其角と蕪村 ①

https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/Wb-GgmgO0_k 【其角と蕪村(その一)】

蕪村の師というのは、夜半亭宋阿こと早野巴人その人であろう。蕪村は画・俳二道を極めた、類い希なる才能の持ち主であったが、その画・俳二道の世界を、ほとんど、独学という趣で切り開いていったという点で、これまた、驚くべき独立独歩だったという感じを大にする。その与謝蕪村が唯一師として仰ぐべき人物は、其角門の俊才の、江戸座俳諧の大物宗匠の一人であった夜半亭一世こと早野巴人その人であった。この早野巴人についても、ネットの世界で、この頃認知されて、その名を見るようになったのは、はなはだ、巴人、そして、蕪村ファンの一人として、喜ばしい限りである。次に、早野巴人関係の紹介のアドレスと、その記事を紹介をしておきたい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E9%87%8E%E5%B7%B4%E4%BA%BA

○早野巴人(はやの はじん、延宝4年(1676年) -

寛保2年6月6日(1742年7月7日))

江戸時代の俳人。与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)と改める。下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。延宝5年(1677年)の生まれの説もある。幼くして(9歳の頃)江戸に出て俳諧の道を志す。元禄2年(1689年)松尾芭蕉(まつお ばしょう)の「奥の細道」の足跡を辿って旅をする。再び江戸に戻り、宝井其角(たからい きかく)・服部嵐雪(はっとり らんせつ)の門人となり俳諧を学ぶ。享保12年(1727年)京都に移る。元文2年(1737年)砂岡雁宕(いさおか がんとう)の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構える。この時に号を宋阿とする。この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となる。寛保2年6月6日夜半亭にて病没。享年67。辞世の句は「こしらへて有りとは知らず西の奧」である。

https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/t9LGrGhkT6I 【其角と蕪村(その二)】より

蕪村が俳諧の先達として最も尊敬したのは、それはいうまでもなく芭蕉であった。「三日翁の句を唱えざれば、口むばらを生ずべし」(『芭蕉翁附合集』序)といい、また、「金福寺芭蕉翁墓」と題しての「我を死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」の句を詠んでいることなども、その証しとなろう。この蕪村が芭蕉に次いで尊敬を置いた俳人は其角であった。すでに早く宝暦八年(一七五七)の「天の橋立図賛」において、彭城百川にふれ、「はた俳諧に遊んでともに蕉翁より絲ひきて、彼は蓮二(支考)に出て蓮二によらず、我は晋子(其角)にくみして晋子にならず」と、其角への傾倒ぶりを吐露している。さらに、安永六年

(一七七七)の夏に起草した『新花摘』には、くりかえし其角のことについて触れている。そもそも、この『新花摘』は、元禄三年(一六九〇)の其角の、亡母追善の一夏百句として成った『花摘』に倣ったものであることは明瞭なところである。この蕪村の『新花摘』は一日十章の新しい形式をとり、四月八日から十六日間つづけたが、「所労のため」中絶して、その後は若き日の関東出遊時代の旅の回想などを加えて完結させている。この『新花摘』については、下記のアドレスで、ネット上で閲覧することができる。以下、『俳句講座一 俳諧史』(明治書院)所収「中興俳諧史(栗山理一稿)」(以下、「栗山・前掲書」)

などの「其角と蕪村」などを、ネット記事と併せ、見ていくことにする。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/images/shinhana.html

https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/HVrvNNbyac8  【其角と蕪村(その三)】より

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf1f.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf1b.html

新花つみ

八日

一 灌仏やもとより腹はかりのやど       二 卯月八日死ンで生るゝ子は仏(ほとけ)

三 更衣(ころもがへ)身にしら露のはじめ哉  四 ころもがえ母なん藤原氏(うぢ)也けり

五 ほとゝぎす歌よむ遊女聞(きこ)ゆなる   六 耳うとき父入道よほとゝぎす

七 小原女(をはらめ)の五人揃うてあはせかな 八 更衣矢瀬(やせ)の里人ゆかしさよ

金の扇にうの花画(ゑがき)たるに句せよと、のぞまれて

九 白がねの花さく井出の垣根哉       一〇 うの花も咲や井出の里

一一 うの花や貴布禰(きぶね)の神女(みこ)の練の袖

一二 をちこちに滝の音聞く若ばかな   一三 山畑を小雨晴行(はれゆく)わか葉かな

一四 般若よむ庄司が宿の若葉哉     一五 夜走りの帆に有明て若ばかな

(句意など)(『与謝蕪村集』清水孝之校注)(以下『清水・前掲書』)による。

一 釈尊でさへ人間の女の腹を仮の宿として誕生され、その灌仏会の花御堂が仮の宿であるように、もともとこの人生は一時の仮の宿に過ぎない。其角の『花摘』の巻頭の句は、「灌仏や墓にむかへる独言(ひとりごと)」。

