与謝蕪村と宇都宮

http://kobahiro962hk.jugem.jp/?eid=55【与謝蕪村と宇都宮】より

宇都宮二荒山神社に建立された「宰鳥句碑」があります。宰鳥(さいちょう)とは与謝蕪村のことです。

 鶏は羽にはつねをうつの宮柱   宰鳥(とりは、はに、はつねをうつの、みやばしら)

 古庭に鶯啼ききぬ日もすがら   蕪村 この句に初めて蕪村と署名している。

 与謝蕪村は宇都宮で初めて蕪村(改号)となった。

 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな   蕪村

           講義を受けました。

http://www.bekkoame.ne.jp/~koba-hiro/busonn/buson.html 【与謝蕪村(よさのぶそん)】

荒山神社にこもり与謝蕪村が初めて蕪村の俳号を使った

烏山(現 栃木県那須烏山市)出身の早野巴人(はやのはじん)は江戸にでて,其角(きかく)・嵐雪に学び、後上京し京都俳壇で重きをなしたが、元文二年(1737)江戸に戻り、日本橋石町鐘楼(しょうろう)のほとりに住まいを定めた。翌年、内弟子の与謝蕪村にその夜半亭(やはんてい)を譲った。寛保(かんぽう)二年((1742)蕪村は師を失い、下総結城(現 茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに身を寄せた。

宇都宮ではじめて蕪村の俳号が使われた

 翌三年、蕪村は芭蕉の足跡を尋ねて、奥羽の旅に出た。翌四年、29歳の春を雁宕(がんとう)の娘婿(むすめむこ)である宇都宮の佐藤露鳩(ろきゅう)方で迎えた。ここで初めて「歳旦帳(さいたんちょう)」を編集した。歳旦帳というのは、歳旦(元日のこと)開きに連歌師(れんがし)や俳諧師(はいかいし)が、自分や門弟の発句(ほっく)を集めて刷ったもので、宗匠(そうしょう)として初めて一家を成したことの宣言になる。この歳旦帳は「宇都宮歳旦帳」と呼ばれ、初めて蕪村の俳号(はいごう)が使われている。露鳩邸(ろきゅうてい)で編まれたともいい、二荒山神社にこもり露鳩一派の後援により撰したものともいわれる。

公達に狐化たり宵の春

春の海終日のたりのたりかな

http://kobahiro962hk.jugem.jp/?eid=6321文学の道(3) 蕪村

今日は雨がふっています、風流なものですね。きょうの散策どうしますか・・・・朝一番電話がありました。きょうを逃したら来年になります。やりましょと・・・・・・・

牧水の歌碑の次は江戸の俳句の巨匠「与謝蕪村」です。今の宇都宮にぴったりの俳句みつけました。

春雨にぬれつつ屋根の手鞠かな  与謝蕪村

大通りを渡り、二荒山神社です。階段を右に見て女坂を登りました。 

左側の桜の下に宰鳥(蕪村)句碑

桜咲いています、蕪村の句碑前の四阿に着きました。

宰鳥句碑 句碑  鶏は羽にはつねをはつねをうつの宮柱

 蕪村とは

 蕪村は享保元年(1716)大阪市豊島区毛馬町で生まれました、18歳のころ江戸に出て画俳を志した。22歳の秋夜半亭宋阿(やはんていそうあ)の門に入り宰町(さいちょう)と号しその後宰鳥(宇都宮の句碑に刻んである)と改号した。27歳のとき、師宋阿が没し結城市にいた、砂岡雁宕(いさおかがんとう)に身を寄せた。28歳で芭蕉の足跡をたずね奥羽の旅に出た。

 翌年砂岡雁宕の娘婿の宇都宮の佐藤露鳩(さとうろきゅう)方で29歳の春を迎えた。ここで初めて「宇都宮歳旦帖」(うつのみやさいたんちょう)を編集した。

 歳旦帖とは自分の門弟の発句を集めて刷ったもので宗匠(そうしょう)としてはじめて一家をなした宣言になる。

古庭に鶯啼きぬひもすがら  蕪 村  句説明板  句碑説明板

宰鳥(蕪村)句碑の記

俳聖与謝蕪村は、寛保三(1743)年歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて当市に滞在、翌年正月に蕪村最初の「歳旦帖」を編集発行した。

