松尾芭蕉『奥の細道』現代考

http://www.akitakeizai.or.jp/journal/201610_zuisou.html【松尾芭蕉『奥の細道』現代考】

より

「波越えぬ 契りありてや みさごの巣」(「象潟」曽良)

1. はじめに

 地元秋田の意欲ある中小企業の発展を支援する税理士法人とコンサルティング会社を経営する日常からは、飛躍しますが、筆者は、ここ数年、1689年(元禄2年)象潟(現在のにかほ市内)を訪れた松尾芭蕉(1644年-1694年;以下、「芭蕉」。)の紀行文『奥の細道』1に魅せられています。関係文献の通読はもとより、実際に芭蕉の旅したゆかりの地を訪れ、320年前の往時に思いを馳せることで、時空を超える芭蕉の偉大さに触れてきました。

 そこで、本稿では、芭蕉の生涯と『奥の細道』の旅を紹介することで、読者にビジネスセンスに加え、「風流」や「粋」の要素も経営姿勢に盛り込んで頂くことを目的として記述したいと思います。

1本稿で紹介する紀行文・句・行数等は、高松和平『芭蕉-奥の細道内なる旅-』(佼成出版社、2007年)及び松尾芭蕉『芭蕉全句集』(角川文庫、2014年)から引用しています。また、句は、原則として芭蕉作とし、他者の句については、別途作者名を付記しています。

2. 芭蕉の生涯

 芭蕉は、1644年、伊賀の下級武士の次男として生を受け、伊賀上野の藤堂家に仕え、俳諧の心得を学び、俳諧で身を立てるべく、江戸へ出ます。日本橋に居を置き、神田上水工事などで生計を保ちながら、修行を積みます。甲斐あって、著名な宗匠(プロの俳諧師)となった芭蕉は、当時の世俗的な俳壇から距離を置き「風流」を極めるため、一人深川の草庵(現在の江東区常磐一丁目内)へと転居しました。当時の飾らずに静然と時空を見つめる心境を「古池や蛙飛びこむ水のおと」と、詠んだのです。

 1689年の陽暦5月9日、芭蕉は弟子の曽良を伴い、深川を出立し、松島、平泉、象潟を目指します。やはり旅を栖とした尊敬する歌人でもある能因法師(988年-1058年)や西行法師(1118年-1190年)2 の足跡を辿ることが俳人・芭蕉の旅の目的だったことは論を待ちません。およそ2400km、150日に及ぶ行脚は、人生50年の当時、既に46歳の芭蕉にとって、どれほどの苦行だったか、想像に難くありません。しかし、同年の陽暦10月11日3 、旅は見事に大垣(岐阜県)で完結します。

 その後、芭蕉は、江戸に戻り、紀行文の編纂に力を注ぎます。1694年夏までの編纂を終えた後、弟子同士の諍いの仲裁のため、大阪に出向き、不覚にも体調を崩します。同年の陽暦10月12日、大阪・御堂筋の花屋仁左衛門屋敷で、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」(笈日記)の句どおり、芭蕉は行きかう年月とともに現世での50年間の旅を閉じることになります。

2西行は藤原氏の出自で、俗名は佐藤義清。鳥羽院の北面武士として仕えましたが、1140年(23歳)に出家、1144年頃、奥羽地方(平泉・羽州など)のほか諸国を旅し、歌を詠んでいます。西行については、白洲正子『西行』(新潮文庫、2014年)をご参照下さい。

310月17日との説もあります。

3.元禄期について

芭蕉が活躍した元禄期はどのような時代だったのでしょうか。ここでは、文化面に絞り、簡潔な紹介を試みたいと思います。

江戸初期の元禄期(1688年-1704年)は、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉(1646年-1709年、1680年-1709年在位)の文治政治の下、井原西鶴(文芸)、近松門左衛門(浄瑠璃)、尾形光琳(日本画)、菱川師宣(浮世絵)などを輩出し、江戸っ子の「粋な庶民文化」を華開かせます。それまでの公家や武家の文化の時代とは異なる庶民による創造性あふれる文化の時代を築き、文壇では、連歌に加え、俳諧も盛んとなり、芭蕉はその中心に鎮座していました。

言い換えると、元禄期は、平安時代末期からの武家の台頭、応仁の乱(1467年-1477年)、下剋上の戦国時代、関ケ原の戦い(1600年)、大阪冬・夏の陣(1614年・1615年)など、長い戦乱の時代を終え、漸く庶民にも文化を享受できる豊かな日常が与えられた時代だったと解せます。

