風馬堤曲」と「澱河歌」を含む春興帖『夜半楽』を刊行し、4月には、亡母五十回忌の追善のために夏行として一夏千句を目指し、『新花つみ』の執筆を開始している。だが、件の娘の離婚問題が起こり、夏行は4月末で断念している。ちなみに、『新花つみ』の草稿は、蕪村の死んだあとに弟子の月渓が発見し、挿絵を加えて巻本として売り、娘くのの再婚準備金にしている。
ところで、この『新花つみ』は、中途で断念した追善の句137句と俳文とからなっている。その俳文には、昔、蕪村が見聞した狐狸の話が4編含まれている。そして、「狸の戸におとづるるは、尾をもて叩くと人は云めれど、左にはあらず、戸に背を打つくる音なり」との見解を披露し、“秋のくれ仏に化る狸かな”の句を詠んでいる。また、137句の発句の中にも怪異な句がある。麦秋(むぎあき)の連作四句である。
麦秋や鼬(いたち)啼くなる長(おさ)がもと
麦秋や遊行(ゆぎょう)の棺(ひつぎ)通りけり
麦秋や狐の退(の)かぬ小百姓
麦の秋さびしき貌(かお)の狂女かな
ついでに、この『新花つみ』の怪奇談の中の一つを紹介しておこう。面白い内容だ。
“ 昔、丹後宮津の見性寺という寺に三年ばかり滞在していたことがある。秋の始めのころからおこりの病で五十日ほど苦しんでいた。奥の一間はたいそう広い座敷であって、いつも障子をぴったりと閉めてあったから、風の通る隙間すらなかった。その次の間に病床をかまえ、部屋の境を襖で仕切ってあった。ある夜、午前二時ごろに、熱が少しおさまっていたので、便所に行こうと思ってふらふらしながら起き上がった。
厠は奥の間の榑縁(くれえん)を巡った北西の隅にある。灯も消えてたいそう暗いので、へだての襖を押し開けて右足を一歩さし入れると、何であろうかむくむくとした毛でおおわれているものを踏み当てた。こわかったので、すぐに足を引き寄せて、うかがっていると、物音もしない。怪しく恐ろしかったけれども、胸を軽く押さえ心を決めて、今度は左足で、この辺だと思って、ぱっと蹴った。しかし、少しもさわるものがない。ますます不可解で、総身の毛が逆立ったので、震えながら庫裏のあるほうへ行き、坊主や下男たちのぐっすり熟睡していたのを起して、こうこうだと語ると、みな起き出してきた。灯をたくさん照らして奥の間に行って見ると、襖・障子はいつものように閉めきってあって、逃れるような隙間はなく、むろん怪しいものの影も見えない。みな、「あなたは熱病におかされて正気でなく、でたらめを言っている」と言い、怒って腹を立てて帰っていった。
なまじっかつまらぬことを言い出したことだと、面目なく思われて、私も臥所に入った。しばらくして眠りにつこうとするころ、胸の上に大きな石を乗せているように苦しくなって、ひたすらうめきにうめいた。その声が漏れ聞こえたのであろう、住職の竹渓師が入って来られて、「ああ、あきれた。これは何事ですか」と、私を助け起こして下さった。少し落ち着き、こうこうだと語ると、「そんなことはあるに違いない。例の狸小僧のしわざだ」と言って、端戸を押し開き、外を見ると、夜がしらじらと明けて、はっきりと認められたのには、縁から簀子の下に続いて、梅の花の散らばったように足跡がついていた。そこで、さっきでたらめを言うといって私を罵った者たちも、「そうであったのか」と、驚きあきれあった。
竹渓師はそれっと急いで起きて来られたためであろうか、帯もろくろく結ばず、衣の前を開いたまま、ふっくらした米袋のような睾丸に、白い毛がふさふさと覆っていて、男根がどこにあるのかも分からない。若い時からインキンが痒くて、ただ睾丸を引き延ばしながら捻ったり掻いたりしておられる。その様が奇怪で、あの朱鶴長老が仏教経典を読み飽きた時の様子かと、あからさまにいうのを遠慮していると、竹渓師は大笑いして一句詠まれた。
