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【季語が石榴の句】より
実ざくろや妻とはべつの昔あり
池内友次郎
石榴(ざくろ)の表記は「柘榴」とも。夫婦して、さて季節物の何かを食べようというときに、必ずと言ってよいほど話題になる食物があるはずだ。「子供のときは家族そろって大好物だった」とか、逆に「こんなもの、食べられるとは思ってなかった」とか。そういうときに、私も作者のような感慨を覚える(ことがある)。石榴の場合は、おそらくは味をめぐっての思い出話だろう。一方が「酸っぱくて……」と言えば、片方が「はじめのうちだけ、あとは甘いんだよ」と言う。石榴を前にすると、いつも同じ話になるというわけだ。ま、それが夫婦という間柄の宿命(?)だろうか。私は「酸っぱくて……」派だけれど、子供のころに野生に近い石榴しか知らなかったせいだと思う。この季節の梨にしても、小さくて固くて、ほとんどカリンのようなものしか食べたことがなかった。たしかに「妻とはべつの昔」に生きていたのだ。石榴といえば、とても恐い句があるのをご存じだろうか。「我が味の柘榴に這はす虱かな」という一茶の句。虱は「しらみ」。江戸時代、柘榴は人肉の味に似ていると言われていたそうだ。(清水哲男)
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
西東三鬼
作者の状況説明。「ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の二階の窓から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六、七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本の細君が肺病で死んでからは独り暮らしをしている」。「叫びて打ち落す」のだから、食べるためではないだろう。いまで言うストレス発散の一法か。そんなワシコフ氏の奇矯な振る舞いを、二階の窓から無表情で見下ろしている三鬼氏。両者の表情を思い合わせると、なんとなく可笑しい。と同時に、人間の根元的な寂しさがじわりと滲み出てくるような……。この後、砕け散った石榴(ざくろ)を、ワシコフ氏はどうしたろうか。そこまでは、三鬼氏の知ったことではない。彼の句に「俳句的なイロニックな把握はない」と評したのは山本健吉だったが、この句もストレートに状況を述べている。ストレートだから可笑しくも哀しいのであって、ひねったカーブで仕留めようとすると、これほどにワシコフ氏のありようは明確にならないだろう。要するに、三鬼の句は対象を可能な限り対象のままにあらしめること、そこに力が込められている。では、一般に言う写生派と同じ技法かということになるが、それとも違う。写生派の命は、多く切れ字などのひねり(カーブ)に関わっている。客観性を保つという意味では、実は三鬼句のほうがよほどクリーンなのである。『西東三鬼句集』(角川文庫・絶版)などに所収。(清水哲男)
石榴淡紅雨の日には雨の詩を
友岡子郷
季語は「石榴(ざくろ)」で秋。「淡紅(たんこう)」は、句の中身から推して、晴れていれば鮮紅色に見える石榴の種が、雨模様にけぶって淡い紅に見えているということだろう。句の生まれた背景については、作者自身の弁がある。「今にも降り出しそうな空模様だった。吟行へ連れ立ったグループのひとりが、それを嘆いた。私は励ますつもりでこう言った。『いいじゃないの、雨の日には雨の句をつくればいい』と」(友岡子郷『自解150句選』2002)。俳句の人は、吟行ということをする。俳句をつくる目的で、いろいろなところを訪ね歩く。私のように詩を書いている人間は、そうした目的意識をもってどこかを訪れることはしないので、俳人の吟行はまことに不思議な行為に写る。だから、こういう句に出会うと、一種のショックを受けてしまう。俳人も詩人も同じ表現者とはいっても、表現に至る道筋がずいぶんと違うことがわかるからだ。天気のことも含めて、俳人は事実にそくすることを大切にする。ひるがえって詩人は、晴れた日にも、平気で「雨の詩」を書く。だからといって、なべて詩人は嘘つきであり、俳人は正直者だとは言えないところが面白い。その意味で、掲句は私にいろいろなことを思わせてくれ、刺激的だった。日常会話的に読めば凡庸にも思えるかもしれないが、俳句が俳句であるとはどういうことかという観点から読むと、私には興味の尽きない句である。吟行論を書いてみたくなった。『翌(あくるひ)』(1996)所収。(清水哲男)
石榴割れる村お嬢さんもう引き返さう
星野紗一
