山岳信仰用語集

http://www5e.biglobe.ne.jp/~yamamosa/5sinkou-6.html  【山岳信仰用語集】より

信仰とは                         

 信仰とは、畢竟(ひっきょう)、「救い」あるいは「安心」という反対給付を期待する心理で、それが現世で与えられるものか、来世におけるものか、また物質的感性的なものか、霊的なものかという差があるだけである。

 また人間が身体をもち、五感を介して思惟(しい)し、感覚している限り、信仰にも感性的な要素は不可欠である。それをただちに不純とか低級とかいうことはできない。観音様にお参りする祖母をもち、お薬師様を信心する叔母をもつという平均的な日本人は、仏像展でのお賽銭をただちに避難する気持ちは少ないかも知れない。

 しかし、博物館に展示された仏像にお賽銭を供えることに対しては、場所柄をわきまえない非常識な行為として、眉をひそめるであろう。それが現代の常識である。

   「日本人の信仰心」 磯部 忠正著 講談社現代文庫 1983年11月20日

 

山 宮

 人は平野に住み、神は山に住む。これが日本人古来の考え方であった。だから山には勝手に入ってはいけないのである。特に狩人が山に入る場合には物忌みを行い、山言葉とか狩詞(かりことば)とかいう、山の神の嫌う言葉には別の単語をあてる風習があった。狩人が特殊部隊化しているのは、神に交わるという意味で特殊視していたものと思われる。

 山頂の祠が山の神のおられる場所を代表している形だが、神は頂上におられるわけではない。神のおられるのは山全体なのであるが、その中でも特に神聖視されている場所があって、そこには立ち入りが禁ぜられ、山を伐ることはもちろん枝一本拾っても罰があたるといわれる。

 対馬にはニソの森というのがあるが、三宅島あたりにも広い区域にわたって大木が繁茂し、枯枝で足の踏み場もないような森が分布している。今日、鉄道や道路の敷地予定地にこの種の森がいくつかあって敷施者側を悩ましているが、大抵は工事の方が迂回コースをとることで解決しているようだ。

 

神と動物

 森が神の所有であるように、山に住む特定の動物も神聖視される。稲荷は狐を祀ったのではなくて、稲荷山の狐は神の所有(眷属(けんぞく)という)であるから神聖視されるのである。八幡の鳩、春日の鹿、山王(日吉神社)の猿、三輪山(大神(おおかみ)神社)の蛇などはこれであって、外国人の日本研究者が動物崇拝などというが、動物自体が信仰対象ではないのである。大木に七五三(しめ)縄がはってあるのも、樹木崇拝ではなくて神の住まいだからである。岩石、滝なども神聖視される。

鳥居とは 鳥居とは、神社のシンボル。神社の参道入口にある一種の門。左右の柱の上にかさ木をわたし、その下に貫を入れたもの。春日鳥居、鹿島鳥居など種類が多い。 「新辞源より」   

 

神 輿(みこし)  

 祭の用意ができた後、神官が「オー」と声を発するのと神がきて下さることにはなっているが、本格的な祭の際には体を清めた後、神の乗物を用意して神を迎えに行く。この神の乗物が神輿である。ワッショイ、ワッショイと振り回すのは江戸っ子趣味からきたもので、神輿はかつぐものとは限らない。牛に引かせた山車(だし)も一種の神輿であり、馬の背に御幣(みてぐら)を立ててひいていく場合もあり、神官が背負子のような物に依坐(よりまし)を立てて山に登る場合もある。

 こうして山に登り、神のおられると伝えられる神聖視された滝や、岩や、森など、一定の場所を拝礼しつつ一定のコースを一周すると神を迎えたことになる。所により岩木山のように木の枝を折ってくるところもあり、山陰の大山では山頂の池のお水を取ってくることが神迎えになる。山の中の拝礼の場所には小さな祠があったり、七五三縄がはってあるから気をつけて見るといい。筑波山や富士山や月山にもこれがある。元来登山路の何合目というのは、それぞれ拝礼の場所と思えばいい。

 

火 祭

 火祭りは大抵の場合、火を焚いてあかるくして神を歓迎する場合の所が多い。加茂の祭の大文字焼、羽黒、秋葉、鞍馬、吉田(富士山麓)などの火祭りは名高い。羽黒の火祭りはつつが虫を焼くという。つつが虫というのは病気の原因になるといわれ、これになぞらえた藁のつくり物を焼き払うことによって、つつがなく一年がおくれるというのである。春日神社では祭の際には沿道の灯籠に火をともす。箱根では芦ノ湖に灯籠を流す。

 その他一般には神社では篝火を焚き、一般の家では軒に御神燈をつけて町をあかるくして神を迎える。そして神の行列(神輿)が来ると、村の者はみんな家から出て迎える。加茂の葵祭では行列を人々が桟敷をつらねて見物し、中には木に登る者まであったことが徒然草に見えている。

 海や川の祭りは、後生に仏教と習合して水難者供養の川施餓鬼に変わってが、元来は祭りの行事であり、花火の打ち上げも火祭りに始まって独自の技術を世界に誇っている。お盆の行事も今では仏教がしているが、祖霊を迎える祭に発するものであり、迎火を焚く。また、提灯をさげて墓場へ行くのも火祭や御神燈と共通して道をあかるくし、神の通過を容易にさせようとするものである。

 

米の飯

 祭には、人間として最上等の供え物を用意して神を迎える。まず米である。日本人は古来米を栽培していたが、米だけを食っていたのではない。柳田国男氏は、米は祭の為に栽培していたと主張するが、少し言い過ぎのようだ。日本人は五穀をまぜたカテメシを常食としており、五穀の代表で最もぜいたくなものが米であった。だから祭の折りには精白米を供えるので、祭の時以外には米の飯を食べないという地方は最近までざらにあったが、米を食べないにではなくて、米だけの飯を食べなかったのである。

 米だけを常食にする風習は、貴族から始まり金持ちが真似するようになり、第二次世界大戦の際の食糧管理法の実施によって、かえって一般化してしまう結果になった。雑穀をまぜた御飯は神に供えないのが原則であるが、小豆をまぜた赤飯だけが例外で、今ではかえってふだんは白米で、祭だけ赤飯にするようになったが、赤飯の歴史は案外新しいのである。

 

餅と酒

 米からつくった餅と酒は神に供える最上等の御馳走であった。「お神酒あがらぬ神はない」というが、元来酒とは祭の為につくるものであり、祭の時だけ人間様もご相伴にあずかれるものである。だから寝酒とか朝酒とかは、人間がぜいたくになって、金の力で神様を無視して勝手に臨時の祭をやっているようなものである。珍客が来ると餅を搗いて迎えたり、酒を用意しておいてすすめたりするのは、客を神様扱いにしているわけで、時には客にとって有難迷惑な場合もある。

 

鱠(なます)        

 農民は魚といっても、ふだんは塩漬けが乾物しか食べられないから、鱠は貴重品である。神に尾頭付きのなまの魚を供えるのは最上のサービスである。どこの旅館に行っても刺身を出されるのは歓迎の意を表されたわけだが、これも山奥などでは有難迷惑なことが多い。

 

 人間の体には塩は不可欠であるが、農村ではとれない。そして食物をおいしくする上に、食物の腐敗を防ぐ為に、古来浄化の力があると信ぜられ、穢れをはらう意味でも塩が使われる。相撲の際に土俵に塩をまくのも土俵の穢れを清めるためである。

 

おかず

 おかずは、今ではなまの大根や人参がみられるが、元来は熟饌(じゅくせん)といって、すぐに箸をつけられるものを供えたのである。

 

祭の目的

 大きな神の力は、常に人間に恩恵を与えるとは限らない。神の怒りによって祟りを受け、嵐や洪水などがおこり、不作になることもある。神様がご機嫌が良くて、静かにしていて下さると豊作であると考えられる。祭には除災と招福との両要素があるのだが、どちらかといえば除災の祈願の方が強い。農民にとっては天才というものがいかにおそろしいかは、農業を経験したものでなければわからないであろう。

 祭は、今年が豊作であってことを感謝する祭(新嘗(にいなめ))と、次の年も豊作でありますようにと祈る祭(祈年)の二つの目的がある。通常春の祭は祈年、秋の祭は新嘗と考えられやすいが、祈年と新嘗とは祭の裏表のようなものであって、厳密に区別できるものではない。

 

休 業

 祭の時は村人はすべて仕事を休んで祭に参加する。現在では日曜日のほかに祭日を国家が決めて休業としているが、そこには宗教的な要素も歴史的な要素もなくなって単なる休日となっている。しかし元来は祭の日は、祭に全員が参加する為に、仕事は休まなければいけない日であり、農民の間では節供働きといって、祭の日に働くと村ハチブにされる慣例もあった。祭に参加するのは村人としての義務だったのである。

 

晴 着

 祭の日には晴着を着て祭に参加する。日本人の着物は労働に適さないなどと言われるが、ハレギで労働する者はいないのであって、労働着は別にある。現在は大工や左官屋の労働者すらすたれてしまって、着物といえばハレギのように思われているが、あれを着るのはお客にサービスする人達が着ているのであって、ふつうの人は祭の日だけしか着ないのである。子供などは祭の日に晴着が着られるのを指折り数えて待っているのである。

 

供物とお賽銭

 神社の賽銭箱に米粒の入っているのを見る事があるが、あれは供物である。現在では賽銭箱に現金を入れるけど、これは米のかわりに米の代金すなわち供物を金納しているのである。だから神社にお金を奉納する際に包み紙の上にお初穂と書くのは、米を奉納した名残っである。

 神に供えた食物は、姿の見えぬ神が直接食べるはずはないが、野外に供えておくと山の鳥やけものが食べてしまい、それを神が召し上がったとするところもあり、また子供衣冠束帯をつけさせて神のかわりに坐につかせて食べることもある。琉球あたりではノロという巫女が奥で蚊帳を吊って寝ており、奥から手を出して食べてしまう。しいし大抵は人間どもが分け合って食べるのである。

 

神主と神職

 祭の折に神の意志を伝えるのが神主の仕事である。現在、神主は神職として混同されているが、神職は人間の立場で祭を行う役であり、神主は神の立場で神の言葉を代弁する者である。天皇は国家の祭を行う際、神主の立場か、神職の立場かよく分からないが、どちらかといえば神職のような気がする。現在神職は職業化しているが、元来は村人の中から選ばれた代表で頭屋(とうや)といった。それを中心として祭の行事が行われた。一年交替で行われるのを一年神主という。