秋ふるや楠(くす)八畳の金閣寺【竹渓】“
ところで、
なぜかしらぬが、蕪村は真田幸村をかっている。幸村が、大坂冬の陣の前に、家康の目を盗んで紀伊国九度山を下り、大坂城に向かう場面を連作六句に詠んでいるのだ。NHK大河ドラマ「真田丸」の今後の展開が楽しみだ。
かくれ住みて花に真田が謡かな
花の能過ぎて夜を泣く難波人
散るは桜落つるは花の夕べかな
花に来て膾(なます)をつくる老女(おうな)かな
玉川に高野の花や流れ去る
花散るや重たき笈のうしろより
【与謝蕪村9】 より
ベッキーから始まり、文枝、乙武、円楽と、今年は不倫文化の花盛りであるが、秋成、蒹葭堂、蕪村が生きた18世紀後半は実質一夫多妻で、夫の浮気は当たり前の時代であった。秋成は表面上妻一筋のようだったし、蒹葭堂は妾を家に入れていたものの、妻・妾の関係はすこぶるうまくいっていたので、この二人には世間の悪評は立たなかった。が、蕪村は違った。若いころから坊さんをしていて結婚が40過ぎてからで、そのせいか、晩年、妻子がいるにもかかわらず、遊里の妓女に入れ込んでしまい、一部の俳友たちからはかなり非難されたようだ。
蕪村のお気に入りは祇園二軒茶屋の小糸である。小糸が二十歳ぐらいとすると、40以上も年が離れた老いらくの恋である。蕪村は貧乏画家であったから、遊里で遊ぶお金はない。そこで、門人で書肆をやっている汲古堂の主人、佳棠(かとう)に資金面も含め、恋の仲介役を頼んでいたのである。蕪村が佳棠に宛てた天明元年5月26日付の手紙が残っている。
“・・・小糸かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を画きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合甚あしく候。やはり梅亭可然候。梅亭は毎度美人之衣服に書き覚候故、模様取、旁甚よろしく候。小糸右之道理をしらずしての物好きと被存候。我等が画きたるを見候はば、却て小糸後悔可致ときのどくに候。小糸事ゆへ、何もたのみ候てもいなとは申さず候へども、物好きあしく候ては、西施(せいし、中国の春秋時代の美女)に黥(いれずみ)いたす様成物にて候・・・”
小糸にぞっこんの蕪村の様子がこっけいなほどいとおしい。が、蕪村は、小糸の前に、お梅という難波の遊里で妓女をしている門人に馴染んでいたのである。このお梅が小糸に嫉妬して、挑戦状をたたきつけたのだ。才女のお梅であるから、もちろん俳諧での挑戦状である。連句の会でのすさまじいばかりの戦いである。その記録が、天明二年5月に刊行された『花鳥篇』という俳書に載せられている。こうある。
“みやこに住み給へる人は月花のをりにつけつつよき事をも聞き給んといとねたくて、蕪村さまへ文のはしに申しつかはし侍る。
糸による物ならにくし凧(いかのぼり) 【お梅】
さそへばぬるむ水の鴨川 【其答】
盃(さかづき)に桜の発句をわざくれて 【几董】
表うたがふ絵むしろの裏 【小糸】
ちかづきの隣に声する夏の月 【蕪村】
をりをりかほる南天の花 【佳棠】
・・・
どうだろう。「糸による・・・」というお梅の嫉妬の発句に脇を付けたのが、初代沢村国太郎の其答という歌舞伎俳優である。そして、第三はお梅とも親しい蕪村門の大番頭、几董である。このツークッションをおいて、小糸、蕪村と唱和する。小糸が「あなたの裏の気持ちはどうなの」と問いかけ、それに蕪村が「ちかづきの隣に声する」と応じたのであるから、お梅の完敗である。そして、恋のキューピット役の佳棠が「南天」によって二人の恋を擁護する心を謳ったのであるから、お梅は深く傷ついたはずだ。
とまれ、この『花鳥篇』をきっかけに、蕪村は門人たちから相当に絞られたようだ。天明三年4月25日付の門人で儒者の樋口道立(どうりゅう)宛の手紙がある。
