http://www.kyoto-bhutan.org/pdf/Himalayan/020/Himalayan-20-054.pdf#search='s%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E4%BF%AE%E8%A1%8C' 【日本人にとって山とは何か】―自然と人間、神と仏― 鈴木正崇 慶應義塾大学名誉教授
より
山岳信仰を中心として日本人にとって山とは何だったのかを歴史的な観点から考察した。最初に仏教と山岳信仰の出会いの記憶を伝える開山伝承を検討し、神と仏が山岳を結節点にして変容してきた諸相を考えた。神仏習合は、奈良時代に始まったが、平安時代中期の本地垂迹の思想の浸透で日本の山の神は権現と呼ばれ、700 年以上の神仏混淆の時代が続いた。しかし、明治維新の神仏分離で山岳信仰は根本的に覆った。2018 年は明治維新 150 年で同時に神仏分離 150 年である。山岳信仰は、山中他界観を根源に持ち、農耕民や狩猟民に支えられ都市でも展開した。日本は世界でも稀な長い山岳登拝の歴史持つ。山の多義的な機能と意味を知ることは日本人の精神文化の見直しに繋がる。近代に発生したアルピニズムは近代化の中で 100 年ほどの歴史しかない。遥拝から登拝へ、そし登山と観光の対象になった山は、世界遺産の指定や山の日の制定でさらに変化しようとしている。劇的な変動の時代にあたって、山の歴史と意味を改めて問い直す時が訪れている。
1.山岳信仰への視角
日本列島で生活する人々の文化を育んできたのは変化に富む山であり、思想や哲学、祭りや芸能、演劇や音楽、美術や工芸などの多彩な展開に大きな役割を果たしてきた。その中核にあったのが山を崇拝対象とする山岳信仰で、山に対して畏敬の念を抱き、神聖視して崇拝し儀礼を執行する信仰形態をいう。山を祀り、登拝して祈願し、祭祀芸能を奉納した。人々は、神霊が降臨する山、神霊が鎮まる山、仏菩薩の在す山、神霊の顕現としての山を祈願の対象とし、霊山や聖地の山との共感を通じて、日々の生活を見つめ直し、新たな生き方を発見した。山は蘇りの場として機能してきた。
日本の国土の四分の三は山や丘陵地であるという。石川啄木が「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と故郷の岩手山を詠んだように、山を心の中の原風景として持ち続ける人も多い。日本の山は里からほどよい距離にあったことで多様な山の信仰を育み、人々の日々の暮らしの中に山は溶け込んでいた。
日本の山はそれぞれに個性豊かで強い印象を残す。しかし、山は時には土砂崩れや大洪水を引き起こし、噴火するなど災いを齎す。山は祈りと畏れの対象であった。
山岳信仰は近代に大きく変質した。明治新政府の神仏分離政策で神仏混淆の山岳信仰は根底から覆ったのである。2018 年は明治維新 150 年で同時に神仏分離 150 年でもあるが、多くの人にはその認識は薄い。日本人の精神文化の根底を支えてきた山岳信仰を通して、日本人にとって山とは何かを考え、近代の在り方を問い直してみたい。
2.開山伝承
日本の山の信仰の特徴は仏教との融合である。
仏教には寂静の地の山を修行の地とする考え方があり、日本でも僧侶が山で修行することが多く、次第に山に寺を建立するようになった。一方、日本の各地には開山伝承があり文字化されて開山縁起として伝わる。開山とは僧や行者が前人未踏の山に登拝し祭祀や祈禱で霊地として新たな意味を与えることで、その後は聖地や修行の場に発展した。開山伝承は同時代の文献は少ないが、山岳修行者に関しては、『続日本紀』文武天皇 3 年(699)5 月 24 日条に、役えだちのきみおづぬ君小角が葛木山の呪術者で鬼神を使役し水を汲ませ薪を取らせ、命令に従わないので呪縛したと伝え、弟子の韓からくににのむらじひろたり国連広足が師の呪力を妬み、人を惑わすと朝廷に讒言したので、伊豆に配流されたと記す 1)。