俳人蕪村 (正岡子規)

https://mukei-r.net/poem-masaoka/buson.htm  【俳人蕪村 (正岡子規)】  より

緒言(しょげん)

 芭蕉《ばしょう》新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間|出《い》づるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述《そじゅつ》[先人の説、前に発表された説などに基づいて補い述べること]し、あるいは檀林《だんりん》を主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇《そんすう》[尊ぶことと崇めること]するに至りては衆口一斉に出《い》づるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥《はいせき》[押しのけて退けること]せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰《いわ》く、否《いな》。

 芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論を竢《ま》たず。この点において何人《なんぴと》かよくこれに凌駕《りょうが》[他のものを凌いでその上に行くこと]せん。芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾《ゆうこん》[雄大で勢いのよいこと]なるところにおいて、高雅《こうが》[気高くみやびを帯びていること]なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得《う》。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにも堪《た》えぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体《もったい》つける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称《とな》えこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾《がいだ》[咳とつばの意味/目上の人の言葉]珠《たま》を成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫《がれき》とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村《ぶそん》[与謝蕪村(よさぶそん)(1716-1783)]とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因《よ》れり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その放縦不羈《ほうしょうふき》[「放縦」は気ままなこと、わがままなこと。「不羈」は束縛されないこと、常識で律しきれないこと]世俗の外に卓立《たくりつ》[群を抜いて高く立つこと]せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚[尊ぶこと]すべきものあり。しかして世はこれを容《い》れざるなり。

 蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村|歿後《ぼつご》に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪《めいせつ》氏[内藤鳴雪(ないとうめいせつ)(1847-1926)]いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言《ぎげん》[偽りの言葉]なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念|切《せつ》なるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして『蕪村句集』を得せしめ、余らまたこれを借り覧《み》て大いに発明するところありたり。死馬の骨を五百金に買いたる喩《たとえ》も思い出されておかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目《もく》せらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。

 かくして百年以後にはじめて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故《なにゆえ》に尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。余はここにおいて卑見《ひけん》[自分の意見をへりくだって言う言葉]を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵するところのはたしていずくにあるかを弁ぜんと欲す。

積極的美

 美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健《けいけん》[強くて健やかであること、強健]、艶麗[(えんれい)しとやかであり美しいこと]、活溌《かっぱつ》、奇警《きけい》[きわだって賢いこと。奇抜で並外れていること]なるものをいい、消極的美とはその意匠の古雅《こが》[古風でありみやびのあること]、幽玄《ゆうげん》[奥深くで、微妙で容易に推し量れないこと]、悲惨、沈静、平易なるものをいう。概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世《じょうせい》には消極的美多く後世には積極的美多し。(ただし壮大雄渾なるものに至りてはかえって上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれに倣《なら》う。その寂《さび》といい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。(ただし壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)ゆえに俳句を学ぶ者消極的美を唯一の美としてこれを尚《とうと》び、艶麗なるもの、活溌なるもの、奇警なるものを見ればすなわちもって邪道となし卑俗となす。あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術をもってことごとく野卑なりとして貶《へん》する[地位や身分を下げ落とす/けなす]がごとし。艶麗、活溌、奇警なるものの野卑に陥りやすきはもとよりしかり。しかれども野卑に陥りやすきをもって野卑ならざるものをも棄《す》つるはその弁別《べんべつ》[わきまえて分けること、見分けること]の明なきがゆえなり。しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味《いやみ》を生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐《おうと》[吐くこと]を催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比して毫《ごう》も優《まさ》るところあらざるなり。

 積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんことは到底出来得べきにあらず。されども両者ともに美の要素なることは論を竢《ま》たず。その分量よりして言わば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美をもって美の全体と思惟《しい》[こころに深く思い考えること]せるはむしろ見聞の狭きより生ずる誤謬《ごびゅう》[あやまり、間違い]ならんのみ。日本の文学は源平以後地に墜《お》ちてまた振わず、ほとんど消滅し尽せる際《きわ》に当って芭蕉が俳句において美を発揮し、消極的の半面を開きたるは彼が非凡の才識あるを証するに足る。しかもその非凡の才識も積極的美の半面はこれを開くに及ばずして逝《ゆ》きぬ。けだし[まさしく、本当に/ひょっとしたら、あるいは]天は俳諧の名誉を芭蕉の専有に帰せしめずしてさらに他の偉人を待ちしにやあらん。去来《きょらい》、丈草《じょうそう》もその人にあらざりき。其角《きかく》、嵐雪《らんせつ》もその人にあらざりき。『五色墨《ごしきずみ》』の徒もとよりこれを知らず。『新虚栗《しんみなしぐり》』の時、何者をか攫《つか》まんとして得るところあらず。芭蕉死後百年に垂《なんな》んとしてはじめて蕪村は現われたり。彼は天命を負うて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、聞達《ぶんたつ》[世間に名が聞こえること、有名になること/通知すること]を求めず、積極的美において自得したりといえども、ただその徒とこれを楽しむに止《とど》まれり。

 一年四季のうち、春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。その佳句もまた春夏の二季に多し。これすでに人に異なるを見る。今試みに蕪村の句をもって芭蕉の句と対照してもって蕪村がいかに積極的なるかを見ん。

 四季のうち夏季は最も積極なり。ゆえに夏季の題目には積極的なるもの多し。牡丹《ぼたん》は花の最も艶麗なるものなり。芭蕉集中牡丹を詠ずるもの一、二句に過ぎず。その句また

  尾張より東武に下る時

牡丹|蘂《しべ》深くわけ出《いづ》る蜂《はち》の名残《なごり》かな  芭蕉

  桃隣新宅自画自讃

寒からぬ露や牡丹の花の蜜《みつ》  同

等のごとき、前者はただ季の景物として牡丹を用い、後者は牡丹を詠じてきわめて拙《つたな》きものなり。蕪村の牡丹を詠ずるはあながち力を用いるにあらず、しかも手に随《したが》って佳句を成す。句数も二十首の多きに及ぶ。そのうち数首を挙ぐれば

牡丹散って打重なりぬ二三|片《ぺん》

牡丹|剪《き》って気の衰へし夕《ゆふべ》かな

地車のとゞろとひゞく牡丹かな

日光の土にも彫《ほ》れる牡丹かな

不動|画《えが》く琢磨《たくま》が庭の牡丹かな

方《ほう》百里雨雲よせぬ牡丹かな

金屏《きんびょう》のかくやくとして牡丹かな

  蟻垤《ありづか》

蟻王宮《ぎおうきゅう》朱門を開く牡丹かな

  波翻《はほん》舌本《ぜつほん》吐紅蓮

閻王《えんおう》の口や牡丹を吐かんとす

その句またまさに牡丹と艶麗を争わんとす。

若葉もまた積極的の題目なり。芭蕉のこれを詠ずるもの一、二句にして

  招提寺《しょうだいじ》

若葉して御目の雫《しずく》ぬぐはゞや  芭蕉

  日光

あらたふと青葉若葉の日の光  同

のごとき、皆季の景物として応用したるに過ぎず。蕪村には直ちに若葉を詠じたるもの十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり。例、

山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな

蚊帳《かや》を出て奈良を立ち行く若葉かな

不尽《ふじ》一つ埋み残して若葉かな

窓の灯《ひ》の梢《こずえ》に上《のぼ》る若葉かな

絶頂の城たのもしき若葉かな

蛇《だ》を截《き》って渡る谷間の若葉かな

をちこちに滝の音聞く若葉かな

雲《くも》の峰《みね》の句を比較せんに

ひら/\とあぐる扇や雲の峰  芭蕉

雲の峰いくつ崩《くくず》れて月の山  同

  游刀亭《ゆうとうてい》

湖や暑さを惜《おし》む雲の峰  同

月山《がっさん》の句やや力強けれど、なお蕪村のに比すべくもあらず。蕪村の句多からずといえども、

楊州の津も見えそめて雲の峰

雲の峰|四沢《したく》の水の涸《か》れてより

  旅意

二十日路《はつかじ》の背中に立つや雲の峰

[二十日路とは木曽路のこと]

のごとき皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨《さみだれ》は芭蕉にも

五月雨の雲吹き落せ大井川  芭蕉

五月雨をあつめて早し最上川《もがみがわ》  同

のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。

五月雨の大井越えたるかしこさよ

五月雨や大河《たいが》を前に家二軒

五月雨の堀たのもしき砦《とりで》かな

夕立の句は芭蕉になし。蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの勢いあり。

夕立や門脇殿《かどわきどの》の人だまり

夕立や草葉をつかむむら雀《すずめ》

  双林寺《そうりんじ》独吟千句

夕立や筆も乾《かわ》かず一千言《いっせんげん》

時鳥《ほととぎす》の句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは

時鳥声|横《よこた》ふや水の上  芭蕉

の一句あるのみ。蕪村の句のうちには

時鳥|柩《ひつぎ》をつかむ雲間より

時鳥平安城をすぢかひに

鞘《さや》ばしる友切丸《ともきりまる》や時鳥

など極端にものしたるものあり。

 桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣を詠《よ》み出でたるは

四方《しほう》より花吹き入れて鳰《にお》の海  芭蕉

木《こ》のもとに汁も鱠《なます》も桜かな  同

しばらくは花の上なる月夜かな  同

奈良|七重《ななえ》七堂伽藍《しちどうがらん》八重桜  同

のごときに過ぎず。蕪村に至りては

阿古久曽《あこくそ》のさしぬき振ふ落花かな

[「阿古久曽」は紀貫之の幼名]

花に舞はで帰るさ憎し白拍子《しらびょうし》

花の幕|兼好《けんこう》を覗《のぞ》く女あり

のごとき妖艶《ようえん》を極めたるものあり。そのほか春月、春水、暮春などいえる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例《たと》えば

伽羅《きゃら》くさき人の仮寝や朧月《おぼろづき》

[「伽羅」は沈香(じんこう)という香木の一種の、特に最上のものを指す]

女《おんな》倶《ぐ》して内裏拝まん朧月

薬盗む女やはある朧月

河内路《かはちじ》や東風《こち》吹き送る巫《みこ》が袖《そで》

片町にさらさ染《そむ》るや春の風

春水《しゅんすい》や四条五条の橋の下

梅散るや螺鈿《らでん》こぼるゝ卓の上

玉人《ぎょくじん》の座右に開く椿《つばき》かな

梨《なし》の花月に書《ふみ》読む女あり

閉帳の錦垂れたり春の夕

折釘《おれくぎ》に烏帽子《えぼし》掛けたり春の宿

  ある人に句を乞はれて

返歌なき青女房よ春の暮

  琴心挑美人

妹《いも》が垣根|三味線草《しゃみせんぐさ》の花咲きぬ

いずれの題目といえども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を繙《ひもと》く者誰かこれを知らざらん。一々ここに贅《ぜい》せず[「贅する」余計なことを書き記す。必要以上のことを言う]。

客観的美

 積極的美と消極的美と相対《あいたい》するがごとく、客観的美と主観的美ともまた相対して美の要素をなす。これを文学史の上に照すに、上世には主観的美を発揮したる文学多く、後世に下るに従い一時代は一時代より客観的美に入ること深きを見る。古人が客観に動かされたる自己の感情を直叙するは、自己を慰むるために、はた当時の文学に幼稚なる世人をして知らしむるために必要なりしならん。これ主観的美の行われたるゆえんなり。かつその客観を写すところきわめて麁鹵《そろ》[粗末で役に立たないこと]にして精細ならず。例えば絵画の輪郭ばかりを描きて全部は観《み》る者の想像に任すがごとし。全体を現わさんとして一部を描くは作者の主観に出《い》づ。一部を描いて全体を想像せしむるは観る者の主観に訴うるなり。後世の文学も客観に動かされたる自己の感情を写すところにおいて毫も上世に異ならずといえども、結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること、あたかも実際の客観が人を動かすがごとくならしむ。これ後世の文学が面目を新たにしたるゆえんなり。要するに主観的美は客観を描き尽さずして観る者の想像に任すにあり。