 それは表紙に、この碑の上部にあるように円の中に次の文字をあしらった、ユニークなものであった。

「寛保甲子 歳旦歳暮吟 追加春興句 野州宇都宮 渓霜蕪村輯」

その中で蕪村は、それまで使っていた「宰鳥」の号で、「いぶき山の御燈に古年の光をのこし、かも川の水音にやや春を告げたり」と前書して、この碑にある

 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱(みやばしら) 宰鳥

の句を詠んだ。

これは当社宇都宮二荒山神社の社頭で新年の夜明けを迎えた鶏(にわとり)が、勢いよく羽ばたいている姿に寄せて、この地で俳諧師としての第一声をあげた喜びを詠んでいる。

また表現も「羽をうつ」と「宇都宮」、「宮」と「宮柱」とを掛けた華麗な句である。

 こうした事実が、今まであまり知られていなかったのを極めて残念に思い、このたび多くの方々のご支援をいただいて、その事蹟を顕彰するためにここに記念の句碑を建立した。

 なお、「歳旦帖」で初めて「蕪村」の号を用いている。

 古庭(ふるにわ)に鶯啼(うぐいすな)きぬ日もすがら 蕪村

の句碑が、仲町の生福寺(しょうふくじ)境内にある。姉妹句碑として愛されることを念願する次第である。

        平成11年11月

                 蕪村顕彰会

                 宇都宮二荒山神社

                     成島行雄 撰文

 以上説明板の写真内容であります。

 この時宰鳥から蕪村に宇都宮の地で生まれ変わったのである。

 今から約270年前この二荒山の地で、宇都宮の佐藤露鳩一派と蕪村が句作を行っていたのですね。

参加者みんなで桜樹の基に集まり雨降る肌寒さの中 今から約270年前の江戸時代の宇都宮に

思いを馳せた瞬間でした

四阿

ここで一句です。

花に居て蕪村誕生句碑の前  暁 雲

https://09270927.at.webry.info/201612/article_9.html 【宇都宮 二荒山神社(2)】

境内には多くの句碑、歌碑、記念碑があったが、一つだけ紹介する。

現地説明板より

『 宰鳥(蕪村)句碑の記

俳聖与謝蕪村は、寛保3年(1743)歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許(もと)を訪れて当市に滞在、翌年正月に蕪村最初の『歳旦帖』を編集発行した。

