其角の『句兄弟・上』三

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92 【其角の『句兄弟・上』三(二十六~三十四)】  より

(句合わせ二十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

(謎解き・七十七)

二十六番

   兄 蟻道

 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩

   弟 (其角)

 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

(兄句の句意)弥兵衛が鳴らしているものとは知っていても、誠に鉢叩きの音はもの寂しい音であることか。

(弟句の句意)伊勢縞を来て歌舞伎役者のような恰好をしている鉢叩きだが、その伊達風の華やかな音色ではなく、そこのところが、誠の鉢叩きのように思われる。

(判詞の要点)兄句は鉢叩きにふさわしい古風な鉢叩きの句であるが、弟句はそれを伊達風の新奇な句として反転させている。

(参考)一 この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。

二 この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。

○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)

 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)

 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)

おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)

鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

三『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。

千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)

今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)

ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)

旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)

これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。

(四)『五元集拾遺』に「鉢たたきの歌」と前書きして、次のような歌と句が収載されている。

   鉢たゝきの歌

 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に

 初音きかれて     はつがつを

 花はしら魚      紅葉のはぜ

 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん

 おもしろや此(この) 樽たゝき

 ねざめねざめて    つねならぬ

 世の驚けば      年のくれ

 気のふるう成(なる) ばかり也

 七十古来       まれなりと

 やつこ道心      捨(すて)ころも

 酒にかへてん     鉢たゝき

   あらなまぐさの鉢叩やな

凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  其角

(句合わせ二十七)

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(謎解き・七十八)

二十七番

   兄 越人

 ちる時の心安さよ罌粟(けし)の花

   弟 (其角)

 ちり際は風もたのまずけしの花

(兄句の句意)この罌粟の花の、この散るときの、この心の安けさよ。

(弟句の句意)罌粟の花の散り際は、まことに、風がないのに、ひとりでに、散ってしまうものだ。

(判詞の要点)兄句の中七の趣向に対して、弟句は何らの趣向を施さずに無心に散っていく、その相違を意識しての作句である。

(参考)一 この二十七番の前の二十六番(兄 蟻道)が、『去来抄』に出てくる「鉢叩き」のもので、それは越人の「月雪や鉢たたき名は甚之亟」関連ものであることから、ここで、いよいよその主役でもある越人その人の登場ということになる。この「判詞」(自注)には、「中七字に風俗を立たるは荷兮越人等が好む所の手癖なり」とあり、其角としては、尾張蕉門を代表する俳人として、「荷兮・越人」の二人の名をあげ、それらの尾張蕉門の俳風の特徴の一つとして、この越人の句の中七の「心安さよ」という作為的な擬人化の見立てがそれであると指摘しているのであろう。

二 越人(明暦二年(一六五六)~没年不詳)本名越智十蔵。『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮。『更科紀行』に同行し、そのまま江戸まで同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場する。芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、実に好感を持っていた。『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた時にも越人が同行し、かつ馬上で酔っ払ったことがある。

(越人の『猿蓑』所収の句)

うらやましおもひ切(きる)時猫の恋  (『猿蓑』)

稗の穂の馬逃(にが)したる気色哉   (『猿蓑』)

ちやのはなやほるゝ人なき霊聖女(れいしょうじょ)(『猿蓑』)

ちるときの心やすさよ米嚢花(けしのはな)  (『猿蓑』)

君が代や筑摩(つくま)祭も鍋一ツ  (『猿蓑』)

啼やいとヾ塩にほこりのたまる迄   (『猿蓑』)

(句合わせ・二十八)

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(謎解き・七十九)

二十八番

   兄 玄札

 泥坊の中を出(いず)るや蓮葉者

   弟 (其角)

 泥坊の影さへ水の蓮(はちす)かな

(兄句の句意)泥水の中にあって、その泥水に塗れないで、そこから這い上がってきたことよ。この蓮葉者は。

(弟句の句意)泥水に映る影すらも、水に咲く蓮のように、清らかであることよ。

(判詞の要点)兄句は、古い俳諧などに見られる卑俗な言葉(泥坊)を一句にしているものであるが、弟句では、それを今様の蕉風で詠むとどうなるかということを趣向してのものである。