 客観的、主観的両者いずれが美なるかは到底判し得べきにあらず。積極的、消極的両美の並立《へいりつ》すべきがごとく、これもまた並立して各自の長所を現わすを要す。主観を叙して可なるものあり、叙して不可なるものあり。客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なるものはこれを現わし不可なるものはこれを現わさず。しかして後に両者おのおの見るべし。

 芭蕉の俳句は古来の和歌に比して客観的美を現わすこと多し。しかもなお蕪村の客観的なるには及ばず。極度の客観的美は絵画と同じ。蕪村の句は直ちにもって絵画となし得べきもの少からず。芭蕉集中全く客観的なるものを挙ぐれば四、五十句に過ぎざるべく、中につきて絵画となし得べきものを択《えら》みなば

鶯《うぐいす》や柳のうしろ藪《やぶ》の前  芭蕉

梅が香にのつと日の出る山路かな  同

古寺の桃に米|蹈《ふ》む男かな  同

時鳥大竹藪を漏る月夜  同

さゝれ蟹《がに》足はひ上る清水かな  同

荒海や佐渡に横《よこた》ふ天の川  同

猪《いのしし》も共に吹かるゝ野分《のわき》かな  同

鞍壺《くらつぼ》に小坊主乗るや大根引《だいこひき》  同

塩鯛の歯茎《はぐき》も寒し魚《うお》の店《たな》  同

等、二十句を出でざらん。宇陀《うだ》の法師に芭蕉の説なりとて掲げたるを見るに

春風や麦の中行く水の音  木導《もくどう》

師説に云う、景気の句世間容易にするもってのほかのことなり。大事の物なり。連歌に景曲と云いいにしえの宗匠深くつつしみ一代一両句には過ぎず。景気の句初心まねよきゆえ深くいましめり。俳諧は連歌ほどはいわず。総別景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成りがたきゆえつよくいましめおきたるなり。木導が春風景曲第一の句なり。後代手本たるべしとて褒美《ほうび》に「かげろふいさむ花の糸口」という脇《わき》して送られたり。平句同前なり。歌に景曲は見様《けんよう》体[岩波文庫の読みでは「みるようてい」]に属すと定家卿もの給うなり。寂蓮《じゃくれん》の急雨|定頼《さだより》卿の宇治の網代木《あじろぎ》これ見様体の歌なり。

とあり。景気といい景曲といい見様体という、皆わが謂《い》うところの客観的なり。もって芭蕉が客観的叙述を難《かた》しとしたること見るべし。木導の句悪句にはあらねどこの一句を第一とする芭蕉の見識はきわめて低くきわめて幼し。芭蕉の門弟は芭蕉よりも客観的の句を作る者多しといえども、皆客観を写すこと不完全なれば直ちにこれを画とせんにはなお足らざるものあり。

 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば

木瓜《ぼけ》の陰に顔たくひすむ雉《きぎす》かな

釣鐘にとまりて眠る胡蝶《こちょう》かな

やぶ入《いり》や鉄漿《かね》もらひ来る傘《かさ》の下

小原女《おはらめ》の五人揃ふて袷《あわせ》かな

照射《ともし》してさゝやく近江八幡《おうみやはた》かな

葉うら/\火串《ほぐし》に白き花見ゆる

卓上の鮓《すし》に眼寒し観魚亭

夕風や水|青鷺《あをさぎ》の脛《はぎ》を打つ

四五人に月落ちかゝる踊《おどり》かな

日は斜《ななめ》関屋の槍《やり》に蜻蛉《とんぼ》かな

柳散り清水|涸《か》れ石ところ/″\

かひがねや穂蓼《ほたで》の上を塩車

鍋|提《さ》げて淀《よど》の小橋を雪の人

てら/\と石に日の照る枯野《かれの》かな

むさゝびの小鳥|喰《は》み居《を》る枯野かな

水鳥や舟に菜を洗ふ女あり

のごとし。一事一物を画き添えざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりもさらに客観的なり。

人事的美

[朗読2]

 天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なるものにつきて美を求むるは易《やす》く、複雑なるものは難《かた》し。沈黙せるものを写すは易く、活動せるものは難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的によく天然を写し得たるは易きより入《い》りたる者なるべし。俳句の初めより天然美を発揮したるも偶然にあらず。しかれども複雑なるものも活動せるものも少しくこれを研究せんか、これを描くことあながち難きにあらず。ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写し出《い》だししものを、同じ区劃《くかく》のうちに変化極まりなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたるもの少きゆえんなり。芭蕉、去来はむしろ天然に重きを置き、其角、嵐雪は人事を写さんとして端《はし》なく佶屈※[#「敖/耳」、第4水準2-85-13]牙《きっくつごうが》[文章が堅苦しくて難解であり、ために読みづらいこと]に陥り、あるいは人をしてこれを解するに苦しましむるに至る。かくのごとく人は皆これを難しとするところに向って、ひとり蕪村は何の苦もなく進み思うままに濶歩《かっぽ》[大股に歩くこと、ゆっくり歩くこと/傍若無人に振る舞うこと]横行せり。今人《こんじん》はこれを見てかえってその容易なるを認めしならん。しかも蕪村以後においてすらこれを学びし者を見ず。

 芭蕉の句は人事を詠《よ》みたるもの多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり

鞍壺《くらつぼ》に小坊主のるや大根引《だいこひき》

のごとく自己以外にありて半ば人事美を加えたるすらきわめて少し。

 蕪村の句は

行く春や選者を恨む歌の主

命婦《みやうぶ》より牡丹餅《ぼたもち》たばす彼岸かな

[「たばす」お与えになる、くださる]

短夜《みじかよ》や同心衆の川手水《かはちょうず》

少年の矢数《やかず》問ひよる念者ぶり

水の粉やあるじかしこき後家《ごけ》の君

虫干や甥《おい》の僧|訪《と》ふ東大寺

祇園会《ぎおんえ》や僧の訪ひよる梶《かじ》がもと

味噌汁をくはぬ娘の夏書《げがき》かな

鮓《すし》つけてやがて去《い》にたる魚屋《うおや》かな

褌《ふんどし》に団扇《うちわ》さしたる亭主かな

青梅に眉《まゆ》あつめたる美人かな

旅芝居穂麦《ほむぎ》がもとの鏡立て

[「穂麦」は穂の出た麦。夏の季語]

身に入《し》むや亡妻《なきつま》の櫛《くし》を閨《ねや》に蹈《ふ》む

門前の老婆子《ろうばし》薪貪《たきぎむさぼ》る野分かな

栗そなふ恵心《えしん》の作の弥陀仏《みだぼとけ》

[「恵心僧都」は天台宗の源信(げんしん)(942-1017)のこと。「往生要集(おうじょうようしゅう)」を記した人]

書記|典主《てんず》故園《こえん》に遊ぶ冬至《とうじ》かな

[「故園」は故郷の意味]

沙弥《しゃみ》律師ころり/\と衾《ふすま》かな

さゝめこと頭巾《ずきん》にかつく羽折《はおり》かな

孝行な子供等に蒲団一つづゝ

のごとき数え尽さず、これらの什《じゅう》[詩篇のこと]必ずしも力を用いしものにあらずといえども、皆よく蕪村の特色を現わして一句だに他人の作とまごう[「紛う(まがう)」の訛ったもの。入り乱れる、混じる/間違える、間違えるほどよく似ている]べくもあらず。天稟《てんぴん》[生まれつきの才能、天性]とは言いながら老熟の致すところならん。  天然美に空間的のもの多きはことに俳句においてしかり。けだし俳句は短くして時間を容《い》るる能《あた》わざるなり。ゆえに人事を詠ぜんとする場合にも、なお人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質のしからしむるに因《よ》る。たまたま時間を写すものありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。

御手討《おてうち》の夫婦《めおと》なりしを更衣《ころもがえ》

打ちはたす梵論《ぼろ》つれだちて夏野かな

[「梵論」は、半僧半俗の物乞いの一種]

 前者は過去のある人事を叙し、後者は未来のある人事を叙す。一句の主眼が一は過去の人事にあり、一は未来の人事にあるは二句同一なり、その主眼なる人事が人事中の複雑なるものなることも二句同一なり。かくのごときものは古往今来《こおうこんらい》[昔から今にいたるまで。古今]他にその例を見ず。

理想的美

 俳句の美あるいは分って実験的、理想的の二種となすべし。[この「実験」は仮説を確かめる意味に非ずして、実際の経験の意なり]実験的と理想的との区別は俳句の性質においてすでにしかるものあり。この種の理想は人間の到底経験すべからざること、あるいは実際あり得べからざることを詠みたるものこれなり。また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にあるものあり。この種の理想は今人《こんじん》にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざるある社会の情状(じょうじょう)[実際の事情。実際のようす]を描き出すものこれなり。ここに理想的というは実験的に対していうものにして両者を包含《ほうがん》す。

 文学の実験に依《よ》らざるべからざるは、なお絵画の写生に依らざるべからざるがごとし。しかれども、絵画の写生にのみ依るべからざるがごとく、文学もまた実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか、絵画はついに微妙の趣味を現わす能わざらん、実験にのみ依らんか、尋常一様の経歴ある作者の文学は到底|陳套《ちんとう》[古くさいこと、古めかしいこと、陳腐(ちんぷ)]を脱する能わざるべし。文学は伝記にあらず、記実にあらず、文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながらその理想は天地八荒《はっこう》[八方の遠い果ての意味。よって、天下、全世界をあらわす]のうちに逍遙《しょうよう》[歩き回ること。ぶらつくこと]して無碍自在《むげじざい》[「無碍」も「自在」も、とらわれるものが無く自由であるといった意味]に美趣を求む。羽なくして空に翔《かけ》るべし、鰭《ひれ》なくして海に潜むべし。音なくして音を聴《き》くべく、色なくして色を観るべし。かくのごとくして得来たるもの、必ず斬新《ざんしん》、奇警、人を驚かすに足るものあり。俳句界においてこの人を求むるに、蕪村一人あり。翻《ひるがえ》って芭蕉はいかんと見れば、その俳句、平易、高雅、奇を衒《げん》せず[「衒する」で、ひけらかす、語る、だます、などの意味]、新を求めず、ことごとく自己が境涯の実歴ならざるはなし。二人は実に両極端を行きて毫も相似たるものあらず、これまた蕪村の特色として見ざるべけんや。