日本の山の多くは役行者(役小角)の開山を説く。これは鎌倉時代中期以降に山岳修行を体系化した修験道が成立し、開祖に祀り上げたことに基づく。しかし、開山伝承は山ごとに個性的で開山者も多様である。歴史学者は開山伝承は史実ではないとしているが、敢えて取り上げて検討してみよう。縁起によれば、彦山は忍辱による宣化 3 年(538)の開山、羽黒山では能除太子による推古元年(593)の開山を説く。この年代は、仏教公伝(538 年 552 年)や 2)、仏教伝来時の宣化天皇・欽明天皇の御代(539 ~ 571 ?)を意識して設定したと見られ、役行者よりも古い開山の主張でもある。役行者は、実在か否かはさておき、大宝元年(701)が没年とされ、開山を説くとすればそれ以前となる。多くの山では、開山の年代は仏教伝来以後、約 150 年を経過した平城京遷都(710)の少し前から平安京への遷都(794)までの間の設定が目立つ。立山は慈興による大宝元年(701)、箱根山は万巻による天平宝字元年(757)、石鎚山は寂仙による天平宝字 2 年(758)、相模大山は良弁による天平勝宝 7 年(755)、日光山は勝道による天平神護 2 年(766)の開山を説く。開山の年代に関しては、近年、日本各地では区切りの年を迎える山が多く、2018 年は、養老 2 年(718)の金蓮による伯耆大山の開山 1300 年、仁聞による六郷満山の開山 1300 年にあたるとされて記念行事が展開した。2017 年は泰澄による養老元年の白山の開山 1300 年であった。
開山とは単なる山岳登拝以上の大きな深い意味を持つ。前人未踏で禁断の不入の聖域の山に敢えて分け入り、山頂に至って神仏を拝み祀る実践が開山であり、自らが山の霊力を身体に付けるだけでなく、山の聖性を開示して、新たな秩序を確立する特別な行為であった。神仏の「聖性」の感得譚が語られ、開山者が次第に神格化されていく。
開山伝承の年代に関しては疑義がもたれてきたが、考古学の調査によれば山頂祭祀の遺物の年代は平城京遷都の少し前からで、仏教と山岳信仰の関係は 7 世紀後半から 8 世紀にかけて新たな段階に入ったと推定される 3)。山頂登拝を証拠付けたのが 1984 年の大峯山の山上ケ岳の発掘で、内々陣の龍ノ口 4)周辺の護摩の跡は奈良時代後期と推定され、その後に護摩壇や寺院が建造されたことが明らかになった。山上ケ岳だけでなく弥山山頂の発掘品も奈良時代後期と鑑定され大峯山の中央部も登拝祭祀の対象であった 5)。有名な明治 40 (1907)に劔岳に登った柴崎芳太郎技官が、山頂で発見した錫杖頭は平安時代のものである。いずれにせよ、不入、禁忌、遥拝の地であった山の絶頂を極める登拝行が奈良時代に開始され、「正統実践」orthopraxy を主張する言説が、開山伝承の創出に繋がったと推定される。日本では歴史の早い時期から山頂登拝を目指す実践が始まったのである。
3.神仏習合
各地の山の名称には仏菩薩や仏教思想に因む名前が多い。薬師岳、観音岳、地蔵岳、阿弥陀岳、普賢岳、文殊岳、釈迦ケ岳、八経ケ岳、大日岳、毘沙門山、虚こくうぞう空蔵山、弥山、妙高山、不動山、極楽山、浄土山、金剛山、蔵王山、求くぼて菩提山、迦かしょう葉山、至仏山、大菩薩嶺、妙法山、法華峰などが挙げられる。もちろん、神山、荒神山、稲荷山、神明山、妙見山、八幡山、龍神山、明神ケ岳など神も祀られている。鳳凰山や仙人岳には神仙思想の影響がある。月山、日山、朝日岳、日光山、星居山、光ケ峰は自然現象に由来する名称である。山に登ることは神や仏と出会い願い事を叶えてもらうことであった。山名から見ても神仏混淆の様相がわかり、山に関する歴史の記憶が凝結している。