“青楼の御意見、承知いたし候。御尤の一書・俳句にて、小糸が情も今日限りに候。よしなき風流、老の面目を失ひ申し候。禁ずべし、さりながら求めて得たる句、御批判下さるべく候。
妹が垣根三味線草の花さきぬ
これ、泥に入りて玉を拾うたる心地に候。“
「青楼」とは祇園の妓楼のことで、そのことに関する道立の異見を受け入れ、もう二度と小糸には会わないと誓う蕪村であるが、小糸と出会った頃に作った句“妹が垣根・・・”を思い出し、未練たらたらであるのが分かる。
この手紙を出した後、誓った通り、蕪村は小糸と別れる。そして9月、傷心をいやす宇治の山懐への旅の後、体調をこわし、12月25日の未明、蕪村は亡くなってしまう。老いらくの恋に精も魂も燃え尽きてしまったのかもしれない。ちなみに、蕪村没後、お梅の方は、蕪村の門人、わが秋成の茶友でもある月渓の後妻となった。小糸についいてのその後は不明である。
【与謝蕪村10】 より
大谷晃一『与謝蕪村』(1996年刊)から、蕪村の生涯を略述してみる。この本では著者の推断も多く入っているから、事実とは異なる部分もあると思う。
毛馬の北脇で、庄屋、谷吉兵衛の妾げん(丹後の与謝出身)の子として生まれる。本妻に姉二人あり。幼名、寅(いん)、元服して信章(のぶあき)。幼少のころ、池田の絵師、百田伊信(ももたこれのぶ)に絵を学ぶ。清の中国画技法の画譜『芥子園画伝』などで独学する。13歳のときに母を亡くし、17歳で父が死ぬ。18歳で京に出て知恩院塔頭で出家、釈信章(しんしょう)と称す。
21歳のとき、京に滞在して10年の俳人、早野巴人(はじん)を知る。翌年、巴人とともに江戸に下る。日本橋石町(こくちょう)の高い鐘楼の下に師とともに住む。夜半、時の鐘が間近に響く。庵を夜半亭と名付け、巴人は俳名を宋阿、信章は宰町(のち宰鳥)とした。23歳のとき、
蕪村『卯月庭訓』
尼寺や十夜にとどく鬢葛(びんかずら)
の句が、立膝の女の自画とともに『卯月庭訓』に掲載される。
江戸では、徂徠の弟子、服部南郭に入門し漢詩を学ぶ。そこで蓼太や召波を知る。そして、享保二年、27歳のとき、師の宋阿が死ぬ。
こしらへて有(あり)とはしらず西の奥 【宋阿の辞世句】
我泪(なみだ)古くはあれど泉かな 【宰鳥の追悼句】
その年、宋阿門下の砂岡雁宕(がんとう)を頼って結城に行き、浄土宗の弘経寺に庵をかまえる。結城の早見晋我(しんが、北寿老仙)や丈羽、宇都宮の佐藤露鳩、那須烏山の常盤潭北(たんぼく)などの宋阿門人と交流する。しばらくして、秋、奥州の旅に出る。下野芦野、磐城、郡山、福島、磐梯吾妻、米沢、山形、新庄、酒田、象潟、秋田を経て八郎潟の東の九十九袋(やしやぶくろ)、さらに能代を経て、出羽、陸奥、そして津軽の外ヶ浜まで行く。帰路は、青森から盛岡に至り、平泉を通り、松島を見物後、仙台、白石、岩代、福島をたどって関東に帰り、宇都宮の露鳩がもとでしばらく足を休めた。およそ1年間の旅である。翌年正月、29歳、露鳩の勧めで歳旦帖を撰んだ。処女選集である。
古庭や鶯啼きぬ日もすがら
という句に初めて蕪村と署名した。四月に結城に帰る。
享和二年、30歳。前年、潭北が亡くなり、この年の正月に晋我が死んだ。蕪村は「北寿老仙をいたむ」を霊前に捧げた。宝暦元年8月、36歳、14年ぶりに京に戻るのであるが、それまでの間、関東周辺や江戸を放浪することことが多く、俳諧よりも画の修行に専心している。上洛も絵を専門的に学ぶためであった。俳諧では飯が食えぬと踏んでいたのだ。
京には三宅嘯山(しょうざん)や宋阿門人の宋屋、几圭らがいて、炭太祇(たんたいぎ)も江戸から上洛してきた。蕪村は句会にも参加したが、メインは画の修行だった。主に、彭城百川(さかきひゃくせん)について画を学んだが、三年ほどしてその百川が亡くなると、宝暦四年、39歳の夏、蕪村は絵画修行のために丹後に去った。