二 四月八日釈尊降誕の当日、死児となって生まれた子は、俗世の悪も穢れも知らぬから、そのまま真の仏であることよ。

三 四月一日の衣更に身も心も軽くなったが、思えば露置きそめる頃であった。人生は予測できぬが、一歩一歩無常身へ近づくことだけは確かだ。

四 伊勢物語(十段)の「父はなほびとにて、母なむ藤原なりける」を踏まえる。

五 母系貴種でも父が賤しいため落ちぶれた遊女。近頃その遊女の詠んだ時鳥の和歌が評判になっているとか。

六 耳の遠い老父入道にいくら教えても時鳥を聞き得ない老残の哀れさ。

七 紺の揃いの袷に赤い襷がけ、白脚絆を前結びにした小原女が五人も揃って、早朝の京の町を「買わんかにゃあ」と、呼声も涼しく売り歩く。

八 矢瀬(矢背・八瀬)村は大原村のすぐ南に当たるから、小原女から八瀬の里人(男)を連想した。「ゆかし」と思うのは歴史的懐古感。天武天皇が流れ矢に負傷され釜風呂で治療されたと伝えられ、ここは「耕(たがやし)や矢背は王氏の孫なりと」(召波)という王孫伝承による。

九 山吹(黄金色)の名所井出の農家の生垣には、今は白銀の花(卯の花)が咲いているよ。「井出」は「井堤」とも。京都府の綴喜郡玉水町の東部。山吹と蛙の名所。

一〇 前句(九)の中七下五を細字で記入。九の句形が無季なのでの改作か。

一一 卯の花が白く咲き連なる貴船神社の境内。巫女が白い練り絹の袖を翻しながら落花を掃き寄せている。

一二 距離の遠近により滝の音の響きが違う。音のみによって山の奥行きの深さを表現している。「若葉」は四月十日の夜半亭月並会の兼題むの一つだった(几董句稿五)。

一三 雨雲が晴れ上がってゆく。小雨に洗われた山畑周辺の新緑が目覚めるように生き生きと美しい。

一四 大般若経を大勢の僧侶が読誦する光景。「庄司」は庄官。庄園における領主の補佐役。謡曲「道成寺」の真名子の庄司に由来のある句か。

※蕪村の『新花摘』はこれらの発句から始まる。この『新花摘』は其角の『花摘』に倣ってやられていることは明瞭であるが、一般にこの種の試みは一日一句、そして夏行百句であるが、蕪村の場合は一日に平均八句を詠んで、そして、僅か十七日間で中絶している。『蕪村の研究 連作詩篇考』(高橋庄次著、以下『高橋・前掲書』)では、「この『新花摘』は連作詩篇を主体とした夏行であった」としているが、これらの発句が、一連の連作の作品であって、水原秋桜子らが実践した「連作俳句」(一句では表現できない内容を、連作・並列する表現形式)と同一趣向のものと解して差し支えなかろう。これらの十四句を見ていって、母は藤原の出(四句目)で、父は入道(六句目)というのは、いかにも、王朝趣味の蕪村らしい。それも零落したものとなっているのは、蕪村の自画像の一面を覗かせているような趣ではある。

https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/g-zId95r6zc【其角と蕪村(その四)】より

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九日

一六 笋(たかうな)や五助畠の麦の中

一七 葉ざくらや草鹿(くさじし)作る兵(つはもの)等(ら)

一八 みじか夜や八声(やこゑ)の鳥は八つに啼(なく)

一九 日光の土にも彫(ゑ)れる牡丹かな  二〇 みじか夜や葛城(かづらき)山の朝曇り

白 幣

二一 夏山や神の名はいさしらにぎて

二二 蹇(あしなへ)の三熊(みくま)まうでやかたつぶり

二三 関越(こゆ)るいざり車や蝸牛(かたつぶり)

