「百日紅の鎮魂花」

https://www.alter-magazine.jp/index.php?%E7%99%BE%E6%97%A5%E7%B4%85%E3%81%AE%E9%8E%AE%E9%AD%82%E8%8A%B1 【「百日紅の鎮魂花」 越川 ます子】 より

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「敗戦」とは私にとって父の死と深くつながっている。太平洋戦争末期の昭和19年8月15日、父は中華民国で戦死した。父が入隊したのは私が4歳の時でそれが最後の別れとなった。父の顔もなにも全く覚えていない。戦死の公報を受け取った時、私が6歳で妹は3歳になったばかりだった。

蝉時雨を聞きながら暗い深い悲しみの長い沈黙の時が流れ、子供心にも云いようのない息苦しさを覚えた。書院の前庭の百日紅だけが大きな枝を伸ばして今年も燃えるように咲いていた。父は優しい性格で夏の夕方はよく水撒きをし花の頃を楽しみにしていたと。

祖母の話を聞きながら私は無性に悲しくなった。「こんな戦争さえなかったら誰も死ぬことは無かったのに・・・・」その時から美しいはずのこの花が私にとっては淋しく悲しみの花となってしまった。

戦争と言うものは絶対に悪いことだと幼い心に父の死と共に刻んだ。葬儀のため急遽仕立てあげられた紋付の式服を着せられ窮屈な思いの私に祖父は、「お前は越川家の跡継ぎなのだから決して泣いてはいけない」ときつく言い渡した。私は窮屈さも忘れて大きな眼を真っ直ぐ前に上げて口をへの字に結んだ。盛大な葬儀であったが、悲しみの一杯につまった黒い葬列は、60年余を経た今でも忘れることはない。

辛く悔し涙が渇く間もなく同じ年の秋、「巡洋艦・愛宕」と「駆逐艦」に乗っていた母の弟達が相次ぎ戦死してしまった。あまりのことに皆、言葉もなかった。

最愛の息子2人を同時に奪われた母方の祖母はそのショックで急死してしまった。

夫と弟2人、さらに大切な母まで失った母の深い苦しみ悲しみは幼い私にはどうすることも出来ない。母の手を握りしめながら「戦争さえなければ!」と強い憤りと「負けてなるか!」とますます泣くことを忘れて男の子のようになっていった。

本格的な空襲は19年11月24日が最初だった。あのB-29という大型長距離爆撃機が東京を空襲した。灯火管制がしかれ空襲警報が鳴るたびに防空壕に逃げ込んだ恐い思いや、ひもじい思いをしたが、あまりに多くて書ききれない。

次に一・二の出来事を記してみる。戦争が泥沼化していくなかで大人達は竹槍の訓練、子供は松脂取りをさせられた。これで飛行機を飛ばすのだと。屋敷から続いている山に入って、松の大木に次々と鎌と鉈を使って、“パーカーの矢印”みたいに何本も傷をつけて、その下に缶詰の空缶をあてがい松脂を集めるのだが、松脂はチヨロチョロとしか溜まらず固まるし本当に困った。

「こんなもので、あの大きい飛行機をどうやって飛ばすのか?そんなの無理だよ」と子供心にも思った。朝早くから艦載機が編隊を組んで飛んでくるようになり、恐怖に慄くなかで「松脂を集めるんだと!とても正気の沙汰ではない。」と祖父は吐き棄てるように言っていた。またわが家でも刀剣類や唐金の大火鉢など献納させられたが、「こんな無謀な戦を何のためにやるのか、これではまるで象と蟻の戦いだよ。人間の命をなんとおもっているのだ」と祖父は怒りながら二人の孫に「戦争は何故やってはいけないのか」理由を言い聞かせた。子供でもちゃんとわかるものだと祖父は言ったがまさにその通りであった。祖父の考え方はその後しっかりと孫が引き継いだ。

B-29は日本中の都市に爆弾を投下して恐れられていたが、そんな中で特筆すべき事件がある。日本の高射砲などほとんど歯がたたなかったと言われていたその高射砲でB-29を撃ち落としたのである。この時ばかりは大人達は皆興奮して「B-29は日本の高射砲を馬鹿にして低空飛行したから撃ち落されたんだ。ザマー見ろだ」と口々に言っていた。近隣の村や町から大勢の人が墜落したB-29を見ようと神代村に押し寄せた。たまたま祖母の里が神代村だったのでお見舞いをかねて祖父母と私と姉やと4人で出かけた。

田んぼをすっぽり覆うほど、燃料タンクを装備した主翼の片方がもぎ取られたように燃えずに巨大な姿をさらしており、山の木々をなぎ倒し落下し、炎上した機体の残骸は目を覆うばかりで見るかげもなく、一瞬のうちに燃えて黒こげになった松や杉がくすぶり続け、大きく抉りとられた地面のところどころ大穴があき、見るも無残な姿でほんとうに驚いた。

大きなエンジンの残骸のところに操縦士の遺体の一部を目にしてしまった時、あまりのショックで息が詰まり涙が止まらなかった。祖父は「戦死した者は敵も味方も無い。同じ仏として手厚く葬るべきだ」と皆に言っていた。惨たる状況を目前にし私は改めて「いかなる理由であろうとも戦争は絶対にしてはならないのだ」と痛感した。

父の戦死から丁度1年後の8月15日正午から「玉音放送」が行われた。隣近所の人達が我が家の庭に続々と集まってきて、ラジオから流れる放送を聴いた。

みんな、これで戦争がようやく終わったのだとホッとした。もっと早く降伏していれば広島や長崎に原爆を落とされずに済んだものを?と思った。

少し話は変わるが、私はずっと今まで8月15日が「終戦記念日」と言われることに違和感がある。「ミズーリ」艦上で降伏文書調印式が行われたのが9月2日で世界の教科書でもみんな第二次世界大戦が終了したのは9月2日と書かれている。なぜ日本だけが8月15日が「終戦記念日」だなどと言っているのか?それと8月15日は「負けた」と言った日なのだから「敗戦」だと思うのだが?.

かって東久邇宮首相は戦争終結の演説草稿で下村陸相が草稿の中の敗戦という言葉を“終戦”として欲しいと注文をつけてきた時、首相は「何を言うか。“敗戦”じやないか。敗戦ということを理解するところから全てが始まるんだ」と一喝したという。この話ははっきりと筋が通っていて私は意を強くした。戦争を知らない世代が増えているいま、3年8カ月にもわたるあの戦争は何だったのか。

どんな意味があったのか。正しい歴史の教育も大切だし、指導者を選び間違えるとどんなことになるか。太平洋戦争は今なお私達にとって良き反面教師なのだと思う。