それは表紙に、この碑の上部にあるように円の中に次の文字をあしらった、ユニークなものであった。

 「寛保四甲子 歳旦歳暮吟 追加春興句  野州宇都宮 渓霜蕪村輯」

 その中で蕪村は、それまで使っていた「宰鳥」の号で、

「いぶき山の御燈に古年の光をのこし、かも川の水音にやや春を告げたり」と前書きして、この碑にある

 鶏は羽にはつねをうつの宮柱  宰鳥

の句を詠んだ。

これは当社宇都宮二荒山神社の社頭で新年の夜明けを迎えた鶏が、勢いよく羽ばたいている姿に寄せて、この地で俳諧師としての第一声をあげた喜びを詠んでいる。

 また、表現も「羽をうつ」と「宇都宮」、「宮」と「宮柱」とを掛けた華麗な句である。

 こうした事実が、今まであまり知られていなかったのを極めて残念に思い、このたび多くの方々のご支援をいただいて、この事跡を顕彰するためにここに記念の句碑を建立した。

 なお、この『歳旦帖』で初めて「蕪村」の号を用いている。

 古庭に鶯啼きぬ日もすがら 蕪村

の句碑が、仲町の生福寺境内にある。姉妹句碑として愛されることを念願する次第である。

 平成11年11月 蕪村顕彰会 宇都宮二荒山神社 成島行雄 撰文 』

碑に刻まれた文字は、達筆で私には読めない。この句碑の文字は蕪村直筆といわれる筑西市の中村家所蔵本から拡大翻刻したものだという。

説明板と「宰鳥(蕪村)句碑」の標柱があったから蕪村の句碑であることが分かった。説明板によると、ここ宇都宮は俳諧師としての蕪村が誕生した場所であることになる。

宇都宮の俳人佐藤露鳩とはどんな人物か知らないが、蕪村のパトロンであったのだろうか。

何れにしても宇都宮は和歌とか俳句を嗜む素養を有した土地柄だったのかも知れない。後に、宇都宮一族と和歌について記してみる。

宇都宮という地名は当社が起源だとされ、それは確かだと思うが、その由来は諸説あって確定していない。

一宮(いちのみや)の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそれが「うつのみや」に転じたという説などがある。

一宮の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説は頷けない。全国の一宮で「うつのみや」と呼ばれているところはあまり聞かない。また遷座した神社は多いが「うつのみや」とは呼ばれない。

現宮(うつつのみや)もしっくりこない。稜威の著しい宮、宇豆高き御屋代説もあるが、この宮だけに限ったことではない。

江戸時代の森幸安の「下野州河内郡宇都宮地図」には「宇」とは「宇宙」つまり「太廣」の意味でまた「卯」と同じく「東」の意味、「都」は「京」と同訓、「宮」は「宮殿」の意味で、すなわち古代において「宇都宮は関東の都」とある。この説を唱えた江戸時代の関東の中心は当然江戸であったが、古代においては宇都が「美しい」「東の都」を意味し、大王(おおきみ)の系統に繋がる皇子が住み、その住居と祭祀場を宮(宮殿)と称したので「宇都宮」と呼ばれたのではないだろうか。

つまり、明治になって江戸が「東京」と改称される遙か昔、宇都宮が「東京」だったのではないだろうか。

古代の「東京」(宇都宮)は大和朝廷が確実に掌握できていた国の一番東で、しかもその後の蝦夷地進出の前線基地の兵站基地となり、東と西をつなぐ要衝でなくてはならない。その意味で東山道のルートは重要である。

鎮座地は宇都宮であるが、社名がなぜ二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)なのであろう。読みは若干違っても「二荒山神社」を名乗る神社は関東地方を中心に数多くあるという。

二荒の名についても諸説あるようで、はっきりしない。日光と宇都宮では二荒山神社の読み方が違うように、本来は両社において“二荒”は別のものだったのかもしれない。それが同じ字をつかわれることにより、また後世、日光東照宮の影響で何らかの繋がりもでき、混乱を生んでいるのではないだろうか。

 日光の二荒山神社について主な説を次に挙げる。

・二神示現説……男女対の神の現れ。あるいは二神のあらわれ。

・補陀落山説……観音浄土を表す、補陀落(ふだらく)山の転化。

・布多郷説……男体山一帯を、和名抄の布多郷にあてたもの。

・アイヌ語源説……アイヌで熊笹を意味するフトラの転化。

・土子説……マタギの地名「根子(ネゴ)」が土着後「土子(ニコ)」となった。

・荒神説………二荒は、太荒であり、荒神の意味。

この中で、宇都宮にも適応できるものは、二神示現説と荒神説ではないだろうか。

御諸別王と奈良別王の二人の「荒ぶる神」から「二荒」(ふたあら)が起こったとする説もある。

『日本書紀』には豊城入彦命の派遣伝承が記されるが、命は実際には東国には至っていないとみられ、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは三世孫の御諸別王が最初とみなされる。

私は荒ぶる二人の神は、御諸別王と奈良別王の二人ではなく、大物主命と豊城入彦命だったのではないかと考える。

『日本書紀』によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。

豊城命は「御諸山(みもろやま、三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。

その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。

つまり豊城入彦命と御諸山(みもろやま、三輪山)の神である大物主の荒魂とは深く繋がり、その孫で実際に東国に赴いた御諸別王の名も御諸山と関係しているように思われる。

宇都宮二荒山神社の社伝では、仁徳天皇41年に毛野国が下野国と上野国に分けられた際、下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が曽祖父・豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。