元禄期が生み出した浮世絵は、海を渡って、あのクロード・モネなどの印象派に影響を与えたのは周知の事実であります。正に世界で認められた近世日本の庶民アートが輝き始めた時代でした。

4.『奥の細道』の旅の真の目的

元禄期のアーティスト・芭蕉が『奥の細道』の旅に出立した真の目的は、先人の旅跡を巡り、俳諧を極めるだけでなく、①亡き人々への鎮魂と②不易流行の境地に辿りつくことにあったとする長谷川櫂氏の説4があります。

①については、「夏草や兵どもが夢のあと」(二十五「平泉」)が、一般には、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏と義経主従を鎮魂する名句として知られていますが、同氏はそれを含めた長い戦乱の時代に散った多くの人命に対する鎮魂句として、より広く解しています。

②については、芭蕉が、越後(現在の新潟県)・出雲崎で詠んだ「荒海や佐渡に横たふ天の河」(三十三「越後」)からも読み取れるように、不易流行の境地に辿りつくことも旅の真の目的だったと解しています。筆者も同感であり、筆者は、当句が「人間の愚かな営みが波のように荒々しく多くのものを飲み込んで流れる中(流行)で、日本海に厳然と横たふ佐渡島とその上空に悠然と横たふ天の河が示す不変の存在感(不易)を表現している」と解しています。さらに、同氏が不易流行の境地のさらなる先の人間の営みのあり方を「かるみ」5という概念で説いている点は、非常に興味深いと考えます。

4長谷川櫂『100分de名著 おくのほそ道』NHK出版、2013年。同氏は東日本大震災の後、松島、平泉、立石寺を辿った結果、この鎮魂説に至ります。『奥の細道』の旅の目的は諸説があり、この他にも、日光東照宮の修復工事の視察、仙台藩や加賀藩の密偵にあったとの説もあります。

5「かるみ」については、鎌倉時代、やはり平泉・松島を始め、諸国を旅した時宗の祖とされる一遍上人(1239年-1289年)の思想が思い浮かびます。仙台市若林区新寺町にある阿弥陀寺には上人の像と「かるみ」を唱える石碑が置かれています。

5.『奥の細道』現代考

さて、現代に時計の針を進めて、『奥の細道』の旅を振り返ってみると芭蕉について、どのようなことが浮き彫りになるのでしょうか。

十人十色、様々なことが、論じられると思いますが、筆者は本稿で芭蕉が持つ3つの特性について論じたいと思います。

第一は、『奥の細道』に代表される芸術作品を生み出した天才的な感性です。

芭蕉の言葉として知られる「絶景に向かうときは奪われてかなわず」のように、巡り合った絶景に、心を奪われた画家6がカァンバスに絵の具を落としたような、「暑き日を海に入れたり最上川」(三十一「酒田」)の感性です。さらには、「閑さや岩にしみ入る蟬の声」(二十八「立石寺」)では、実際に目で見えている身近な事象(蟬とその鳴き声)をそれらに相反する、目に見えない時空(山寺の閑静な仏教世界)へと展開させ、全体として見事に両者を調和させています。この句も五七五の僅か17文字で究極的な単純美を創り出す感性に満ち溢れています。

第二は、『奥の細道』という作品に組み込まれた幾何学的な論理性です。

この点は、二十三「松島」と三十二「象潟」の紀行文や句から明確に読み取ることができます。これら全文を対比表にすれば、その対称性が一目瞭然となりますが、紙面の都合から、その一部を対比しましょう。

<『奥の細道』での松島と象潟の記述の比較>

               松 島               象 潟

風景(絶景の表現)    扶桑第一の好風にして         江山水陸の風光尽して

地勢           江の中三里              江の縦横一里ばかり

天空との関係性      天を指す島々             天をささえる鳥海山

美の象徴     その気色窅然として美人の顔を粧ふ   「象潟や雨に西施がねぶの花」

ゆかりある歴史上の偉人   雲居禅師            能因法師・西行法師

身近な動植物(鳥) 「松島や鶴に身を借れ      「汐越や鶴脛ぬれて海涼し」「波越え
          ほととぎす 」(曽良)   てやみさごの巣ぬ契りあり」(曽良)行数(うち句数)   31行(1句)7           33行(5句)