 神主の方は、女の場合巫(ふ)といい、男の場合は覡(げき)というのだが、どちらも漢語である。日本語としては巫女という言葉が一般化しているから、主として女の仕事であったらしい。

 

賭 博

 祭にばくちが行われるのも、元来は吉凶を占うところから発したものである。職業的なばくち打ちは祭から祭に渡り歩いたもので、国定忠治は赤城神社を中心としたばくち打ちであり、森の石松は遠州の秋葉神社のばくち打ちである。

 

勝負事

 祭に伴う相撲や競馬なども、元来は吉凶を占うことに発している。けんか祭だの、悪態祭だの、あるいは裸になって何か奪い合う神事は、ジャーナリストによって世界中に紹介されている。綱引きは相撲、闘犬・闘牛なども祭の時に行われ、祭の日には村の青年たちが力くらべをし、小中学校の相撲大会なども行われるが、いまでは職業的な相撲取りが奉納相撲をすることが多くなった。石合戦のような毎年怪我人を出すような神事は今では行われなくなっている。

 

芸 能

 吉凶を占うばかりでなく、必ず良い年でありますようにと予祝の意味で、始めから筋書きの決まった勝負事は演劇の古い形である。追儺(ついな)の時に鬼の役に回った者は必ず逃げ出すことになっている。こういう形が演劇に変わると共にまた、レクレーションでもあった。村人は一人一人が祭を楽しみ、祭に参加し、祭を通して日常の単調さを破って新しい明日の労働へのエネルギーの源となったのである。従ってそれは、みせる為のものではなく、やって楽しむものだった。

 

政 治

 祭の場合には村人全員が集まるから、村の相談事をするにも都合がいいし、また、神託によって村の今後のことをきめていくので、政治はマツリゴトなのである。国の政治もはじめはこうして行われた。

 

経済活動

 祭のときには人が集まるから取引や交換の市が開かれ、祭は経済活動のセンターでもあった。

 何でもかんでも祭と結びつけてしまうのは、宗教学者の手前味噌とも考えられるが、それは祭の機能や目的というものが未分化で、今日の宗教とは無関係のものが多く含まれ、村落社会の機能の大部分が祭に含まれていたままのことであって、今日の意味の宗教よりはずっと広範囲な役割を果たしていたまでのことである。

 

雨乞い 

 如何に人間社会が進歩しても、人は自然の力に駆使され続けるもののようである。雨乞いは共同祈願で、方法はいくつかあったが、池、淵、滝にでかけて祈雨するほか、山に登って祈るのが効果的とする土地が多かった。麓が干魃に喘いでいる時も、山上や池や沢の上流に水が溢れているのは、人々にとって不思議なことであった。水源であり天に近い山上で、龍神様に祈る。独特の唱詞を大声にとなえたり、鉦太鼓をうちならす。

 また、どうしても降らないとき、雨乞いの験の卓越した遠方の霊山に代参の者を走らせる。霊山から霊水を借りてきて、これを田や水口にふりかけた。

              岩科小一郎著「山の民俗」岩崎美術社

 

阿弥陀如来(あみだにょらい)

 阿弥陀如来は平安時代の中期から末期にかけて著しい進展をみせる。山岳は死者のおもむく他界という古来土着の信仰が、仏教の浄土観を受けて、山神が阿弥陀如来に置き換えられた。山上にこそ阿弥陀の浄土があると信じられた。山中湿原の御田ケ原は「陀ケ原」と書き表されたりする。そして死者救済の阿弥陀様は、山峰を越え、山の斜面を降下して来るかの如く来迎する。中世以降の「弥陀来迎図」や霊山の参詣曼陀羅(まんだら)の中には、そのような来迎のさまを示しているものが多いそうで、土俗のなかに受容されていった阿弥陀信仰を凝縮させているかのようである。

 登拝時期となる霊山の夏は、白装束に身を固めた人々が、山念仏のかけ声とともに死出の山路を越えた。自らがおかせる罪けがれを今生の苦登であがない、もって現当二世の利益にあずかろうとしたのである。そして、山中の石河原で積み石を築いたりして死者を供養した。

              伊藤唯真著「未知へのやすらぎー阿弥陀」佼成出版社

 

磐座(いわくら)

 山には露岩が多く、それらの主要なものは神の座として重きをなすが、山中に限らず、岩は神の依りつく対象物としてさらに一般的である。神の憑着(ひょうちゃく)する岩が磐座である。磐座祭祀は、神殿を設けて神を祀る神社祭祀の源流に位置する。磐座の岩は大小さまざまで、数個の岩の集合が磐座となっていることもある。大きな石を人為的に設定し、神聖な場所を表示する場合もある。この場合は「磐境(いわさか)」というほうが適当かもしれない。

              野本寛一著「石の民俗」雄山閣出版

 

姥石(うばいし)

 姥石は霊山において女人結界を標示していた(自然石)あるいは霊山の女人禁制を象徴していた石。だいたい山の中腹に位置している。姥なる女性が女人禁制の山にあえて登ろうとしたところ、この女性は神の逆鱗に触れ、石になってしまったという伝説が付随する。姥は、この伝説に関しては、宗教的職分にある女性つまり巫女(ふじょ)である。

 各地の山で「神(み)子(こ)石」「比丘尼(びくに)石」「守子石」と名づけられた石も結界石で、やはり同類の伝説をともなっている。この「姥化石の伝説」を手掛かりに、柳田国男は、重出立証法という比較研究法で古信仰の解明を試みている。

              定本「柳田国男集」巻九

              阿部泰郎著「女人禁制と推参」平凡社

 

 

延年(えんねん)

 平安時代以来、寺院の法会で演じられてきた芸能。猿楽、田楽、舞楽など多種多様な歌舞がとりこまれた総合芸能。これを行うことにより仏を讃え、国家万民の繁栄を祈請した。演者は山伏的な僧侶や稚児であったらしく、この流浪の僧や山伏たちにより、延年は地方霊山に運ばれたと考えられている。山伏は芸達者であった。歌舞伎十八番中の「勧進帳」で弁慶が富樫の前で舞を舞うのは不思議でない。

 また、山伏は宴会好きの一面があったかもしれない。延年が現存する所は、日光山輪王寺、岩手県平泉の毛越寺、鳥海山麓の小滝金峰神社(もと蔵王権現)白山山系山麓の白山長滝神社(もと白山本地中宮長滝寺)など。

               本田安次著「日本の伝統芸能」錦正社

              村山修一著「山伏の歴史」塙書房

 

王子

 大阪から海雨・田辺を経て熊野三山に至る道筋には、熊野権現の眷属(けんぞく)神が勧請された王子社が適度の距離をおいて並び、それらは熊野九十九王子といわれている。熊野詣での人々は、王子王子で禊(みそぎ)ぎをし、神に幣(ぬさ)を奉りつつ熊野に向かった。

 九十九王子の中には、もと土地の神々であり、王子として熊野信仰にとりこまれていったものがあるだろう。紀伊半島の海浜地方、熊野詣での本街道から外れた場所にも王子はあるという。これらが臨海の勝地に立地することから、王子の淵源は、海の彼方から依り来る神すなわち常世の神を迎え祭るきわめて古い祭場だった。可能性が大きい。

 児島半島に、近頃山火事で有名になった王子ケ岳があり、これは石鎚信者が逐一頭を垂れる拝所である。越後二子岳には一から三までの王子がある。王子と名付けたのは、熊野三山の影響によるものかもしれない。東京都北区の王子も熊野信仰の伝播が地名として残っているのだそうである。

               五来 重著「遊行と巡礼」角川書店

              野本寛一著「神々の風景」白水社

 

 

狼(おおかみ)

 霊山の神は仏菩薩の形で拝まれる一方、熊、猿、猪、兎、鳥などを神使とし、また神自身が動物の姿で現れるという原始宗教性を引きずり続けた。三峰山は狼の信仰が前面に出て、東部~中部日本に広い信仰圏を有した。狼神の山としては、ほかに山住神社、春野山(以上遠州)両神山、玉置山(大和)妙見山(但馬)がある。これらの霊山は山深い位置にあるものが多く、またその御利益は、火難盗難除けのほか、耕地を荒らす猪や鹿などの害獣を駆逐するというものである。

 以上の霊山が支持されたのは、焼畑民の狼に対する根強い畏怖畏敬の念が根底にあったが為かもしれない。二ホン狼は明治38年に奈良県吉野郡東吉野村で捕獲されたのを最後に、日本列島から姿を消した。ただし、民間信仰上、狼と山犬の区別は明確ではなかった。

               谷川健一著「失われた日本を求めて」青土社 

              「定本柳田国男」巻二十二

 

温泉とは

 温泉は温泉法により、地中から湧き出る湯で、              

1 温度が25℃以上で湧出するものか

2 もしくは定められた成分が一定の濃度以上含まれているもの (規定泉)

と定義されている。

逆にいえば、

●温度は 成分さえあれば、何℃でも良い。

●成分が規定量以下でも、温度が25℃以上で湧出するものであればよい。

また、温泉とは、その湯を浴場として発展した場所のこと。各地の温泉は、酸泉、塩泉、硫泉、鉄泉に分類される。

 一方、山岳信仰の面からとらえると、温泉の湧出もまた神の力のなすところと考えられ、信仰の対象となった。湯殿山の温泉湧溢の不可思議な模様は、そこが大日如来の密厳浄土とされるに至ったが、原始的な自然崇拝にも似た状況はいまも感じられる。伊豆山温泉の走り湯も、洞内より湯がほとばしり出るさまが神秘化され、やがて修験(しゅげん)の拠点となった。別府の湧泉は地獄とみなされている。

 越後の出湯や伊豆の修善寺のように、旅の高宗僧が杖や独鈷(とっこ)で地を穿(うが)ち湯を湧出させたという伝説は、古くに、そこで神祭りがされていら消息を伝えるものであろう。熊、鹿、鶴、鷹などが関わっている山深い湯の発見伝説は、それら鳥獣が山の神の使いとも受け取れるものであり、温泉はやはり霊地のひとつに数えられる。鹿と狩人にかかわる信州鹿教湯(かけゆ)の伝説のごときは、熊野本営・越中立山・伯耆大山の開山伝説ととてもよく似ているのである。