ただし、それ以前に豊城入彦命によって三輪山から勧請された大物主命が祀られていたとも伝えられている。それが今、相殿に祀られている大物主命であろう。

主祭神については、時代によって彦狭嶋王(豊城入彦命の孫)、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。

江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14年(1843年)には大己貴命、事代主命、健御名方命が祭神であった。

他にも、沼河比売命、柿本人麻呂霊、日光三所神、太郎大明神、小野猿丸などがある。

大きく分類すると、国造下毛野君の祖神系と出雲系が多くを占め、現在の祭神も、主神として国造下毛野君の祖神を祀り、相殿に出雲系を祀る結果になっている。

しかし、江戸期に日光山大明神と称されたのは、日光東照宮の威光を受けた日光二荒神社の影響を受けたのであり、本来は宇都宮大明神であったことは間違いない。

1189年(文治5年)源頼朝は宇都宮大明神に奥州での勝利を得たならば社前に虜囚を社掌として献ずることを誓った。凱旋した頼朝は伊達の季衡を社掌とさせたという。このことからも、江戸時代以前に宇都宮大明神と呼ばれたことはあっても、日光山大明神と呼ばれたことはない。

現在の鎮座地は臼ヶ峰(明神山)だが、遷座する前の鎮座地は荒尾崎(現在の下之宮)とされる。この荒尾崎に祀られていた荒神は恐らく大物主(出雲系)であろう。大物主は蛇神の神格を持つ。

承和5年(838)に現在の臼ヶ峰に遷座されたとき、皇統であり国造下毛野君の祖神系である豊城入彦命を祀ったのであろう。二荒神とは、大物主と豊城入彦命であり、臼ヶ峰(明神山)はこの二荒神が祀られたので、二荒山とも呼ばれたことがあったのではないか。

例祭(秋山祭)は、10月21日だが、12月15日(冬渡祭)と1月15日(春渡祭)の2回行われる渡祭も賑わうという。渡祭は祭神を旧鎮座地(荒尾崎)から現在地(臼ヶ峰)に移した際の遷座の儀式を伝えている。祭神はその2日に分けて渡ったと考えられ、どちらも「おたりや」と呼ばれている。なぜ2日に分けて移ったのであろう。それは大物主と豊城入彦命の2神を祀ったからに相違ない。

宇都宮二荒山神社が、通称として「二荒さん」(ふたあらさん)と親しみを込めて呼ばれるのは、下野国に暮らす人々が大物主と豊城入彦命の二重層を深層心理の中で引き継いできた結果ではないだろうか。

大和朝廷と東国との関係において、初めに出雲系が進出し、後から天孫系が覆い被さるように進出していった傾向を見ることがある。その二重層を色濃く残した地域が、ここ「美しの宮」、古代の「東京」である宇都宮ではないだろうか。

大和朝廷が、東国に進出していく大道は、主に東山道であった。物資は船で運べても、兵士は陸路において徴用して送ったのであろう。大きな河川をいくつも越えなければならない東海道に比べ、古代において東国への道は東山道が便利であった。信濃国に御牧が多いことも、東山道を行軍するのに馬が重要だったからだろう。

律令時代の東山道に相当するルートと並走する形で、現在も幾つかの国道などの一般道路や鉄道が通っている。

概ね長浜(滋賀県)から宇都宮(栃木県)までを東西に横断するルートになり、長浜以南(京都方面)と宇都宮以北(多賀城方面)は南北に縦断するルートになるが、高速道路では西から順に名神高速道路・中央自動車道・長野自動車道・上信越自動車道・北関東自動車道・東北自動車道に相当する。

平安時代の東山道における平安京と各国府との間の上りの運脚日数は、延喜式によると以下の通りになる。

近江国府からは1日、美濃国府からは4日、信濃国府からは21日、上野国府からは29日、下野国府からは34日、陸奥国府からは50日かかった。なお、下りは調と庸などの荷物がなかったので、その半分の日数で済んだ。