菖蒲《しゃうぶ》生《な》り軒の鰯《いわし》の髑髏《しゃれこうべ》

のごとき理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せるすべての事物より句を探り出《い》だすにあらず、記実の中にてもただ自己を離れたる純客観の事物は全くこれを抛擲《ほうてき》[放り出すこと、投げ出すこと]し、ただ自己を本としてこれに関連する事物の実際を詠ずるに止まれり。今日より見ればその見識の卑《ひく》きこと実に笑うに堪えたり。けだし芭蕉は、感情的に全く理想美を解せざりしにはあらずして、理窟《りくつ》に考えて理想は美にあらずと断定せしや必《ひっ》せり。一世に知られずして始終逆境に立ちながら、竪固なる意思に制せられて謹厳《きんげん》[まじめで、冗談や浮ついたことを好まないこと]に身を修《おさ》めたる彼が境遇は、かりそめにも嘘《うそ》をつかじとて文学にも理想を排したるなるべく、はた彼が愛読したりという『杜詩《とし》』に記実的の作多きを見ては、俳句もかくすべきものなりと、おのずから感化せられたるにもあらん。芭蕉の門人多しといえども、芭蕉のごとく記実的なるは一人もなく、また芭蕉は記実的ならずとて、そを悪く言いたる例も聞かず。芭蕉は連句において、宇宙を網羅し古今を翻弄《ほんろう》[思うがままにもてあそぶこと]せんとしたるにも似ず、俳句にはきわめて卑怯《ひきょう》なりしなり。

 蕪村の理想を尚《とうと》ぶはその句を見て知るべしといえども、彼がかつて召波《しょうは》に教えたりという彼の自記はよく蕪村を写し出《い》だせるを見る。曰く

(略)其角を尋ね嵐雪を訪い素堂を倡い鬼貫に伴う、日々この四老に会してわずかに市城名利《めいり・みょうり》[名誉と利益]の域を離れ林園に遊び山水にうたげし酒を酌《く》みて談笑し句を得ることはもっぱら不用意を貴ぶ、かくのごとくすること日々ある日また四老に会す、幽賞《ゆうしょう》[静かに景色を楽しむこと]雅懐《がかい》[風雅なこころ]はじめのごとし、眼を閉じて苦吟し句を得て眼を開く、たちまち四老の所在を失す、しらずいずれのところに仙化して去るや、恍《こう》として一人みずから佇《たたず》む時に花香風に和し月光水に浮ぶ、これ子《し》が俳諧の郷なり(略)

 蕪村はいかにして理想美を探り出だすべきかを召波に示したるなり。筆にも口にも説き尽すべからざる理想の妙趣は、輪扁《りんぺん》の木を断《き》るがごとく[中国の故事。春秋時代、車大工の輪扁が、桓公が書物を読むのを見て、書物だけの知識の継承では、核心を伝授出来ないものだ、直に伝授しようとしてさえも、私のような老人が、後継者もなく木を断っている不始末だ、と諭したという]ついに他に教うべからずといえども、一棒の下に頓悟《とんご》[修業の段階を得ずしていきなり悟りに至ること(対義語:漸悟・ぜんご)]せしむるの工夫なきにしもあらず。蕪村はこの理想的のことをなお理想的に説明せり。かつその説明的なると文学的なるとを問わず、かくのごとき理想を述べたる文字に至りては上下二千載《にせんざい》[=二千年]我に見ざるところなり。奇文なるかな。

 蕪村の句の理想と思《おぼ》しきものを挙ぐれば

河童《かはたろ》の恋する宿や夏の月

[「かはたろ」はつまり「川太郎」のこと]

湖へ富士を戻《もど》すや五月雨《さつきあめ》

名月や兎《うさぎ》のわたる諏訪《すは》の湖《うみ》

指南車を胡地《こち》に引き去る霞《かすみ》かな

滝口に燈《ひ》を呼ぶ声や春の雨

白梅や墨|芳《かん》ばしき鴻臚館《こうろかん》

宗鑑《そうかん》に葛水《くずみじ》たまふ大臣《おとど》かな

実方《さねかた》の長櫃《ながびつ》通る夏野かな

朝比奈が曽我を訪ふ日や初鰹《はつがつお》

雪信《ゆきのぶ》が蝿《はえ》打ち払ふ硯《すずり》かな

孑孑《ぼうふり》の水や長沙《ちょうさ》の裏長屋

追剥《おいはぎ》を弟子に剃りけり秋の旅

鬼貫《おにつら》や新酒の中の貧に処す

鳥羽殿《とばどの》へ五六騎いそぐ野分かな

新右衛門《しんえもん》蛇足をさそふ冬至かな

寒月や衆徒《しゅと》の群議の過ぎて後《のち》

  高野

隠れ住んで花に真田《さなだ》が謡《うたい》かな

 歴史を借りて古人を十七字中に現わし得たるもの、もって彼が技倆《ぎりょう》を見るに足らん。

複雑的美

 思想簡単なる時代には美術文学に対する嗜好《しこう》[たしなみ愛好すること。好むこと]も簡単を尚ぶは自然の趨勢《すうせい》[ものごとの成り行き、動向]なり。わが邦《くに》千余年間の和歌のいかに簡単なるかを見ば、人の思想の長く発達せざりし有様も見え透く心地す。この間に立ちて形式の簡単なる俳句は、かえって和歌よりも複雑なる意匠を現わさんとして漢語を借り来たり、佶屈《きっくつ》[縮こまって曲がっているさま/文章が堅苦しくって分かりづらいこと]なる直訳的句法をさえ用いたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句はついに俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は、足引《あしびき》の山鳥の尾のという歌の簡単なるに比すべくもあらざれど、なお俳句中の最も簡単なるものに属す。芭蕉はこれをもってみずから得たりとし、終身複雑なる句を作らず。門人は必ずしも芭蕉の簡単を学ばざりしも、複雑の極点に達するにはなお遠かりき。

 芭蕉は「発句《ほっく》は頭よりすらすらと言い下し来たるを上品とす」と言い、門人|洒堂《しゃどう》に教えて「発句は汝がごとく物二、三取り集むる物にあらず、こがねを打ちのべたるごとくあるべし」と言えり。洒堂の句の物二、三取り集むるというは

鳩吹くや渋柿原の蕎麦《そば》畑

刈株や水田の上の秋の雲

の類《たぐい》なるべく、洒堂また常に好んでこの句法を用いたりとおぼし。しかれども洒堂のこれらの句は元禄の俳句中に一種の異彩を放つのみならず、その品格よりいうも鳩吹《はとふく》、刈株《かりかぶ》の句のごときは決して芭蕉の下にあらず。芭蕉がこの特異のところを賞揚せずして、かえってこれを排斥せんとしたるを見れば、彼はその複雑的美を解せざりし者に似たり。

 芭蕉は一定の真理を言わずして、時に随い人により、思い思いの教訓をなすを常とす。その洒堂を誨《おし》えたるも、これらの佳作を斥《しりぞ》けたるにはあらで、むしろその濫用を誡《いまし》めたるにやあらん。許六《きょりく》が「発句は取合せものなり」というに対して芭蕉が「これほど仕よきことあるを人は知らずや」といえるを見ても、あながち取合せを排斥するにはあらざるべし。されどここに言える取合せとは二種の取合せをいうものにして、洒堂のごとく三種の取合せをいうにあらざるは、芭蕉の句、許六の句を見て明らかなり。芭蕉また凡兆に対して「俳諧もさすがに和歌の一体なり、一句にしおりあるように作すべし」といえるも、この間の消息を解すべきものあり。凡兆の句、複雑というほどにはあらねど、また洒堂らと一般、句々材料充実して、かの虚字をもって斡旋《あっせん》[巡ること、巡らすこと/間に入って両者がうまくいくようにすること]する芭蕉流とはいたく異なり。芭蕉これに対して、今少し和歌の臭味を加えよという、けだし芭蕉は俳句は簡単ならざるべからずと断定して、みずから美の区域を狭く劃《かぎ》りたる者なり。芭蕉すでにかくのごとし。芭蕉以後言うに足らざるなり。

 蕪村は立てり。和歌のやさしみ言い古し聞き古して、紛々《ふんぷん》たる臭気は、その腐敗の極に達せり。和歌に代りて起りたる俳句、幾分の和歌臭味を加えて元禄時代に勃興《ぼっこう》[急に勢いが盛んになること]したるも、支麦《しばく》以後ようやく腐敗して、また拯《すく》うに道なからんとす。ここにおいて蕪村は、複雑的美を捉え来たりて俳句に新生命を与えたり。彼は和歌の簡単を斥《しりぞ》けて、唐詩の複雑を借り来たれり。国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁《かんけい》[言葉や文章が短くて、力強いこと]なる、豪壮なる漢語もてわが不足を補いたり。先に其角一派が苦辛して失敗に終りし事業は蕪村によって容易に成就せられたり。衆人の攻撃も慮《おもんぱか》るところにあらず、美は簡単なりという古来の標準も棄《す》てて顧みず、卓然《たくぜん》[ひとり抜きんでているさま]として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。

 芭蕉の句はことごとく簡単なり。強《し》いてその複雑なるものを求めんか、

鶯や柳のうしろ藪《やぶ》の前

つゝじ活《い》けて其陰《そのかげ》に干鱈《ひだら》さく女

隠れ家《が》や月と菊とに田三反

等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じてしかり。中につきて数句を挙ぐれば

草霞み水に声なき日暮かな

燕《つばめ》啼《な》いて夜蛇を打つ小家かな

梨の花月に書《ふみ》読む女あり

雨後の月|誰《た》そや夜ぶりの脛《はぎ》白き

鮓《すし》をおす我れ酒かもす隣《となり》あり

五月雨《さみだれ》や水に銭|蹈《ふ》む渡し舟

草いきれ人|死《しに》をると札の立つ

[「いきれ」とは「熱(いき)る」「熱(いき)れる」のことで、蒸し暑くなる、むれる、といった意味]

秋風《しゅうふう》や酒肆《しゅし》に詩うたふ漁者《ぎょしゃ》樵者《しょうしゃ》

[「酒肆」は、酒を売る店、呑ませる店のこと。「樵者」は「木こり」つまり山に働くもの]

鹿ながら山影《さんえい》門に入《いる》日《ひ》かな

鴫《しぎ》遠く鍬《くは》すゝぐ水のうねりかな

柳散り清水|涸《か》れ石ところ/″\

水かれ/″\蓼《たで》かあらぬか蕎麦《そば》か否か

[「蓼」は普通「ヤナギタデ」を指す]

我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

 一句五字または七字のうちなお「草霞み」「雨後の月」「夜蛇を打つ」「水に銭蹈む」と曲折せしめたる妙は到底「頭よりすらすらと言い下し来たる」者の解し得ざるところ、しかも洒堂、凡兆らもまた夢寐《むび》[眠って夢を見ること。眠ること。また、眠っている間]にだも見ざりしところなり。客観的の句は複雑なりやすし。主観的の句の複雑なる

うき我に砧《きぬた》打て今は又やみね

のごときに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失《もうぜんじしつ》[「惘然」は、あっけにとられるようす。呆然]言うところを知らざるべし。

精細的美

[朗読3]

 外に広きものこれを複雑と謂《い》い、内に詳《つまび》らか[詳細まではっきりとあきらかな様子]なるものこれを精細と謂う。精細の妙は印象を明瞭《めいりょう》ならしむるにあり。芭蕉の叙事、形容に粗にして風韻《ふういん》[すぐれたおもむき。雅致(がち)、風致(ふうち)]に勝ちたるは、芭蕉の好んでなしたるところなりといえども、一は精細的美を知らざりしに因《よ》る。芭蕉集中精細なるものを求むるに

粽《ちまき》結《ゆう》片手にはさむ額髪

[端午の節句(夏の季語)祝いに食べる餅米粉や葛粉で作った餅(もち)のこと。笹の葉などで包んで蒸す。もともとは茅(ちがや)の葉を使用していたので、この名称がある]

五月雨や色紙へぎたる壁の跡

[「へぐ」は削り取る、剥がす、といった意味]