 また温泉は禊(みそぎ)ぎに使用された。熊野の湯ノ峰温泉の「湯垢離(ゆこり)」はよく知られているが、上諏訪温泉には「精進湯」というのがあり、足長神社に参拝する際、人はこの温泉で心身を清めた。つまり「湯」は「斎(ゆ)」なのである。今神温泉の珍しい習俗も禊ぎの一種かもしれない。

 「定本柳田国男」巻二十七 大森恵子著「因幡薬師と山陰地方の薬師信仰」雄山閣出版


火山とは                                   

 火山は、その姿かたちの気高さ美しさから、古代民の崇拝の対象となってきたに違いない。しかし麓に甚大な被害をもたらす火山活動は、畏敬すべき神意の発現と思われてきた。九世紀の頃、富士、鳥海、阿蘇、開聞があいついで噴火爆発したことが古記にみえる。人々は幻想を抱き、神の本意を占い、異常事態に種々解釈をくだし、神の怒りを鎮撫することに躍起になった。

 だいたい火山の神を恵をもたらす神に転換することは容易なことではなく、人々の火山にたいする畏敬の念は格別のものがあったであろう。伊豆大島の人々が、いまだに、三原山の噴火を「御神火」溶岩を「お流れ」降灰を「おけぶ」といって敬うのは、古い火山信仰の残存であると思われる。

 また、火山は恐ろしい地獄と考えられていた。火口を「お釜」などという。江戸時代中期の百科全書「和漢三才図会」の地獄の条には、肥前温前(雲仙)豊後鶴見、阿蘇、富士、浅間、立山、白山、箱根、陸奥焼山とある。

            宮本袈裟雄著「日光山と関東の修験道」(叢書巻八)


観音菩薩                                   

 観音菩薩は海や湖など水辺に祀られることが多く、水に所縁のある仏様である。観音菩薩の浄土、補陀落(ふだらく)は海の彼方にあるとされるが、日本にも古来、海彼にある常世への信仰があり、これが観音信仰が受容される基となった。那智、日光中禅寺湖は典型的な補陀落の霊場であり、千手観音を祀る。

 また観音は古代山岳修行者が奉祀した仏で、十一面観音が山岳寺院や峻険な山岳に祀られた。千手観音にしても十一面観音にしても、観音の知的で優美なイメージからかけ離れた忿怒(ふんど)と威力のプロフィールを有しており、このような観音様が日本の自然に対応して祀られたということは、厳しい天災や横難の中を生き抜かなければならない民衆が、より力に溢れている神仏を願望したからである。

              五重 来著「日本の庶民仏教」角川書店

              沼義昭著「限りなき慈しみー観音」佼成出版社

 

比羅さん                                 

金比羅さんは、金刀比羅さんとも書く。

 

香川県琴平町にある金刀比羅宮が有名である。

(大日本百科辞典)

  金刀比羅宮に祭る神を、明治以前は神仏習合上、金毘羅大権現と称した。

 これは梵語のクンピーラの音訳で、字義は鰐魚(わに)を意味し海神竜王とされた。

 日本に流伝されたのちは大物主神とされている。

 仏教では、夜叉神王とよばれ、薬師十二神将の一つとされる。

 雨ごいや海難よけの善神とされ、船乗りの海上安全・大漁満足の神として信仰され、全国的に海岸漁港でもその信仰をもって祭られているほか、各地に金毘羅講が組織されたが、各地に分祀されるとともに、金毘羅参りと称して金刀比羅宮に参拝する風習が流行…祭日は金刀比羅宮の祭り日で、毎年10月9日から11日の例祭をいう。

 宮原の金比羅さんの由来は次のようである。

 明治の終わりか大正始めの頃、ムカイバラのある農家の家のご先祖が、全国各地で仕事をし、恐らく香川県にも行きそこで金比羅信仰をしたと思われるが、諸国を転々として村に帰って来た。

 その時、同じ村のある家で病気ばかりしていた家があった。

 そこで金比羅信仰の霊験あらたかなることを教えたところ、地所を提供するから金比羅さんを祭ってほしいと頼み、移転前の宮原配水池の所に祭ったのが、この金比羅さんの始まりである。

 その家の病気治癒は定かではないが、医者もままならない山村において、藁をもつかむ気持ちで、この金比羅さんにすがった、当時の様子が手にとるようにわかる。

賽の河原                                  

 賽の河原は里の周縁、現世と他界の境界で、霊魂が蝟集・去来するとされた場所であった。荒磯や峠道のきわの石河原状の場所にその名があり、石が積まれる。現世と他界とを遮断するサイノカミがまつられていた。「賽」「塞」と同じで、さえぎる、侵入阻止の意。室町時代、サイノカミの土俗的信仰と地蔵信仰の習合「西院(さい)河原地蔵和讃」の流布により、死んだ子供達が鬼に苦しめられる物悲しいところと考えられるようになった。

 霊山にも賽の河原があり、亡き人の回向がおこなわれ、また修験者の行場となる。

              「定本柳田国男集」巻十二

              桜井徳太郎著「地蔵信仰」雄山閣出版 

              野本寛一著「石の民俗」雄山閣出版

 

山岳信仰遺跡                           

 山の中には、古代の信仰の痕跡がさまざまな形で残っている。これらの痕跡は山の自然条件との深い関わりの中に認められ、これが山における遺跡の特徴である。山頂はそこで祭祀や修法が行われ、まず遺跡を認められてしかるべき所。山頂の岩の間から江戸時代の貨幣などが見つかる可能性は、私たちの登山でも十分にある。

 多くの古代遺物が発見されたことで知られる山頂は山上ケ岳、男体山、宝満山のそれである。男体山、宝満山は巨岩・絶壁に拠った遺跡でもあることは注意すべきだろう。

 山上の湖沼には、古い時代鏡を投じる信仰があった模様である。赤城山の小沼(この)、榛名山の榛名湖からは古鏡が見付かっており、これらは地中納鏡遺跡としてひとくくりにされている。その他経塚、行場跡、寺院跡などがあり、遺跡の範囲についての考え方は必ずしも定まってはいないが、山における古人の営為の痕跡はかなり広くにわたるようである。

             大和久震平著「古代山岳信仰遺跡の研究」名著出版

             宮家準遍著「修験道辞典」東京堂出版


山岳信仰博物館                             

 博物館の展示は山岳にたいする理解を助けてくれる。山の行き帰りに立ち寄って見たい山岳信仰関係の博物館をあげてみよう。羽黒山には「出羽三山歴史博物館」がある。羽黒山頂御手洗池から発見された古銅鏡や、三山の宝物を展示している。羽黒山下(手回(とうげ))には「いでは文化記念館」がある。

 山伏峰入りの概要を知るのに良い。日光二荒山神社中宮祠の「宝物館」では、男体山頂祭祀遺跡からの出土品(古い錫杖頭、禅頂札など)を見ることができる。

 立山山麓の芦峅寺(あしくらじ)には「立山博物館」がある。立山曼陀羅、うば尊像が見ものである。桜の名所・吉野山のビジターセンター、英彦山登山口集落内の「修験道館」と江戸期の山伏宿坊の遺構「財蔵坊」も立ち寄りたい所である。

 

 

地蔵様(地蔵菩薩)

金昌寺にて

金昌寺にて 秩父札所のお地蔵さん

地蔵様は庶民にとって最も親しい仏様である。路傍の石地蔵は、子供達がひっくり返し引きずり回しても、怒ったりされず、むしろ子供と遊ぶことを喜ばれた。子供を守る仏様、子供たちが祀るべき仏様だとされた。子供とのオーバーラップから、石の地蔵様によだれかけを掛けたりする。

 冥界六道に住するという立場から、実際に墓地入口や辻にまつられたが、異界との境界に関与する仏様と受け取られることから、道祖神の役目を引き受けられた。「村の外れのお地蔵様」はこれである。峠にて異郷悪霊を防遏(ぼうあつ)してきた道祖神も、地蔵に置き換えれれ、峠名は「地蔵峠」に変わっていったであろう。地蔵様は多くの名字を持っておられる。子安地蔵、子育て地蔵、身代わり地蔵、とげ抜き地蔵、縛られ地蔵、田植え地蔵、鼻取り地蔵、延命地蔵・・・・・。地蔵信仰が人々の生活のあらゆる方面に溶け込んでいたことを表している。

              「定本柳田国男」巻二十七 

              和歌森太郎著「地蔵信仰について」雄山閣出版


役小角(えんのおづぬ)・役行者(えんのぎょうじゃ)           

 七~八世紀の頃の、大和・葛城地方の呪術宗教家。「続日本紀」に小角の記事があり、文武天皇三年(699年)に、小角は伊豆の島に配流となったとある。

 奈良盆地周辺でも葛城地方は遅くまで中央にまつろわぬ地方であったが、小角もまた、政府が受け入れがたいとする活動をおこなう民間宗教家であったのだろう。しかも遠流に処さなければならないほどすぐれた呪力をもって聞こえたのであろう。

 「日本霊異記」にみえるように、平安時代はじめには、小角は全くスーパーマン化した伝統的人物となってしまい、平安末期あるいは鎌倉前期にいたって、山伏の理想像、修験道(しゅげんどう)の祖師「役行者」と位置づけられた。多くの寺院の開基とされ、遠方の山において役行者の飛来が説かれるようになる。行者の伝統的部分に修験道の多くの謎が隠されている。

              村山修一著「山伏の歴史」塙書房

              和歌森太郎著「修験道史研究」平凡社

  役小角についてもっと詳しく知りたい人は

伝奇小説 「役小角」 ・第一部 異界の人々 ・第二部 神の王国 ・第三部 夜叉と行者  黒須紀一郎  作品社 の一読をお勧めします。


十界修行                                 

 十界修行とは山伏が「峰入り」でおさめる十種の修行。古来の山岳修行の流れを受け継いで、室町時代末期に十界修行は成立したといわれる。山伏たちは一日死んだものとして死出の山路に入る。そして凡夫の成仏課程とされる各種世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏の十界)を渡り歩き、最後の正灌頂(しょうかんじょう)を経て、その身そのまま仏となってこの世に再生する。界ごとに、それぞれの山岳で、独特の修行がなされていた。断食断水、不眠不臥、不断礼拝勤行、護摩、作務、その他工夫を凝らした行法が、十界修行とそれに関連する修行に当てられていた。