(参考)一 この玄札は未詳の俳人だが、芭蕉七部集の『あら野』に出てくる尾張の俳人・玄察(げんさつ)であろうか。尾張の俳人・越人の次ということでそんな感じでなくもない。その『あら野』に収載されている句は次のとおりである。

  石釣(つり)でつぼみたる梅折(おり)しける (『あら野』)

   絵馬(えうま)見る人の後(うしろ)のさくら哉 (『あら野』)

   ほとゝぎす神楽の中を通りけり (『あら野』)

二 この「蓮葉者」については、その判詞(自注)に、「はすはもの、蓮葉笠をかづきたる姿のみぐるしく、目立たるより云るか」とあり、「蓮葉女」(浮気で軽薄な女)のような意であろうか。「泥坊」も「放蕩者」の意があり、文字通り、「泥水」とが掛けられているものと解したい。兄(玄札)の句の意は、「この蓮葉者(浮気で軽薄な人)は、この泥水の中の蓮のように放蕩者の中から抜け出した」のような意か。弟(其角)の句の方は、「その放蕩者の影は、この泥水の中で、その影は定かではなく、その清らかな蓮のような風情である」と、兄の句と同じような句意なのであろう。『古今和歌集(三)』の「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(僧正遍昭)の「泥水の中に育ちながらその濁りに染まらない蓮の花の清らかさ」が背景にある句なのであろう。いずれにしても、両句とも分かり難い句である。その判詞(自註)の「泥坊といふ五文字の今とて用られるべきこそ」の「泥坊」の用例の面白さに着眼してのものなのであろう。

(句合わせ・二十九)

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(謎解き・八十)

二十九番

   兄 女 秋色

 舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉

   弟 (其角)

 船ばりを枕の露や閨(ねや)の外

(兄句の句意)舟梁(ばり)の露は共寝の人を待っている涙でありますことよ。

(弟句の句意)舟梁(ばり)を枕として、その枕に降りる露は、閨の外での露であることよ。

(判詞の要点)兄句は、一人でさびしく待っている句に対して、弟句の方は一人は臥し、一人は起きている句の、兄句への返答の句である。

(参考)一 この兄の句の作者・秋色(しゅうしき)は、其角没後、其角の点印を譲られた其角門の第一人者の女流俳諧師であり、青流(後の祇空)らとともに其角の遺稿集『類柑子』(宝永四年刊)を刊行した(また、其角一周忌追善集『斎非時(ときひじ)』・七回忌追善集『石などり』も刊行した)。享保十年(一七二五)に五十七歳で没したという『名人忌辰録』(関根只誠編)の記事が正しいとするならば、元禄三年(一六九〇)に刊行された『いつを昔』(其角編)の時には、二十二歳と、天才・亀翁(十四歳)とともに、当時の其角門の若手の一角を担っていた。こ

二 この秋色の「舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉」の句は、「舟梁(和船の両舷側間に渡した太い間仕切りの材)の露は共寝を思いつつ待っているひとの涙である」というようなことであろう。それに対して、其角の「船ばりを枕の露や閨(ねや)の外」は、中七の「や切り」にして、典型的な二句一章のスタイルで、「船ばりを枕にして涙しているひとよ、閨の外であなたを恋しく思っている」というようなことであろうか。判詞(自註)の「枕のつゆもさしむかひたる泪ぞかしとこたへし也。返しとある哥の筋なるべし」と、兄の句への「返し句」の意なのであろう。

(句合わせ・三十)

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(謎解き・八十一)

三十番

   兄 春澄

 草刈や牛より落ておみなえし

   弟 (其角)