上野国府は群馬県前橋市元総社町、下野国府は栃木県栃木市田村町にあったとされる。

東山道は、近江国→美濃国→信濃国(長野県)→上野国(群馬県)→下野国(栃木県)→陸奥国と通じる。

 京都からの道のりは次のようになる。

京都~草津   22km   草津~長浜   57km    長浜~不破関  12km

不破関~岐阜  36km   岐阜~美濃加茂 26km    美濃加茂~中津川56km

中津川~塩尻  100km  塩尻~上田    55km    上田~小諸    20km

小諸~碓氷峠 22km    碓氷峠~高崎 41km       高崎~宇都宮 112km

宇都宮~白河関 75km   白河関~岩沼 152km      岩沼~多賀城 25km

延喜式・神名帳には東山道街道筋として、「下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大」とある。この二荒山神社は宇都宮二荒山神社の可能性が高い。日光二荒山神社では、東山道から外れすぎるように感じる。

当社で頂いたしおりには、次のようにあった。

『現在残っている社記には、第16代仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられます。この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後、承和5年(838)に現在の地 臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。豊城入彦命は第10代崇神天皇の第一皇子で上毛野君・下毛野君の始祖と「古事記」にあります。』

祭神の豊城入彦命は上毛野君・下毛野君の始祖とされるとあるが、それは上毛野国(群馬県)と下毛野国(栃木県)に別れる前の毛野君の始祖が豊城入彦命であると考えてもよい。毛野国が2国に別れるたとき奈良別王(下野野君奈良)が始祖である豊城入彦命を祀ったということである。このことは重要であり、東山道の大国上毛野国と下毛野国はかつては一つの文化圏と考えてよい。そして、初代の下野野君とも解される奈良別王はこの地方最有力の豪族で、“奈良”という名からも分かるように、東の都“宇都宮”を造営するのに相応しい実力者であったと考えられる。

豊城入彦命は実際には東国には至っていなし、孫の彦狭嶋王も景行天皇の御代東山道の「十五国都督(とおあまりいつつのくにのかみ)」に任じられたが赴任途上で亡くなって、実際に東国に赴いたのは三世孫の御諸別王だとされる。そして、この御諸別王が“東国六腹朝臣(あづまのくにむつはらあそみ)”と称される有力氏族の祖となったとされる。

氏姓制度はいつからあるのであろう。氏(うじ)と姓(かばね)は古代天皇制の所産であるという。大王(おおきみ・天皇)と国家の礼制的支配秩序に服した者、つまり大和朝廷に従った者(化内民・けないのたみ)とそれ以外の奴婢や蝦夷など化外民を峻別するために、化内民には大王から氏姓をが与えた。化外民は名前のみで氏姓を持たなかった。渡来人は帰化の手続きを経て公民となることが許され氏姓を与えられた。

歴代天皇は彦号、別・和気号という称号を名乗るが、ただ一人宿禰号を名乗った允恭天皇は、それ以前の様々な敬称や尊称を整理して地位や身分や功績・職務内容などに応じて整理し、宿禰・臣(使主)・連・別(和気)、君などに画一化したようだ。しかし、それはまだ称号・尊称の域を出るものではなく、律令制度に繋がる氏姓制度らしきものが始まるのは、欽明天皇の頃からだと考えられている。

戸籍制度とも関連する律令制度へ繋がる氏姓制度の基礎が固められたのは、664年に公布された「甲子宣」からのことだとされる。664年と言えば白村江の戦いの翌年である。

『日本書紀』には、「天皇(天智天皇)、大皇弟(大海人皇子)に命して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部の事を宣ふ」とあり、更に、「其の大氏の氏上には大刀を賜ふ。小氏の氏上には小刀を賜ふ。其の伴造等の氏上には干楯・弓矢を賜ふ。亦其の民部・家部を定む」と記されている。

冠位の授与と大氏(臣姓)・小氏(連姓)・伴造等(伴造・国造氏族)の三等級の区分とを厳密に対応させる処置をとり、更に氏族の代表者である氏上を通じて天皇が各氏族を掌握する制度を確立した。民部・家部は各氏族に与えられた部民・賤民である。