 十界修行が比較的まとまったかたちで現在にまで引き継がれてきたものが、羽黒山の「秋の峰」である。この秋の峰は明治維新の神仏分離の影響で、神道式・仏教式の二通りに分かれて実施されている。

              宮家準著「修験道思想の研究」春秋社

              戸川安章著「修験道と民俗」岩崎美術

宿

 ここでいう宿は中央と地方を結ぶ主要路の、恒常的な交通により成立してきた宿(平地の宿)とは別のものである。狩猟民・木地師・鉱山師などが踏み分けた山岳路を修験が体系化し、そこに山の宿が発生する。

 したがって、山の宿は峰頭・露岩・尾根の鞍部・湧水の近傍など山の地形に関わって成立する。宿は山の神が出現する所、修行者が拝礼すべきところである。やがてパターン化し、その数も定まってくる。それとともに宿ごとの祀るべき神仏も決まってくる。神仏のもとで一定の峰入り修行が行われるが、簡易な道場の建物が設けられる場合もあった。

 大峯の宿は「靡(なびき)」とよばれ、七十五ケ所に定まった。葛城連山には法華教二十八品(ほん)を充当した二十八宿がある。前日光古峯(こぶ)ヶ原一帯の宿には金剛童子が祀られている。修験者を守り、修行を助けるという不動明王・金剛童子は、宿によく祀られる神仏である。

             宮家準著「大峯修験道の研究」佼成出版社

             木村春彦著「英彦山の歴史と民俗」葦書房

 

修験者(しゅげんじゃ)・山伏(やまぶし)                        

 平安時代に入り、天台宗、真言宗が開宗され,両宗が山林修行を重んじたことから、各地の山において修行者が蝟集するようになる。彼らの宗教的能力が広く世に認められ、平安の中期にいたって彼らは修験と呼ばれるようになった。山中でマジカルな力を獲得し、これを駆使する、すなわち呪の効験を修するから「修験」である。また山に起臥する生活形をもって「山伏」と称された。

 奈良時代においては、七堂伽藍の中で政府の保護により学問する僧侶に対し、山林を伽藍とみとめ、苦行を通じて呪力の獲得に努め、迫害を受けながらも民衆の応えていた私度僧がいた。彼らは「優婆塞(うばそく)」などと呼ばれた半僧半俗の宗教者で、修験者の古代的姿である。

 中世、修験者の働きは実践的で、全国にわたり修験者の流動性も高かった。修験道の組織、教義、作法は整備された。近世にいたり、修行に粗略化・形骸化がみられ、また江戸幕府の宗教政策が影響し、修験者は里に定着するようになる。明治五年の修験道廃止令で、修験者の大部分は帰農、あるいは他の宗教職に転進した。

              和歌森太郎著「修験道史研究」平凡社

              村山修一著「山伏の研究」塙書房

 

神仏習合                                     

 神仏習合は奈良時代に始まる。神宮寺が建てられ、寺院の境内に鎮守神が迎えまつられた。山房によって修行をした先覚的な仏徒たちが、古来の山岳信仰と仏教の融合をはかるひとつの推進役を果たしたらしい。やがて天台・真言の密教の導入により混淆(こんこう)思潮の統合整理が進み、平安時代中期に本地垂迹(ほんじすいじゃく)説があらわれる。平安時代末から鎌倉時代にかけて神ごとの本地仏が確定した。

 修験道においては、古来土着の神々、山の多様な自然と結びつく神霊にたいし、草木国土悉皆(しっかい)成仏とする密教的な宇宙観あるいは天台宗の本覚(ほんがく)思想を、日本の風土に同化させ、重ね合わすかたちにより、神仏に親和がはかられた。衆生済度の方便として権現という独特の神をつくり、山をそのまま曼茶羅とみなし、また、山の自然と一体となって修行することこそ即身成仏が実現する道だと考えた。

 その信仰と思想の包摂融和の路線、柔軟性に富んだ布教態度は、新たな展開としての山岳信仰を民間に広く普及させる大きな要因となった。

 平岡定海編・辻善之助ほか著「権現信仰」雄山閣出版

 田辺三郎助・末木文美士・井上正ほか著「図説日本の仏教(六)ー神仏習合と修験」新潮社


神仏分離令                                   

 明治初年、新政府が神社から仏教的要素を排除するため諸神社にたいして発した一連の法令。僧形のものが社務所に従うことを禁止し、権現や牛頭天王(ごずてんのう)とかの仏教的な神号をとなえたり仏像を神体とすることを禁じ、あるいは社頭の仏像、鰐口(わにぐち)、梵鐘(ぼんしょう)を取り除くよう命じた。政府は全国の神社を組織化し、神社神道を国教の地位に据え、国民の思想統一を図ろうとしたのである。

 しかし日本では千年以上の長きにわたって神と仏とのあいだに明確な区別がなく、人々の信仰対象は多元的であるのが普通だった。高踏的な政府は、さらに道祖神、辻の地蔵、庚申などにたいする信仰を否定し、巫覡(ふげき)を一掃しようとする。修験道廃止令により、修験の天台・真言両宗への帰入が強制された。行き過ぎた旧習否定(政府はこれを開化と信じた)で庶民は何を拝んだらよいのか分からない混沌(こんとん)の状態になった。極端な廃仏廃寺や小さき神々の撤去が敢行された所はとくにひどかった。

 神仏混淆(こんこう)が前提であるべき修験霊山にとって、この政策は大法難で、霊山の組織・儀礼・文化は崩壊した。近畿地方の主な霊山は寺院として存続する方途を選んだが、各地の霊山は、おおむね神社化して現在に至っている。

   宮家準著「山伏ーその行動と組織」評論社   村上重良著「近代民衆教史の研究」法蔵館

 

大日如来

 密教の教主。この宇宙の現象を全般を体現している根本仏。密教においては、衆生はもとより宇宙万物ことごとく、大日如来の命を潜在させているとする。そしてこの宇宙万物生命世界を調和と秩序ある世界として表したもの、すなわちそれを総合・統一化した図絵が、両部(胎蔵・金剛界)の曼茶羅である。

 修験道は密教の影響を強く受けており、修行道場の山岳は、その一木一草にも大日如来が化現する曼茶羅になぞらえてられている。小鳥のさえずり、梢のそよぎ、水の流れにも仏性をみとめる。修験者は、峰入りをしてこの山岳曼茶羅を渡ることにより、みずから即身成仏を実現した。即身成仏とは、自己の中に仏がある、というのを悟ること。そして仏として再生した修験者は俗世間に下りてきて、加持・巫術など修験道の特徴を生かした方法により人々の救済にあった。

              宮家準著「修験道思想の研究」春秋社

              松長有慶・宮坂宥勝ほか「密教の世界」大阪書籍


太陽信仰                                     

 日本の山岳において太陽信仰は後退しているように見受けられるが、太陽信仰にかかわった山はいくつか認められる。野州の日光は「二荒(ふたあら)」の音読が佳字をもってあてられたのかも知れないが、ここにはもともと太陽信仰があったのだといわれている。英彦山(彦山)はすなわち「日子の山」であり、東方に向かって祭祀するかたちをとっており、太陽崇拝に基づくものである。

 瀬戸内の海路を東へ東へと進むと、日出ずる処が生駒山であり、その西麓は神武天皇東征の伝承地、ヒトモトの孔舎衙(くさか)(日下)。甲州七面山の早朝、敬慎院随身門の日の出はすばらしく(富士からの日の出)日蓮宗信者は日に向かってお題目を唱え続ける。法華教に深く帰依する日蓮は、また、その名に「日」を頂いているように、太陽の信奉者であったという。

 

         和歌森太郎著「日光修験の成立」

         重松敏美著「山頂の方位を考える」
         朝日新聞西部本社編著  「英彦山発掘」

         谷川健一「白鳥伝説」集英社  

         鎌田東二ほか「日本異界絵巻」河出書房新社

 

滝 行(たきぎょう)

 神霊に接する前提として、人は穢(けが)れを遠ざけ、慎み深い態度を維持するように努めるが、もっと積極的な行動を起こすことも必要で、そこで水による禊ぎがおこわわれる。水には心身の汚穢を浄化するはたらきがあると、古くから信じられてきた。

 霊山にさしかかる所には、「祓川」や「精進川」があり、水垢離(みずごり)がおこなわれた。浄土であり、地獄でもある山岳に入りこむには、やはり水に罪穢れをすすがなくてはならない。「三つ瀬川」といわれていたとろころもあり、そのため、登拝路の中途に第二、第三の垢離取り場があるケースもある。

 滝に打たれるのも心身浄化の一プロセスであるが、祈願のため、神仏と一体化するための直接的手段とされ、滝行は行としてははやくから独立していたようである。寒中の滝行は、言うまでもなく、たいへんな苦痛を伴うものである。

 木曽御嶽山の清滝・新滝・松尾滝・不易滝・百間滝では、滝に打たれた行者が神憑(かみがか)りとなり、御嶽信仰独特の形で託宣をおこなう。その他著名な滝行場の山は、高尾山(東京)、七面山、生駒山など。生駒山には寺院・道場が密集、古い滝行場のほか、人工滝も設けられ、大都市と結びついた一大霊能地帯となっている。

               青木保著「御岳巡礼」筑摩書房

 

天狗とは                               

 天狗は山の清浄のなかに居る怪異な神霊。しかし古代から近世にかけて、天狗は様々な性格をもって登場し、人々のイメージも変わってゆき、とらえ難い存在である。

 古代末から中世初め、文献史料に登場する天狗は、仏教に仇(あだ)をなそうとしたり、増上慢の僧が転落して化現する天狗である。「太平記」に出てくる天狗は、怨霊で、徐々に親密の度を増してきていた山伏と天狗は、この太平記の頃、ついに重なりあうかたちとなり、天狗を利用した山伏の活動がみられるようになる。

 近世、多くの修験霊山で天狗が祀られ、その異端の霊力がかえって尊ばれ、天狗独自の信仰も普及した。天狗の顔はだれでもすぐ頭に浮かぶが、現在一般的な鼻高天狗が確定するのはようやく室町中期で、鳥類形天狗は鼻高天狗より古い。