山の信仰と仏教の融合には、登拝行を行って山で霊力を獲得し、里に下って加持祈禱をして民衆の日々の悩みに対処してきた修験道の影響が大きい。修験道は日本独自の山岳信仰で、「修験」の言葉の文献上の初出は、『日本三代実録』貞観 10年(868)で平安時代に遡るが、当時は密教の修行者で験力の表れを意味した。山岳修行の内容を整えて、役行者を開祖と仰ぐようになったのは鎌倉時代中期以降で、教団化するのは室町時代の15 世紀である。山での修行で得られる特別な力を「験げん」と呼んだ。修験者は山伏や法印とも呼ばれ、半僧半俗の在家者であったので民衆の生活の中に深く入り込んだ。修験道は密教(真言宗・天台宗)の教義を取り込んで、神仏混淆で仏教の土着化を図った 6)。
山岳信仰と仏教の融合に伴って、所謂、神仏習合の現象が起こった。奈良時代に始まり、当初は仏教の論理では日本の神は当初は迷える衆生の一種とされ、寺院に神宮寺を作り神前読経を行った。その後、神々は仏教の護法善神とされ、菩薩号が授けられる八幡神(八幡大菩薩)が現われ、僧形の神像で表された。神像の生成も仏像の影響によることが大きい。そして、平安時代中期以降に神と仏を同体とする本ほんちすいじゃく地垂迹の思想が生まれた。本地垂迹とは、仏菩薩が仮に姿を現して日本に神として現出して民衆を救済するという思想で、本地を仏菩薩、垂迹を神とする。神々の本地は仏菩薩で、日本では「権かりに現われた」ので「権現」という尊称を付けた。化けしん身、権ごんげ化とも言える。これによって土地の神々は仏菩薩に結びついて神仏習合の論理が徹底化された。修験はこの神仏習合に基づいて山岳修行を体系化し、山の神々は湯殿山大権現、鳥海山大権現、箱根山大権現、白山大権現、戸隠山大権現などと尊称され、本地には薬師や観音や釈迦などの仏菩薩があてられた。吉野では金かねみたけ御嶽(金峯山)で修験の独自の崇拝対象である蔵王権現が生み出された 7)。日本各地には権現山が数多くあり、御嶽山や蔵王山、修験の異称に由来する聖岳や天狗岳も各地に残る。明治の神仏分離以前は仏教寺院には鎮守社が鎮座し、神社には神宮寺があり、神社のご神体が仏像であることも通常であった。修験道は、明治元年(1868)の「神仏判然令」や、明治 5 年(1872)の「修験宗廃止令」が出される以前は、日本の各地の山の信仰に大きな影響を及ぼした。
4.山の信仰と農耕民
日本では山を歩けば至る所で小祠や小堂、神社や寺院に出会う。水みくまり分神社や山口神社、里宮と山宮、奥宮・中宮・口之宮など、山の要所に社があり、山岳寺院も各所にある。元々は、大樹、巨岩、湧水、湖沼、洞窟、温泉、滝、川を拝んでいたが、祠や社やお堂を建てて祀るようになった。
拝所は自然の風景の中に溶け込んで出会いと驚きの感動を齎すような場所にある。神仏との交流は自然のいのちとの交感に他ならない。山は日々の暮らしと結びついて長く人々の生活を支えてきた。山麓の農民にとっては、何よりも水源地の水みくまり分の山であり、水は暮らしを支える根源であった。旱魃に際しては山中の泉に種水をもらいに行き、山上で火を焚いて雨乞いをした。熊野を歩いていて、土地の人から山を「水みずくら蔵」と呼ぶという話を聞いたことがある。一般的な考え方ではないが、山の信仰の本質を言い当てているようであった。降り積もる雪が水を地中に蓄えさせ湧水となって平野に潤いを齎す。大雪は豊作の予兆と語られている。豊富な湧水は生産力を高める。
ゆ ざ
佐の海岸では海底湧水となって牡蠣をはじめ海の幸を育てる。秋には鮭が故里の川を遡り産卵して死ぬ。いのちの循環のドラマが繰り広げられる。