丹後では、まず宮津見性寺の竹渓和尚を訪ね、そのまま寄寓した。寺には竹渓の俳友のお坊さんたちが集まってきたが、あまり気乗りがしない。画の修行の方が大事なのだ。秋、熱病にかかり、そこの座敷で寝ているとき、狸の妖怪に出くわす。これに想を得て、「妖怪絵巻」を画き、寺の座敷の欄間に張り付けた。これは、まさに水木しげるの世界ではないか。
蕪村「妖怪絵巻」林一角坊の前に現れた赤子の怪
蕪村「妖怪絵巻」榊原家の化け猫蕪村「妖怪絵巻」帷子が辻ののっぺらぼう
翌年になると、画の注文が近在の寺院や金持ちからぽつぽつ舞い込んできた。やはり画才があったのだ。宝暦五年夏には宮津から母げんの里である与謝村に出向く。施薬寺では「方士求不死薬図」を画き残す。が、すぐに見性寺に戻る。そして、宝暦七年9月、42歳、3年間の丹後放浪を終えて京に戻る。この間、多くの画作をなした。帰京の際、溝尻という漁村で見染めた19歳年下のとも女を妻として伴った。還俗したのである。
蕪村「方士求不死薬圖六曲屏風」左双
蕪村「方士求不死薬圖六曲屏風」 右双
京では宋阿の門人たちが集まってきたが、蕪村には家庭があり、娘くのも生まれ、稼がなければならない。ところが、肝心の画の方は売れ行きが芳しくない。丹後のような地方では認められたのだからと、今度は四国に行くことにした。宝暦十一年9月、46歳の蕪村は宋阿系の裕福な俳人を頼りに讃岐に出かけた。鳴門から讃岐に入り、高松、金比羅、丸亀などを経て翌年帰京。画も売れ、画境も進展し、京でも徐々に認められ、生活も少しずつ安定してきた。俳諧の方では、明和三年6月に三菓社句会を始めている。にもかかわらず明和三年秋から五年夏にかけて(51~53歳)、二度にわたり讃岐に出かけている。丸亀の妙法寺の「蘇鉄図」成る。
蕪村・蘇鉄図
京では毎日のように六波羅蜜寺に出かけたという。信仰心からではなく、董其昌の絵を見るためであり、信心より画作欲の方が勝っていたのだ。明和三年頃には、傑作「晩秋遊鹿図」を画いた。生き物がいるのになんという静寂だ。東山魁夷の湖畔の白馬や平山郁夫のシルクロードのラクダを彷彿とさせる。
蕪村・晩秋遊鹿図屏風
明和五年、53歳。この年の「平安人物志」の画家部に、応挙、凌岱らとともに初めて名を連ねた。ついに、画人として世に認められたのである。
明和七年3月、55歳。几董がのちのち夜半亭を継ぐことを条件に夜半亭二世を襲名した。この前後から、俳諧にも力を入れ、二代目襲名を期に、狭い四条烏丸の裏店から下京の室町通綾小路下ル白楽天町に転居した。田福(でんぷく)、馬南(大魯)、召波、鉄僧(医者、雨森章迪か)、几董、自笑(本屋「八文字屋」三代目)、百雉(百池)が夜半亭社中の顔ぶれである。のち、月渓、季遊、月居らも加わる。句会も多く開き、伊勢の樗良(ちょら)や尾張の暁台(きょうたい)、宮津の道立(どうりゅう)、大和の何来(からい)、難波の正名(まさな)、延年らもしばしば参加する。明和九年には、几董の父几圭の十三回忌追悼集と銘打って、夜半亭の第一撰集『其雪影』を発行。下の蕪村筆の挿絵に描かれている人物は、右から其角、芭蕉、嵐雪、宋阿、几圭。
蕪村・其雪影
が、俳諧はあくまでも遊びで、画が本業である。絵を画かないと暮らしが立たない。死ぬまで絵を画き続ける。気が遠くなるほど多作である(講談社の『蕪村全集第六巻』絵画・遺墨編には、絵画577点、俳画123点、その他62点が掲載)。明和八年8月、池大雅との共作「十便十宜図」を画く。蕪村は十宜図を担当。画号「謝春星」を用いる。
蕪村・十宜図・宜暁
蕪村・十宜図・宜晩
この頃こんな句を作っている。
狐火を燃つくばかり枯尾花
