https://kouunji.or.jp/buddhism_lecture/understand/3032/ 【『春は花、夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり』】より
曹洞宗を開かれた道元禅師は、正法眼蔵「現成公案(げんじようこうあん)」の中で「仏道をならうというは自己をならう也。自己をならうということは自己をわするること也。自己をわするるとは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と述べている。
禅の心随を説いたものである。
その禅とは釈迦の悟った仏(ほとけ)の御いのち(おんいのち)であり、それはまた本当のこころそのものにほかならないとする。
上記の言葉は日本の四季を道元禅師が永平寺の夜空を眺めていて詠われたものである。
自然の美をありのまま、素直に賞でる気持ちがそのまま仏の御いのちに通じることをあらわして、その言葉自体が禅を説いている。 禅ではこれを「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、以心伝心(いしんでんしん)、直指人心(じきしじんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」等と要約し、それは言葉を超越し、教義体系にしばられず、自分の胸中をじかにつかむことによって、その中に仏の御いのちが見出されると説き、禅の世界に解けこんでいくことを指している。その境地になりきることが坐禅の姿である。
現代人は、この本当の自己をわすれて、我が身を飾り、言葉をも持て遊んであたかもそれに実体があるかのように考えているところに自己疎外や断絶の要因があるのではなかろうか。
もう少し自分をよく考えることにこの言葉の意味があろう。
Facebook・近藤裕子さん投稿記事
《春は花 夏ほととぎす 秋は月冬 雪さえて 涼しかりけり》
これは 道元禅師 の〈本来の面目〉という題名の和歌です。〈本来の面目〉とはあるがままの姿 という意味です。
これは 自然を歌いながら道元からの〈 問いかけ〉です。
春が花であるように夏がほととぎすであるように秋が月であるように。。。
それならあなたはどんな人?本来の自分を知っていますか?
なんとなく日々を過ごしているうちにいつの間にか 自分と言うものを見失っていませんか?
立ち止まって〈 自分のあるべき〉に立ち返ってください。そこからあなたの本来の人生が始まります
http://wp1.fuchu.jp/~zenshoji/houwa1-1.html 【 人 生 の 雨】 より
道元禅師のお歌の中に、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」という句があります。 春夏秋冬の各々の環境にとけこんで、その時々を生かして、暮らしてゆきなさい、というお歌です。私たちは、雨が降るから傘がいると思っています。しかし、ヨーロッパに降る雨は、こぬか雨が多く、傘をささずに歩いてもあまり濡れないのです。ヨーロッパの映画では、レインコートの襟を立てて傘なしで歩いているシーンをよく見ますが、ヨーロッパの雨は小雨だからこそできることなのです。
また、小雨とは逆に、強すぎる雨でも傘は役に立ちません。フィリピンの人は、天気予報にあまり関心をもたず、傘を持って歩いている人は少ないそうです。
では、雨が降ればどうするのかと尋ねると、返ってくる返事は、「やむまで待ちます。」
フィリピンの雨は、スコールのような激しい雨で、傘をさしていてもずぶぬれになるのです。そんな処では、やむまで待つことが賢明な策です。
そうしてみると、本来、雨が降るから傘が要るのではない。傘の要るような雨の時に、傘が要るのです。
また、人生にもいろいろな雨が降ります。人生の雨は、悲しみの涙雨です。人生の雨に遭遇した時、私たちはどうすればよいか。こぬか雨なら濡れて歩けばよい。それも案外、風流かも知れません。こうした小さな雨には、しっかりとこれに耐えるべきです。 傘の要る雨には、傘を用意しよう。涙の雨には、慰めという傘が役に立つ。誰か信頼のできる人に甘えて、慰めてもらうのも、一つの人生を生き抜く方法かも知れません。
しかし、土砂降りの雨には、傘は役に立たない。そんな雨にあったら、じっと待っていることです。そうすれば、いつかは雨はやむ。
それまでしばしの雨宿りであります。永遠に降り続く雨は、絶対にないのだから。
これから寒い寒い冬がやってきます。そんな艱苦をじっと耐え、一休みしていると、いつの間にか、暖かく、花咲き鳥歌う春がやってきます。暑い暑いとグチっているうちに、何時しか、涼しいさわやかな秋を迎えます。
これが道元禅師の、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
というお歌の教えであり、我々人間一人一人の人生の姿でもあります。
要は、どんな苦しいことも絶対に永遠に続くものではなく、どんな幸せも、絶対のものではないことを知らねばならないのです。
https://zousenin.hamazo.tv/e6646132.html 【春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり】 より
曹洞宗の開山様、道元禅師のお歌に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷し(すずし)かりけり」というお歌がございます。
この歌は、「本来の面目」という題で歌われた歌です。この本来という意味は、一番元の命の根源をいいます。仏性といいます。命のふるさとでしょう
か。その命のもとの姿と言ったらいいでしょうか。
面目というのは、たとえば面目をほどこしたとか、面目まるつぶれなどと
いいます。姿、形、中身のことです。
ですから、仏さまの姿、形、中身が「春は花、夏ほととぎす 秋は月 冬雪
さえて冷しかりけり」という姿、それが仏さまであると道元禅師はおっしゃって
おります。仏さまというと、お釈迦様や観音様などの仏像をイメージします。
しかし、そうではなく、気づく気づかないにかかわらず、こうして生かしていた
だいている命の姿、その背景を仏さまと呼ぶということなんです。
私たちが、眠っていても心臓が動いています。呼吸をさせていただいています。
食べたものが何とも思わなくても消化できる。すべての働き、その働きの背景
それ自身を仏さまと呼ぶのです。
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