季語は「石榴(ざくろ)」で秋。不思議な味のする句だ。変な句だなあと一度は読み過ごしたが、また気になって戻ってきた。まるで、横溝正史の小説の発端でも読んでいるような雰囲気だ。この状況で、そこここに大きなカラスがギャーギャー鳴きながら飛び回りでもしていたら、おぜん立てはぴったり。作者ならずとも、「もう引き返さう」という気持ちになるだろう。でも、お嬢さんは気丈である。委細構わず物も言わずに、人気の無い村の奥へ奥へと歩み入ってゆく……。周囲にある石榴の木を見上げると、どれもこれもの実が大きく割れており、二人をあざ笑うかのような赤い果肉がおどろおどろしい。気味が悪いなあ……。ところで実際、石榴は、昔は不吉な実として忌み嫌われていたそうである。というのも、東京入谷などの鬼子母神(きしもじん)像を見ると右手に石榴を持っているが、あの石榴には次の言い伝えがあるからだった。この女はもとは鬼女であり千人の子を生んだが、子を養うために、日夜、他人の子を盗んではわが子に与え、地域には悲しみの泣き声が絶えなかった。この話を伝え聞いた釈迦は、女に吉祥果(石榴)を与え、人の子の代わりにその実を食べさせよと戒めたという。この話のため、石榴は人肉の味がするとして嫌われたということだ。嘘か本当かは知る由もないけれど、私もそういえば人肉は酸っぱいものだと聞いたことがある。作者もまた、おそらくはこの話を踏まえて作句しているのだろう。それにしても、奇妙な味の俳句があったものである。この人の句を、もっと読んでみたくなった。もし句集があったら、どなたかお知らせいただければありがたいのですが。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)
[早速……]上記星野紗一句集について、読者より丁寧なご案内をいただきました。ありがとうございました。(29日午前6時30分)
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
西東三鬼
二十代の後半に、三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」という句に偶然出会って、私は驚嘆した。脳震盪を起こした。そして西東三鬼という奇妙な名前の俳人が忘れられなくなった。俳句侮るべからず、と認識を新たにさせられた。さっそく角川文庫『西東三鬼句集』を探しはじめ、1年がかりで探し当てたときは、まさに「鬼の首」でもとったような感激だった。定価130円。掲出句は「水枕・・・」の句を冒頭に収めた句集『夜の桃』に収められている。ニヒリスト、エトランジェ、ダンディズムなどという形容がつきまとう三鬼ならではの斬新な風が、この句にも吹いている。同時にたくまざるユーモアがこの句の生命であろう。白系ロシア人で隣に住んでいたというワシコフ氏はいったい何と叫んでいたのか? 肥満体の露人は五十六、七歳で一人暮らし。せつなさと滑稽がないまぜになっている。赤く熟した石榴を、竿でムキになって打ち落としている光景は、作者ならずとも思わず足を止め、寒々として見惚れてしまいそうだ。ここはやはり柿や栗でなく、ペルシャ・インド原産の石榴こそふさわしい。外皮が裂けて赤い種子が怪しく露出している石榴と、赤い口をゆがめて叫ぶ露人の取り合わせ。尋常ではない。『夜の桃』(1950)所収。(八木忠栄)
売春や鶏卵にある掌の温み
鈴木しづ子
敗戦後まもなくの句。この「鶏卵」は、客にもらったものだろう。身体を張った仕事と引き換えに、当時は貴重で高価だったたまごを得た。まだ客の掌の温みの残ったたまごを見つめていると、胸中に湧いてくるのは限りない虚脱感と自己憐憫の哀感だ。フィクションかもしれないし、事実かもしれない。しかし、そんなことはどうでもよいことだ。ここに現れているのは、戦後の飢餓期にひとりで生きなければななかった若い女性の、一つの典型的な心象風景だからである。もはや幻の俳人と言われて久しい作者については多くの人が言及してきたが、私の知るかぎり、最も信頼できそうなのは『風のささやき しづ子絶唱』(2004・河出書房新社)を書いた江宮隆之の言説である。この本の短い紹介文を書いたことがあるので、転載しておく。「その作品は『情痴俳句』とハヤされ、その人は『娼婦俳人』と好奇の目を向けられた。敗戦直後の俳壇に彗星のように現われ、たちまち姿を消した俳人・鈴木しづ子。本書は、いまなお居所はおろか生死も不明の『幻の俳人』の軌跡を追ったノンフィクション・ノベルである。『実石榴のかつと割れたる情痴かな』『夏みかん酸っぱしいまさら純潔など』。敗戦でいかに旧来の価値観が排されたにせよ、それはまだ理念としてなのであり、若い女性が性を詠むなどは不謹慎極まると受け取る風潮が支配的だった。スキャンダラスな興味で彼女を迎えた読者にも、無理もないところはあるだろう。しかし、彼女への下卑た評価はあまりにもひどかった。