のごとき比較的にしか思わるるあるのみ。蕪村集中にその例を求むれば

鶯の鳴くや小《ちいさ》き口あけて

あぢきなや椿落ち埋《うず》む庭たづみ

[潦(にわたずみ)とは、雨が降って地上に溜まったり、流れたりする水のこと]

痩臑《やせずね》の毛に微風あり衣がへ

月に対す君に投網《とあみ》の水煙

夏川をこす嬉《うれ》しさよ手に草履《ぞうり》

鮎《あゆ》くれてよらで過ぎ行く夜半《よわ》の門《かど》

夕風や水|青鷺《あおさぎ》の脛《はぎ》を打つ

点滴に打たれてこもる蝸牛《かたつむり》

蚊の声す忍冬《にんどう》の花散るたびに

青梅に眉あつめたる美人かな

牡丹|散《ちっ》て打ち重りぬ二三片

唐草《からくさ》に牡丹めでたき蒲団かな

[この唐草は、「唐草文様」の略]

引きかふて耳をあはれむ頭巾《ずきん》かな

緑子《みどりご》の頭巾|眉深《まぶか》きいとほしみ

[緑子=嬰児で、生まれたばかりの赤子]

真結《まむす》びの足袋《たび》はしたなき給仕かな

歯あらはに筆の氷を噛《か》む夜かな

茶の花や石をめぐりて道を取る

等いと多かり。

 庭たづみに椿の落ちたるは誰も考えつくべし。埋《うず》むとは言い得ぬなり。もし埋むに力入れたらんには俗句と成り了《おわ》らん。落ち埋むと字余りにして埋むを軽く用いたるは蕪村の力量なり。よき句にはあらねど、埋むとまで形容して俗ならしめざるところ、精細的美を解したるに因る。精細なる句の俗了[俗におちいってしまうこと。俗化]しやすきは蕪村の夙《つと》[以前から、早くから/朝早くに]に感ぜしところにやあらん、後世の俳家いたずらに精細ならんとしてますます俗に堕《お》つる者、けだし精細的美を解せざるがためなり。妙人の妙はその平凡なるところ、拙《つたな》きところにおいて見るべし。唐詩選を見て唐詩を評し、展覧会を見て画家を評するは殆《あやう》し。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者にあらざるなり。

 「手に草履」ということももし拙く言いのばしなば殺風景となりなん。短くも言い得べきを「嬉しさよ」と長く言いて、長くも言い得べきを「手に草履」と短く言いしもの、良工苦心のところならんか。

 「鮎くれて」の句、かくのごとき意匠は古来なきところ、よしありたりとも「よらで過ぎ行く」とは言い得ざりしなり。常人をして言わしめば鮎くれしを主にして言うべし。そは平凡なり。よらで過ぎ行くところ、景を写し情を写し時を写し多少の雅趣《がしゅ》を添う。

 顔しかめたりとも額に皺《しわ》よせたりともかく印象を明瞭ならしめじ、ことは同じけれど「眉あつめたる」の一語、美人|髣髴《ほうふつ》[よく似ている様子。ありありと浮かぶさま/はっきりと識別出来ないさま]として前にあり。

 蒲団引きおうて夜伽《よとぎ》[警護や看護などで、夜通し寝ないで付き添うこと]の寒さを凌《しの》ぎたる句などこそ古人も言えれ、蒲団その物を一句に形容したる、蕪村より始まる。

 「頭巾|眉深《まぶか》き」ただ七字、あやせば笑う声聞ゆ。

 足袋の真結《まむす》び、これをも俳句の材料にせんとは誰か思わん。我この句を見ること熟せり、しかもいかにしてこのことを捉え得たるかは今に怪しまざるを得ず。

 「歯あらはに」歯にしみ入るつめたさ想いやるべし。

用語

 蕪村の俳句における意匠の美はすでにこれを言えり。意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力また多くここにあり。しかれども用語、句法の美これに伴わざらんには、可惜《あたら》[惜しくも、惜しいことに、もったいなくも]意匠の美を活動せしめざるのみならず、かえってその意匠に一種|厭《いと》うべき俗気を帯びたるがごとく感ぜしむることあり。蕪村の用語と句法とはその意匠を現わすに最も適せるものにして、しかも自己の創体に属するもの多し。その用語の概略を言わんに

(一)漢語 は蕪村の喜んで用いたるものにして、あるいは漢語多きをもって蕪村の唯一の特色と誤認せらるるに至る。この一事がいかに人の注意を惹《ひ》きしかを知るべし。蕪村が漢語を用いたるは種々の便利ありしに因るべけれど、第一に漢語が国語より簡短なりしに因らずんばあらず、複雑なる意匠を十七、八字の中に含めんには簡短なる漢語の必要あり。また簡短なる語を用うれば叙事形容を精細になし得べき利あり。

指南車《しなんしゃ》を胡地《こち》に引き去るかすみかな

閣《かく》に坐して遠き蛙《かはづ》を聞く夜かな

祇《ぎ》や鑑《かん》や髭《ひげ》に落花を捻《ひね》りけり

鮓桶《すしおけ》をこれへと樹下の床几《しょうぎ》かな

三井寺《みいでら》や日は午《ご》に逼《せま》る若楓《わかかえで》

柚《ゆ》の花や善き酒蔵《ぞう》す塀《へい》の内

耳目肺腸《じもくはいちょう》こゝに玉巻く芭蕉庵

採蓴をうたふ彦根の※[#「にんべん+倉」、第4水準2-1-77]夫《そうふ》かな

[「そうふ」は「夫」でなく「父」を使用したものがいなかおやじ、いなか者くらいの意味。「そう夫」も同種の意味と思われる]

鬼貫《おにつら》や新酒の中の貧に処す

月天心貧しき町を通りけり

秋風《しゅうふう》や酒肆《しゅし》に詩うたふ漁者樵者《ぎょしゃしょうしゃ》

雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上

のごときこの例なり。されども漢語の必要ありとのみにて濫《みだ》り[筋道の立たないこと/勝手気ままなこと]に漢語を用い、ために一句の調和を欠かば佳句とは言われじ。「胡地」の語のごときあまり耳遠く普通に用いるべきにはあらざるを、「指南車」の語上にあり、「引き去る」という漢文直訳風の語下にあるために一句の調和を得たるなり。「落花」の語は「祇や鑑や」に対して響きよく、「芭蕉庵」という語なくんば「耳目肺腸」とは置く能《あた》わず。「採蓴《さいじゅん》」は漢語にあらざれば言うべからず、さりとてこの語ばかりにては国語と調和せず。ゆえにことさらに「※[#「にんべん+倉」、第4水準2-1-77]夫《そうふ》」とは受けたり。

 第二は、国語にて言い得ざるにはあらねど、漢語を用いる方よくその意匠を現わすべき場合なり。漢語を用いて勢いを強くしたる句、

五月雨や大河を前に家二軒

夕立や筆も乾かず一千言《げん》

時鳥平安城をすぢかひに

絶頂の城たのもしき若葉かな

方百里雨雲よせぬ牡丹かな

「おおかわ」と言えば水勢ぬるく「たいか」と言えば水勢急に感ぜられ、「いただき」と言えば山|嶮《けわ》しからず、「ぜっちょう」と言えば山嶮しく感ぜらる。

 漢語を用いていかめしくしたる句

蚊遣《かやり》してまゐらす僧の座右《ざゆう》かな

売卜先生《ばいぼくせんせい》木《こ》の下闇《したやみ》の訪はれ顔

「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生《ばいぼくせんせい》」と言えば「卜屋算《うらやさん》」と言いしよりも鹿爪《しかつめ》らしく[「しかつべらしい」の転じたもの。まじめくさって、堅苦しい、もったいぶっている/態度や表情が固真面目に見える]聞えてよく「訪はれ顔」に響けり。

寂として客の絶間の牡丹かな

蕭条《しょうじょう》として石に日の入る枯野かな

のごときは「しんとして」「淋しさは」など置きたると大差なけれど、なお漢語の方適切なるべし。

 第三は、支那の成語を用うるものにして、こは成語を用いたるがために興あるもの、または成語をそのままならでは用いるべからざるものあり。支那の人名地名を用い、支那の古事風景等を詠ずる場合はもちろん、わが国のことをいう引合いに出されたるも少からず。その句、

行き/\てこゝに行き行く夏野かな

朝霧や杭《くいぜ》打つ音丁々たり

帛《きぬ》を裂く琵琶《びわ》の流れや秋の声

釣り上げし鱸《すずき》の巨口玉や吐く

三径《さんけい》の十歩に尽きて蓼《たで》の花

冬籠《ふゆごも》り燈下に書すと書かれたり

侘禅師《わびぜんじ》から鮭に白頭の吟を彫《ゑ》る

秋風の呉人は知らじふぐと汁

[「ふぐと」は「河豚魚(ふくと)」でフグのいこと]

 右三種類のほかに

春水《しゅんすい》や四条五条の橋の下

の句は「春の水」ともあるべきを「橋の下」と同調になりて耳ざわりなれば「春水」とは置いたるならん。ただし四条五条という漢音の語なくば「春水」とは言わざりけん。

蚊帳《かや》釣りて翠微つくらん家の内

 特に翠微《すいび》[山の中腹、八合目あたり/遠くに青く見えている山]というは、翠の字を蚊帳の色にかけたるしゃれなり。

薫風やともしたてかねつ厳島《いつくしま》

「風薫る」とは俳句の普通に用いるところなれどしか言いては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。けだし蕪村の烱眼《けいがん》[鋭い目つき/洞察力に優れていること]は早くこれに注意したるものなるべし。

(二)古語 もまた蕪村の好んで用いたるものなり。漢語は延宝《えんぽう》、天和《てんな》の間其角一派が濫用してついにその調和を得ず、其角すらこれより後、また用いざりしもの、蕪村に至りてはじめて成功を得たり。古語は元禄時代にありて芭蕉一派が常語との調和を試み十分に成功したるもの、今は蕪村に因ってさらに一歩を進められぬ。

およぐ時よるべなきさまの蛙かな

命婦より牡丹餅たばす彼岸かな

更衣《ころもがえ》母なん藤原氏《うじ》なりけり

真しらけのよね一升や鮓のめし

おろしおく笈《おい》になゐふる夏野かな

[「笈」は、修験者などが背負う箱状の荷入れ。「なゐふる」は「なゐ(地震)が揺れる」といった意味]

夕顔や黄に咲いたるもあるべかり

夜を寒み小冠者《こかじゃ》臥したり北枕

高燈籠《たかどうろ》消えなんとするあまたゝび

渡り鳥雲のはたての錦かな

[「はたて」は果(はて)、最果(さいはて)、といった意味]

大高に君しろしめせ今年米

 蕪村の用いたる古語には藤原時代のもあらん、北条足利時代のもあらん、あるいは漢書の訳読に用いられたるすなわち漢語化せられたる古語も多からん。いずれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従って拈出《ねんしゅつ》[ひねり出すこと、苦労して考え出すこと]したるは蕪村の力なり。ただ漢語を用い、いたずらに佶屈の句を作り、もって蕪村の真髄を得たりとなすもの、いまだ他の半面を解せざるべし。