 牛にのる娵御(ヨメゴ)落すな女郎花

(兄句の句意)草刈りが遍照上人が詠んだ女郎花に心引かれて牛より落ちてしまった。

(弟句の句意)牛に乗る嫁御を落とさないで下さいよ。遍照上人が詠んだ女郎花さんよ。

(判詞の要点)兄句は遍照上人が詠んだ女郎花の本歌取りの句で、それを「草刈」・「牛」との語を置き換えているだけだが、弟句ではがらりと意味・内容を換えている。

(参考)一 兄の句の作者、春澄(はるずみ)は京都の俳人である。承応二(一六五三)~正徳五(一七一五)。青木氏。別号、印雪子・素心子・春隈・貞悟・甫羅楼。延宝六年には江戸で芭蕉らと交流し『江戸十歌仙』を刊行。宝永(一七〇四~一一)ごろ、貞徳嫡伝四世貞悟を歳旦帖を刊行している(『俳文学大辞典』)など。其角との接点は、貞享元年(一六八四)の上京の時で、この年に、二十四歳の其角は春澄らの京都の俳人と座を同じくして、『蠧(しみ)集』という俳諧撰集が京都で刊行される。この『蠧集』所収の世吉(よよし・四十四句形式の連句)に其角・春澄の名が、その連衆の名の中に見ることができる(田中・前掲書)。この『蠧集』の書名の由来は、「句を干(ほし)て世間の蠧(しみ)を払ひけり」の、その世吉の発句によるとのことであり、当時の最先端の信徳らの「京都五歌仙」ともいえるものであるという(田中・前掲書)。その「田中・前掲書」によれば、この年(貞享元年)に、芭蕉を迎えた荷兮らの名古屋の俳人が『冬の日』(芭蕉七部集の第一集)を刊行し、この『冬の日』の副題が「尾張五歌仙」で、それは『蠧集』の「京都五歌仙」を意識してのものであるという。そして、其角が、その「京都五歌仙」に、芭蕉が、その「尾張五歌仙」に、江戸からの旅中に参加しているということは、やはり特記すべきことなのであろう。

二 この春澄の句は、其角の「判詞」(自注)に、「京流布の一作」(京の俳人達に流布した一作)とあり、評判の一作であったのであろう。句意は、「草刈りの男が、美しい女性の名を冠している女郎花を見て牛より落ちてしまった」と、「判判詞」(自注)にある「遍照の馬を引かえて」の、「名にめでておれる許ぞおみなえし我おちにきと人にかたるな」(「さがのにて、むまよりおちてよめる」の詞書あり。『古今和歌集(巻第四・秋)』・「僧正遍照」)が背景にあるという(夏見知章他編著『句兄弟上・注解』)。それに対して、其角のこの弟の句は、その「馬より落ちた」ところの遍照の本歌取りの世界とは全然関係なく、それを本歌取りした春澄の「牛より落ちた」句を本句取りしての、「牛にのる娵御(ヨメゴ)落すな女郎花」と、「パロディ」の「パロディ」と、二重にも三重にもした換骨奪胎の一句なのである。さらに、この「判詞」(自注)には、「是等は俳諧の推原(原=モトヲ推ス)也」とあり、ここは、『去来抄』ならず、『三冊子』「白さうし」の次の一節と関係しているようなのである。

○ 名にめでゝ(て)お(を)れるばかりぞ女郎花

            我落(おち)にきと人にかたるな

 この哥僧正遍照、さが野の落馬の時よめる也。俳諧の手本なり。詞いやしからず、心ざれたるを上句とし、詞いやしう、心のざれざるを下の句とする也。

(句合わせ・三十一)

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(謎解き・八十二)

三十一番

   兄 来山

 早乙女やよごれぬものは声ばかり

   弟 (其角)

 さをとめや汚れぬ顔は朝ばかり

(兄句の句意)早乙女さんよ。汚れていないのは、その田植え歌だけである。

(弟句の句意)早乙女さんよ。汚れていないのは、その朝だけである。

(判詞の要点)兄の句は、耳に聞こえて来る声を主題とし、弟句では、時の推移の目に見えるものを主題としている。

(参考)一 小西来山(一六五四~一七一六)、大坂を代表する談林派の俳人。淡路町の薬種商 小西六左衛門家に生まれる。(承応3年) 七つの頃から、談林派の西山宗因門下 前川由平に書画俳諧を学び、 その後、宗因の直弟子となる。 家業を弟に譲り、18歳で俳諧点者となった。 初号を満平と号し、後に来山・湛翁と改号、上島鬼貫らとともに、大坂での談林派の興隆に大きな功績を残した。談林派は、それまでの松永貞徳による貞門派の古風で詩情に乏しい俳風を脱し、軽妙洒脱な清新さを持つ句風で一世を風靡した。有名な句として次のようなものがある。