6洋画家・沖津信也氏(米沢市)は、『奥の細道』のゆかりの地に出向き、絶景に向かいながら創作を重ねています。沖津信也『沖津信也画集-油絵で描くおくの細道-』(青葉堂印刷、2012年)。

7芭蕉は松島の絶景に圧倒され、句を詠まずに曽良の1句のみを収録したとの逸話がありますが、「島々や千々にくだけて夏の海」(「蕉翁全附録」)を詠み、あえて『奥の細道』には収録しなかったようです。時に芭蕉の句と誤認される「松島やああ松島や松島や」は狂歌師・田原坊の作との説が一般的です。

 「松島」と「象潟」では、季語はもとより、風景、地勢、天空との関係性、美の象徴、歴史上の偉人、身近な動植物といった要素を洩れなく散りばめ、紀行文全体をシステマチックに構成しています。そして、「象潟」では最後に「松島は笑うがごとく、象潟は憾むがごとし」と結んでいるのです。

当然ながら、比較研究の学術論文でも、論理的にトピックを記述することが求められます。具体的には、先ず両者の共通点を明示し、次に、両者の相違点を明示する。そして、最後にそれらの関係性を論じて締めくくるのが一般的な記述であります。芭蕉は『奥の細道』の編纂に約3年を費やしたとされますが、このように推敲の作業は、冷静に、かつ、極めて論理的に進められたと読み取れます。

 最後は、『奥の細道』の旅の真の目的につながる徳性(倫理観・人生観)です。

この点で筆者は、現代も元禄期の前の時代のように、戦乱と人間の強欲の只中にあり、心ある現代人も鎮魂あるいは癒しの旅に無意識に引き寄せられているとの仮説を立てます。宗教対立や経済対立による内戦やテロ事件の増幅、新自由主義に基づく金融のグローバル化が齎す貧富の格差や繰り返される経済危機、さらには、経済合理性を優先した原子力発電所の事故など現代社会の凄惨さを示す事象は枚挙にいとまがありません。

一方、現に熊野古道やスペインのサンディエゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道がユネスコの世界文化遺産に登録されただけでなく、NHK・BSプレミアムの「にっぽん縦断こころ旅」や「グレートトラバース~日本百名山一筆書き踏破~」が人気番組となっていることは、非日常の旅を通して鎮魂や癒しを求める現代人の心の内面を示す証左と言えます。前述のように、戦乱の時代に亡くなった多くの人命への鎮魂自体がこの偉大な紀行文の最大のモチーフであり、そこに芭蕉の徳性が静かではあるが、脈々と流れていると考えます。

 そして、芭蕉の人生自体がこれら3つの特性の絶妙なバランスを土台に「風流」や「粋」を意識しながら表現した、彼の創出した最高の芸術作品だったと結論づけたいと思います。

6. むすびに

これまで、「風流」で「粋」な芭蕉の生涯とその活躍した時代である元禄期、『奥の細道』の旅の真の目的とその旅から読み取れる芭蕉の持つ3つの特性について、紹介してきました。

ここで、感性・論理性・徳性を論じた理由は、弊社の経営理念が、3つの特性を役職員が磨きながら、地元秋田の意欲ある中小企業の発展に貢献することにあるからです。

到底、天才・芭蕉に及びもつきませんが、会計・税務・コンサルティングという3つの領域で、これらの3つの特性を生かすことが、「風流を尊ぶ粋な会社」に繋がると信じ、これからも肩肘を張らず、コツコツと日常業務に精進したいと思います。

読者の多くは企業の経営者だと思いますが、皆様も「風流を尊ぶ粋な経営」を目指されることを念願して、拙稿を結ぶことに致します。

「風流の初めや奥の田植歌」(十二「須賀川」)


https://heiseibasho.com/heiseibasho-comment-mogamigawa/  【松尾芭蕉『奥の細道』のハイライト「最上川下り」】 より