(三)俗語 の最俗なるものを用い初めたるもまた蕪村なり。元禄時代に雅語、俗語相半ばせし俳句も、享保以後無学無識の徒に翫弄《がんろう》[おもちゃにして、もてあそぶこと/慰みものにすること]せらるるに至って、雅語ようやく消滅し、俗語ますます用いられ、意匠の野卑と相待って[正しくは「相俟って」で、互いに作用を及ぼし合って、といった意味]純然たる俗俳句となり了《おわ》れり、されどその俗語も必ずしも好んで俗語を用いしにあらで、雅語を解せざるがため知らず知らず卑近に流れたるもの、ゆえに彼らが用いる俗語は俗語中のなるべく古《いにしえ》に近きを択《えら》みたりとおぼしく、俗中の俗なる日常の話語に至りてはもとより用いざりしのみならず、彼らなおこれを俗として排斥したり。檀林派の作者といえどもその意匠句法の滑稽|突梯《とってい》なるにかかわらず、またこの俗語中の俗語を用いたるものを見ず。蕉門も檀林も其嵐派《きらんは》も支麦派も用いるに難《かた》んじたる極端の俗語を取って平気に俳句中に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入したる蕪村の技倆《ぎりょう》は実に測るべからざるものあり。しかもその俗語の俗ならずしてかえって活動する、腐草|螢《ほたる》と化し淤泥《おでい》蓮《はちす》を生ずるの趣あるを見ては誰かその奇術に驚かざらん。

出る杭《くい》を打たうとしたりや柳かな

酒を煮る家の女房ちょとほれた

絵団扇《ゑうちは》のそれも清十郎《せいじゅうろ》にお夏かな

蚊帳の内に螢放してアヽ楽や

杜若《かきつばた》べたりと鳶《とび》のたれてける

薬《くすり》喰《くい》隣の亭主箸持参

化さうな傘かす寺の時雨《しぐれ》かな

 後世|一茶《いっさ》の俗語を用いたる、あるいはこれらの句より胚胎《はいたい》[(子供を孕むの意味)]物事の基礎が始まること、何かがきざすことし来たれるにはあらざるか。薬喰の句は蕪村集中の最俗なるもの、一読に堪えずといえども、一茶はことにこの辺より悟入したるかの感なきにあらず。けだし一茶の作|時《とき》に名句なきにはあらざるも、全体を通じて言えば句法において蕪村の「酒を煮る」「絵団扇」のごときしまりなく、意匠において「杜若」「時雨」のごとき趣味を欠きたり。蕪村は漢語をも古語をも極端に用いたり。佶屈なりやすき漢語も佶屈ならしめざりき。冗漫なりやすき古語も冗漫ならしめざりき。野卑なりやすき俗語も野卑ならしめざりき。俗語を用いたる一茶のほかは漢語にも古語にも彼は匹敵者を有せざりき。用語の一点においても蕪村は俳句界独歩の人なり。

句法

[朗読4]

 句法は言語の接続をいう。俳句の句法は貞享《じょうきょう》、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。むしろ元禄に変化したるだけの変化さえ失い、「何や」「何かな」一天張りのきわめて単調なるものとなり了りて、ただ時に檀林一派及び鬼貫らの奇を弄《ろう》する[あざける、からかう/もてあそぶ]あるのみ。この際に当りて蕪村は句法の上に種々工夫を試み、あるいは漢詩的に、あるいは古文的に、古人のいまだかつて作らざりしものを数多《あまた》造り出せり。

春雨やいざよふ月の海|半《なかば》

春風や堤長うして家遠し

雉《きじ》打て帰る家路の日は高し

玉川に高野《こうや》の花や流れ去る

[玉川は高野山の玉川なり]

祇や鑑や髭に落花をひねりけり

桜狩美人の腹や減却す

出《いづ》べくとして出ずなりぬ梅の宿

菜の花や月は東に日は西に

裏門の寺に逢著《ほうちゃく》す蓬《よもぎ》かな

[逢著=逢着]

山彦の南はいづち春の暮

[いづち=いずこ]

月に対す君に投網《とあみ》の水煙

掛香《かけこう》や唖《おし》の娘の人となり

鮓を圧《お》す石上に詩を題すべく

夏山や京尽し飛ぶ鷺《さぎ》一つ

浅川の西し東す若葉かな

麓《ふもと》なる我蕎麦存す野分かな

蘭《らん》夕《ゆうべ》狐のくれし奇楠《きゃら》を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]《たか》ん

漁家《ぎょか》寒し酒に頭《かしら》の雪を焼く

頭巾二つ一つは人に参らせん

我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)

のごときは漢文より来たりし句法なり。蕪村最も多くこの種の句法をなす。

しのゝめや鵜《う》をのがれたる魚浅し

鮓桶を洗へば浅き遊魚かな

古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し

 魚浅し、音暗しなどいえる警語[人を驚かすような奇抜な言葉/物事の真理を突くような鋭く短い言葉、警句]を用いたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。

陽炎《かげろう》や名も知らぬ虫の白き飛ぶ

橋なくて日暮れんとする春の水

罌粟《けし》の花まがきすべくもあらぬかな

のごときは古文より来たるもの、

春の水|背戸《せど》に田つくらんとぞ思ふ

白蓮《びゃくれん》を剪《き》らんとぞ思ふ僧のさま

 この「とぞ思ふ」というは和歌より取り来たりしものなり。そのほか

衣がへ野路の人はつかに白し

[「はつかに」は「わずかに」の意味]

蚊の声す忍冬《にんどう》の花散るたびに

水かれ/″\蓼《たで》かあらぬか蕎麦か否か

のごときあり。

 元禄以来形容語はきわめて必要なるもののほか俳句には用いられざりき。いたずらに場所|塞《ふさ》ぎをなすのみにて、ありてもなくても意義に大差なしとの意なりしならん。しかれども形容語は句を活動せしめ印象を明瞭ならしむるにはこれを用いて効多し。蕪村は巧みにこれを用い、ことに中七音のうちに簡単なる形容を用うることに長じたり。

水の粉やあるじかしこき後家の君

尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜

柚《ゆ》の花や能《よき》酒|蔵《ざう》す塀の内

手燭《てしょく》して善き蒲団出す夜寒かな

緑子《みどりご》の頭巾眉深き《まぶかき》いとほしみ

真結びの足袋はしたなき給仕かな

宿かへて火燵《こたつ》嬉しき在処《ありどころ》

 後の形容詞を用いる者、多くは句勢にたるみを生じてかえって一句の病となる。蕪村の簡勁《かんけい》と適切とに及ばざる遠し。

 蕪村の句は堅くしまりて揺《うご》かぬがその特色なり。ゆえに無形の語少く有形の語多し。簡勁の語多く冗漫[冗長であり散漫なこと、くどくどしく締まりのないこと]の語少し。しかるに彼に一つの癖《へき》ありてある形容詞に限り長きを厭わず、しばしばこれを句尾に置く。

つゝじ咲《さい》て石うつしたる嬉しさよ

更衣《ころもがえ》八瀬《やせ》の里人ゆかしさよ

顔白き子のうれしさよ枕蚊帳《まくらがや》

五月雨《さつきあめ》大井越えたるかしこさよ

夏川を越す嬉しさよ手に草履《ぞうり》

小鳥来る音嬉しさよ板庇《いたびさし》

鋸《のこぎり》の音貧しさよ夜半の冬

のごときこれなり。普通に嬉しと思う時嬉しと言わば俳句は無味になり了らん、まして嬉しさよと長く言わんはなおさらのことなり。嬉しさよといわねば感情を現わす能《あた》わざる時にのみ用いたる蕪村の句は、もとよりこの語を無造作に置きたるにあらず。さらに驚くべきは蕪村が一句の結尾に「に」という手爾葉《てには》を用いたることなり。例えば

帰る雁《かり》田毎《たごと》の月の曇る夜に

菜の花や月は東に日は西に

春の夜や宵《よい》曙《あけぼの》の其中に

畑打や鳥さへ鳴かぬ山陰に

時鳥《ほととぎす》平安城をすぢかひに

蚊の声す忍冬《にんどう》の花散るたびに

広庭の牡丹や天の一方に

庵《いお》の月あるじを問へば芋掘りに

狐火や髑髏《どくろ》に雨のたまる夜に

 常人をしてこの句法に倣《なら》わしめば必ずや失敗に終らん、手爾葉の結尾をもって一句を操るもの、蕪村の蕪村たるゆえんなり。

 蕪村は下五文字に何ぶり、何がち、何顔、何心のごとき語を据《す》うることを好めり。

三椀の雑煮《ざふに》かふるや長者ぶり

少年の矢数問ひよる念者《ねんじゃ》ぶり

[「念者」気を配る人/男色の世界で兄貴分の者]

鶯のあちこちとするや小家《こいえ》がち

小豆《あづき》売る小家の梅の莟《つぼみ》がち

耕すや五石の粟《あわ》のあるじ顔

燕《つばくら》や水田の風に吹かれ顔

川狩《かわがり》や楼上の人の見知り顔

売卜先生木《ばいぼくせんせい》の下闇の訪はれ顔

行く春やおもたき琵琶《びわ》の抱き心

夕顔の花噛《か》む猫やよそ心

寂寞《せきばく》と昼間を鮓《すし》の馴《な》れ加減

 またこの類の語の中七字に用いられたるもあり。後世の俗俳家何心、何ぶりなどと詠ずる者多くは卑俗厭うべし。

[僅かに文章抜けの感あり。あるいは上の例を記した後、下へ行くべきを、投げ打ちて省略したる名残か]

なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな

牡丹ある寺行き過ぎし恨《うらみ》かな

葛《くず》を得て清水に遠き恨かな

「恨かな」というも漢詩より来たりしものならん。

句調

 蕪村以前の俳句は五七五の句切《くぎれ》にて意味も切れたるが多し。たまたま変例と見るべきものもなお

行《ゆく》春や鳥|啼《な》き魚《うお》の目は涙  芭蕉

松風の落葉か水の音涼し  同

松杉《まつすぎ》をほめてや風の薫る音  同

のごときものにして多くは「や」「か」等の切字《きれじ》を含み、しからざるも七音の句必ず四三または三四と切れたるを見る。蕪村の句には

夕風や水青鷺《あおさぎ》の脛《はぎ》を打つ

鮓を圧す我れ酒|醸《かも》す隣あり

宮城野《みやぎの》の萩|更科《さらしな》の蕎麦にいづれ

のごとく二五と切れたるあり、

若葉して水白く麦黄ばみたり

柳散り清水|涸《か》れ石ところ/″\

春雨や人住みて煙壁を漏る

のごとく五二または五三と切れたるもあり。これ恐らくは蕪村の創《はじ》めたるもの、暁台《ぎょうたい》、闌更《らんこう》によりて盛んに用いられたるにやあらん。

 句調は五七五調のほかに時に長句をなし、時に異調をなす、六七五調は五七五調に次ぎて多く用いられたり。

花を蹈みし草履も見えて朝寐《あさね》かな

妹が垣根三味線草《しゃみせんぐさ》の花咲きぬ

卯月《うづき》八日死んで生るゝ子は仏

閑古鳥《かんこどり》かいさゝか白き鳥飛びぬ

虫のためにそこなはれ落つ柿の花

恋さま/″\願の糸も白きより

月天心貧しき町を通りけり

羽蟻《はあり》飛ぶや富士の裾野の小家より

七七五調、八七五調、九七五調の句

独鈷《どっこ》鎌首水かけ論の蛙かな

[「独鈷」とは、仏教で、悪魔を打ち払い煩悩をうち破る金剛杵(こんごうしょ)の一種。両端の尖った短い棒のかたちをしている]