著者の関心は、これら無責任な流言から彼女を解き放ち、等身大のしづ子を描き、その句の真の意味と魅力を確認することに向けられている。そのために、彼女の親族や知人に会うなど、十数年に及ぶ歳月が費やされた。彼女の俳句にそそいだ愛情と才能を、スキャンダルの渦に埋没させたままにはしたくなかったからだ。戦時中は町工場に勤め、そこで俳句の手ほどきを受け、名前を知られてからは米兵相手のダンサーとなり、のちに基地のタイピストとして働いた。離婚歴もあり、これらの経歴を表面的につきまぜた『しづ子伝説』は現在でも生きている。著者は彼女の出生時から筆を起こし、実にていねいに『伝説』の数多の虚偽から彼女を救いだしてゆく。同時に折々の作句動機に触れることで、しづ子作品を再評価しているあたりも圧巻だ。これから読む人のために、本書の結末は書かないでおくが、才能豊かで意志の強い若い女性が時代や世間の波に翻弄されてゆく姿はいたましい。いかに彼女が『明星に思ひ返へせどまがふなし』と胸を張ろうともである」。掲句は結城昌治『俳句つれづれ草』所載。(清水哲男)
ざくろ光りわれにふるさとなかりけり
江國 滋
このように詠んだ作者の「ふるさと」とはどこなのか。出生地ではないけれども、「赤坂は私にとってふるさと」と滋は書いている。その地で幼・少年期を過ごしたという。「赤坂という街の人品骨柄は、下下の下に堕ちた」と滋は嘆いた。詠んだ時期は1960年代終わり頃のこと。その後半世紀近く、その街はさらに際限なく上へ横へと変貌を重ねている。ここでは、久しぶりに訪ねた赤坂の寺社の境内かどこかに、唯一昔と変わらぬ様子で赤々と実っているざくろに、辛うじて心を慰められているのだ。昔と変わることない色つやで光っているざくろの実が、いっそう街の人品骨柄の堕落ぶりを際立たせているのだろう。なにも赤坂に限らない。この国の辺鄙だった「ふるさと」は各地で多少の違いはあれ、「下下の下に堕ちた」という言葉を裏切ってはいないと言えよう。いや、ざくろの存在とてあやういものである。ざくろと言えば、私が子どもの頃、隣家との敷地の境に大きなざくろの木が毎年みごとな実をつけていた。その表皮の色つや、割れ目からのぞくおいしそうな種のかたまり――子ども心に欲しくて欲しくてたまらなかった。ついにある夜、意を決してそっと失敬して、さっそく食べてみた。がっかり。子どもにはちっともおいしいものではなかった。スリリングな盗みの記憶だけが今も忘れられない。滋は壮絶な句集『癌め』を残して、1997年に亡くなった。弔辞を読んだ鷹羽狩行には「過去苦く柘榴一粒づつ甘し」の句がある。『絵本・落語風土記』(1970)所収。(八木忠栄)
実ざくろの裂けたき空となりにけり
下村志津子
暦の上では晩秋となったが、残暑の疲れも取れぬ間に、冬が横顔を見せているような今年に、明度の高い秋の晴天は数えるほどだった。あらゆる果実は美しい秋の空に冴える。ことにざくろの赤といったら。中七の「裂けたき」は、ざくろの心地といったところなので、「分かるわけない」と両断されてしまえばそれまでだが、それでもざくろにはそんな思いがあるのではないかと意識させる果実である。言わずと知れた鬼子母神を悲しい母の姿が背景に見え隠れしながら枝をしなわせるほどの重さにも屈託を感じる。「裂けたき」によって、ざくろの赤々と光りを宿した内部を思わせ、秋天の芯に向かって、今にもめりめりとまるで花開くように裂けてゆくのではないかと思わせる。句集名の可惜夜(あたらよ)とは、明けるのが惜しい夜。すごい言葉だ。〈可惜夜の鳴らして解く花衣〉〈連翹のさわがしき黄とこぼれし黄〉『可惜夜』(2010)所収。(土肥あき子)
石榴喰ふ女かしこうほどきけり
炭 太祇
石榴(ざくろ)はペルシャ原産で、平安時代に伝わっています。鬼子母神の座像は、右手に吉祥果(ざくろ)を持っています。仏説では、千人の子を持つ鬼女・鬼子母神が、他人の赤子を喰らうのを戒める代わりに石榴を与え、以後、改悛して子育ての神となったということです。なお、鬼子母神のルーツは、ギリシャの女神・テュケであることを数年前の「アレクサンドロス展」で知りました。ギリシャ・マケドニアの大王がペルシャを通過して、東征したときに付随して伝わった物や事柄は多く、石榴もまた、そのように日本に流れついた一つなのかもしれません。炭太祇(1771没)はご存知、京都・島原廓内の不夜庵住まい。掲句は、遊女の客が持参した石榴なのか、赤く小さな実を一粒ずつけなげにほぐしている様子です。指と唇がかすかに赤く染まった遊女は、鬼子母神の石榴の由来を知りません。一心に石榴を喰う女と、それを見ている作者。無邪気な中に、無惨さもあり、しかし、眼差しには慈しみがあるでしょう。『近世俳句俳文集』(1963)所載。(小笠原高志)
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