https://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ed5c22951450662e1193238fbab1f778 【古庭に鶯啼きぬ日もすがら の解釈】 より
本日の『日経』文化欄で汲めども尽きぬ芭蕉の俳句に関する最近の論を紹介していた。私は、ここで、芭蕉を先達と仰いだ蕪村の上記句の藤田真一さんの解釈(岩波新書『蕪村』128~129頁)を一歩進めてみたい。「蕪村にとって、芭蕉のことも意識するべき対象であった。蕪村が「古庭」と言いかけたのは、芭蕉の「古池」に応じたからにほかならない。蛙だから「古池」、では鶯なら「古庭」になるだろう、というのだ。芭蕉のもじりといってもよい。つまり、「鶯」の本意性と「古池」のパロディをないまぜにしてなった句といえる。実は、これは、「蕪村」号のお披露目句であった。蕪村がこの句に、改号の意気をしめそうとしていたとしてもふしぎではない。・・」(藤田著)後注:芭蕉句は言うまでもなく「古池や蛙飛び込む水のをと」である。
私は、藤田氏の解説を前提として、更に踏み込んで考えてみたい。蕪村は、芭蕉の「古池」に対して「古庭」、同じく「蛙」に対して「鶯」を対置しただけでなく、一瞬の「水のをと」に対して長い「日もすがら」を対置している。句の風景は、古庭にある梅ノ木に鶯がとまって、一日中啼いている、というものである。私の視線は鶯に向かってやや上方を向いているが、ここで下方はどうなっているのかと目を向けると「ハッ」と気付くのである。古い庭だから古い池があってもおかしくないのではないか。ならばそこに蛙が飛び込んでいても良いのではないか。即ち、この「古庭」の中に「古池」が包含されているのではないか。「古庭」の方が「古池」より空間的に広く、「鶯」の方が「蛙」より視点が高く、また、「日もすがら」の方が「水のをと」より時間的に長いので、「古庭」句が「古池」句を包摂できるのである。また紀貫之の言う「蛙の声」に対して、芭蕉は新しい「飛び込む蛙」を見出したが、蕪村は貫之の言う「啼く鶯」にこだわっているとも言える。「蕪村」号スタートにあたり、ある意味で、「芭蕉」なにするものぞ、の気概を表わし、蕪村句が芭蕉句を言外に取り込んでいる二重風景句とみたいものである。(『地域居住研究』2004年3月号の拙稿による)
http://blog.livedoor.jp/takayan1223/archives/53343006.html 【『黛まどか「蕪村を読み解く」』古庭に鶯啼きぬ日もすがら】 より
画像は4月16日の京都新聞に掲載された『黛まどか「蕪村を読み解く」』の記事である。
『「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」は「蕪村」としての出発の一句であり、芭蕉へのオマージュであり、俳諧師としての覚悟であった』と黛まどか言う。
愚作「議事堂に鷽(うそ)啼き騒ぐ日もすがら」
http://toby.la.coocan.jp/sub5-buson-utsunomiya.htm 【蕪村・宇都宮】 より
蕪村は、10年ほど、結城に滞在していたが、世話になった砂岡雁宕の娘婿、佐藤露鳩が宇都宮に住んでいて、寛保3年(1743)、彼の許を訪れた。ここで歌会を開き、翌年、「歳旦帖」を編集発行した。この「歳旦帖」の中で、はじめて「蕪村」の号を用いた。宇都宮は、蕪村号誕生の地であり、この歳旦帖も「宇都宮歳旦帖」と呼ばれることになる。蕪村の前の、「宰鳥」で詠んだ最後の句と「蕪村」の号で詠まれた最初の句が、碑として宇都宮に残る。
鶏は 羽に はつねを うつの 宮柱 宰鳥
この句碑は、宇都宮二荒山神社の境内にある(写真上)。平成11年11月 蕪村顕彰会 建立。
二荒山神社の社頭で、新年の夜明けを迎えた鶏が、勢いよく羽ばたいている姿に寄せて、この地で第一声をあげた喜びを詠んでいると案内板に書かれている。読みは、トリはハに...で、うつのみやと掛けている。
古庭に 鶯啼きぬ 日もすがら 蕪村
の句碑は、二荒山神社の東、仲町の生福寺に新しくできた(写真下)。平成19年4月12日 蕪村顕彰会とある。尊敬していた芭蕉の、「古池や...」の句に寄せて、俳諧師として独立宣言の意気を感じさせる。
蕪村29歳のことであり、歳旦(元日)に自分や門弟の発句を集めて刷ったという歳旦帖を残した記念碑になっている。
なお、与謝を名乗るのは、42歳の頃、京都に居を構えた時期だという。
http://kobahiro962hk.jugem.jp/?eid=200 【与謝蕪村 と 宇都宮歳旦帳(さいたんちょう)】 より
与謝蕪村について
烏山出身の早野巴人(はやのはじん)は江戸にでて,其角(きかく)・嵐雪に学び、後上京し京都俳壇で重きをなしたが、元文二年(1737)江戸に戻り、日本橋石町鐘楼(しょうろう)のほとりに住まいを定めた。翌年、内弟子の与謝蕪村にその夜半亭(やはんてい)を譲った。寛保(かんぽう)二年((1742)蕪村は師を失い、結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)※のもとに身を寄せた。
※結城市観光協会発行 パンフレットより 砂岡は「いさおか」と読む
宇都宮ではじめて蕪村の俳号が使われた
翌三年、蕪村は芭蕉の足跡を尋ねて、奥羽の旅に出た。翌四年、29歳の春を雁宕(がんとう)の娘婿(むすめむこ)である宇都宮の佐藤露鳩(ろきゅう)方で迎えた。ここで初めて「歳旦帳(さいたんちょう)」を編集した。歳旦帳というのは、歳旦(元日のこと)開きに連歌師(れんがし)や俳諧師(はいかいし)が、自分や門弟の発句(ほっく)を集めて刷ったもので、宗匠(そうしょう)として初めて一家を成したことの宣言になる。この歳旦帳は「宇都宮歳旦帳」と呼ばれ、初めて蕪村の俳号(はいごう)が使われている。露鳩邸(ろきゅうてい)で編まれたともいい、二荒山神社にこもり露鳩一派の後援により撰したものともいわれる。
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000362.html 【宇都宮歳旦帖(うつのみやさいたんじょう)】 より
句会に参集した与謝蕪村の俳友が一句ずつ寄せ、句集刊行の版下はすべて蕪村の自筆となっています。
蕪村は、初め俳号を宰鳥としていました。東北地方の旅を終えて、宇都宮の佐藤露鳩のもとに着き、ここで露鳩一派の俳人たちと交わり、寛保4年(1744)に歳旦帖を編みました。これが蕪村の寛保歳旦帖であり、このとき初めて「蕪村」の号を用いています。この歳旦帖により蕪村の号の使用時期が証明されることから非常に貴重なものです。
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