 以上とは別に、ひろく民俗の中に生きてきた天狗があり、「山中怪異現象」や「天狗による神隠し」の話あるいは少々滑稽な昔話を伝えるが、底流に里人が山人にたいして抱いていた観念があり、多くの伝承にその反映が認められる。

              宮本袈裟雄著「天狗と修験者」人文書院

              知切光蔵著「天狗の研究」大陸書房

                                                      

女人禁制

 女性は神霊と交信する能力にすぐれ、日本の先史上古においては、神を祭る中心的役割は女性の方に在ると考えられた。しかし律令国家の整備とともに男性中心の政治社会が進展し、平安時代の頃から女性を不浄・五障三従の身とみる風潮が卓越、以後女性忌避、女性の地位軽視は決定的となる。女性排除の空間が、信仰とかかわりを持ちつつ、大小いくつもの島のように出来上がった。寺院、山岳、祭の場、漁船、酒造などである。現代においても、男女間差別撤廃の立場と伝統擁護の立場がしばしば衝突する。

              宮田登著「神の民俗誌」岩波書店

              木津譲著「女人禁制」解放出版社

 

覗(のぞ) き

 修験霊山の絶壁のあるところでは、覗きの行がおこなわれていた。山上ケ岳の「西の覗き」はよく知られた行場で、ここでは今でも登拝団の新客(新参者)が絶壁の上端に吊り下げられ、深い谷を覗く行をさせられる。立山や丹沢でもこの行があったことを伝えるし、「覗き」の地名は多いから、これはもう少し一般的な行であったかもしれない。

 古い昔には、修験者は山で罪業の軽重を問われ、重罪のものは絶壁から谷に落ちたのだという。さらにこのようなことの背景には、人々を救済するために、人々の犯した罪を一身に背負って山には入り、終には絶壁から「捨身(しゃしん)」として罪を贖(あがな)うという。生命を賭する修験者の宗教目的完遂があったともいわれる。徳島県高知県境の石立山に「捨身ケ滝」がある。タキは四国で岸壁を意味する地形だが、捨身ケ滝は見るも恐ろしげな絶壁である。山は壮絶な人の生きざまを記憶しているのであろう。

 

不動の滝

 「不動」の語を冠した滝は非常に多い。日本一の大滝、立山の称名滝も「不動滝」の異名があった。多くの滝に不動様を祀ったのは修験者だと思うが、滝の不動は、修行する者を守り導いてきた。

 比叡山回峰行の創設者とされる相応が、比良山西面、葛川(かつらがわ)の三ノ滝で修行していたころ、不動尊が現れ、不動は相応の願いを聞き入れ、相応を兜率(とそつ)の内院に連れていったという。また、荒行で聞こえた文覚は、那智ノ滝の修行で人事不省となり、不動明王の命を受けた童子に助けられたという。

 これらの話は人口に膾炙(かいしゃ)したらしく、前者は「本朝法華験記」「宇治拾遺(しゅうい)物語」に、後者は「平家物語」「源平盛衰記」に収録されることになる。説話が滝と不動明王を強く結びつけていくことに一役かっていたものと思われる。

 しかしながら滝は、地理的にも宗教的にも、さらなる境地を隔てる階梯である。これをつつがなく乗りきるには、強固な加護を保証するような神仏が是非とも必要だった。蛇足だが、相応の兜率天行きは、渓谷遡行(そこう)して山上浄地に至ることの宗教的表現を捉えることができる。

              高瀬重雄著「古代山岳信仰の史的考察」名著出版

 

不動明王

 不動明王は忿怒(ふんど)形の荒々しい仏様で、大日如来の教令輪身(きょうりょうりんしん)だとされ、しばしば「大日大聖不動」ととなえられる。畏敬すべき山岳で修行する者にとってまことに相応しい守り本尊である。平安時代に密教験者(げんざ)たちにより崇められていたが、やがて修験道においても主要な礼拝対象となり、室町時代にいたって修験道の本尊の地位を確保するようになった。

 密教では大日如来を根本仏とし、即身成仏の教理は三密行業で我即大日の理を悟ることである。修験道では、峰入り修行を経ることにより「我即不動」を完成することだと説く。山伏の衣体(いたい)は不動明王の尊容をかたどっているといわれている。不動信仰が民間に普及したのは修験者の宗教活動に負うところが大きい。

        宮家準著「修験道と不動明王」(田中久夫編『不動信仰』 雄山閣出版)

        渡辺照宏著「不動明王」朝日新聞社

 

 

峰入(みねい)り

 修験者が霊山において集団化すると、一定の方式に則(のっと)った季節毎の峰入修行が行われるようになった。峰入りの時期は山によって多少のずれがあり、またその実施内容は時代によって消長がある。羽黒・大峯・日光で春夏秋冬の四季の峰入りがあり、英彦山・宝満・阿蘇で三季の峰入りがあったことが確認されている。その他の霊山でも定例の峰入りがあったものと思われる。

 峰入りにより、修験者は苦しみながら罪を滅ぼし、自己の仏性を開発し、ついに即身成仏をはたす(仏と同じ性質を持つ)ことになる。そこには擬死再生(ぎしさいせい)の思考が貫かれていた。峰入りの神秘体験は超自然・超人間的能力の修得でもあり、よって修験者は、宗教家として民衆をたすけることが出来るようになったわけである。また峰入りの度数を重ねることにより、修験者は先達位などを獲得した。

            宮家準著「修験道思想の研究」春秋社

            戸川安章著「修験道と民俗」岩崎美術社

            長野覚「英彦山修験道の歴史地理的研究」名著出版

 

 

薬師如来

 薬師如来は古代から山林修行者との結びつきが強く、畿内山岳寺院によく祀られ、貴賤をとわず幅広く信仰された。奈良時代末から平安時代前期にかけて、薬師にたいする信仰は大いに普及した。病気平癒、悪疫退散だけでなく、国と地域を鎮護する仏様と考えられ、遊行の宗教者により薬師の信仰が各地に広められていった。各地の山において荒魂的性格の山神と重なりあう形で山の本尊となっていった模様である。

 山形、福島、宮城県にすこぶる多いハヤマ(葉山、麓山、羽山などと書く)は薬師如来を本地仏とするが、山と薬師が結びついた典型である。地方においては、如来というよりも国土土着の神のように意識される、至って神に近い性質の仏様である。

            五来重編著、藤田定興・山田知子ほか著「薬師信仰」

            雄山閣出版

                                    

山伏の道具

 峰入りの際に用いる山伏の道具は、斑蓋(はんがい)、兜巾(ときん)(頭襟)鈴懸(すずかけ)、結袈裟(ゆいげさ)、法螺(ほら)、最多角(いらたか)念珠(ねんじゅ)、錫杖(しゃくじょう)、肩箱(かたばこ)、笈(おい)、金剛杖(こんごうじょう)、引敷(ひっしき)、脚絆(きゃはん)で、山伏十二道具という。ほかに螺緒(かいのお)、八目(やつめ)草鞋(わらじ)など。

 笈はリュックのはたらきをするようにみえるが、中には峰入りの本尊が安置されていて、いわば可動の厨子(ずし)である。金剛杖は単なる歩行補助具ではなく、神の依り代に端を発するマジカルな杖。山伏は、各々の道具に事寄せて修験道の教義を説く。

 たとえば兜巾は大日如来の五智の宝冠なり、というように。時代がさがり峰中が安全になってくると、装束は道具は礼装化してくる。今の登山用具とはずいぶん性格が異なるようだが、それでも螺緒(麻を縒(よ)った綱)は、いざというとき繋ぎあわせてザイルの代わりにする。つまり、登山用具は古今を問わず実用性が追求されるものだが、山伏道具は、登山技術面と山中の宗教的実践、その双方にたいして実用性を有しているわけである。

                  五来重著「修験道入門」角川書店

                  宮家準著「修験道辞典」東京堂出版

 

三つ子の魂

 三つ子の魂百までという諺がある。言うまでもなく「幼い時の性質は老年まで変わらない」ということである。

 この諺は、不思議なことに英語を始めとして、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、モンゴル語、ヒンズー語等々、手の届く範囲で調べても十三外国語に、表現は異なっても同じ内容を含んだものが存在していたということである。

 脳生理学の世界的権威者であった故時実利彦氏によれば、

 ・・・・・脳は脳を組み立てている脳細胞の働きによるものであって、その脳細胞は 一四〇億といわれている。その数は大人も子供も、利口者も愚かな者も誰でも同じで あり、重さは自分の身長に8.5を掛けた数、広さは二二四〇平方センチ、ほぼ新聞 1ページ大の広さである。

 この脳細胞は四歳から一〇歳頃までに完了し、それからは徐々に減っていく。四〇歳を過ぎる頃には、日に二万から三万ずつの脳細胞が壊れていく。ただ脳細胞はありあまるほどあり、いくら使っても鍛えても壊れない仕組みになっている、というのである。

 「三つ子の魂百まで」という諺には、このような生物学的根拠があったのである。

 

神とは

三峯神社(初詣で)

神とは何か    

 神と人の間には根本的な違いはない。強いて区別を考えるなら、神は姿が見えないことと、人間よりも大きな力をもっていることである。

 この場合、絶対的な力ではない。相対的な力である。わが国には絶対などという概念はありはしなかったのである。相対的な神と人との差を具体的に考えるならば、大学の教授と学生ぐらいにな差だと思えばいい。

一方

 その道の権威者 本居宣長(1730~1801)によれば「迦微(かみ)と申す名義(なのこころ)は未思(だひ)得ず」と記しているように、宣長ほどの人でさえ、神の解釈はよくわからないと述べている。ついで、「旧(ふる)く説(とけ)ることども皆あたらず」といっている。

 当時においても、神についての解釈は相当数あり、宣長はそれらに当たって考えてみたが、みんな妥当とは思われないという。当時どのような説があったかを調べてみるのも興味あることではあるが、二,三の説を例示するにとどめたい。

 たとえば僧契沖(けいちゅう)(1640~1701)は、カミは鏡の中略であるとし、谷川士清(ことすが)(1709~1776)は「明見(あかみ)」のアが省かれてカミになったという。新井白石(1657~1725)は「神とは人なり」と言い、伊勢貞丈(1715~1784)は「神をカミというは上なり。

 貴ぶべきものなる故、上におわします名にて、カミというなり」と断じている。こららは みな宣長の同時代もしくはやや以前の学者たちである。しかし、宣長はこれらの説はみな当たってないという。  