売卜先生木の下闇の訪はれ顔

花散り月落ちて文こゝにあら有難や

立ち去る事一里|眉毛《びもう・まゆげ?》に秋の峰寒し

門前の老婆子|薪《たきぎ》貪《むさぼ》る野分かな

夜桃林を出でゝ暁|嵯峨《さが》の桜人

五八五調、五九五調、五十五調の句

およぐ時よるべなきさまの蛙かな

おもかげもかはらけ/\年の市

秋雨や水底の草を蹈み渉《わた》る

茯苓《ぶくりょう》は伏かくれ松露《しょうろ》はあらはれぬ

侘禅師|乾鮭《からざけ》に白頭の吟を彫《ほる・ゑる?》

五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を

夕立や筆も乾かず一千言

ほうたんやしろかねの猫こかねの蝶

心太《ところてん》さかしまに銀河三千尺

炭団《たどん》法師火桶の穴より覗《うかが》ひけり

[「炭団」は木炭や石炭の粉を丸めて作った固形燃料。たんどん(冬の季語)]

のごとく置きたるは古来例に乏しからず。終六言を三三調に用いたるは蕪村の創意にやあらん。その例、

嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし

一行の雁《かり》や端山《はやま》に月を印す

[「印する」は、印を押す、印をつける/印象を残す、といった意味]

朝顔や手拭の端の藍をかこつ

[「かこつ」は、他のせいにする/自分の境涯を嘆く、愚痴をこぼす、といった意味]

水かれ/″\蓼《たで》かあらぬか蕎麦か否か

柳散り清水|涸《か》れ石ところ/″\

我をいとふ隣家《りんか》寒夜に鍋をならす

霜百里《しもひゃくり・そうひゃくり?》舟中《しゅうちゅう》に我月を領す

 そのほか調子のいたく異なりたるものあり。

梅|遠近《をちこち》南すべく北すべく

閑古鳥寺見ゆ麦林寺《ばくりんじ》とやいふ

山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり

更衣母なん藤原氏《ふじわらうじ》なりけり

 最も奇なるは

をちこちをちこちと打つ砧《きぬた》かな

の句の字は十六にして調子は五七五調に吟じ得べきがごとき。

文法

[朗読5]

 漢語、俗語、雅語のことは前にも言えり。その他動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用いざる語あり。

鮓《すし》を圧す石上に詩を題すべく

緑子の頭巾|眉深《まぶか》きいとほしみ

大矢数《おおやかず》弓師親子も参りたる

時鳥歌よむ遊女聞ゆなる

麻刈れと夕日|此頃《このごろ》斜なる

「たり」「なり」と言わずして「たる」「なる」と言うがごとき、「べし」と言わずして「べく」と言うがごとき、「いとほし」と言わずして「いとほしみ」と言うがごとき、蕪村の故意に用いたるものとおぼし。前人の句またこの語を用いたるものなきにあらねど、そは終止言として用いたるが多きように見ゆ。蕪村のはことさらに終止言ならぬ語を用いて余意《よい》[言外(げんがい)に含む意味]を永くしたるなるべし。

をさな子の寺なつかしむ銀杏《いちょう》かな

「なつかしむ」という動詞を用いたる例ありや否や知らず。あるいは思う、「なつかし」という形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。はたしてしかりとすれば蕪村は傍若無人の振舞いをなしたる者と謂うべし。しかれども百年後の今日に至りこの語を襲用するもの続々として出でんか、蕪村の造語はついに字彙《じい》[漢字の字引、辞書]中の一隅を占むるの時あらんも測りがたし。英雄の事業時にかくのごときものあり。

 蕪村は古文法など知らざりけん、よし知りたりともそれにかかわらざりけん、文法に違《たが》いたる句

更衣《ころもがえ》母なん藤原氏《うじ》なりけり

のごときあり。

我宿にいかに引くべき清水かな

のごとく「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。

大文字《だいもんじ》近江《あふみ》の空もたゞならね

の「ね」のごとき例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用いたるか、あるいは前に挙げたる「たる」「なる」のごとく特に言い残したる語なるか。たとい後者なりとも文法学者をして言わしめば文法に違いたりとせん、はたして文法に違えりや、はた韻文の文法も散文のごとくならざるべからざるか、そは大いに研究を要すべき問題なり。余は文法論につきてなお幾多の疑いを存する者なれども、これらの俳句をことごとく文法に違えりとて排斥する説には反対する者なり。まして普通の場合に「ならめ」等の結語を用いる例は万葉にもあるをや。

二本《ふたもと》の梅に遅速を愛すかな

麓なる我蕎麦存す野分かな

の「愛すかな」「存す野分」の連続のごとき

夏山や京尽し飛ぶ鷺《さぎ》一つ

の「京尽し飛ぶ」の連続のごとき

蘭《らん》夕《ゆふべ》狐のくれし奇楠《きゃら》を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]《たか》ん

の「蘭夕」の連続のごとき漢文より来たりしものは従来の国語になき句法を用いたり。これらはもとより故意にこの新句法を造りしもの、しかして明治の俳句界に一生面を開きしものまた多くこの辺より出《い》づ。

材料

 蕪村は狐狸《こり》[きつねとたぬきのこと。そこから、悪事を働くものの例え]怪をなすことを信じたるか、たとい信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿『新花摘《しんはなつみ》』は怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたるもの少からず。

公達《きんだち》に狐《きつね》ばけたり宵の春

飯《いい・めし?》盗む狐追ふ声や麦の秋

狐火やいづこ河内《かわち》の麦畠

麦秋《むぎあき》や狐ののかぬ小百姓

秋の暮仏に化《ばけ》る狸《たぬき》かな

戸を叩《たた》く狸と秋を惜みけり

石を打狐|守《も》る夜の砧《きぬた》かな

蘭夕《らんゆうべ》狐のくれし奇楠《きゃら》を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]《たか》ん

小狐の何にむせけん小萩原

小狐の隠れ顔なる野菊かな

狐火の燃えつくばかり枯尾花

草枯れて狐の飛脚《ひきゃく》通りけり

水仙に狐遊ぶや宵月夜

 怪異を詠みたるもの、

化《ばけ》さうな傘《かさ》かす寺の時雨《しぐれ》かな

西の京にばけもの栖《すみ》て久しくあれ果《はて》たる家ありけり今は其さたなくて

春雨や人住みて煙壁を洩《も》る

 狐狸にはあらで幾何《いくばく》か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、

獺《おそ》の住む水も田に引く早苗かな

獺を打し翁も誘ふ田植かな

河童《かわたろ》の恋する宿や夏の月

蝮《くちばみ》の鼾《いびき》も合歓《ねむ》の葉陰かな

麦秋や鼬《いたち》啼《な》くなる長《おさ》がもと

黄昏《たそがれ》や萩に鼬《いたち》の高台寺

むさゝびの小鳥|喰《は》み居《お》る枯野かな

 このほか犬鼠などの句多し。そは怪異というにあらねどかくのごとき動物を好んで材料に用いたるもその特色の一なり。

 州名国名など広き地名を多く用いたり。些細《ささい》なることなれど蕪村以前にはこの例少かりしにや。

河内路《かわちじ》や東風《こち》吹き送る巫女が袖

雉《きぎす・きじ》鳴くや草の武蔵《むさし》の八平氏《はちへいし・はちへいじ》

三河なる八橋も近き田植かな

楊州の津も見えそめて雲の峰

夏山や通ひなれたる若狭人《わかさびと》

狐火やいづこ河内の麦畠

しのゝめや露を近江《おうみ》の麻畠

初汐《はつしお》や朝日の中に伊豆《いず》相模《さがみ》

大文字《だいもじ》や近江の空もたゞならね

稲妻の一網打つや伊勢の海

紀路《きのじ》にも下りず夜を行く雁一つ

虫鳴くや河内通ひの小提灯《こぢょうじん》

 糞、尿、屁など多く用いたるは其角なり。其角の句はやや奇を求めてことさらにものせしがごとく思わる。蕪村はこれを巧みに用い、これら不浄の物をして殺風景ならしめざるのみならず、幾多の荒寒凄涼《こうかんせいりょう》なる趣味を含ましむるを得たり。

大《だい》とこの糞ひりおはす枯野かな

[「大とこ」とは「大徳の僧」、つまり優れて得のある(高位の)仏僧の略]

いばりせし蒲団干したり須磨の里

糞一つ鼠のこぼす衾《ふすま》かな

杜若《かきつばた》べたりと鳶《とび》のたれてける

 蕪村はこれら糞尿のごとき材料を取ると同時にまた上流社会のやさしく美しき様をも巧みに詠み出でたり。

春の夜に尊き御所を守《もる》身かな

春惜む座主《ざす》の連歌に召されけり

命婦より牡丹餅《ぼたもち》たばす彼岸かな

滝口に灯を呼ぶ声や春の雨

よき人を宿す小家や朧月

小冠者《こかじゃ》出て花見る人を咎《とが》めけり

短夜や暇《いとま》賜はる白拍子

葛水《くずみず》や入江の御所に詣づれば

稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥

時鳥|琥珀《こはく》の玉を鳴らし行く

狩衣《かりぎぬ》の袖の裏|這《は》ふ螢《ほたる》かな

袖笠に毛虫をしのぶ古御達《ふるごたち》

名月や秋月どのゝ艤《ふなよそい》

 蕪村の句新奇ならざるものなければ新奇をもって論ずれば『蕪村句集』全部を見るの完全なるにしかず。かつ初めより諸種の例に引きたる句多く新奇なるをもって特にここに拳ぐるの要なしといえども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用いし句を少し記しおくべし。

野袴の法師が旅や春の風

陽炎《かげろう》や簣《あじか》に土をめづる人

奈良道や当帰畠《とうきばたけ》の花|一木《ひとき》

畑打や法三章の札のもと

巫女町によき衣すます卯月かな

更衣|印籠《いんろう》買ひに所化《しょけ》二人

床《ゆか・とこ》涼み笠《かさ》著《き》連歌の戻りかな

秋立つや白湯《さゆ》香《かんば・こうば》しき施薬院

秋立つや何に驚く陰陽師《おんようじ》

甲賀衆《こうがしゅ》のしのびの賭《かけ》や夜半の秋

いでさらば投壺《とうこ》参らせん菊の花

易水に根深《ねぶか》流るゝ寒さかな

飛騨山《ひだやま》の質屋|鎖《とざ》しぬ夜半の冬

乾鮭《からざけ》や帯刀殿《たてわきどの》の台所

 これらの材料は蕪村以前の句に少きのみならず、蕪村以後もまた用いる能わざりき。

縁語及び譬喩

 蕪村が縁語その他文字上の遊戯を主としたる俳句をつくりしは怪しむべきようなれど、その句の巧妙にして斧鑿《ふさく》[斧と鑿(のみ)のこと/文章、詩に技巧を凝らすこと]の痕《あと》を留めず、かつ和歌もしくは檀林、支麦のごとき没趣味の作をなさざるところ、またもってその技倆を窺《うかが》うに足る。縁語を用いたる句、

春雨や身にふる頭巾《ずきん》著《き》たりけり

つかみ取て心の闇の螢|哉《かな》

半日の閑を榎《えのき》や蝉《せみ》の声

出代《でかわり》や春さめ/″\と古葛籠《ふるつづら》

近道へ出てうれし野のつゝじかな

愚痴無智のあま酒つくる松が岡

蝸牛《ででむし》や其《その》角文字《つのもじ》のにじり書

橘《たちばな》のかはたれ時や古館《ふるやかた》

橘のかごとがましき袷《あわせ》かな

一八《いちはつ》やしやが父に似てしやがの花

夏山や神の名はいさしらにぎて

藻《も》の花やかたわれからの月もすむ

忘るなよ程は雲助《くもすけ》時鳥

角文字《つのもじ》のいざ月もよし牛祭

[又|嘘《うそ》を月夜に釜《かま》の時雨《しぐれ》哉《かな》]