  門松や冥土の旅の一里塚

   お奉行の名さへ覚えず年暮れぬ

   時雨るるや時雨れぬ中の一心寺

 しかし来山の作品は、談林派の洒脱な一面とともに、自然のありさまを繊細な感覚でとらえ松尾芭蕉に通じる次のような蕉風に近い句もある。

    行水も日まぜになりぬ虫の声

    白魚やさながら動く水の音

 黄檗の南岳悦山(黄檗七世)に参禅し、大坂三郷外の今宮に「十萬堂」という庵を建てて、風月を友に酒を愛し、飄々とした人生を送った。※「十萬堂」は昭和20年戦災により焼失。現在、石碑が建てられている。享保元年10月、63歳で死去。一心寺に供養墓と句碑が建立されている。また今宮戎神社の隣の海泉寺には来山夫婦の墓がある。

二 さて、この来山の句については、「鶯はゐなかの谷の巣なれども訛びたる音をば鳴かぬなりけり」(西行『山家集』)の本歌取りの句という。その來山の句を本句取りにしての、其角の弟の句は、「今朝だにも夜をこめてとれ芹河や竹田の早苗節立ちにけり」(『続古今和歌集』第三・夏歌)を本歌取りしてのものに一変したというのである。これらのことに関して、その「判詞」(自注)に、「兄 うぐひすは田舎のたにのすなれどもだびたる声はなかぬなりけり」、「弟 今朝だにも夜をこめてとれ芹川や竹田の早苗ふしだちにけり」と、その「本歌取り」の「本歌」を紹介しているのである。句意は、兄の句は、「早乙女の汚れぬものは声だけで、後は泥んこである」ということで、弟の句は、「早乙女の顔は、朝だけは汚れていないが、後は泥んこである」ということなのであろう。この二句を比較しただけでは、これは、兄弟句というよりも、弟の句は兄の句の類想句という誹りは免れないであろう。しかし、これは、本歌取りの句であって、その本歌は、兄の句と弟の句とでは、全然別なのだと開き直られると、これも兄弟句と解しても差し支えないのかとも思えてくる。要は、其角流にするならば、その換骨奪胎も、「類想句の誹りを受けない」だけの、理論武装をして作句しなさいということなのかも知れない。

(句合わせ・三十二)

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(謎解き・八十三)

三十二番

   兄 柴雫

 傘持は大根ねらふ子日哉

   弟 (其角)

 傘持はつくばひ馴し菜摘哉

(兄句の句意)傘持ちの供人は、若菜摘みの子の日には、大根を摘もうと狙っている。

(弟句の句意)傘持ちの供人は、若菜摘みの子の日には、しゃがみ馴れた様子であることよ。

(判詞の要点)兄句の「ねらふ」を、弟句では「つくばひ馴し」とすることによって、新しい世界のものとしている。

(参考)一 この兄の句の作者、柴雫(さいか)関連で、『田中・前掲書』には、次のとおりの記述が見られる。

○芭蕉の門人である鳴海の知足の日記の貞享五年九月十七日の条に、「江戸其角御こし。晩に荷兮方に参られ候」(森川昭『千代倉日記抄一三』)、「俳文芸四四」)と記されている。この日の夜、其角は荷兮の家に泊まった。この後美濃国関の素牛(後の維然)、伊勢国久居の柴雫(さいか)を訪れ、十月二日には膳所の水楼において曲水(曲翠)らと風交を楽しんだ(『いつを昔』)。右の足跡から分かるようにこの時の旅では其角は、芭蕉が切り開いたいわば蕉門ルートをたどっている。柴雫と芭蕉の関係は不明だが、柴雫は『いつを昔』(元禄三)に入集した後、其角派の主要俳人として活躍しており、其角門人の独吟歌仙を集めた『末若葉(うらわかば)』(元禄十)の作者の一人である。おそらく元禄初年頃からは一時江戸に住んだのであろう。