 宣長の考え方は、具体的事実に基づいて考えるのであって、語源的な、あるいは、観念的、抽象的な神の解釈を採りあげようとするものではなかった。そこに特色があるように思われる。彼はまず、「凡て迦微(かみ)とは」と言い、

 1 古(いにしえ)の御典(みふみ)等に見えたる天地の諸の神たち。

 2 それを祀っている社にいます霊。                     
 3 人。

 4 鳥獣(とりけもの)木草のたぐい。

 5 海山など。

 6 そのほか何でも。

 という具体的な事例をあげて、その中で、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこき)き物を神というのであると言っている。宣長の神の理解は結局この一行に尽きると言ってよい。

 

 宣長の神の理解をもう少し現代的立場で考えてみよう。宣長のいう「尋常(よのつね)ならず」とはどういうことであろう。「普通ではない」ということなのであろうが、そもそも「普通」とはどういうことであろう。『神道辞典』の執筆者安津素彦氏は「山はそのままカミでではない。

 自然の山は単なる山である。噴煙吐く紅焔の山、白扇倒さまにした優美雅麗な容姿の山、仰ぎみる樹木、うつうつたる高峻な嶽等は、ありきたりの平凡な山とは異なる。そこで接する人にカシコキ(畏敬・讃美・恐怖・感謝等の)感情を惹き起こす。かくて神山は生まれ信仰される、云々」と説く。

 宣長のいう神の理解の中で、もう一つ大切なことは「可畏き物」という感情である。宣長はあらゆるものに神を認めようとする日本人の心情を「可畏き物」という感情によって把握しようとしたのである。「可畏(かしこ)し」ということばにはいろいろな意味がある。恐ろしい、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々で、それらを総合したような感情において神を考えるということであろう。


仏教とは                                

 仏教とは、仏陀の説いた教えということである。その教えは、仏陀になるための教えであるから、仏教とは、仏陀になるための教えであるともいえる。すなわち、生きとし生けるものが真理を悟って、目覚めたるもの(仏陀)になるための教えであるから、ここに神の介在する余地はない。真理に目覚める教えであるからである。

 それでは真理すなわち法とは何か、仏教の創唱者である釈尊(前560~480)は、釈迦族の太子として生まれた。若くして人生の問題に深く悩み、二十九歳のとき、世俗生活と決別し、苦行の生活に入った。出家と苦行とがインドにおける宗教者のなすべき道であったからである。

 しかし、六年間にわたった苦行にもかかわらず、満足した答えは得られなかった。そこで彼は苦行を中止し、ナイランジャナー河で体を浄め、村の娘からもらった乳がゆを食べて体力を回復し、ブッダガヤーのアシュヴァッタ樹(後の菩提樹)の下で坐禅をし、ついに悟りに到達した。三十五歳の時であった。この悟りの内容がダルマ、すなわち法である。

 ダルマの語は古くヴェーダ時代(前1300)から使われていた。ドフリ「支え 持つ」という動詞から作られた名詞であって、「支持者」を意味し、進んで規範・法 則・秩序・慣習の意味に転化した。要するに、事物を成り立たせ、支え持つ根拠としての原理である。すなわち事物の成立根拠といってもよい。

 それならば、その成立根拠を釈尊はどのように理解したというのであろうか。それは一言で言えば”縁起”の理である。


縁起とは                              

 縁起とは、文字どおり「縁(よ)って起ること」「縁(よ)って起っている状態」ということである。森羅万象、宇宙に存在するあらゆるものは、すべて相依相関関係にあるということ、それだけのことである。これが釈尊の悟りの内容であり、仏教の出発点である。たったこれだけのことが、なぜあれだけ壮大な仏教に展開したのであろうか。最初の展開の筋道だけをみてみよう。

 すべてのものは相関関係にある。人は太陽、大地、衣食住、人間関係と、これらの関係無くしては一瞬たりとも生けていけない。これは厳然たる事実である。こらが生きとし生けるものすべての成立根拠である。他が変われば自分も変わる。時間的に考えてみれば生きとし生けるものは、一瞬も休むことなく、それは変化の連続である。

 有無ではなく生滅であり、存在ではなく転化なのである。これを諸行無常の理という。

 諸行とはすべて作られたるものという意味である。

 無常とは、常なるものはないということであるが、その「常」とは「常一主宰、すなわち、変化しないで、単一で、他と関係なく、物事の中心となって宰(つかさど)る」ということで、そのようなことは無いというのが無常の意味である。


四苦八苦(しくはっく)                     

 人は変わらないことを願う。それだからこそ「お変わりありませんか」と挨拶する。「お陰さまで」と返事はするが、何が「お陰さま」であろう、われわれは一瞬の休みもなく変化し続けているのである。

 事実は、変わらないことを願っても変わっていく、生きること、老いること、病むこと、死することの四つ「生老病死」が四苦である。

 この四苦に次の四苦を加えて八苦。これが四苦八苦の語源である。

1.愛別離苦(あいべつりく)… 愛する者と別れることからくる苦しみ 別れたくない

2.怨憎会苦(おんぞうえく)… 怨み、憎む者に会うことからくる苦しみ 合いたくない

3.求不得苦(ぐふとっく)… 求めるものが得られないことからくる苦しみ 欲しいものが得られない

4.五陰盛苦(ごおんじょうく)… われわれの肉体や精神がいつかは滅びていくことからくる苦しみ 肉体や精神が滅びる

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)

 祇園精舎は、スダッタという、困った人をよく助けることで有名な人(中国語に訳して「給孤独(ぎっこどく)長者」)と、精舎の敷地の所有者であったジュータ太子との合作で建立された。正式には祇多林給孤独園(ぎだりんぎっこどくおん)という。

 釈尊はここと王舎城の竹林舎とを中心に、ガンジス河の流域約六百キロほどを布教活動の幹線とした。こうして布教すること四十五年間、釈尊は八十歳で入滅した。「平家物語」の冒頭の一節は、このことを伝えている。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)を顕(あらわ)す。驕(おご)れるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛(たけ)き人も遂には滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。

 クシナーラのカクッター河に水浴した釈尊は、二本の沙羅の木の元に身を横たえ、私の亡くなったあとは、私の教えた法と戒律とを師とせよ。

 法と自分自身とをよりどころとし、灯明とし、他のものに頼るなかれ。

 比丘(びく)たちよ、いざ汝たちに別れを告げる。もろもろの現象は滅び行く、怠らず勤めよ。


 と最期の教えを述べ、瞑想に入り、そのまま入滅した。『平家物語』の名文が、われわれに寂寥感(じゃくりょうかん)を与えるために、仏教とは厭世的(えんせいてき)な教えであるかのように思われてきた。しかし、釈尊の教えはそうではなかったのである。「もろもろの現象は滅び行く」すべてのものは一瞬もとどまることなく変化していく。この一瞬は去って再び帰ってくることはない。

 生きるとはこの一瞬を生きることである。とすれば、いまのこの一瞬を「怠らず勤めよ」、それ以外に生きるという事実はないのであるから、と諭されたのである。仏の教えは大変な精進努力主義なのである。

 

自然について

 自然という言葉は、親鸞(しんらん)の「自然法爾(じねんほうに)」の思想である。

 自然法爾の思想は、親鸞が生涯かけて追い求め、最後に到達した領解(りょうげ)であるといわれているし、何しろ八十六歳の時の記録であることに驚嘆させられるし、しかも、その柔軟な思考力には感服する以外に何もない。何ものにも執らわれない枯れきった心境において、親鸞が捉えたものが何であったか、現代語に訳すると、

 

 「自然」ということは、「自」はおのずからということであって、人間の側の知恵による計らいではない。「然」とは、そのようにさせるという言葉である。そのようにさせるというのは、(これまた)人間の側の知恵の計らいではない。それは如来の側のお誓いで、そのようにさせるというのであるから、これを「法爾」というのである。「法爾」というのは、この如来のお誓いであるから(それは「法」そのものであり、その法によって)そのようにさせられる(爾)から「法爾」というのである。

 自然というのは、もともと”そのようにさせる”という言葉である。

 それでは「自然」とは何か、親鸞は実にいろいろと表現をかえて「自然」を説明している。結局は「自」と言い、「然」と言っても、それは「おのずから、あるがまま」ということであろう。

       梶村 昇 著「日本人の信仰」中央公論社 1988年8月25日   

神棚と仏壇の共存

 常識での「神」は神社に祀られ、「仏」は寺に安置されることになっている。ところが一般の家の中では神棚と仏壇が同じ家の中、同じ空間の中にかざられ、そして祀られている。

 だから神社や寺は「神」や「仏」の専門店であり、それに対して一般の家は「神」と「仏」のスーパーであるといえないこともない。

 それならばいったい、「神」や「仏」は、もともと専門店式に祀られていたのか、あるいはスーパーマーケット式に祀られていたのか、問題となるところである。

 

「神」はどこにいるのか                     

 「神」と一口にいってもなかなかわかりにくい。その正体を鮮明に浮き彫りにするのが難しいのである。大きな神社にいくと、たいていは拝殿がある。「神」を拝むところだ。中をうかがうと鏡が見える。白木の三方(さんぼう)がおかれ御神酒や榊が立てられている。それでは正面におかれている「鏡」が「神」かというとそうではない。「鏡」は「神」がより憑(つ)いたり、「神」を映し出すものではあっても「神」そのものではない。

 そういう「鏡」のようなものを「神体(しんたい)」という。「神体」というのは神や心霊を象徴するもののことだ。「神体」としては「鏡」のほかに剣や玉や鉾(ほこ)などが用いられてきた。天皇の即位のときに用いられる三種の神器も、この鏡と剣と玉からなりたっていた。

 こうして「鏡」のような神体は、「神」そのものではなく、「神」をあらわす神聖な象徴物にほかならないが、それならば「神」そのものはどこにいるのだろうか。「神」の正体はどこに鎮(しず)まっているのか。

 それは、一応は、神社の背後にひろがる神域、すなわちその神域をかたちづくる森や山にひそんでいると信じられてきた。ひそんでいる、といったのは、「神」はなかなかその正体を現さないからだ。目に見えるような形では姿を現さないからである。