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って「共感」する旅をしています。

最上川で至福の時を過ごした芭蕉さん私の好きな芭蕉さんの句に「五月雨を集めて 早し 最上川」があります。

この句は元禄2(1689)年5月29日(新暦では7月中旬)に山形県大石田の俳諧をたしなむ人たちと句会(36句の歌仙一巻)を開いたときに詠まれたものです。

彼らの代表は船宿の主人、高野一栄という人で、芭蕉さんはその高野一栄の亭に招かれたのですが、そこは最上川の川っぺりにある涼しい場所だったのです。

そして、芭蕉さんは『奥の細道』に「このたびの風流、ここに至れり」と書いており、みちのくの旅が最上川でピークに達したと自ら言っているのです。

そこで、芭蕉さんが最初に詠んだ挨拶の句は「五月雨を集めて 涼し 最上川」でした。

しかし、実際に船に乗ってみると故郷の柘植川や服部川のような穏やかな川ではないので、「涼し」ではちょっと物足りないということで「涼し」を「早し」に訂正して『奥の細道』に発表したと思われます。


芭蕉さんのコミュニケーション能力は適切なる質問の仕方にあった

私は、芭蕉さんの俳句を研究すればするほど、芭蕉さんの情報収集力に畏れ入るのですが、この情報収集力は旅先での門人や出会った人とのコミュニケーション能力に起因するものと思われます。

最上川下りもさることながら、当時のみちのくを安全無事に旅行するには、それなりの旅情報が不可欠だったはずで、芭蕉さんは句会を楽しみながらも、情報を得るための質問をしていたはずです。

実際、私も「奥の細道」のツアーの下見では多くの現地の方に教えを請いながら、同行の先生方とストーリーを構築しています。

しかし、ツアー造成に限ったことではありませんが、何でも質問すれば良いというものではなく、やはり正しい質問の仕方があります。

すなわち、自分でもそれなりの調査をして、自身の考えを述べた上で、質問するのが良いと思います。

そうすると教える側も、そこまで調べているのであれば、もっと広く知って欲しいと、親身になって価値ある情報を提供、あるいは他に詳しい人を紹介してくれたりします。

すなわち、質問の仕方が適切であれば、コミュニケーションが深まるということです。


みちのくの旅が盛んになったのは『奥の細道』による情報発信のおかげ

ただ、芭蕉さんのすごいところは、コミュニケーション能力に長けた情報収集家としてだけでなく、『奥の細道』をはじめとする作品で当時の貴重な情報を発信し、今日の私たちに残してくれたということです。

もし、芭蕉さんの紀行文がなければ、今日の東北旅行の楽しみは半減していたでしょう。

また、芭蕉さんの時代に今日のようなSNSがあれば、もっと早く世界的な俳聖になっていたとも思われます。

そこで私は、同郷のよしみで元禄時代の芭蕉さんができなかった情報発信を「平成芭蕉の旅語録」としてお届けしたいと思ったのです。

この投稿は、本来「芭蕉さんに学ぶ」カテゴリーに入れるべきかもしれませんが、平成芭蕉の役割を明確にするために、あえて「平成芭蕉の旅語録」に入れました。


旅を愛するあなたへ『奥の深い細道』

この「芭蕉さんの旅講座」は、「平成芭蕉」を自称する私が、松尾芭蕉の行けなかった世界の名所・旧跡を訪ねた学びと感動の体験記録『奥の深い細道』です。

人生は「出会いの歴史」であり、旅はその最も感動的な「出会いの場」です。

人は新しい出会いによって刺激を受けて考え方が変わり、行動が変わり、人生も変化します。

人は環境の動物ですから、非日常の旅にでることによって環境の変化から学ぶのです。

「旅行+知恵=人生のときめき」で、旅行から人生が変わる体験を味わっていただければ幸いです。


芭蕉さんの「蕉風開眼」の句

私と芭蕉さんの出身地である伊賀上野の史跡「蓑虫庵」は、芭蕉さんの門人、服部土芳の草庵で、現在の建物は元禄当時に建てられた芭蕉五庵のうちで現存する唯一のものです。

この庵の古池塚には芭蕉さんの有名な「蕉風開眼」の句

  古池や 蛙(かわず)飛びこむ水の音 の古い句碑が建っています。

この句が詠まれた背景は次のようなものです。

芭蕉さんは深草の草庵にいて、どこからか聞こえてくる「蛙が飛び込む音」を聞いて心の中に「古池」が浮かんだのです。

つまり芭蕉さんは、蛙が飛び込むところも古池も見ていません。

この古池は現実の古い池ではなく、芭蕉さんの心の中にある「古池」です。

この句は蛙が水に飛び込む現実の音を聞いて古池という心の世界を開いたものです。

この現実のただ中に「心の世界」を切り開いたこと、これこそが「蕉風開眼」です。


『おくの細道』の旅の目的

「奥の深い細道」へ挑む平成芭蕉

芭蕉さんは『おくの細道』の冒頭の段に「松島の月まづ心にかかりて…」と宮城県の松島を訪ねるのが目的のひとつと書いていますが、実際はこの「蕉風開眼」をきっかけに真の俳諧を探求することが旅に出る本当の目的だったのです。