山の神は稲作や麦作の守護神で作神や農神と観念されて生産を司る。春には山の神が里に降りて田の神となり、秋には山に帰るという田の神と山の神の交替を説く地方も多い。そして、死者の霊魂は山に上り、年忌供養を経て次第に清まって三十三回忌にはカミになる。山の神は先祖の霊とも融合する。先祖は遠くの他界ではなく近くの山から子孫を見守り、盆や彼岸には家に招かれて親しく交流した。白雪に埋もれる山が春の雪解け時になると一斉に芽吹き、夏には青々とした森と草原の山となり、秋には紅葉に燃え、再び死の世界に閉ざされる。四季の自然の移り行きを見ていれば、山が死と再生を繰り返し、いのちの循環があ
ることを体感する。農民は春になると山に消え残る雪ゆきがた形を生業暦として農作業の開始時期を知るという地方は多い。北アルプスの山麓の安曇野では、常念岳の前方の東北東の雪の斜面に、徳利を手にした常念坊の黒い姿の雪形が現われると田植えを始めた。白馬岳は代掻き馬の「代しろうま馬」の意味で、残雪が馬の形になると代掻を開始した。山は雪形を通して農作業のメッセージを山麓の人々に届ける役割を果たしてきたのである。
5.山の信仰と狩猟民
狩猟民は山を生活世界としてきた。彼らにとって山は熊・猪・鹿・鳥などの恵みの獲物をもたらす豊饒の源泉であり、猟師のマタギは、独自の山の神の信仰を伝えてきた。山中でお産の陣痛で苦しむ山の神を助けて、無事に出産させた功績で獲物を保証されたという伝承も伝わり、血の穢れを忌まない。狩猟には殺生が伴い血の流出があり、これを許容しないと生業が成り立たない。一方で、狩猟は男性に限られ、女性を同行すると山の神は醜いので嫉妬して危険な目に合わせるという。奈良県天川村洞川の山の神は、2 月と 11 月の 7 日が祭日で、クヒンサン(天狗)が南天の枝を持つが祭日で、クヒンサン(天狗)が南天の枝を持つ山の神像の軸を掛けてオコゼを供える。オコゼの醜い様相を見ると山の神は満足する。不猟の時には男根を露出して喜ばせ、一人前の猟師になるクライドリの儀礼では男根を勃起させて山の神の笑いを誘って奉仕を誓わせる。正月の山の神の祭りでは、男根と女陰を擬した作り物で男女の交合を擬似的に演じて豊饒多産を願うという即物的な性的表現で山の豊饒性や生命力を喚起した。狩猟民の山の神は生産の神で農耕民の山の神とは異なる。
猟師は殺生の意味も変容させた。狩猟の神の諏訪神は、通常は仏教では罪ざいごう業となる殺生の意味を逆転させて、殺生は獣類を救って成仏させる。猟師は獲物を得ると「諏訪の勘文」を唱えて罪を帳消しにした。 唱え詞は「 業ごうじんうじょう尽有情 雖はなつといえどもいきず放不生故ゆえにじんしんにやどりて宿人身 同おなじくぶっかをしょうせよ証仏果」(前世の因縁で業の尽きた生物は、野に放つと長く生きられない。従って人間の身に入って死んでこそ同化して成仏できる)である。獲物の殺生は動物の成仏を助けるという。
諏訪は前宮の春祭りの「御おんとうさい頭祭」(酉の祭り)では 75 頭の鹿の頭を供え、本宮では殺生の免罪符「鹿かじきめん食免」を配布するなど狩の神である。山の神は山中の動物や植物の主で十二の神がいるとされる。対馬市阿あ れ連の 11 月 9 日のお日照り様の祭りでは山の神を山送りした後は、山止めといって山に入らない。お産をするからだともいう。山の神は生産を強く表現する。動植物を生成する山の生産力や、森や大地の生命力への畏敬の念を表わすと考えられる。
