https://note.com/universal_crest/n/nd9fd9fc38940 【明日に希望を感じる夕焼け】より
九州の西端の高校生だった頃、夕陽は山に沈むものだった。
関東に出てきて、富士山のシルエットと共に沈む夕陽をみたときは、びっくりした。
それは平野に太陽が沈んでいることと、遠く静岡・山梨にあるはずの富士山が見えるということのダブルのサプライズだった。
この目で見て、感じた記憶は何年経っても強烈だ。
この光景を当たり前と感じて育った人たちとは違う感じ方をする自分がいると気づいた。そしてこれが自分のアイデンティティの一部。
たまの帰省のときに、山に沈む夕陽を見ると安心感があるのもわかった。
一方、高層ビルの向こうに沈む夕陽には何の感銘も感動も感じなかった。
富士山が見えても見えてなくても、関東平野に沈む夕陽はなぜか毎回驚きに似たワクワクを引き起こしている。
夕陽や夕焼けを皆は寂しく捉えるものだろうか。
今日も一日が終わってしまう、などどセンチメンタルになるのか。
あるいは忙しすぎて、夕陽や夕焼けのには感情を感じることはないのだろうか。
わたしの場合平日に夕焼けをゆっくり観れるとしたら、休暇を取ったか定時で上がれたとき。
夕焼けを観ることができるとお得感も倍増である。
平日でも休日でも、夕陽が沈み、夕焼けが空を染めあげると更にテンションが上がる。
夕焼けは見る毎に表情が変わり、空との一期一会の会話のようだ。
天使のはしごのような光が差して神々しいときなどは、天からのメッセージをもらっている気がする。
夕陽や夕焼けで希望を感じるのは、それを見ている自分が生きているっていう感覚がこみ上げてくるからかもしれない。
太陽の光や熱量を感じて、朝でもないのに意識が活性化して自然にポジティブな脳になっているのかもしれない。
仕事や子供や自分自身のこととか、放っておくとドンドンネガティブに考えそうなわたしだからこそ、天は夕陽をわたしに見せてくるのかもしれない。そんなに悪いことばかりじゃないぞ、いいこともあるよ、ってメッセージを送ってきている。
http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/page004060.html 【「夕陽に乾杯」】
より
私には変な習性がある。草木が全て緑におおわれ、早苗が風に揺らぐ頃。晴れた日のたそがれ時になると、西の空が気にかかり、そわそわしてくる。夕焼けを見たい。ただそれだけのこと。
太陽が山際に隠れようとする前後、西空が赤々と燃えている。少し上にたなびく雲も茜色に染まる。その上の空はまだ青い。時が経つにつれ、空が濃紺になり、雲の色も様々に変わる。やがて陽が落ちる。しばらくは、あたり一面の空や雲も輝いている。美しく、幻想的で、センチメンタル。夕焼けから残照の天体ショーに、たまらなくひかれる。晴れすぎても綺麗には見えない。適度な雲が、うっとりする夕焼け空を演出してくれる。
市役所から日の入りは見えない。近くにないか。ちょうどその時期に、屋上ビアガーデンがオープンする。急ぎ足でビルをかけ登る。好きな映画の始まりを待っている気分で、西側の端に座る。黄色の強い光が、次第に優しい赤色になってくる。しばし、日輪と空と雲の織りなす芸術に心が溶けていく。生ビールも夕焼けに染まり赤味を帯びてくる。
夕焼けはどの季節がいいか。恐らく秋を思い浮かべることだろう。澄みきった空を赤く染める夕焼けは格別だ。童謡のイメージも大きい。「夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か」は明らかに秋。「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘がなる…。子供が帰った後からは 円い大きなお月さま」は中秋の名月の頃か。「とんぼのめがねは赤色めがね 夕焼け雲をとんだから」。「秋の夕日に照る山 紅葉」。和歌や童謡を通して、日本人の心に、夕焼けは秋とすり込まれているのかもしれない。
季節の美しさを、時間の観点で切り取った『枕草子』。清少納言の観察眼は繊細で鋭い。有名な「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく 山ぎはすこしあかりて(明るくなって)…」。に続き「秋は夕暮れ。夕日のさして 山の端いと近うなりたるに…」と記す。平安貴族も、秋の夕日に美を感じていたのだろう。