二四 少年の矢数(やかず)問(とひ)寄る念者ぶり 二五 ほのぼのと粥に明けゆく矢数かな

十日

二六 若楓(わかかへで)矢数の篝(かがり)もみぢせよ

二七 大矢数弓師(ゆみし)親子もまいりたる  二八 葉ざくらや南良(なら)に二日の泊客

二九 麦秋や鼬(いたち)啼なる長がもと    三〇 麦秋や遊行の棺(ひつ)ギ通りけり

三一 朝比奈が曾我を訪(と)ふ日や初がつを  三二 麦秋や狐のゝかぬ小百姓

三三 麦の秋さびしき貌(かほ)の狂女かな   三四 麦刈(か)りて瓜の花まつ小家哉

三五 初鰹観世太夫(だいふ)がはし居かな

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

一六 五助畑の痩せた青麦の中から竹の子が顔を出してきた。若き日の結城時代の回想。

一七 葉桜の木蔭で、兵たちが標的の草鹿を作っている。草鹿=鹿の姿に模した弓の標的。

一八 短夜を八つ時に一番鶏が八声鳴きだした。其角の「宵の蚊も枕をわたる八声かな」(『花摘』)の換骨奪胎か。

一九 日光東照宮の欄間の彫刻の牡丹のように地上にも牡丹が咲き出した。若き日の北関東出遊時代の回想などが背景にあるか。

二〇 短夜の空も白んできて、葛城山には今朝は雲がかかっている。葛城山は大和国の金剛山脈の主峰。

二一 夏山の小さな祠の祭神の名は知らないけれども、新しい白和幣が涼しげであることよ。葛城山の連想の句。

二二 足の悪い人が三熊野詣でで蝸牛のようである。三熊まうで=熊野の三所権現(本宮・新宮・那智)詣で。

二三 足の悪い人を乗せる車が、三熊野詣での関所を越えて行く。二二の句の別案の句。

二四 三十三間堂の通し矢の競技で、兄貴分の者がその記録を少年に聞き出している。念者=男色関係での兄貴分の者。

二五 夜を徹して行われる矢数競技も終わりに近づき、東の空も白みかかっていると、粥を炊く大釜から白い湯気がたちこめている。

二六 矢数競技の篝火に照らし出された若楓よ、そのまま紅く紅葉してしまえ。

二七 正式の大矢数競技に、大矢数の弓を製した弓師親子も列席に参られた。大矢数の弓は京都四条下ル羽津半兵衛の製するもの。

二八 葉桜の奈良は閑静で、ゆっくりと二日も奈良泊まりをしている。

二九 麦秋の頃、長百姓の屋敷でイタチが鳴いている。蕪村の生家も「村長」ともいわれ、回想の句か。

三〇 麦秋の頃、遊行聖の行き倒れの棺が通り過ぎて行く。これも回想の句か。

三一 曽我物語の朝比奈三郎義秀が曽我の庄の訪れる場面。時は初鰹の季節である。歌舞伎の一場面の連想。

三二 麦の収穫時、狐つきの離れぬ小百姓が働きもせずうろついている。其角の『花摘』(六月十八日の条)に「狐つき」の句が出てくる。それを背景として

いる句のようだが、二九・三〇の麦秋の句と連作の趣である。

三三 麦秋の頃、さびしそうな顔の狂女がさまよっている。これも一連の麦秋の句の連作。

三四 麦刈りも終わり、今は次の瓜の花を待ってくつろいでいる、百姓の小家であることよ。

三五 初鰹の季節、初鰹が運び込まれ、観世宗家の太夫が端居している。

※其角の『花摘』は亡母追悼の一夏百句の夏行であったが、蕪村のこの一夏千句の夏行も、亡母の五十回忌のものともされている(『清水・前掲書)。もし、

亡母五十回忌の夏行のものとすると、この夏行の年次が安永六年(一七七七)であり、それから逆算すると、母の没年は蕪村十三歳の享保十三年(一七二八)

ということになる。この頃、蕪村の師となる早野巴人は江戸を後にして、蕪村の故郷の大阪や、蕪村が後半生離れなかった京都にやってくる。母の回想は、同

時に、蕪村の幼少年、そして、関東出遊時代の若き日の蕪村とつながっている。

https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/S7mBmuWxNQU【其角と蕪村(その五)】より

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十一日

三六 殿原の名護屋貌(がほ)なる(も見)鵜河(うかは)かな

三七 たもとして払ふ夏書(げがき)の机哉  三八 ねり供養まつり貌なる小家(こいへ)哉

三九 渋柿の花ちる里と成(なり)にけり

四〇 ぼうふりの水や長沙(ちやうさ)の裏借家(じやくや)

四一 不動画(ゑが)く(彫る)琢摩が庭のぼたんかな

四二 袖笠(そで)に毛むしをしのぶ古御達(ごたち)