老が恋わすれんとすればしぐれかな
画業に忙しい合間をぬって、俳諧に遊び、遊里に遊んでいるのである。また、こんな句をも詠んでいる。
愚に耐えよ窓を暗す雪の竹
我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
貧居八詠の中の二句である。働けど働けど、蕪村の暮らしは楽にならないのだ。そんな中、安永二年夏、六回重ね刷りの「諫鞁鳥図」を制作している。江戸で春信が錦絵を始めて程ない時期である。関西でも浮世絵が始まったのだ。刷り物は割の合わない仕事である。お金にならなくても芸に労力は惜しまないのだ。
蕪村・諫鞁鳥図
安永四年、60歳のときに、終の棲家となる下京の仏光寺烏丸西入ル釘隠町の南側路地に転居する。いくらか広くなるが、決して暮らし向きが楽になったのではない。
釣しのぶ幮(かや)にさはらぬ住居かな
ででむしの住はてし宿やうつせ貝
安永五年、61歳。2月5日、秋成の訪問を受ける。秋成は几董の家に泊まる。10日、蕪村は几董とともに伏見まで送り、撞木町の百花楼で送別の杯を交わす。秋成から宣長との「ン」「む」論争の話を聞かされたのだろう、次の一句をものした。
梅咲きぬどれがむめやらうめじやら
秋成の乗った三十石舟を見送りながら、「澱河歌」の構想を得たようだ。同月20日ごろ、上洛していた蒹葭堂を木屋町の宿に訪ねる。当人はまだ起きておらず、沓脱ぎに桜の花びらのくっついた草履が見えた。そこで一句。
花を踏みし草履も見えて朝寝かな
この年の暮れ、16歳の娘くのを西洞院通椹木町下ル夷川町の料理屋「柿伝」を営む三代目柿屋伝兵衛の息子に嫁がせた。体の弱い娘を嫁がせて安らぎを覚えたが、同時に空しさが襲う。
芭蕉去りてそののちいまだ年くれず
翌安永六年(62歳)は蕪村にとって転機となる一年となった。春興帖『夜半楽』刊行、亡母の追善夏行、娘の離婚・・・。これについては別のところで触れたので略す。この年以降、俳句、画作ともに充実期を迎えた。傑作「夜色楼台雪夜万家図」、「峨嵋露頂図巻」などが成ったのもこのころである。画号も最後の号である「謝寅」が使われ出した。
与謝蕪村筆【峨嵋露頂図】2
与謝蕪村筆【峨嵋露頂図】1
俳画の傑作も多く、「野ざらし紀行」1点、「奥の細道」3点、「芭蕉像」に至っては10点以上現存している。「万歳図」、「相撲図」など、何気なく描かれているようだが、踊る足、踏ん張る足の表現が実に見事だ。
蕪村・奥の細道画巻-那須野
蕪村筆芭蕉立像
蕪村・万歳図
蕪村「相撲図」
安永七年11月、不遜の愛弟子、大魯が没す。享年50歳。安永八年(64歳)正月、神沢杜口の古希を祝う歌仙に蕪村も出座した。それとは別に、杜口と二人で歌仙を巻いている。そのころの杜口は、あの随筆『翁草』の執筆に余念がない。この杜口を画いた「葛の翁」自画賛がいくつか残っている。
蕪村・葛の翁画賛
葛水に見る影もなき翁かな
葛水にうつられでうれし老が貌
このころ、祇園や三本木での酒宴が増えた。杉月楼、雪楼、伏淵が行きつけの待合である。百池、春坡、佳棠ら金持ちの招きによるのがほとんどだ。宴席には美しい芸妓がいる。その中で、二十歳そこそこの無邪気な小糸が蕪村のお気に入りだ。この老いらくの恋の結末は別のところで触れたので略す。
安永九年10月21日、定例の檀林会の句会が開かれ、この日に寄せた句を含め、秋成が句文集「去年の枝折」を書いた。11月には、蕪村が心血を注いだ几董ととの歌仙二巻『ももすもも』が成った。このころ、傑作「竹林茅屋図」成る。
蕪村・竹林茅屋図
安永十年3月、月渓が愛妻を播磨灘での船の難破で亡くす。同年、天明と改元された9月、蕪村の口利きで、悲しみに沈む月渓が池田本町四辻北入りの田福の店の二階に住むようになった。これで、池田の風雅が大いに上がったという。