山はドングリや栃の実、キノコなど食材を豊富に提供した。かつては森林は家屋の必需品である木材を提供し、薪炭の原材として貴重な資源であった。建築資材の変化とエネルギー革命は山の暮らしを激変させた。戦前までは山林や原野を伐採して火を放ち、灰を肥料として作物を育てる焼畑も盛んで、蕎麦、粟、稗、大豆、小豆、大根、麦、サト芋など多くの種類の作物を得た。稲作の単一作物栽培とは異なり、飢饉の危機を避けることが出来た。作業開始に際しては、山の神に許しを求め、 地中の生物には退散を願う。 山中は魑ちみもうりょう魅魍魎、鬼・天狗(写真 7)・山やまんば姥などが棲む異界であり、人間の自然への働きかけは禁忌を守らないと危険な目に会うとされた。狼・猿・鹿・狐・狸などの動物は異界や他界の山から現れる神のお使いで、様々なお告げを齎す。特に狼は眷属として神聖視され、武州御嶽山、三峯山、山住神社などでは護符に描かれている。山と里の境界には社があり、稲荷は地域の守護神で街中にも祀られている。山は稔り豊かな富を齎す生産の原点であった。漁民も海上の位置確定に山を利用するヤマアテで、遭難を避け、良い漁場を探索し、豊漁祈願と航海安全を願った。
6.基盤としての山中他界観
山の信仰の基盤には山中他界観がある。山は人が亡くなった後に、死者の霊魂が赴く場と信じられていた(写真 9)。山という言葉には死の連想が伴う。葬儀を地域社会が担当していた頃、山は葬儀用語と結びついていた。埋葬を山仕事、山揃え、墓穴掘りをヤマゴシレへ(隠岐中村)やヤマシ(奈良県北部)と呼ぶ。壱岐では墓掘りをヤマイキ、墓穴堀りをヤマンヒト、屍をくるむ茣蓙をヤマゴザという 8)。越後三みおもて面では死ぬといわず「山やまことば詞になる」、三河東部では火葬をヤマジマイ、香川県では火葬番への差入れを「山見舞い」、高知市では出棺の時に「山行き、山行き」と叫んだ 9)。ちなみに、修験が亡くなった時には「帰峯」という。羽黒山で個人的に聞いた話であるが、山伏の修行を熱心に行った先達の葬儀の場で、居合わせた人が、どこからともなく「どっこいしょ、どっこいしょ」という声を聞いたので、「ああ、今、山を登っているのだな」と皆が思ったという。
日本の各地には、死後の魂が集まるとされる山が幾つかある。東北の恐山や月山、関東の相模大おおやま山、中部の白山や立山、近畿では高野山、伊勢の朝あさま熊岳、那智の妙法山などである。妙法山は「亡者の一つ鐘」で有名で、熊野では死者の枕元に供える三合の枕飯が炊き上がるまでの間に、死者の霊魂は手向けられた樒しきみの葉を手に妙法山に参詣し鐘をつくと伝承されている 10)。東北のハヤマやモリノヤマなど里近い山は死者供養の場で、納骨習俗を伴う所もある。庄内の清水のモリノヤマ、三森山では地蔵盆の三日間だけ山上に登って死者供養をするが、道の途中で亡き人と似た者に往き会うという。お盆には月山山上で焚く火に合わせて家々の門前で迎え火を焚き祖先の霊を家に招く。祖先の霊は子孫を見守り、盆や彼岸に子孫と交流する身近な存在であった。京都で 8月 16 日の夜の「五山の送り火」は観光化が進んだが、お盆の送り火で祖先の霊を送る。高野山は12 世紀頃から納骨が盛んになり「日本の総菩提所」とされ、奥之院には累々たる墓所がある。武将や貴族の墓だけでなく企業の創業者や貢献者を祀る会社墓も多い。
7.山の修行と曼荼羅世界
仏教の影響が加わると、山中他界は仏菩薩の居地で、極楽浄土、補陀落浄土、兜率天浄土、瑠璃光浄土、霊山浄土とされた。各々が、阿弥陀、観音、弥勒、薬師、釈迦の浄土である。雄大な風景は弥陀ケ原と呼ばれ極楽浄土とされた。一方で、荒涼たる風景や火山地形は地獄と見なされ、他界との境界の賽の河原とされた。恐山や立山がその典型である。葛城山は山全体が経典そのもので、修験は二上山から友ヶ島からまでの 28 ケ所の行場や拝所を法華経の二十八品になぞらえ、各所に法華経を埋めて経塚とした。山脈の全体が法華経の教えそのもので、峯入りで経典と修行者の身体が一体化した。