[この句、もとは掲載無しや否や]

葛《くず》の葉のうらみ顔なる細雨かな

[「細雨」は「さいう」「こさめ」「ささあめ」「ささめ」などいろいろに読めるが如何]

頭巾著て声こもりくの初瀬法師

  晋子三十三回忌辰《きしん》[=忌日]

擂盆《すりぼん》のみそみめぐりや寺の霜

 または

  題白川

黒谷《くろだに》の隣は白し蕎麦の花

のごとき固有名詞をもじりたるもあり。または

短夜や八声の鳥は八ツに啼く

茯苓《ぶくりょう》は伏しかくれ松露《しょうろ》は露《あらは》れぬ

  思古人移竹

去来去り移竹移りぬ幾秋ぞ

のごとく文字を重ねかけたるもあり。

 俳句に譬喩《ひゆ》を用いるもの、俗人の好むところにしてその句多く理窟に堕《お》ち趣味を没す。蕪村の句時に譬喩を用いるものありといえども、譬喩奇抜にして多少の雅致を具《そな》う。また支麦輩の夢寐《むび》にも知らざるところなり。

独鈷《どっこ》鎌首水かけ論の蛙かな

苗代《なわしろ》の色紙に遊ぶ蛙かな

心太《ところてん》さかしまに銀河三千尺

夕顔のそれは髑髏《どくろ》か鉢叩《はちたたき》

蝸牛《ででむし》の住はてし宿やうつせ貝

  金扇《きんせん》に卯花画

白かねの卯花もさくや井出の里

鴛鴦《おしどり》や国師の沓《くつ》も錦革

あたまから蒲団かぶれば海鼠《なまこ》かな

水仙や鵙《もず》の草茎《くさぐき》花咲きぬ

  ある隠士のもとにて

古庭に茶筌花《ちゃせんばな》咲く椿かな

  雁宕《がんとう》久しく音づれせざりければ

有と見えて扇の裏絵|覚束《おぼつか》な

[「雁宕」とは蕪村の知人の俳人「砂岡雁宕」のこと]

  波翻舌本吐紅蓮《ぜっぽんをはほんしてぐれんをはく》

閻王《えんおう》の口や牡丹を吐かんとす

  蟻垤《ありづか》

蟻王宮《ぎおうきゅう》朱門を開く牡丹かな

浪花の旧国主して諸国の俳士を集めて円山に会筵《かいえん》[筵を敷いて外で催す宴、酒盛り、また会合のこと]しける時

萍《うきくさ》を吹き集めてや花筵《はなむしろ》

  傚素堂《そどうにならう》

乾鮭《からざけ》や琴に斧おをの》うつ響あり

時代

[朗読6]

 蕪村は享保元年に生まれて天明三年に歿す[=没す]。六十八の長寿を保ちしかばその間種々の経歴もありしなるべけれど、大体の上より観《み》れば文学美術の衰えんとする時代に生まれてその盛んならんとする時代に歿せしなり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊《えいしゅん》[才能などが特に優れた秀才]多くは死し、支考、乙由《おつゆう》らが残喘《ざんぜん》[長くもない余命]を保ちてますます俗に堕《お》つるあるのみ。明和以後|枯楊《こよう》[枯れたやなぎ]蘖《ひこばえ》[切り株や根本から生える新しい芽のこと]を生じてようやく春風に吹かれたる俳句は、天明に至りてその盛を極《きわ》む。俳句界二百年間、元禄と天明とを最盛の時期とす。元禄の盛運は芭蕉を中心として成りしもの、蕪村の天明におけるは芭蕉の元禄におけるがごとくならざりしといえども、天明の隆盛を来たせしものその力最も多きにおる。天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次《ぜんじ》[だんだんと、次第次第に]に衰え、文政以後また痕迹《こんせき》を留めず。

 和歌は万葉以来、新古今以来、一時代を経《ふ》るごとに一段の堕落をなしたるもの、真淵《まぶち》[賀茂真淵(かものまぶち)(1697-1769)]出でわずかにこれを挽回したり。真淵歿せしは蕪村五十四歳の時、ほぼその時を同じゅうしたれば、和歌にして取るべくは蕪村はこれを取るに躊躇《ちゅうちょ》せざりしならん。されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調に泥《なず》みて[とどこおる。行き悩む/悩み苦しむ/離れず絡みつく]清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。

 当時の和文なるものは多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古ということはあるいは蕪村をして古語を用い古代の有様を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。しかして蕪村はこの材料を古物語等より取りしと覚ゆ。

 蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学ことに漢詩なりき。かつ漢学は蕪村が少年の時にむしろ隆盛を極め、徂徠《そらい》[荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666-1728)]一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し、もって腐敗せる俳句に新生命を与えたるを見る。蕪村は徂徠ら修辞派の主張する、文は漢以上、詩は唐以上と言えるがごとき僻説《へきせつ》[偏った説、正当とは言えない説]には同意するものにあらざるべけれど、唐以上の詩をもって粋の粋となしたること疑いあらじ。蕪村が書ける『春泥集《しゅんでいしゅう》』の序の中に曰く、

(略)彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径《しょうけい》[近道、目的に達する手っ取り早い方法]ありや、こたえて曰く、詩を語るべし、子もとより詩を能《よ》くす、他に求むべからず、波《は》疑って敢《あ》えて問う、それ詩と俳諧といささかその致《ち》を異にす、さるを俳諧を捨てて詩を語れと云う迂遠《うえん》[曲がりくねっていて遠いこと]なるにあらずや、答えて曰く(略)画の俗を去るだにも筆を投じて書を読ましむ、いわんや詩と俳諧と何の遠しとすることあらんや(略)

(略)詩に李杜《りと》を貴ぶに論なし、なお元白《げんぱく》[中唐の詩人、(げんしん)(779-831)と白居易(はくきょい)(772-864)に代表される平易な語り口調を取り入れた文体を元白体という]を捨てざるがごとくせよ(略)

 これを読まば蕪村が漢詩の趣味を俳句に遷《うつ》ししことも、李杜を貴び元白を賤《いや》しみしことも明瞭ならん。漢書は蕪村の愛読せしところ、その詩を解すること深く、芭蕉がきわめておぼろに杜甫の詩想を認めしとは異なりしなるべし。

 絵画の上よりいうも蕪村は衰運[衰えていく運命、傾向]の極に生まれて盛んならんとして歿せしなり。蕪村はみずから画を造りしこと多く、南宗の画家として大雅と並称せらる。天明以後絵画にわかに勃興して美術史に一紀元を与えたることにつきて、蕪村もまた多少の原因をなさざりしにはあらざるも、その影響はきわめて微弱にして、彼が俳句界における関係と同日に論ずべきにあらず。

 天明は狂歌《きょうか》盛んに行われ、黄表紙ようやく勢いを得たる時なり。されど俳句とは直接に関係するところなし。ただこの時代が文学美術全般の勃興を成したるは文運の隆盛を促すべき大勢に駆られたるものにして、その大勢なるものはかえって各種の文学美術が相互に影響したる結果も多かりけん。

 蕪村の交わりし俳人は太祇《たいぎ》、蓼太《りょうた》、暁台《ぎょうたい》らにしてそのうち暁台は蕪村に擬《ぎ》したりとおぼしく、蓼太は時々ひそかに蕪村調を学びしこともあるべしといえども、太祇に至りては蕪村を導きしか、蕪村に導かれしか、今これを判するを得ず。とにかくに蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずるなり。しかれども彼が師|巴人《はじん》に受くるところ多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし。

履歴性行等

 蕪村は摂津|浪花《なにわ》に近き毛馬塘《けまづつみ》の片ほとりに幼時を送りしことその春風馬堤曲《しゅんぷうばていきょく》に見ゆ。彼は某に与うる書中にこの曲のことを記して

馬堤は毛馬塘《けまづつみ》なり、すなわち余が故園《こえん》[故郷、ふるさと]なり

といえり。やや長じて東都に遊び、巴人の門に入りて俳諧を学ぶ。夜半亭《やはんてい》は師の名を継げるなり。宝暦のころなりけん、京に帰りて俳諧ようやく神に入る。蕪村もと名利を厭《いと》い聞達《ぶんたつ》を求めず、しかれども俳人として彼が名誉は次第に四方雅客の間に伝称せらるるに至りたり。天明三年十二月二十四日夜歿し、亡骸《なきがら》は洛東《らくとう》金福寺に葬る。享年六十八。

 蕪村は総常、両毛《りょうもう》、奥羽など遊歴せしかども、紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。西帰《さいき》の後丹後《たんご》におること三年、因って谷口氏を改めて与謝《よさ》とす。彼は讃州《さんしゅう》に遊びしこともありけん、句集に見えたり。また厳島《いつくしま》の句あるを見るに、この地の風情《ふぜい》写し得て最も妙なり、空想の及ぶべきにあらず。蕪村あるいはここにも遊べるか。蕪村は読書を好み、和漢の書何くれとなくあさりしも、字句の間には眼もとめず、ただ大体の趣味を翫味《がんみ》[よくかみ分けて味わうこと、意義をよく味わうこと]して満足したりしがごとし。俳句に古語古事を用いること、蕪村集のごとく多きは他にその例を見ず。

 彼が字句に拘《かかわ・こだわ》らざりしは古文法を守らず、仮名遣いに注意せざりしことにもしるけれど、なおその他にしか思わるるところ多し。一例を挙ぐれば彼が自筆の新花摘に

射干して※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささや》く近江やわたかな

とあり。射干《しゃかん》は「ひあふぎ」「からすあふぎ」などいえる花草にして、ここは「照射《ともし》して」の誤なるべし。蕪村が照射と射干との区別を知らざるはずはなけれど、かかることに無頓着の性《さが》とて気のつかざりしものならん。近江も大身と書くべきにや。秀吉が奥州を「大しゆ」と書きしことさえ思い出されてなつかし、蕪村の磊落《らいらく》[気が大きくて小事にこだわらないおおらかさ]にして法度に拘泥[小さい事柄にこだわること]せざりしことこの類なり。彼は俳人が家集を出版することをさえ厭《いと》えり。彼の心性高潔にして些《さ・いささか》の俗気なきこともって見るべし。しかれども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざりし、あまり名誉心を抑え過ぎたる蕪村を惜しまずんばあらず。蕪村をして名を文学に揚げ誉を百代に残さんとの些の野心あらしめば、彼の事業はここに止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に満足せざりしならん。『春風馬堤曲』に溢れたる詩思《しし》[詩情、詩を作りたいという思い]の富贍《ふせん》[富んでいて豊かなこと]にして情緒の纏綿《てんめん》[からみつく、まとわりつくこと/情緒が深く細やかで緊密である様子]せるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢をもって絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を俳画に伸ばさしめば日本画の上に一生面[新しい方面、新しい姿]を開き得たるべく、応挙輩をして名をほしいままにせしめざりしものを、彼はそれをも得なさざりき。余は日本の美術文学のために惜しむ。

 『春風馬堤曲』とは俳句やら漢詩やら何やら交《ま》ぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便《べん》となるものなり。俳句以外に蕪村の文学として見るべきものもこれのみ。蕪村の熱情を現わしたるものもこれのみ。春風馬堤曲とは支那の曲名を真似たるものにて、そのかく名づけしゆえんは蕪村の書簡に詳《つまび》らかなり。書簡に曰く