四三 討はたす梵論(ぼろ)つれ立て夏野かな

四四 柚の花やゆかしき母屋の乾隅(いぬゐずみ)四五 笋(たかうな)や垣のあなたは不動堂

十二日

四六 橘やむかし屋かたの弓矢取(とり) 四七 谷路(たにぢ)行(ゆく)人は小き若葉哉

四八 皃(かほ)白き子のうれしさよまくら蚊帳(がや)

四九 床低き旅のやどりや五月雨(さつきあめ) 五〇 若竹や十日の雨の夜明(よあれ)がた

五一 金屏(きんびやう)のかくやくとしてぼたんかな

五二 南蘋(なんぴん)を牡丹の客や福済寺(ふくさいじ)

五三 ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶

五四 ぼたん有(ある)寺行(ゆき)過(すぎ)しうらみかな

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

三六 殿原=複数の貴人や男子の敬称。名古屋貌=尾張藩士の風貌か。

三七 袂で夏書する経机の塵を払う景。

三八 ねり供養=弥陀の来迎に擬し、諸菩薩に仮装して練り歩く法会。旧四月十三・十四日の奈良県の当麻寺のそれは有名。路傍の小家も祭りの風情である。

三九 「橘の香をなつかしみ郭公(ほととぎす)花散る里をたづねてぞとふ」(『源氏物語』「花散里」)による。

四〇 ぼうふり=ぼうふら。洞庭湖の近くの長沙の裏町の借家の景。

四一 琢磨=平安末 鎌倉期の京都の絵仏師。不動明王を描く琢磨派の絵師、そして、庭には牡丹が咲いている。

四二 しのぶ=じっとこらえる。古御達=年老いた女官。

四三 梵論(ぼろ)=梵論師(ぼろんじ)=虚無僧。「七夕の暮露よび入れて笛をきく」(其角『花摘』)を踏まえているか。『徒然草』(百十五段)などを背景とした小説的趣向句。

四四 「柚の花や昔しのばん料理の間」(芭蕉『嵯峨日記』)を踏まえているか。乾隅=北西の隅。

四五 京都郊外の不動堂の実景か。

四六 花橘の香りの満つ古い武家屋敷の面影。

四七 谷路を行く人の俯瞰景。

四八 まくら蚊帳=枕辺だけを覆う小児用の小さな蚊帳。皃(かほ)白き子=色白の女の子。

四九 床の低い水はけの悪い商人宿。前句とこの句とは蕪村の一人娘の婚姻と関係があるか。

五〇 若竹の美しい景。十日の雨=十日に一度降る雨。「五風一雨」=慈雨。

五一 座敷には豪華な金屏風、そして、庭には豪華な牡丹が咲き誇っている。

五二 南蘋=享保年間に長崎に来遊していた中国の画家。その写実の画風は蕪村などに影響を与えた。福済寺=長崎の黄檗宗の寺。蕪村の想像句。

五三 牡丹と白猫と黄蝶との取り合わせの句。中国風の図案・画題。「猫の子のくんづほぐれつ胡蝶哉」(其角)も背景にあるか。

五四 「紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ」の換骨か。

※其角は母が没した貞享四年(一六八六)に『続虚栗』を刊行し、そこには、芭蕉をはじめ錚々たるメンバーが追悼句を寄せ、さらに、元禄三年(一六九〇)に母追善集の『花摘』が成るなど、母には供養の限りを尽くしている。これは、父が没する元禄六年(一六九四)にその追善集『萩の露』を刊行し、翌七年に『句兄弟』を刊行し、そこに、その年に亡くなった芭蕉の、其角の父・東順の「東順伝」を収載するなど、其角の父母への供養というのは徹底していて、それは其角の一面でもあったろう。それに比して、蕪村の場合は、 その父母のイメージの全て闇の中であり、黙して語らずで、何も遺されてはいないというのが実情であろう。ここまでの五十四句のうちで、その父母に関する何らかの寓意性が感じられるのは、冒頭の六句(一 六)くらいのもので、これは明らかに、一見、其角の『花摘』の亡母追善という本旨を装いながら、それを、其角流の「反転の法」(『句兄弟』における換骨法)により、独自の蕪村流の、その「反転の法」の一実践化の趣という感じでなくもないのである。

https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/H8wrRvN8JtY 【其角と蕪村(その六)】より