また、修験は山全体を曼荼羅と見なす。マンダラとはサンスクリット語では「真髄」や「本質」を意味し、悟りの本質を得ることだが、密教は目に見える形として図像に描き観想の修行の本尊とした。真言密教では、空海が恵けいか果から金剛頂経に基づく金こんごうかい剛界と大日経に基づく胎たいぞうかい蔵界の教えを伝授され、金剛界の「智」と胎蔵界の「理」が一体となる、つまり主体と客体、智と理が一つ、胎金不二となる境地を目指した。寺院の儀礼では両界曼荼羅の図像を掲げ中尊の大日如来と一体化する儀礼を執行した。修験は独自に山全体を修行道場とし、峰々が仏菩薩・明王の居地で、山や峰、森や谷、滝や洞窟、雨や風、色や匂いや音の全てが大日如来が説く法の世界、大自然全体は曼荼羅と考える。山を歩き地を踏みしめる峯入りで峰々谷々の大地の霊力と一体化した11)。
大峯山は、吉野側を金剛界、熊野側を胎蔵界とし、吉野から熊野へ、熊野から吉野へと峯入り修行を行い、山を金剛界、谷を胎蔵界と見なし、金胎不二の悟りの境地に到達すると説く。山中では六道輪廻を越え四聖の段階を経る十界修行を行い、最後に仏と一体化して即身成仏を遂げる。金剛界は男性原理、胎蔵界は女性原理で、金胎不二の境地は同時に陰陽和合であり、山中の儀礼は擬似性交やいのちの誕生に擬せられた。修験は山の中心に胎蔵界八葉曼荼羅の中台を設定し、山を「胎内」や「子宮」に見立て峯入り期間は胎内の赤子と観念する。母なる山に抱かれ、母が子供を慈しみ育てるように成長する母胎回帰の思想である。
修験の儀礼は、山中の修行は妊娠から出産までの275 日間に因む 75 日間の峯入りを理想として誕生と死を擬似体験し、死から再生へと蘇りを果たす。山は死後の世界であると共に生まれる前の時空間とされ、非日常世界を体験する場となる。他界や異界と観念される山で修験の峯入りが精緻化されていった。
8.遥拝から登拝へ、そして観光へ
山は聖域や浄域と見なされ、ある地点以上への人間の立ち入りは禁じられ禁きんそくち
足地とされていた。大和の大おおみわ神神じんじゃ社は拝殿はあるが本殿はなく、三みわやま輪山を直接に拝む対象としていた。山中には巨石が累々と連なる磐いわくら座があり、神の降臨する神ひもろぎ籬とされて立入りは禁じられ、もし犯すと祟りがあるとされた。古代の大和では神かんなび奈備という言葉が神霊の降臨・鎮座する山を指し、三輪山もその一つである。神奈備は飛鳥の三みもろやま諸山の歌枕でもあった。『万葉集』(2162)にある「神奈備の山下とよみ行く水に」という歌は名高い。神奈備と呼ばれる山は人里近くにあり、高くはないが姿形のよい山で畏敬の念が籠められた。『出雲国風土記』にも神奈備の言葉は散見する。農耕民が特徴的な山容に畏怖を覚え神霊の宿る場所と考えて、岩や樹木から恒常的な社へと次第に移行して神社の原型が造られた。
山の信仰は遥拝から登拝へと変化してきた。山麓の遥拝、中腹の祈願、山頂の祭祀、祭祀から登拝へ、山岳寺院の開創、長期に亘る山岳修行などに展開し、山々を縦走する峯入りの実践を中核に据えた修験道という日本独自の山の信仰の体系化へと向かった。衆生は山での修行を通して死と再生を繰り返し、最後は即身成仏を遂げて仏、究極には自然と一体となる。修行の整備に伴い、山中を清浄の場として禁忌が課せられ、特に女性の月経や出産を血穢と観念して女人結界を設定し、ある地点から上への女性の登拝を禁じた。いわゆる女人禁制である。元々は一般の俗人は山に立ち入らず、僧侶や行者の修行場で、登拝は一年の特定期間に限定し、長期の水垢離や五穀断ちなど精進潔斎して登拝が許された。女性に対する禁忌の設定は地位低下の動きと連動していた。しかし、結界は山中の地獄極楽との接点とされたが、山と里の境界の意識も残り、女人堂や姥堂が建てられ山の神の姥神を祀り安産祈願がなされた。姥神は生産を司る山の神であった江戸時代には山岳登拝の講が都市民や農民を担い手にして多数設定され、冨士講、大山講、御嶽講(写真 13)、山上講、三山講などで多くの民衆が盛んに信仰登拝を行った。