天明二年3月、念願の吉野行。几董と我則が同行。五月、『花鳥篇』成る。この句文集が門人たちの物議をかもし、蕪村は小糸と別れざるを得なくなったのである。
天明三年6月、尾張の横井也有が死んだ。名随筆『鶉衣』の著者である。享年82歳。7月、浅間山が大噴火し、東国に飢饉が広がる。9月、蕪村は妻子をともない宇治行。その後、持病の胸痛が悪化。12月25日未明没す。享年68歳。この臨終の様子については、別のところで書いたので略す。遺骨は金福寺内の芭蕉庵の傍らに埋められた。妻くのは蕪村没後31年間生き、死後、蕪村の墓に合葬された。蕪村の墓の傍らには弟子の大魯、月渓も眠っている。
月渓筆『新華つみ」潭北と蕪村
蕪村が死んで、弟子の月渓は、蕪村の遺稿を整理し、出来るものは製本して販売し、残された遺族の生活費にあてた。上の図は、そのとき作成された『新花つみ』の中に月渓が画いて挿入した挿絵である。関東遍歴時代の蕪村と潭北が描かれている。
月画きぬどれが蕪村やら潭北じやら
【与謝蕪村11】より
2016-06-18 Sat
藤田真一『蕪村』(岩波新書、2000年刊)から、蕪村の後世に与えた影響を拾ってみる。
憂い来て
丘にのぼれば
名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実
上は啄木の歌である。藤田氏は、蕪村の次の二句を組み合わせた歌ではないか、剽窃とまではいわないが、いわゆる「本歌取り」というものではないか、とおっしゃる。
愁ひつつ岡にのぼれば花いばら
陽炎(かげろう)や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)
なるほど。そして、次の白秋の詩も蕪村の句の本歌取りではないかとおっしゃる。
あはれ、あはれ、すみれの花よ。
しをらしきすみれの花よ。
汝(な)はかなし、
色あかき煉瓦の竈(かま)の
かげに咲く汝はかなし。
はや朝明の露ふみて
われこそ今し
妹(いもうと)の骨(こつ)ひろひにと来しものを。
蕪村の句はこうだ。
骨拾ふ人にしたしき菫かな
まったくだ。さらに、与謝野晶子の『みだれ髪』から、二、三持って来られる。
たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを歎きつつ死なむ【晶子】
朝顔にうすきゆかりの木槿(むくげ)哉【蕪村】
神のさだめ命のひびき終(つい)の我世琴に斧うつ音ききたまへ【晶子】
乾鮭(からざけ)や琴(きん)に斧うつひびきあり【蕪村】
がってん!がってん!がってん!
与謝野晶子にはこんな歌もある。
集(しゅう)とりては朱筆(しゅふで)すぢひくいもうとが興ゆるしませ天明の兄
お兄さまのたいせつな本に朱い線をつけた妹の酔興を、どうぞおゆるしくださいませ、と嘆願する歌である。「天明の兄」ならば蕪村である。さすれば、「集」とは『蕪村句集』に間違いない。晶子は蕪村に対して、肉親にも似た感情を抱いていたのである。
蕪村を忘却の彼方から現代に呼び戻したのは正岡子規だといわれている。その子規も、もちろん本歌取りの句がいくつかある。
旅人の知らで過ぎ行く清水哉【子規】
高麗(こま)船のよらで過行(すぎゆく)霞哉【蕪村】
蚊を燃(や)くや君が寝顔のうつつなき【子規】
燃立て貌(かお)はづかしき蚊やり哉【蕪村】
子規のあとで蕪村を再発見し、蕪村の位置を確たるものにしたは萩原朔太郎である。子規は蕪村の中に客観的描写である「写生」の精神を見出したが、朔太郎はなつかしさやゆかしさの主観的感情である「情緒」を見出したのだ。朔太郎が推奨する蕪村の句をいくつか挙げる。
柚(ゆ)の花やゆかしき母屋(もや)の乾(いぬい)隅
白梅や誰(た)が昔より垣(かき)の外
山吹や井手を流るる鉋屑