二 さて、この柴雫の兄の句は、「傘持」と「子(ね)の日」の句で、その判詞(自注)を見ると、「若菜つむ大宮人のかりころもひもゆふぐれの色やみゆらむ」(『順徳院御集』)の本歌取りの滑稽化であるという(『夏見・前掲書)。それに対して、其角の弟の句は、和歌のもつ雅の風情を残しがら、兄の句の「傘持たる丁(ヨボロ)のさま」を、「ねらふ」から「つくばひ馴し」と言いかえることによって、新しい情感を表現しているという(『夏見・前掲書)。「つくばひ馴し」というのは「しゃがみ馴れしている」という意で、兄の句の「大根ねらふ」の俗語よりも雅語(和歌の持つ雅の風情を有している語)だと、其角はするのだが、この二句を並記して鑑賞すると、やはり、この「つくばひ馴し」が、どうにも、「作り過ぎ」(いじくり過ぎ)という感がしないでもないのである。そして、其角の洒落風の意味不明の謎句には、この『句兄弟』にあるような「判詞」(自注)が施されていないので、其角の謎句として有名な、「まんぢう(ぢゆう)で人を尋ねよ山ざくら」の句に関して、去来が指摘している、「我一人合点したる句也」ということで、要注意のものとして、其角を理解をする上では心しなければならないことのように思えるのである。

(句合わせ・三十三)

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(謎解き・八十四)

三十三番

   兄 尺草

 須磨の山句に力なしかんこ鳥

   弟 (其角)

 すまの山うしろに何を諫鼓鳥

(兄句の句意)須磨の山に閑古鳥が鳴いている。その風情に圧倒されて句に十分にその意を満たすことができない。

(弟句の句意)須磨の山を出て、その須磨の山を背にすると何故か閑古鳥が鳴いている。何とも風情のあることよ。

(判詞の要点)兄句は須磨の山中の句であり、弟句はその須磨の山を後にしたときの句である。同じ閑古鳥の風情でも、両者では趣を異にしている。

(参考)一 この尺草(せきそう)については、『田中・前掲書』では、次のように記述されている。

○元禄七年九月六日、其角は、岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人と共に関西旅行に出発した。尺草・松翁については素性は不明だが、尺草は元禄四年(一六九一)の江ノ島・鎌倉旅行でも其角・岩翁父子と同行している。

 この元禄七年(一六九四)は、其角の三十四歳の時で、この年の十月十二日に、芭蕉が亡くなる。享年五十一歳であった。芭蕉の死後其角はしばらく京にとどまり芭蕉の追善集『枯尾華』を編集する。十月十八日には義仲寺において、其角の「なきがらを笠に隠すや枯尾花」を発句として追善の百韻が興行された。その連衆は、大津・膳所・京都・大阪・伊賀などから参じた面々(其角だけが江戸)、全部で四十三人を数える。翌十一月十二日には、芭蕉の死を知って急遽上京した嵐雪・桃隣を迎えて、京都の丸山量阿弥亭で芭蕉追善の百韻が興行された。この時の連衆は二十一人で、名古屋の荷兮の名も見られる。また、芭蕉の死の直前まで其角と関西旅行をしていたメンバーの岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁も参加している。

二 さて、この兄句の尺草の「須磨の山句に力なしかんこ鳥」の句は、その関西旅行の際のものなのかも知れない。そして、其角のこの判詞に、「発句の馴熟(熟練している)はしらるべき也」とされているが、この中七の「句に力なし」(句に充分に言い表すことが出来ない)が、『去来抄』の言葉でするならば、「我一人合点したる句也」という趣でなくもない。その原因は、「須磨の山、(その風情の余り)、句に力なし、かんこ鳥(そのかすかな声が何とも心に惹かれる)」という一句の中で、上五の「須磨の山」と中七の「句に力なし」とが飛躍し過ぎていて、その間に醸し出される「(その風情の余り)」という省略が働いているのかどうかが微妙であるということにあろう。其角は、ここに「馴熟」していると見てとるが、去来などは、それは「一人合点したる」ものと受け取るのではなかろうか。ここらへんのところを、其角の弟句では、「すまの山うしろに何を諫鼓鳥」ということで、その「すまの山」の「(その風情の余り)」を、「うしろに何を」と、いわば、兄句の「一人合点したる」ものの、その「謎解き」をしているという趣であろう。この二句では、兄句の「句に力なし」という人事句的な感慨の「句作り」に比して、弟句では「うしろに何を」と叙景句な感慨の「句作り」で、異質の世界のものという思いを深くする。これらは、類想句というよりも兄弟句という雰囲気に解せられる。