山麓には宿坊が整備され御お し師と呼ばれる案内人兼祈禱師が成立し、先達として山を案内した。若者が一人前になる修行に山岳登拝は組み込まれ大衆化した。明治 5 年(1872)に政府は女人結界の解除を命じ、これ以後は徐々に女人禁制は解かれ、現在は大峯山の山上ケ岳(奈良県天川村)と後うしろやま山(岡山県東粟倉村。現美作市)のみとなった。山上ケ岳は修験道の中心的な活動の場であり、女人禁制を巡って様々な議論が繰り広げられてきた 12)。女性を穢れや不浄と考えて清浄な場所への立入りを恒常的に禁じることは、現代の男女同権の立場から見れば許容できないが、歴史的に形成されてきた経緯を鑑みて中立的立場から考察する必要がある 13)。信仰登山は 1960 年代の高度経済成長期まで継続し、山がモータリゼーションで観光やレジャーの場になって急速に衰えた。
2004 年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産(文化遺産)に登録され、その中に山岳信仰の拠点である高野山・吉野山・大峯山・熊野山が含まれた。2013 年には「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」が登録された(写真 14)。国内では山の信仰の場は「伝統文化」として国史跡や重要文化的景観に指定され「文化財」化の動きが加速している。修験を担い手としていた民俗芸能、「早池峰神楽」もユネスコの無形文化遺産に登録された。山の信仰は急速に文化や観光の資源としての活用が進められている。2016 年の山の日の設定を契機に、長い歴史を持ち日本文化の根底にある山岳信仰を通して、自然と人間の調和を問い直し、経済優先の現代人の生き方を再考することも必要であろう。
注
1)『日本霊異記』(弘仁年間、810 ~ 824)上巻第 28 にも異伝が載る。
2) 仏教公伝は『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では、欽明天皇御代
の「戊午年」で、該当の干支がなく欽明以前で直近の戊午年の 538 年に充てた。『日本書紀』では 552 年(欽明天皇 13 年)である。
3) 山岳考古学の進展で、奈良時代に遡る山頂祭祀の実態が明らかになった。宝満山の中腹の
辛野遺跡からは 7 世紀後半、山頂遺跡は 8 世紀に遡る遺物が発見されている。時枝務『山
岳宗教遺跡の研究』岩田書院、2016 年、111 頁。男体山山頂遺跡は 8 世紀後半である。
4) 秘所とされ何人も覗いてはならないという禁忌がある。
5) 菅谷文則「大峯山寺の発掘」『山岳修験』日本山岳修験学会、1995 年、57 頁。
6) 宮家準『修験道』講談社(講談社学術文庫)、2001 年(原著 1978)
7) 鈴木正崇「仏教と山岳信仰」『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第 51 号、2018 年。
8)『綜合日本民俗語彙』第 4 巻、平凡社、1956 年。
9) 和歌森太郎『山伏―入峰・修行・呪法―』中央公論新社(中公新書)、1964 年。
10)『紀伊続風土記』臨川書店(復刻版)1990 年(原著 1839)。熊野の山岳信仰に関しては、鈴木正崇『熊野と神楽―聖地の根源的力を求めて―』平凡社、2018 年。
11)鈴木正崇『山岳信仰―日本文化の根底を探る―』中央公論新社(中公新書)、2015 年。
12)鈴木正崇『女人禁制』吉川弘文館、2002 年。
13)鈴木正崇「<穢れ>と女人禁制」『宗教民俗研究』第 27 号、2018 年。
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