 大きな神社はともかくとして、田舎の村や辻に建っている小さな神社や祠をお詣りしてみよう。鎮守の森でもいいし、稲荷や八幡を祀った社でもいい。

 すると、たいていは正面の扉がかたくしまっている。格子(こうし)ごしにのぞいても、中は真っ暗で、小型の鏡や三方などが簡単におかれているだけだ。概していえば、神社は大型のものでも小型のものでも、外部のものに対して閉鎖的であるようにみえる。決して開放的ではない。それはなぜだろう。私はそれは、正体をかくしたがる「神」の性格によるためではないかと思う。

 「神」はどちらかというと、大衆の面前に裸の姿を現さないものとされ、社殿の背後に鎮座し、神域の森の奥深く身をかくすものとして信仰されてきた。だから一般家庭の神棚でも、その中央に祀られているのは、天照大神とか稲荷大明神とかの文字をかいたお札(ふだ)である。神や心霊そのものはそのお札の背後に存在するものと考えられているようである

人間をかたどった「仏」                           

 「神」に対して「寺」に祀られている「仏」は、その趣をまったく異にしているといわなければならない。寺の内陣に安置されている仏は、一般に釈迦如来とか阿弥陀如来、大日如来や薬師如来などである。あるいは観音菩薩であったり、不動明王であったり、地蔵菩薩であったりする。その他さまざまなや脇士(きょうじ)や眷属(けんぞく)(配下の諸神諸菩薩)がならべられている。頭に冠をつけ、両手に種々の持物をもち、立ったり座ったりしている。

 表情が慈悲の光にかがやく柔和(じゅうわ)なのや、両眼をつりあげ牙をむきだし怒ったのや、さまざまである。頭が三面(多面)手が六本というのもある。

 以上からもわかるように「仏」の表情や肉体は、人間的な形や姿をかたどったものであり、きわめて具象的である。人間的な喜怒哀楽の感情がその身体の表情にくっきり刻み込まれている。「仏」は「神」にくらべてなんとも開放的である。その上、仏像のほとんどはその肉体をあらわにしている。衣類をまとっていないのではないが、裸身をそのままというのもある。それはときに、肉感的であるとさえいえる。

 仏たちが裸に近い姿形をしているのは、それがインドという熱帯の文化圏からつたえられたものだからであろう。「仏」の誕生地は南国であり、その文化も南国的な特徴を多く持っているからである。

 これに対して、日本の神社に祀られている「神」はどちらかというと北国的である。しかもその神々の生活圏は森や山の針葉樹林に囲まれ、その奥深く鎮座している場合が多い。仏の姿が熱帯的であるとするならば、「神」のイメージは温・寒帯的あるといえないこともない。さきにもふれた、「神」の閉鎖性という性格も、そういう風土的な条件にある程度規定されているのかも知れない。

 

稲荷神と八幡神

 日本の「神」でもっとも古く、人気のあるのは「田の神」である。わが国で、稲作農耕がはじまって以来の「神」といっていい。のちになって、この田の神が昇格して稲荷神になった。田の神にはレッキとした社などはないが、稲荷神となると、平安時代に国家から正一位とか正二位とかの位をさずけられて、ちゃんとした社殿に祀られるようになった。いわゆる、わが国にさまざまな分布をみせる農耕神の本家であるといっていいだろう。

 そして、その本家の所在地が、京都の伏見稲荷にあることは誰でも知っている。 稲荷神とならんで由緒の古いのは、八幡神である。八幡神は古き大分県の宇佐の地に降臨したと伝えられ、そこに宇佐八幡宮がつくられた。この宇佐の八幡神は、のち平安時代になって京都の石清水(いわしみず)に勧請(かんじょう)された。石清水八幡宮が誕生したのである。勧請というのは、神霊を移し迎えるということである。

 神霊は必要に応じていくらでも分割して、移動することができる。神は、それ自身が各地を動いて廻る遊幸神でもあるが、同時に神霊の一部を割いて他の地に移動する勧請神でもあったことに注意しよう。そこに、「神」の変幻自在性をしめす特徴の一つがみられるのである。

 京都に石清水に勧請された八幡神は、鎌倉時代にいたって、こんどは源頼朝によって鎌倉の鶴ヶ岡に勧請された。戦勝を祈願するための武神として招かれたのである。武運の長久を祈る代表的な軍神がここに誕生をみることになった。

 

祟りの神の代表、北野天神

 農耕神(稲荷神)や武神(八幡神)とともに忘れてならないのは、祟り神として位置づけられた神々である。わが国の歴史には、さまざまな祟り神が登場するが、その代表はなんといっても北野天神である。

 太宰府に流され、怨みをいだいて死んだ菅原道真は、死後になってから天神として祀られた。彼を窮地におとし入れ死に追いやった天皇や権力者たちが、つぎつぎに病気になったり死んだりして、それが道真の怨霊によるせいだ、との噂がひろまったからである。しかしながら、神として祀られ、その怨念が鎮められてからのちは、周知のように北野天神は学問の神となった。


庶民の巡礼・行脚

 庶民の巡礼・行脚などは、カミやホトケとの出会いや邂逅(かいこう)を果たすための行脚ではない。むしろカミやホトケによって見守られ、カミやホトケとともに行脚する旅である。旅のルートは、すでに定まっている。旅の出発点と到達点は、その全体のルートが見わたせる範囲の中に位置づけられ、ゆるやかな円弧を描いている。

 巡礼者たちは観音や地蔵や薬師如来によって見守られ、その道中は、目に見えない多くのカミや精霊たちによって加護されつつ、予定された中継点をつぎつぎとたどっていく。そして最終的に彼らを迎え入れてくれる「奥の院」にも、慈愛と智恵にみたされた守り本尊が鎮座し、手招きしている。四国霊場巡りも同様の過程をへて整備されていったのである。

 四国霊場は、聖地のルートが四国の海辺をほぼ一巡するように設定されているところに特色がある。そしてそのような四国の霊場巡りを、西国のそれと区別して、とくに「遍路」といい、巡礼者を「お遍路さん」という。

 これに対し、西国や坂東の観音霊場巡りは、「巡礼」と呼ばれている。その点で「遍路」は山の遊行としての「回峯」や主として野や里に行く「巡礼」とは対比して考えることができるであろう。四国の遍路は、海と陸地との接点に受難コースの設けたところに独自の意味がある。それはおそらく、かつて弘法大師空海によって行われた難行苦行にちなんでつくられたものである。四国霊場にまつわる縁起や霊験譚のほとんどが弘法大師と深く結びついているのもそのためだ。

 八十八ヶ所の札所を巡りゆく遍路のかぶる菅笠(すげがさ)には、経文(きょうもん)とならんで「同行二人」の字が書かれている。これは当のお遍路さんと、彼らを守護する弘法大師との二人が同じ道を往く、という意味をこめたものである。そしてそのことの具体的なあかしが、お遍路のもつ杖である。

 杖はすなわち、弘法大師が霊験によって聖水を打ち出す奇蹟の杖であり、しばしば弘法大師その人を象徴する。彼らはこうして弘法大師に見守られ、その杖の導きによって人生の難路と救いへの迷路をくぐり抜けていくのである。「同行二人」は、救済力の象徴とともに歩む遍路行をあらわしている。空海=ホトケと人間との二人だけの孤独な旅を意味している。

 

人生の発見

 「巡礼」という宗教行為は、巡礼し巡拝する人間と神々や仏・菩薩たちとの精神的な出会いを象徴する行為であった。いうまでもなく、聖地や霊山への道行きの旅の中で、巡礼者たちは神や仏のイメージを思い浮かべつつその加護を祈っている。彼らは現世利益という約束手形に期待の胸をふくらませながら、おごそこな社殿や荘厳な伽藍(がらん)に憧憬のまなざしを向けているのである。

 受難の旅に似た長い巡礼の旅路を終えたとき、彼らは慈愛の光にかがやく仏・菩薩のふところに包みこまれる、恍惚にひたる。そして神域の森厳なたたずまいに一切の汚れが洗い流され、心身の蘇りを確信するのである。思うに、「巡礼」という行為を通した神や仏との出会いは、もう一つの人生の発見へと彼らを導くのではないだろうか。

 

カミとホトケのイメージ                       

 神や仏を外観的にとらえるならば、基本的に、カミはシンプル・ライフの側にくみし、ホトケはバタ臭いカクテル文化にその本来の出自をもっているのである。

 だから一口にいって、カミは「自然」に近く、ホトケは「文化」に隣接しているといえないこともない。

   

「大地の神」地蔵菩薩

 地蔵というのは、もと大地に埋蔵するという意味であるから、大地を神格化した存在であった。地上に密着した菩薩であるといってもいいだろう。

 地蔵は地下界(冥界)に苦しむ衆生を西方(浄土)の阿弥陀仏へと媒介し救済する菩薩であった。地蔵はこうして、この世と天上、およびこの世と地獄の境界領域に立って救済活動をおこなう「大地の神」であったということができる。のちになって、地蔵が道祖神やサへ(境・賽)の神の信仰と習合して、村のはずれやサへの河原に立てられるようになったのも、そのような地蔵の本来の性格に由来しているといわなければならない。

 その地蔵が、とくに中世以降は子供の救済神とみなされるようになった。地蔵ははじめは右手に錫杖、左手に宝珠(ほうしゅ)をもつ僧形をとった。だがやがて、子安地蔵、子育て地蔵、子守地蔵などの名を冠せられ、赤いよだれかけなどをつるす子供の姿へと変貌していった。そしてそのイメージは、無垢の微笑と透明な単純さを映し出す鏡として庶民に愛好されるようになった。

 

 

 宗教で旅といえば、われわれは死出の旅という言葉を連想する。西行も芭蕉も、良寛や三頭火も、旅に出て旅に死んだ。これらの人のすべてが、死後の再生を信じていたがどうかはわからない。しかし、彼らはいずれも、生と死の中間領域に「旅」という世界があるべきだ、と信ずる詩人たちであった。

 旅とは、自分の根拠地を離れて放浪し、漂泊することにほかならない。それは日常的な自己を否定し、新しい価値を発見するための行為でもあるだろう。旅という言葉にロマンの響きがただようのも、おそらくはそのためである。しかし、このようなロマンの旅を死後の世界にまで延長して考えることは、われわれの想像力を刺激してはくれるものの、実際にはなかなかできないものである。

 ロマンの旅を目標にするか、それとも死出の旅に関心を寄せるかは、人さまざまというほかない。しかし、生と死の中間領域としての旅の世界には、まだまだ豊かな鉱脈が隠されているような気がするのである。

