吾唯知足

http://visnet.ne.jp/ep/chieikasu/column/column281.html  【吾唯知足】 より

先日の熊志共育塾2期生の定期塾で「吾唯足るを知る」の話が出て、いつの間にか忘れていた大切なものを思い出した気がした。10年以上前に家族と一緒に京都方面に旅行した時に、龍安寺にも立ち寄り、有名な石庭(枯山水の方丈庭園)を縁側に座り案内人の説明を聞きながら眺めていたこと、そして裏庭にある「吾唯知足」の彫り込みのある手水鉢のことが思い浮かぶ。

「吾唯知足」という言葉は知ってはいたが、龍安寺で話を聞くことで、その言葉そのものに強く共感を覚えて、感銘を受けたことを印象深く覚えている。そして早速、お札所で色紙、キーホルダー(金銀銅の3種類)、携帯ストラップなどを購入した。

オフィス移転するまではオフィスの見える場所に置いていたが、そのあと自宅に持ち帰り何処に置いたか分からなくなっていたので、片付けた可能性のある場所を捜し全て見つけることができた。

今回、改めて龍安寺の石庭、吾唯知足の手水鉢のことをウェブで調べてみた。

手水鉢は茶の湯の際、手や口を清めるために欠かせないものであることから、どこでも茶室の露地に据えられている。龍安寺の「吾唯足知」手水鉢は、石の庭がある方丈庭園の反対、方丈北側にあり、茶室蔵六庵の露地にひっそりと置かれている。露地には太閤秀吉に称賛されたという侘助椿もあり、私が訪れた時には、ちょうど立派な赤い花が咲いていたのが印象的であった。

この「吾唯足知」手水鉢は、いわゆる水戸黄門として親しまれている徳川光圀公から寄進されたものだと伝えられている。光圀公の功績のひとつに『大日本史』という歴史書を編纂したことがあるが、その頃に京都・奈良をはじめ、九州や東北地方などにも人を派遣して史料を集めた。龍安寺もこれに協力し、その返礼として「吾唯足知」手水鉢を寄進したといわれている。

「吾唯知足」または「吾唯足知」という言葉の解釈には、いろいろな説があるが、老子の「自勝者強、知足者富(分相応のところで満足する)」という言葉が原点にあるともいわれている。

禅の格言「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」、最近ではウルグァイの元大統領ホセ・ムヒカの言葉「貧乏な人とは少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲がありいくらあっても満足しない人のことだ」に通じるものがある。私には、このノーマルな解釈が最も腑に落ちると思っている。

次に、龍安寺の石庭は方丈庭園と呼ばれており、幅 25 メートル、奥行 10 メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置してある。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

この庭を望む廊下の何処から見ても、一目では15個の石すべてを数えることは、できない配置になっている。また石庭にある15個の石をなぞっていくと「心」という字になるともいわれている。

なお15と言う数字は、東洋では満ちた数字、完成されたもの、真理を表している。15の元服、七五三(足して15)、三三九度(足して15)など、めでたい数字でもある。

今「吾唯足知」という言葉を噛み締めている。

全てに感謝!


http://www.jyofukuji.com/10zengo/2002/09.htm【 知足 (ちそく) 〈遺教経〉 足るを知る】より

「足るを知る」と言えば、石庭で知られる竜安寺に有る「吾唯足知」のつくばいを思い出すが、これは竜安寺が専売特許ではない。遺教経に「若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといえども、安楽なりとなす。

不知足の者は富むといえども、しかも貧し。不知足の者は常に五欲のために牽かれて、知足の者のために憐憫せらる。是を知足と名づく」とある。

当寺の伝道掲示板に私が好んで掲げる言葉に『貧乏とは何も持っていない人のことでなく、多くを持ちながらまだまだ欲しい欲しいと満足できない人のことである』と言う文句がある。足る事を知る人は不平不満が無く、心豊かであることが出来る。ひところ、清貧のと言う言葉が流行ったが、足るを知ることは、欲望が制御され、煩悩妄想による迷いもおのずと消え、心清き状態でおれると言うことである。

現代は「物で栄えて心で滅ぶ」と言われるように、私たち生活の中では物質的にはもう十分なくらいに潤ってきた。更にブランド志向でより高価なもの、より味のいいものが求められてきた反面、使い捨て、食べ残しが常態化して勿体無いと言う言葉が死語となりつつある。

こんな時代背景に偽松坂牛肉が出、偽装事件が次々に発覚し、その事件を知りながら、その

同じ手口でまた騙し行為が続くと言う、なんとも心貧しい話を聞かされる。まさに「不知

足の者富むといえども、しかも貧し」である。

今の物質社会に「足るを知ってむさぼるな」というほうが時代遅れに思われそうだが、今の時代だからこそ「足るを知る」こと、また茶人利休の茶道理念とする足ることを知って分に安ずるという「知足安分」の精神が生かされなければならないのではなかろうか。

「南方録」巻頭覚書に「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也。是仏の教え、茶の湯の本意也。

水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶をたてて、仏に供へ、人に施し、我ものむ。花をたて香をたく。みなみな仏祖の行ひのあとを学ぶ也。」と述べられている。

必要な分を必要なだけ用意して茶をたてまず仏に供え、人に差し上げ施しして、最後に自分も頂くと言う、謙虚で思いやる、自利利他の精神が生きている。

これは古くて、また新しい思想なのである