俳句の世界では、夕焼けは夏とされる。秋の日は釣瓶落とし。風情はあるが、儚げに日が落ちていく。梅雨が明け、夏晴れが続く。真夏の西の空いっぱいに、ダイナミックで大きな光景が広がる。その印象が強いことから、夕焼けは夏となったのかもしれない。私は、昼がそろりと店仕舞いし、ゆっくりと夕闇に包まれるこの季節の夕焼けが好きだ。
夕焼けへの想いは様々。一日の仕事を終え、家路につく先に見える夕陽。解放感と安息の訪れ。働き方改革に縁のない寅さんも、商いを終えた。夕陽に背を照らされ、のんびりと川沿いの道を宿に向かう。柴又帝釈天の梵鐘が鳴り、参道が赤く染まる。ミレーの『晩鐘』。平原が夕陽に包まれる頃。鐘の音が響き、農民夫婦が一日の平穏に感謝の祈りを捧げる。夕陽は安らぎの象徴だ。
子供の頃、友達と遊びに夢中になり、家へ戻る時に輝く夕陽。誰もが無邪気にはねまわった頃を懐かしみ、故郷の山河を思い出す。夕焼けは郷愁を連想させる。映画『ALWAYS三丁目の夕日』。完成した東京タワーの後ろに広がる夕焼けを、鈴木オートの親子が幸せそうに眺める。明日もいい日だろうと言いながら。夕日は未来への希望だ。
大正11年、アインシュタインが来日。滞在した帝国ホテルのベルボーイに、チップ代わりにメモを渡した。これが約1億7千万円で落札され、話題になった。「静かで質素な生活は、絶え間ない不安にかられ成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらす」と書いてあった。
からすも寝ぐらに戻る夕間暮れ。段々畑から、海の岸辺から、縁側から目を細めて夕焼けを楽しむ。何気ない日常にこそ幸せがある。
http://www.big.ous.ac.jp/~kato/at_sci_museum/13koen/Song_Sunset.pdf#search='%E5%A4%95%E7%84%BC%E3%81%91%E3%81%AF%E3%81%82%E3%81%99%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%BC%E3%81%86' 【日本流行歌に見られる夕陽・夕焼け】加藤賢一(一日芸能評論家、大阪市立科学館) より
1.はじめに
2008 年秋のシンポジウムで山折哲雄名誉会長が美空ひばりの歌う「真っ赤な太陽」を紹介されたのをきっかけに、2009 年 9 月、大阪市の水都イベントで千昌夫の「夕焼け雲」にことよせて夕陽の紹介をさせていただいた。有名な歌だけにご存知の方が多く、それなら次は流行歌全般について夕陽がどのように登場するか見てやろうということで、2009 年 12 月の夕陽講演会では表題のタイトルとなった。
フランク永井や舟木一夫などのビデオ映像を用意し、全員で合唱という心積もりだったが、どうにも機器が不調で口ぱくの映像しか出ず、参加の皆様には妙な緊張感を味わせてしまった。誠に申し訳なく、残念だった。
2.生きるためには衣食住で足りるか?
前号の会報にも登場してもらった作家の五木寛之氏は昭和 7 年生まれで、朝鮮で育ち、終戦後、大変な思いをして帰国したという。中国大陸から帰還しようという大勢の人たちが着の身着のままで平壌へ押し寄せてきたが、帰国のあてもなく、工場のような大きな建物に集団で過ごしていた。そうした不安と緊張の中で、唯一、心を慰めるものと言えば昔の流行歌であった。一人が口ずさみ始めると次々に伝播し、大合唱になった。戦中は決して歌うことが許されなかった高峰三枝子歌うところの「湖畔の宿」のような退廃的な雰囲気の歌こそ、しばしの慰めとなり、生きる希望を与えてくれたという趣旨の話をしていた。昭和 10 年頃、五木少年の知らない時代に実はとても豊かな歌文化があったことを知らされたという。
これを聞いて、人間、パンのみにて生きるにあらず、という言葉がすぐ浮かんだ。意味合いは違うかもしれないが、人間は衣食住のみで生きているわけではない。人間を人間たらしめているのは娯楽であり、それを自分の意のままにできる自由と一緒になってこそ、人間は人間らしくなると思い知らされた。
確かに、歌はなんの道具もいらない。とても手軽に楽しめる娯楽である。
生きるか死ぬかというこれ以上ない緊張状態の中で慰めになったという歌。昭和初年に流行したはやり歌は極めて情緒的な世界を歌っていた。そこに夕陽が登場するのは、日本人なら容易に理解できるはずだ。それは昔からの民俗に見られる、というような話は別の機会にして、流行歌の歌詞・曲名に夕陽や夕焼け等の文言が見られる例を挙げて、流行歌を分析してみたい。
3.歌詞を分析