        山折 哲雄著「神と仏」講談社現代新書 1983年7月20日

                                                    

 

仏教の種類

 わが国の仏教研究には3種類の流れがある。

1中国、日本流

2イギリス流

3チベット流

 

1中国、日本流

 中国、日本流は、日本仏教の伝統派ともいうべきものである。インドで盛んになった大乗仏教が中国に伝えられて主としてサンスクリットの経典が漢訳された。この漢訳を使って研究するものである。中国人は経典を漢訳すると原典を捨ててしまって全く読まなくなったた為に、原典不明のものが少なくない。日本の僧侶は唐からこの漢訳経典を輸入し、和訳せずにそのまま、返点送仮名をつけず音読した。たとえば、如是我聞は返点送仮名をつけるとカクノゴトクワレキクと読むのだが、音読みにするとニョゼガモンである。また、普通の漢文は漢音(北支の音)で発音するが、仏教は南支那で盛んだったから呉音で発する。

 

2イギリス流

 イギリスがインドを領有した為に、イギリス本土の大学でインド哲学の研究が盛んになった。オクスフォード大学教授のマックスミューラー(1823~1900)はインドやセイロンで蒐集されたパーリ語の小乗系の経典を、まずローマ字に音写し、これを研究した。わが国では小乗は大乗に比べて質が落ちると称して相手にされなかったのだが、ヨーロッパの学者は小乗の方が釈迦の時代の古い形の仏教を、忠実に伝えていると主張した。わが国では高楠順次郎、南条文雄らがイギリス流の仏教研究を身につけた。東京大学のインド哲学科は高楠順次郎の流れをひくもので、イギリス流が主となっている。

 

3チベット流

 チベット流はインドから、中国よりもチベットの方が距離が近い為に仏教の古い形を残していると考えられるので、明治末期に河口彗海が、経典を求める目的で、単身この地に乗り込んだ。その後わが国とは直接交渉は行われていないが、第三国(主としてイギリス)を通してチベットの文献が手に入れやすくなったので、現在、僅かながらこの方面を通しての仏教研究が行われはじめ、大学で講座を持っているところもいくつかあるが、まだまだ未開拓なので、聴講者もほんの僅かというのが実情である。


六道のこと

六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上のことで、 仏教では、人は死んだ後、この何れかに行くといわれており、これを輪廻転生という。

 輪廻とは、(広辞林)仏教用語でインド古代思想や仏教の根本思想の一つで、車輪が回転してとどまらないように、人間が前世・現世・来世の三世(さんぜ)にわたって死と再生を繰り返すこと。その際因果の理法が支配し、善因善果・悪因悪果の応報をうける。

 

地獄  地獄無間(むけん)代受苦

 地獄、無間なれども、代わりて苦を受け、 地獄というところは、地下の牢獄という意味で、すこしの楽しみもなく、 ただ絶えず苦しめられているということから、無間地獄ともいっている。この無間という意味も『地蔵本願経』には、時としての無間、形としての無間、苦としての無間、果としての無間、命としての無間など、五無間地獄のことをていねいに説いている。私たちも、結局のところは、地獄行きの衆生である。この地獄の世界は、この娑婆世界で、極悪非道をはたらいた人の行くべき場処とされている。

 すなわち、五無間業といって、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、和合僧を破り、仏身に傷を負わせた、というのを五逆罪をいい、また懺悔心なき悪の行為は、すべて無間地獄に堕ちなければならないと教えられている。とにかく、この世の人間で、どうにも、こうにも、お話にならない人を、無慚無愧(むざんむぎ)に人といい、恥知らずの行為をなした人は、決定(けつじょう)して地獄行きのものと思えばよい。

 かく考えると、私たちの日常の行為は、実に身勝手な、わがままなことばかりやっていて、ほんとうに「オレ、われ」を中心にしての行為ばかりであるから、結局は地獄行きということになる。それをお地蔵さまが身代わりになってまで、その極苦の果報をお引き受け下さるという、何ともったいない話である。

 

       いふならく奈落(ならく)に沈むくるしみを

           はてしも知らず代り受くてふ                 

ここの奈落とは、奈落迦(ならか)の略で、インドの言葉である。地獄とか、冥府(めいふ)とかいって苦しみのどん底をさしている。「奈落の底に」の語源

 

餓鬼 餓鬼飢渇飽満(がききかつほうまん) 餓鬼の飢渇をして、皆、飽満せしむ。

これは第二に餓鬼道の能化の姿である。

 餓鬼とは、飢えたる鬼といって、飢渇に苦しむ世界のものをいう。つねに鬼という言葉は、死者の霊を呼んだものであるが、インドでは、少しも子孫のものがなく、後世から追善供養されない幽魂という意味にもとられている。それがため、死して後、お供えの飲食がありながら、飢渇に苦しむという、あわれな身の上が、この餓鬼道に墜ちた姿だといっている。

 

畜生 畜生披毛速解脱 畜生被毛を、速やかに解脱せしめ。

 これは第三に畜生道の能化の姿である。

 畜生とは、人間に畜養せられている生物で、特に披毛の動物という意味であるが、これを一般的にいうと、あらゆる禽獣虫魚(きんじゅうちゅうぎょ)を指していった言葉である。『正法念処経』には、「畜生には総じて三十四億種あり」といわれ、とにかく、空を飛ぶもの地上を行くもの、地中に棲むもの、水中にいるもの、目に見えない細菌のようなものまで、数えていけば、無数ということになるであろう。

 

修羅 修羅調伏我慢幢 修羅の、我慢の幢(はた)を調伏す。

 これは第四に修羅道の能化の姿である。

 修羅とは、阿修羅の略であり、非天とか、不端正とか訳している。それは、その形が天のように似ているけれども、不端正であり、そのころには、つねに闘争を事としているから、悪事ばかりをなし、偽りの行為のみを積み重ねているから、我見、我慢、我愛の心が強く、他に迷惑をかけることを好むというので、今世において、瞋(しん)、慢(まん)、疑(ぎ)の人が、来世はこの修羅道に墜ちていくことを説いている。

 

人間 人間済度生死海 人間を、生死の海に済度し、これは第五の人間界の能化の姿である。

 前世において五戒を受け、それをよく守った人が、この世に生を受けたのであるから、果報としては、天上界に次ぐ善果といわねばならない。しかし、この人間界には、貴賤、貧富、賢愚、好醜などの差別が甚だしいので、すべてが善果というわけにはいかない。殊に老少不足の世の中といい、死という悪魔が、いつ到来するか、わからないのである。「あしたに紅顔ありといえども、ゆうべには白骨となる」という、あわれなありさまで、これを生死の大海ともいい、また「生死事大、無常迅速、光陰惜しむべし、時、人を待たず」といい、少しも油断のならないのが、この人間世界の姿である。

 

天上 天上遠離五衰難 天上に、五衰の難を遠離す。

 これは第六に天上界の能化の姿である。

 天上とは、光明の世界であり、清浄無垢のところといわれ、前世において、十善戒を受け、それをよく守ったものが、この世界に生を受けたのであるから、果報としては、最勝、最善、最楽のところといわれている。しかし、ここにも五衰の難があると、『阿含経』をはじめ、多くのお経にも説かれている。それは天人の命終のときにあらわれる五種の衰相であり、これには、いろいろの説がある。

 一説には、頭上の華冠(かかん)がおのずから萎(しぼ)み、両腋より怱然として汗を流し、身体より異様な臭気を発し、衣装(いしょう)が垢で穢(けが)れ、その座に居ることを欲しないというのである。

 また一説には、天上でありながら、十善の戒法を守らないがために、五衰の難を受けなければならないといい、

      第一には、財を求むるも、所願は遂げられず。

      第二には、たとい所得ありというも、またそれを失わねばならない。

      第三には、他の天人より尊敬を受けることができない。

      第四には、醜名悪声が天下に流聞する。

      第五には、命終して、まさに地獄に堕ちなければならないというの

           である。いまこのお地蔵さまを信じ、一心にそのおん名

           を唱え、合掌礼拝すると、すぐ五衰の難を遠離すること

           ができるのである。

              伊藤 古鑑 著「お地蔵さま」春秋社 1972年6月15日


御眷属(ごけんぞく)

埼玉県三峯神社のホームページによれば、三峯神社は日本武尊がこの国の平和と人々の幸せを祈り、国生みの神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)をお祀りしたのが始まり。

御眷属とは、お使い(神様の霊力を受け、神様と同じ働きをするとして仰がれる動物)のオオカミをいう。日本武尊の道案内をされ、その勇猛、忠実さから、当社の使い神に定められたと伝えられる。

三峯神社では、古くからこの御眷属様を御神札として一年間拝借し、地域の、或いは一家のご守護を祈る行事が行われている。

三峯神社にて

宗教用語アラカルト

              瀬戸内寂聴「愛と祈りを」小学館1989年5月20日

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1布施とは、梵語(古代インド語)のダーナの音訳で、プレゼントという意味である。  

  ダーナの訳は旦那で、正しくは壇那と書く。檀家とも同じ意味で、檀家はお寺に物を送ったり、お金をプレゼントしたりするので、物をくれる人を旦那と呼ぶようになって使用人が雇い主を旦那様と呼び、おしまいには、商人が客を、芸者や二号さんがパトロンを旦那様とさえ呼ぶようになった。ダーナノダは与えるということである。

 

2幸福とは、自由を束縛されないことで、愛する自由、結婚したい自由、子 供を生みたい自由、生まない自由、もっと学びたい自由、妊娠休暇のとれる自由、戦争を拒否する自由、徴兵を反対する自由、デモをする自由、言論の自由、 服装の自由、数えあげればきりがないが、そういう自由をはばまれない生活が出来ることこそ、幸福であろう。

 

3出家するというのは、生きながら死ぬということ。

 

4お坊さんになるということは、人の為に尽くすということ。自分のことを忘れて、人様の幸せのために、人様の都合のいいように、一生懸命尽くすということ。これが2500年前にインドで拓かれたお釈迦様の教えの根本である。だからお坊さんがお金儲けをしてはいけない。お賽銭は全部お寺の復興のために使う。

 

5南無阿弥陀仏とは、身も心もすべてを仏様に捧げます。という意味。

 

6一切経とは、仏教の経典の総称を一切経という。