(句合わせ・三十四)

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(謎解き・八十五)

三十四番

   兄 西鶴

 鯛は花は見ぬ里もありけふの月

   弟 (其角)

 鯛は花は江戸に生れてけふの月

(兄句の句意)鯛を食べられない里、そして、桜の花を見られない里もあるでしょうが、この仲秋の名月だけは何処でも誰でも均しく楽しむことができるでしょう。

(弟句の句意)鯛も、桜の花も、そして、お月さまも、江戸の新鮮な鯛と、江戸の上野の桜の花と、江戸吉原は言うに及ばず江戸の何処でもその仲秋の名月をと、江戸に生まれてこそ、これらを真に堪能できるとことでしょう。

(判詞の要点など)兄句は桜の花を見ることもない里に心を寄せて、遠く二千里の外の里人の心に通じ一句として仕立ているさまは特に類がない。そこで、弟句は、中七字だけを、その力を変えて、「栄啓期の楽」(『列子』にある「一楽」=人間として生まれてきたこと、「二楽」=男に生まれてきたこと、「三楽」=九十歳まで生きたいこと、の「三楽」)に寄せて作句したのである。そうすることによって、難波の浦に生まれ、住吉の月を美しいと眺め、すぐ目の前の海の新鮮な魚を釣らせて、その情景を作品に残しながら、時の流れを嘆じ、今の世に感じ入り、古を懐かしんで、「末二年浮世の月を見過ぎたり(西鶴)」(五十年も永い人生を送り、さらに、二年も永い仲秋の名月を眺めることができて、もう何も思い残すことはない)と辞世の句を詠んだ、その故人(西鶴)が、折にふれて、なつかしく思いだされてくるのです。

(参考)一 ここの西鶴の句を兄句としての、其角の弟句は、兄弟句というよりも、西鶴の句に唱和しての、挨拶句という趣である。こういう句は、それぞれが、単独で鑑賞されるべきものではなくて、両句を並列して、いわば、二句唱和の長句の付け合いという趣で鑑賞されるべきもののように思われる。いずれにしろ、この西鶴の兄句は、いかにも、談林俳諧の一方の雄であった西鶴らしい、その代表作といっても差し支えない一句であるし、それに唱和しての、この其角の弟句もまた、いかにも、洒落風江戸座の頂点を極めた其角らしい、其角の代表作の一つにしても差し支えないような一句と理解をしたい。

二 其角は西鶴に二度会っている。年譜史的には以下のとおりとなる。

貞享元年(一六八四)二四歳 二月、上京の旅に出立。京都で季吟・湖春父子、去来や自悦らと対面。大阪の西鶴を訪問し、矢数俳諧の興行に立ち会う。信徳・千春らと『蠧(しみ)集』を作成。秋の末に出立。この冬、嵐雪と破笠が彼の家に同居。

元禄元年(一六八八)二八歳 九月、堅田への旅に出立。途中、名古屋の荷兮などを訪ね、十月中に堅田着。京都で信徳・如泉・野水らと百韻興行(『新三百韻』)。西鶴訪問後、京都で去来・凡兆と対面。十二月下旬に江戸着。伊勢町に移住。

元禄六年(一六九四)三三歳 八月十日、西鶴没(享年五十二歳)。八月二十九日、父東順没。

元禄七年(一六九四)三四歳 九月、上方行脚に出立。同行者は岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人。十月十一日、大阪で病床の芭蕉を見舞う。翌日十二日、芭蕉没(享年五十一歳)。芭蕉追善集『枯尾華』を編集。冬、江戸に戻る。『句兄弟』成る。