一春風馬堤曲

   馬堤は毛馬塘《けまづつみ》なり

   すなわち余が故園なり

余幼童之時、春色清和の日には、必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候、水には上下の船あり、堤には往来の客あり、その中には田舎娘の浪花《なにわ》に奉公して、かしこく浪花の時勢粧《はやりすがた》に倣《なら》い、髪かたちも妓家《ぎか》の風情《ふぜい》をまなび、○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥じいやしむ者あり。されどもさすが、故園情《こえんのじょう》に堪えず、たまたま親里に帰省するあだ者なるべし。浪花を出てより親里までの道行にて、引道具の狂言座元《ざもと》、夜半亭と御笑い下さるべく候。実は愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候

代女述意《じょにかわってこころをのぶ》と称する春風馬堤曲十八首に曰く

やぶ入や浪花《なにわ》を出て長柄川《ながらがわ》

春風や堤長うして家遠し

堤下摘芳草《ていかほうそうをつめば》 荊与棘塞路《けいときょくとみちをふさぐ》 荊棘何無情《けいきょくなんぞつれなきや》 裂裙且傷股《くんをさきかつこをきずつく》

渓流石点々《けいりゅういしてんてん》 蹈石撮香芹《いしをふんでこうきんをとる》 多謝水上石《たしゃす、すいじょうのいし》 教儂不沾裙《われをして、くんをぬらさざりしむるを》

一軒の茶店《ちゃみせ》の柳|老《おい》にけり

茶店の老婆子|儂《われ》を見て慇懃《いんぎん》に無恙《むよう》を賀し且《かつ》儂《わ》が春衣《しゅんい》を美《ほ》む

店中有二客《てんちゅうにかくあり》 能解江南語《よくこうなんごをかいす》 酒銭擲三緡《しゅせんさんびんをなげうち》 迎我譲榻去《われをむかえとうをゆずりてさる》

古駅三両家《こえきさんりょうか》猫児《びょうじ》妻を呼《よぶ》妻来らず

呼雛籬外※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]《ひなをよぶりがいのとり》 籬外草満地《りがいくさちにみつ》 雛飛欲越籬《ひなとびてりをこえんとほっす》 籬高随三四《りたこうしてしたがうさんし》

春草路《しゅんそうろ》三叉《さんさ》中に捷径《しょうけい》あり我を迎ふ

たんぽゝ花咲り三々五々《さんさんごご》五々は黄に三々は白し記得《きとく》す去年《こぞ》此路《こじ》よりす

憐しる蒲公《たんぽぽ》茎《けい》短して乳を※[#「さんずい+邑」、第3水準1-86-72]《あませり》

むかし/\しきりにおもふ慈母の恩 慈母の懐抱《かいほう》別に春あり

春あり成長して浪花《なにわ》にあり

梅は白し浪花橋辺《ろうかきょうへん》財主の家

春情《しゅんじょう》まなび得たり浪花《なにわ》風流《ぶり》

郷《ごう》を辞し弟に負《そむい》て身|三春《さんしゅん》

本《もと》をわすれ末を取《とる》接木《つぎき》の梅

故郷春深し行々《ゆきゆき》て又|行々《ゆきゆく》

楊柳《ようりゅう》長堤《ちょうてい》道|漸《ようや》くくれたり

矯首《きょうしゅ》はじめて見る故園の家|黄昏《こうこん》戸《と》に倚《よ》る白髪の人弟を抱き我を待《まつ》春又春

君不見《きみみずや》古人太祇が句

藪入《やぶいり》の寝るやひとりの親の側《そば》

 なおこのほかに『澱河歌《よどがわのうた》』三首あり。これらは紀行的韻文とも見るべく、諸体|混淆《こんこう》[入り交じること]せる叙情詩とも見るべし。惜しいかな、蕪村はこれを一篇の長歌となして新体詩の源を開く能わざりき。俳人として第一流に位する蕪村の事業も、これを広く文学界の産物として見れば誠に規模の小なるに驚かずんばあらず。

 蕪村は『鬼貫句選』の跋《ばつ》[終わり書き。跋文(ばつぶん)/物事の結末]にて其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫を五子《ごし》と称し、『春泥集』の序にて其角、嵐雪、素堂、鬼貫を四老《しろう》と称す。中にも蕪村は其角を推したらんと覚ゆ。「其角は俳中の李青蓮と呼ばれたるものなり」といい「読むたびにあかず覚ゆ、これ角がまされるところなり」ともいえり。しかもその欠点を挙げて「その集を閲《けみ》するに大かた解しがたき句のみにてよきと思う句はまれまれなり」といい「百千の句のうちにてめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」と評せり。自己が唯一の俳人と崇《あが》めたる其角の句を評して佳什《かじゅう》[優れた詩歌。立派な作品]二十首に上らずという、見るべし蕪村の眼中に古人なきを。その五子と称し四老と称す、もとより比較的の讃辞にして、芭蕉の俳句といえどもその一笑を博するに過ぎざりしならん。蕪村の眼高きことかくのごとく、手腕またこれに副《そ》う。しかして後に俳壇の革命は成れり。

 ある人|咸陽宮《かんようきゅう》の釘かくしなりとて持てるを蕪村は誹《そし》りて「なかなかに咸陽宮の釘隠しと云わずばめでたきものなるを無念のことにおぼゆ」といえり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村かつて大高源吾《おおたかげんご》[(1672-1708)赤穂浪士の一人でで、俳人としても知られていた。討ち入りの後切腹]より伝わる高麗《こうらい》の茶碗というをもらいたるを、それも咸陽宮の釘隠しの類なりとて人にやりしことあり。またある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木《うもれぎ》[火山活動や堆積作用で半ば炭化した木。燃料にする外、埋れ木細工などにも使用される]の板をもらいて、辛うじて白石の駅に持ち出でしが、長途の労《つか》れ堪うべくもあらずと、旅舎に置きて帰りたりとぞ。これらの話を取りあつめて考うれば、蕪村の人物はおのずから描き出されて目の前に見る心地す。  蕪村とは天王寺|蕪《かぶら》の村ということならん、和臭を帯びたる号なれども、字面《じづら》はさすがに雅致ありて漢語として見られぬにはあらず。俳諧には蕪村または夜半亭《やはんてい》の雅名を用うれど、画には寅《いん》、春星、長庚《ちょうこう》、三菓、宰鳥、碧雲洞《へきうんどう》、紫狐庵等種々の異名ありきとぞ。かの謝蕪村、謝寅、謝長庚、謝春星など言える、門弟にも高几董《こうきとう》、阮道立《げんどうりつ》などある、この一事にても彼らが徂徠派の影響を受けしこと明らかなり。二字の苗字を一字に縮めたるは言うまでもなく、その字面より見るも修辞派の臭味を帯びたり。

 蕪村の絵画は余かつて見ず、ゆえにこれを品評すること難《かた》しといえども、その意匠につきては多少これを聞くを得たり。(筆力等の技術はその書及び俳画を見て想像するに足る)蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしがごとし。南宗を学びしはその雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の粗鬆《そしょう》[「鬆」は、髪の乱れている様子、しまりのない様子などの意味]なる筆法、狭隘《きょうあい》なる規模がよく自己の美想を現わすを得ざりしがためならん。彼は俳句に得たると同じ趣味を絵画に現わしたり、もとより古人の粉本《ふんぽん》[画の下書/手本となるもの]を摸《も》し意匠を剽竊《ひょうせつ》することをなさざりき。あるいは田舎《でんしゃ》[いなか。いなかの家]の風光、山村の景色等自己の実見せしもの(かつ古人の画題に入らざりしもの)を捉え来たりて、支那的空想に耽《ふけ》りたる絵画界に一生面を開かんと企てたり。あるいは時間を写さんとし、あるいは一種の色彩を施さんとして苦心したり。(色彩に関する例を挙ぐれば春の木の芽の色を樹によって染め分けたるがごとき、夜間燈火の映じたる樹を写したるがごとき)絵画における彼の眼光はきわめて高く、到底応挙《おうきょ》、呉春《ごしゅん》らの及ぶところにあらず。しかれども蕪村は成功する能わずして歿し、かえって豎子《じゅし》[幼い子供/未熟なものを軽蔑して言う]をして名を成さしめたり。

 蕪村の画を称する者多く俳画《はいが》[略筆で描かれた淡彩、あるいは水墨画などで俳味のある題材を描き、多くは俳句などを添えたもの]をいう。俳画は蕪村の書きはじめしものにして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字のごときもののみ、ついに画にあらず、画を知らざるものこれをもって画となす、取らざるなり。蕪村の字支那の書風より出でてやや和習あり。縦横自在にして法度にかかわらず、しかも俗気なきこと俳画に同じ。

 蕪村の文章|流暢《りゅうちょう》にして姿致《しち》[スタイル]あり。水の低きに就《つ》くがごとく停滞するところなし。恨むらくは彼は一篇の文章だも純粋の美文として見るべきものを作らざりき。

 蕪村の俳句は今に残りしもの一千四百余首あり、千首の俳句を残したる俳人は四、五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。しかれども一生に十七字千句は文学者として珍とするに足らず。放翁《ほうおう》[中国の南宋の文人、陸游《りくゆう》(1125-1210)のこと]は古体今体を混じて千以上の詩篇を作りしにあらずや。ただ驚くべきは蕪村の作が千句ことごとく佳句なることなり。想うに蕪村は誤字違法などは顧みざりしも、俳句を練る上においては小心翼々として一字いやしくもせざりしがごとし。古来文学者のなすところを見るに、多くは玉石|混淆《こんこう》せり、なすところ多ければ巧拙|両《ふた》つながらいよいよ多きを見る。『杜工部集《とこうぶしゅう》』[杜甫《とほ》の作品集]のごときこれなり。蕪村の規模は杜甫《とほ》のごとく大ならざりしも、とにかく千首の俳句ことごとく巧みなるに至りては他に例を見ざるところなり。蕪村の天材は咳唾《がいだ》ことごとく珠《たま》を成したるか、蕪村は一種の潔癖《けっぺき》ありていやしくも心に満たざる句はこれを口にせざりしか、そもそも悪句は埋没して佳句のみ残りたるか。余は三者皆原因の一部を分有したりと思う。俳句における蕪村の技倆は俳句界を横絶《おうぜつ》[横切ること/横切って一区切りを付けること]せり、ついに芭蕉、其角の及ぶところにあらず。連句もまた蕪村は蕪村流を応用して面目を新たにせり。しかれども蕪村は芭蕉が連句に力を用いしだけ熱心には力をここに伸ばさざりき。

 蕪村の俳諧を学びし者月居、月渓、召波、几圭《きけい》、維駒《いく》等皆師の調を学びしかども、ひとりその堂に上りし者を几董《きとう》とす、几董は師号を継ぎ三世夜半亭を称《とな》う。惜しむべし、彼れ蕪村歿後数年ならずしてまた歿し、蕪村派の俳諧ここに全く絶ゆ。

  明治二十九年草稿

  明治三十二年訂正

          (明治三十年四月十三日-十一月二十九日)

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*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

時乃志憐による変更

・行間、字下げなどは便宜上加えたり、体裁をウェブ用に変更する。

・俳句部分の《よみ》の部分も、基本現代語に変更し、さらにいくつかの《よみ》をテキスト内に書き加える。

青空文庫ファイル

底本:「日本の文学 15」中央公論社

   1967(昭和42)年6月5日初版発行

   1973(昭和48)年7月30日10版発行

入力:蒋龍

校正:米田

2010年12月28日作成

青空文庫作成ファイル:

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