そして芭蕉さんが崇拝する西行法師の500回忌にあたる元禄2(1689)年、門人の曾良を伴って奥州、北陸道を巡った紀行文が『おくの細道』です。

水の研究家であった芭蕉さんは、『おくの細道』の旅では、陸路だけでなく、水路もしばしば使っていますが、これは同行の曽良もまた三重県桑名に所縁があって、その地を流れる木曽川と長良川から自身を「曽良」と命名したように、二人とも水に造詣があったからでしょう。

「古人も多く旅に死せるあり」と記した芭蕉さんは、住んでいた家も人に譲って覚悟の上でみちのくの旅に出ました。もともと古人が旅の途上で死んだのは覚悟の上ではありません。しかし芭蕉さんは死を覚悟の上で旅に出ました。

この強い意思と行動力が芭蕉さんの魅力であり「旅の達人」の秘訣です。後世の俳諧に絶大な影響を与えた芭蕉さんは、故郷での藤堂新七郎家への奉公から謎めいた前半生、29才での江戸へとの出発、そして旅に生きた晩年までの生涯を振り返る上で、『おくの細道』の旅は重要です。

芭蕉さんにとって「おくの細道」の旅の目的は、古い和歌に詠まれていた歌枕の地を踏みながら、俳諧修行を積むことだけでなく、「敬愛する西行の訪ねた地を自分の足で歩いてみたい。自分の目で確かめてみたい」という思いも強かったと思われます。

しかし、芭蕉さんの旅した江戸時代の「みちのく」は、徳川家が恐れた伊達藩のある蝦夷地であることから、隠された幕府の密命があったことも否定できません。そこで私は、今一度、この事情を探り、GoToトラベル事業に協力する意味でクラブツーリズムGoToトラベル事業支援企画「奥の細道を訪ねて」ハイライトと題したツアーに同行することにしました。

白河の関にかかりて旅心定りぬ

芭蕉さんに倣った「名月鑑賞の旅」

芭蕉さんは「月」への思いが格別で、その俳句には月を詠んだ句が多く、名月鑑賞の旅にもしばしば出かけていますが、芭蕉さんはなぜ「月」に関心を寄せるようになったのでしょうか。

私が思うに、「旅人と我名よばれん」と、一所不住の旅に生きた芭蕉さんも、やはり生まれ故郷の情景と母のことが忘れられなかったからだと思います。

なぜなら、私の生まれ故郷でもある伊賀上野の赤坂町から服部川にかけては、町の中心から少し離れていたため、真夜中に見る月はとても美しく輝き、印象に残るのです。

その赤坂町の芭蕉さん生家の前には

  旧里(ふるさと)や 臍(へそ)の緒に泣く 年の暮

の句碑が立っていますが、これは郷里を去って15年、三度目に帰郷した時に詠まれたものです。

『野ざらし紀行』で2回目に帰郷した際には、亡き母の遺髪を見て泣いていますが、今回は「臍の緒」です。

私もかつて伊賀上野に帰郷した際、祖母から自分の「臍の緒」を見せられた時は感無量でした。

「臍の緒」は人間の生の根源に繋がるもので、懐かしい生まれ故郷で見れば、誰しも母や幼い頃の思い出が蘇えるのではないでしょうか。

その故郷の思いもあってか芭蕉さんは月を愛し、『奥の細道』の前に『鹿島詣』と『更科日記』という名月鑑賞の紀行文を2つ残しています。その『更科日記』の中には

  三更月下入無我 さんこうげっかむがにいる

  (真夜中に月の光の下で無我無心の境地に入る)