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十三日

五五 やゝ廿日月も更行(ふけゆく)ぼたむかな 五六 山蟻のあからさまなり白(はく)牡丹

五七 方百里雨雲よせぬぼたむ哉        五八 詠物の詩を口ずさむ牡丹哉

五九 山蟻の覆道(ふくだう)造る牡丹哉  六〇 草の戸によき蚊帳(かや)たるゝ法師かな

六一 木がくれて名誉の家の幟(のぼり)哉

六二 柚(桐)(ゆ)の花や能(よき)酒蔵(ざう)す塀の内

六三 浅河の西(にし)し東(ひが)シす若葉哉

十四日  

六四 夏山や京尽し飛(とぶ)鷺ひとつ

六五 売卜(ばいぼく)先生木(こ)の下闇の訪(とは)れ貎(がほ)

六六 柿の花きのふ散(ちり)しは黄バみ見ゆ 六七 口なしの花さく(ちる)かたや日にうとき

六八 ごつごつと僧都の咳やかんこ鳥     六九 堀喰ラふ我たかうなの細きかな

七〇 笋(たかうな)を五本くれたる翁かな  七一 麻を刈レと夕日このごろ斜なる

七二 藻の花や小舟(をぶね)よせたる門(かど)の前

七三 閑古鳥歟(か)いさゝか白き鳥飛(とび)ぬ

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

五五 月の満ち欠けと牡丹の開落とを重ねた句。

五六 山蟻の黒と白牡丹の白との絵画的な句。「あからさまなり」は蕪村の心象。

五七 其角の「五月雨の雲も休むか法(のり)の声」の換骨か。「白髪三千丈」風の誇張的表現、「上空百里四方」の雨雲を寄せ付けないとは、大胆・豪放な

漢詩的発想の句。蕪村の傑作句。

五八 詠物詩=禽獣・花木など諸物の形と心を写生する漢詩の一格。伊藤栄吉選『日本詠物詩』は安永六年に刊行された。

五九 覆道=「複道」の誤り。屋根のある廊下。「阿房宮賦」(『古文真宝』)など。

六〇 よき蚊帳=優雅な上等の紗(しゃ)の蚊帳。

六一 名誉の家=先祖が武勲を立てた名門。

六二 鬼貫の「のり懸(かけ)や橘にほふ塀の内」の換骨か。

六三 東西南北の語は漢詩に頻出する。

六四 京尽し飛ぶ=京中を隈無く飛ぶの意ではなく、京の涯(はて)から涯へと飛ぶの意。

六五 売卜先生=卜筮を業として報酬を受けること。手島堵庵の心学書『売卜先生糠俵」は安永六年に刊行された。訪(とは)れ貎=客を待っている顔。

六六 昨日の柿の白い花が、今日は黄ばんでいる。

六七 「口なし」は梔子(くちなし)と無言の意の掛けで、「日にうとき」に照応させている。「日にうとき」は日当たりが悪い。

六八 「ごつごつ」は洒脱な擬音語。郭公は「オワオワ オンオン ゴワゴワ」と鳴く。

六九 「掘喰ラふ」を掘って喰うの意か。

七〇 五本という数量は沢山の意か。

七一 「斜めなる」は、漢詩に頻出する「斜日」のこと。

七二 写生風の農村小景。

七三 乙由の「かんこ鳥我も淋しい歟飛んで行(ゆく)」の換骨か。

※牡丹の句が、五十一から五十九まで続く。『高橋・前掲書』では、これらを牡丹を主題とする一連の連作句としてとらえているが、『清水・前掲書』(「国文学 解釈と鑑賞」所収「『新花つみ』詩論」など)では、「新形式の群作」との群作句という理解をしている。両者の相違は、それらの一連のものの主題の濃厚による差違なのであろうが、これらのことに関して、『高橋・前掲書』では、これらの一連の牡丹の句について、「この九句のうち八句が白牡丹を詠った句と思われるが、どうしたことか最後の五九の一句だけが紅牡丹を詠んでいる」としているが、それほど白牡丹と紅牡丹とを明瞭に区別して作句しているとも思われない。さらに、一九・四一にも牡丹の句があり、とにもかくにも、蕪村にとって、牡丹は恰好な主題であったことは間違いがない。それも、十九の「日光の土にも彫れる牡丹」(日光東照宮の欄間の牡丹に対比して)、四一の「絵仏師の琢磨が描く牡丹」、五二の「花鳥画家・南蘋の牡丹」など、まさに、画・俳二道を極めた蕪村ならではという思いを深くする。「蕪村が牡丹か牡丹が蕪村かと唱えられ、彼の牡丹の句は完全に先例後蹤を絶っている」(中村草田男著『蕪村集』)というのも、これらの牡丹の句に接してだけでも、その一端を窺い知ることができる。そして、こういうものは、亡母追善のものというよりは、俳諧修行の夏行という趣でなくもない。

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