ところで、当の蕪村はどうかというと、藤田氏にいわせると、「写生」、「情緒」以外の境地にあったと推量されている。それは、蕪村自筆の句帳から分かるらしい。その句集には蕪村が気に入っている句に○印が付けられているのだ。それらの自信作は、今の我々がよく知っている蕪村の句とは違う。それらの句を何度も繰り返し読んで味わえば、蕪村晩年の境地が見えてくるのかもしれない。
水にちりて花なくなりぬ岸の梅
腹あしき僧こぼしゆく施米哉
名月や露にぬれぬは露斗(ばかり)
古傘の婆裟(ばさ)と月夜の時雨哉
http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1035.html?sp 【与謝蕪村4】より
♣ 薄見つ萩やなからん此辺り
♦ 風より起るあきの夕に
♥ 舟たえて宿とるのみの二日月
♠ 紀行の模様一歩一変
♦ 貫之か娘おさなき頃なれや
♣ 半蔀(はじとみ)おもく雨のふれれは
♠ さよふけて弓弦(ゆづる)鳴せる御なやみ
♥ 我もいそしの春秋をしる
♣ 汝にも頭巾着せうそ古火桶
♦ 愛せし蓮はかれてあとなき
♥ 小鳥来てやよ鶯のなつかしき
♠ さかつきさせは迯(にぐ)る縣女(あがため)
♣ 若き身の常陸介に補せられて
♥ 八重のさくらの落花一片
♦ 矢を負し男鹿(おじか)きて伏す霞む夜に
♣ 春もおくある月の山寺
♥ 大瓶の酒はいつしか酢になりぬ
♦ 五尺の釼うちおふせたり
♣ 満仲の多田の移徒(わたまし)日和よき
♥ 若葉か末に沖の白雲
♦ 松かえは藤の紫咲のこり
♣ 念仏申て死ぬはかり也
♥ 我山に御幸(ごかう)のむかししのはれて
♦ 迯(にげ)たる鶴の待(まて)とかへらす
♣ 銭なくて壁上に詩を題しけり
♥ 灯(ひ)を持出(いづ)る女麗し
♦ 黒髪にちらちらかかる夜の雪
♣ うたへに負ケて所領追るる
♥ 日やけ田もことしは稲の立伸(たちのび)し
♦ 祭の膳を並へたる月
♣ 小商人(こあきんど)秋うれしさに飛歩き
♥ 相傘(あひがさ)せうと姥にたはれて
♦ いにしへも今もかはらぬ恋種(こひぐさ)や
♣ 何物語そ秘めて見せさる
♠ 象潟(きさがた)の花おもひやる夕間暮
♥ 朧(おぼろ)に志賀の山ほととぎす
上は、いわゆる歌仙を巻いたものである。五七五、七七を18回繰り返し、計36句から成る連句である。上の連句は下の4名によってなされた。
♣ 蕪村 58歳
♦ 樗良 45歳
♥ 几董 33歳
♠ 嵐山 70歳前後
安永二年(1773年)の九月初め(おそらく二日)、伊勢より上京中の樗良が几董とうちつれて蕪村を訪れた。俳談に時を移すうち、折から病み臥す嵐山を油小路に見舞うことになった。秋の日も暮れて、雨も激しく降りはじめたので、蕪村は得意の怪談をもって嵐山を慰めようとしたが、嵐山は「いかで四吟流行のおかしきには」と歌仙の興行を望んだ。こうして四俳諧師膝押しの句座となり、四歌仙の満尾をみるのである。上はその四歌仙のうちの第一歌仙である。嵐山はこの三週間後に亡くなっている。
芭蕉七部集という連句の書がある。冬の日、春の日、曠野、ひさご、猿蓑、続猿蓑、炭俵の七部である。蕪村は、このうち、冬の日を最も評価していた。蕪村にも七部集がある。其雪影、明烏、一夜四歌仙、花鳥編、桃李(ももすもも)、続明烏、続四歌仙、五車反古の八部である。七部集なのに、どういうわけか八部なのだ。冒頭の歌仙はこの中の一夜四歌仙に収められている。
潁原退蔵氏は、この一夜四歌仙」をして、「高雅な古典趣味と豊潤な感覚美とは、四巻の中に満ち溢れて妍麗目を奪ふやうな絵物語が展開されて居る」と高く評価した。蕪村連句の代表作といってよい。
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