と芭蕉さんは記しています。

この境地は、忍者の里でもある伊賀市を流れる服部川に映った月を眺めていた際、私も体験しています。

そこで、芭蕉さんは月に対して特別な感情を抱いていた人ですが、この生まれ故郷の環境からは、川や池などの「水」についてもかなり意識していたはずです。

実際、芭蕉さんの名月を詠んだ代表的な句である

  名月や 池をめぐりて 夜もすがら

は江戸で詠まれた句ですが、私は名月を直接鑑賞したのではなく、「池」という水に映った名月に感動して、無心に一晩中池の周りを散策していたのだと思います。

『更科日記』の旅の目的

『鹿島詣』は深川で禅の手ほどきを受けていた仏頂和尚に会うのが主目的でしたが、『更科日記』では「更科の里、姨捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて」とあり、姨捨山の名月鑑賞が目的でした。

姨捨山は冠着(かんむりき)山とも呼ばれ、その麓に長楽寺という古寺があり、この眼下には千曲川の流れや善光寺平の広がりが展望できてとてもすばらしい眺めです。

ことに中秋の名月が東の空に光を放ち始めると、芭蕉さんは伊賀上野の故郷における「月待」の行事も思い出し、感慨深い気持ちになったことでしょう。

  俤(おもかげ)や 姨(おば)ひとり泣く 月の友

と詠んでいますが、芭蕉さんの心に、山に捨てられて一人泣いている老婆の面影が浮かび上がったのです。

平安時代の「姨捨伝説」によると、このあたりに住むひとりの男が老婆を山に捨てたのですが、清い月の光に心を改めて翌朝連れ戻してきたとされています。

いわゆる棄老伝説ですが、この句を詠んだ背景には、芭蕉さんが同郷の能楽大成者、世阿弥の謡曲「姨捨」に親しんでいた影響もあると思います。

すなわち、世阿弥と芭蕉さんにとっては、この姨捨山での「中秋の名月観賞」が特別な意味を持っていたことがうかがえます。

芭蕉さんは謡曲「姨捨」の物語と5年前に母親を亡くしていることに想いを馳せ、「姨捨山」・「月」・「更級の里」についてのイメージを大きく膨らませた可能性があります。

また、「月待」とは文字通り月の出を待つことであり、月が出る前を忌みの時間として過ごす習しで、月信仰を土台とした行事ですが、更科の里に来て、芭蕉さんは月待の間、亡き母のことを思い出していたのでしょう。

私には「姨ひとり泣く」が「姨ひとり亡(な)く」にもとれるのです。

なぜなら、芭蕉さんの若い頃の俳号は「桃青」ですが、この「桃」は母が名張(隠)の百(桃)地家の血を引くことから命名したもので、それだけ母親への思いが強かったのです。

姨捨山の名月鑑賞が「かるみ」の境地

芭蕉さんが姨捨山に着いたのは1688年8月15日、「三(み)よさの月」もしくは「三夜の月」とも言いますが、中秋の名月を初日にしてなんと三夜連続で月見を行っています。

私も芭蕉さんと同郷ですから、名月鑑賞は大好きですが、さすがに三日間も月見をする風流というか精神的ゆとりはありません。せいぜい「名月必ずしも満月ならず」と望(満月)、朔(新月)を問わず、月を意識するのが精いっぱいです。

そこで、芭蕉さんがこれほど月に夢中になれたもうひとつの理由は、私と違って深い「禅」の心得と、月を心の鏡とみなす仏教的な精神性を持ち合わせていたからだと考えます。

「禅」とは、精神を統一して真理を追究するという意味のサンスクリット語を音訳した「禅那」(ぜんな)の略で、坐禅修行をする禅宗をさす言葉です。そして「禅」の心得を一言で言えば、自分自身の存在の真実を探すために自らを律し、万物に感謝し、無駄を省き、生き方を見つめ直すことです。

芭蕉さんは仏頂和尚からこの仏道・禅の手ほどきを受けていますが、そこから学んだものは「一所不住」であり、「捨てる」ことであり、「執着しない」ことでした。

そしてこの思想が「蕉風開眼」に繋がったのですが、三日間も月見ができる無我の境地こそが「かるみ」の神髄のように感じます。

そして、芭蕉さんは放浪の子として母親に心配をかけたことから、「子が親を捨てなければ生きていけない」という伝説が迫真性を与え、名月を鑑賞する場所としては千曲市更科の姨捨山は最高の舞台と考えたのでしょう。

そこで、単身赴任中の私、平成芭蕉も「ゆきゆきて倒れ伏すとも」、千曲市更科を経由した故郷伊賀への忍者の旅など、「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマに、目的意識をもって日本全国、世界各地への「奥の深い細道」を旅しているのです。