古茂田信男他著「日本流行歌史」(上、中、下)(1995、社会思想社)に記載されている流行歌を数えてみた。1868 年(明治元年)から 1993 年(平成 5 年)までの 126 年間に 4309 曲であった。そのうち夕陽や夕焼けが歌詞に登場するのは 82 曲で、割合にすると 1.9%、1 年半に 1 曲である。
図1に発表された流行歌数を年毎に並べた。1930 年(昭和 5 年)頃から爆発的に増え始め、終戦前後に落ち込んだものの、戦後に息を吹き返し、1970 年頃にピークを迎えたように見える。
昭和初年から増え始めたのは、昭和 3 年にレコードが発売開始となったからである。それまでは、実演か、雑誌に付いてきた楽譜などで覚えた人が他の人に伝えてという具合で、人づてに流行していった。
誠に慎ましやかな伝達手段であった。それでも大正時代から昭和初年にかけてのいわゆる大正デモクラシー時代に小さな盛り上がりが見られる。浅草オペラの時代であった。
レコード時代になると、ブームを作って歌を商売にしようという動きが活発化した。そのヒット作第一号が「君恋し」で、その頃流行していた社交ダンスの風に乗ってフォックストロットのリズムで作られた。フォックストロットとは狐歩きという意味で、それを簡略化したダンスがおなじみのブルースということらしい。いずれにしろ、「君恋し」が登場した頃はレコード歌手はいなかったわけで、「君恋し」を歌ったのが浅草オペラの二村定一だったのはそういう次第。
浅草オペラもレコードの登場も、その結果の流行歌の登場も、第一次世界大戦後の安定した時代の産物であったことを心に留めておきたい。それが戦前の豊かな文化生活を作ったのであり、産業や科学技術、教育などの発展とも機を一にするものであった。
こうした背景を持って登場した日本流行歌に夕陽が登場したのはごく自然な成り行きであったと思われる。図2は夕陽・夕焼けが登場する曲の発表数分布である。さしたる傾向は見えないようだが、しいて言えば 1930 年から 1940 年あたりに小さな集中が見られる。軍歌の効果だろうか?
そうだとすると、夕陽に死を重ねていたわけで、昔からの仏教的な世界観からの流れに位置づけられるかも知れない。夕陽に涙したり、悲しくなったりという世界はこれと同じ系譜に含めることができよう。
一方、清少納言が「枕草子」第一段で紹介しているような夕暮れもある。すなわち、
秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
この世界は「赤とんぼ」や、ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む、の「夕日」などに見られるもので、夕陽を観賞美の対象としている。
流行歌の歌詞を見ていると、大きくこの2つに分類できるようである。いずれも日本人の感覚にはぴったりの世界である。
4.歌は世につれ、世は歌につれ
流行歌の枕詞のように言われている。上でも少し触れたように、流行歌はレコードという音を記録し、運搬できる媒体の発明と密接に関係している。これだけをとってみても、世の動きと流行歌は切っても切れない関係にあることが了解される。
さらにそれを見るため、図3、4を用意した。図3はニューヨークの株価の変動率で、世界経済の動向と見ることができる。図4は日本における博覧会の開催数で、株価変動率と良い相関を示している。
昭和初年の大恐慌や第2次世界大戦などでは、日本も大きな影響を受けた。博覧会の開催数にそれがはっきりと表れている。その後も世界経済の浮沈にしたがい、バブル期の下降も見えている。流行歌も同様で、大恐慌時代にレコードが登場し、それからは世界経済の動きにぴったり重なっている。1970 年代のオイルショック時には発表数がガクンと落ちている。まさに「歌は世につれ」である。
五木寛之氏が極寒の平壌で耳にした昭和 10 年前後の流行歌は戦前の良き時代の産物であり、夕陽もたっぷり登場する情緒あふれる世界を描いていた。
5.おすすめ夕陽の歌
夕陽の会としてはシンボル的な歌があっても良いだろうというわけで、私が勝手に決めた夕陽の会の夕陽の歌は次の如し。
大阪ぐらし(1964, フランク永井)
敬愛する詩人石浜恒夫氏の代表作。大阪ならではの情緒がいっぱい。
夕焼け雲(1976、千昌夫)
会誌 10 号で紹介。夕陽に別世界への扉を重ねる伝統的夕陽観の代表として。
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