奥の細道・鎮魂の旅

https://www.nhk.or.jp/fudoki/120831broadcast1.html  【奥の細道 福島県 宮城県 岩手県 山形県】 より

松尾芭蕉が記した紀行文集の集大成「奥の細道」は、今も東北を語る上で欠かせない旅のバイブルのひとつ。

1689年。弟子の河合曾良を伴い、老体に鞭をうって約150日間に渡り東北・北陸を旅した芭蕉。美しい自然や文化・風土に出会い、辿り着いた境地は「不易流行」。変わっていくものと変わらないものは不即不離の関係にある、という考えだ。

東日本大震災で、甚大な被害を受けた東北にも、変わったもの、そして320年の時を越え今もなお変わらないものが共存している。

江戸時代の「田植え唄」を歌い継ぐ須賀川の農婦たち。津波で多くの人と街を失った石巻の地で出される「鎮魂の御輿」。芭蕉が愛でた紅の花が夏を彩る「尾花沢」。芭蕉の句に心揺さぶられた男性が、奥の細道を追体験する「馬旅」。嵐の中、亡くなった人を思い、死と再生の祈りを捧げる人が集まる霊山「月山」。

老いと死を覚悟しつつも過酷な旅に挑み、傑作を誕生させた芭蕉。「奥の細道」を道しるべに、今再び、東北の魅力を再発見する。


https://mainichi.jp/articles/20181017/ddl/k04/040/155000c  【「壺の碑」全国俳句大会

石牟礼道子さんと芭蕉 鎮魂の思い、時を超え 高橋睦郎氏、共通点語る 多賀城 /宮城】 より

芭蕉が「おくのほそ道」で訪れ感動を記した多賀城碑(壺の碑(いしぶみ)、国重要文化財)にちなむ第25回「壺の碑」全国俳句大会がこのほど多賀城市文化センターで開かれ、特別選者に招かれた詩人・歌人・俳人で文化功労者の高橋睦郎さん(80)が「『されく、のさる、もだゆる』をめぐって」の演題で記念講演した。【渡辺豊】

 されく(さすらう)、のさる(とりつかれる)、もだゆる(もだえ苦しむ)は、高橋さんとも親交があった作家の石牟礼(いしむれ)道子さん(今年2月、90歳で死去)が「苦海浄土」などの作品で表現した九州・水俣地方の方言。高橋さんは「石牟礼さんの作品が近・現代を鎮魂する叙事詩なら、『おくのほそ道』はその先駆けで古代・中世の鎮魂と言え、相通ずる」と指摘した。


https://unno.eshizuoka.jp/e1883174.html  【「聲明 鎮魂の祈り」と「おくのほそ道」】より

昨日は、静岡音楽館 AOIで「聲明 鎮魂の祈り」を聞いてきました。「聲明 鎮魂の祈り」は、東日本大震災の被災者を励まし、犠牲者を追悼するための聲明で、生で聴く四箇法要は初めて。真言宗と天台宗の二つの宗派の僧侶約30名による聲明は、荘厳で力強く美しい。肉声による倍音の響きは、とても心地よく、セラピーを受けているようでもありました。

今日は「100分de名著」ブックス の『松尾芭蕉 おくのほそ道』(長谷川櫂、NHK出版)を読みながら、江戸深川を出発して松島へ。芭蕉はみちのくの歌枕の名所を訪ねることが楽しみだったようですが、それらの多くが廃墟となっていることに落としたのだとか。そんな中、松島だけは想像に違わぬ素晴らしい景色で出迎えてくれ、芭蕉の気持ちも晴れやかに。みちのくの歌枕の名所・旧跡は、その後、多くの人の手によって復されたように、東日本の震災被災地復興も着実に推進してほしいものです。


http://yamazakinomen.mizutadojo.com/matuobasyo.html  【 鹿島紀行 松尾芭蕉】

舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。

   雪は申さず まづむらさきの つくば哉

と詠しは、我門人嵐雪が句なり。すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

【口語訳】

舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。 甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。 この広大な様は、古の詩にある「秦甸(しんでん)之一千(余)里」のようであり、遥か彼方まで見渡すことができる。 筑波山が、向う正面に、二峰を高く並べて立っているのが見える。かの中国にも双剣の峰があると聞くが、これは、中国山水詩の母たる廬山(ろざん)の一隅に存するものである。

 雪は申さずまづむらさきのつくば哉

    (雪を頂く姿が見事なのは言うまでもないが、春立つ頃の、山紫に

     霞みたなびく筑波山は格別のものであるよ、)

と詠んだ句は、我門人嵐雪によるものである。総じてこの山は、日本武尊と火守り老人との問答唱和が伝えられて、連歌の起源に関わる山とされ、初の連歌撰集の題にも名付けられた。筑波山を眺めながら、和歌を詠まないことはあってはならない、また、句を詠まずに通り過ぎてはならない。まことに愛すべき山の姿ではある。

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※ 「鹿島紀行」は、芭蕉が門人曽良と宗波を伴い、鹿島神宮へ月見を兼ねて参拝した時のものである。服部嵐雪の俳句は、筑波山の素晴らしさを詠っている。古来より名山の誉れ高い山である。


https://www.tokyo-np.co.jp/article/39839 【西行、芭蕉に思いはせ ぶらり栃木県那須町「遊行柳」】より

栃木県那須町に、古くから歌枕として詩歌や能で取り上げられてきた「遊行(ゆぎょう)柳」がある。何代目かの柳だろうが、歴史のロマンを感じる。新型コロナウイルスで人混みは避けたいが、ここなら人もまばら。大空の下、ストレス発散しては。(藤英樹)

 福島との県境近く、広々とした田んぼの中に二本の大きな柳の木が見える。

柳の下に立てられた説明板によると、諸国巡歴の遊行上人(時宗の僧)の前に老翁が現れ、この柳の下に案内して消える。夜更けに上人が念仏を唱えると、烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿の柳の精が現れ、極楽往生できることを感謝して舞を披露したという。

草木にも仏性があるという「草木国土悉皆(しっかい)成仏」の思想が背景にある。室町時代の能楽師・観世信光が「遊行柳」として能に仕立てた。

平安末期の歌僧・西行は二十代と六十代の二度、みちのくへ旅したが、遊行柳で詠んだとされる歌が

道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ  立ちどまりつれ

 「新古今和歌集」に収められている。

 江戸元禄期の俳聖・松尾芭蕉が「おくのほそ道」の途次にここで詠んだ句が

田一枚植ゑて立去(たちさ)る柳かな

「ほそ道」の地の文には、芦野の郡守戸部某(こほうなにがし)が「ぜひ見ていってほしい」と旅の前に折々話していたというくだりがある。この郡守とは芭蕉の俳諧の門人だった芦野の領主・芦野資俊。句の「植ゑて立去」ったのは早乙女か、芭蕉か、はたまた柳の精かとさまざまに想像がふくらむ。

 さらに芭蕉を慕った俳人・与謝蕪村もここで

柳散清水涸石処々(やなぎちりしみずかれいしところどころ) と漢詩調の句を詠んだ。

三人の歌句碑が柳の下に立っている。風に吹かれながらしばしたたずんでいると、時空を超えたはるかな世界に誘(いざな)われる。