壬申の乱を制した天武天皇は684年に、「八色の姓」を制定し官僚を登用する制度を整えた。

八色の姓(やくさのかばね)とは、「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のことだが、実際に賜ったのは、真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓であった。

真人を賜った13氏は名誉職的な姓であったが、朝臣52氏、宿禰50氏、忌寸11氏からは有力な官人が出た。

朝臣には主に、「君」「臣」から選ばれ、ここには上毛野君、下毛野君も入っている。注目されるのは、「連」から、物部氏と中臣氏の2氏が入っていることだ。

宿禰には主に、「連」から選ばれているが、物部連と中臣連の2氏が朝臣に入ったのに対して有力氏族の大伴連が宿禰に留め置かれたのは意外である。大伴連の伴造としての性質が強調される結果となった。

忌寸も主に連から選ばれているが、渡来系氏族が多いように感じる。1氏だけ大隅直という直(あたい)が選ばれているのが注目される。

氏姓制度について記したのは、“東国六腹朝臣”について述べたかったからだ。

『続日本紀』延暦10年(791)4月乙未条の池原公綱主の言上に、「豊城入彦命の子孫、東国六腹朝臣は、各居地に因りて姓を賜ひ氏を命(おほ)せり」とあるが、この東国六腹朝臣とは、684年の「八色の姓」でそろって朝臣姓を賜った毛野国(上毛野国・下毛野国/上野国・下野国)の6氏である。

その6氏とは、上毛野君、車持君、佐味君、大野君、池田君、下毛野君である。下毛野君以外は、上野国の豪族で、車持君(群馬郡)、佐味君(佐味郷)、大野君(山田郡大野郷)、池田君(那波郡池田郷)と本宗家上毛野君から分派したようである。

これらの6氏が、実際には東国へ下向していない豊城入彦命を始祖とするのはなぜであろう。

平安時代初期成立の『新撰姓氏録』が上毛野君一族を「皇別」と「諸蕃」に併載しているように、この氏族の形成過程は極めて複雑だと考えられる。

「皇別」とは天皇出自の始祖伝承を公認された氏族、「諸蕃」とは渡来系氏族のことである。古代の厳しい出自・身分秩序から考えれば、「皇別」にして「諸蕃」は常識的にはありえないとされる。しかし、多氏(太氏)についても同じような傾向がある。

『日本書紀』『新撰姓氏録』などから系譜伝承を見ていくと、この複合氏族は紀氏や大三輪氏や多氏とも繋がるようだ。

遅くとも5世紀までには和歌山県の紀の川流域に勢力を張った集団があった。その集団は『荒河戸畔(あらかわとべ)』の名と大和の倭王擁立に深く関わったという伝えを持っていた。崇神天皇の皇子豊城入彦命を始祖とする伝承はここに根ざす。豊城入彦命の母は紀氏であるともされる。

この勢力は5世紀代には大阪湾沿岸に力を伸ばし、日本最古の須恵器生産地の一つと言われる陶邑(すえむら)を含む茅渟県(ちぬのあがた)の県主に任じられて、ヤマト王権の争奪戦に関与する集団や倭王直属の儀礼や神事に携わる主殿(とのもり)を率いて大王に近侍する集団を出し、三輪山信仰との関係も深めていったと想定される。(大田田根子の伝承にも繋がる)

この集団の中から朝鮮諸国に派遣される人々が現れ、5世紀後半、その一員である多奇波世君(たかはせきみ・竹葉瀬君)が百済勢力圏との交渉に関与した可能性は高い。荒田別・鹿我別の朝鮮派遣伝承や荒田別・巫別(かむなぎわけ)による王仁(西文氏の始祖)招聘伝承は、史実に繋がる伝えである。

朝鮮に渡った人々の後裔は500年前後から再渡来し、河内飛鳥辺りに定着する。この人々の存在が『新撰姓氏録』の「皇別」「諸蕃」併載の根拠となったようだ。

一方、5世紀代のヤマト朝廷の中で、上毛野君一族の母体集団を中心に、行政・軍事権を付与される形で東国へ派遣される人々が出る。それが、彦狭嶋王(豊城入彦命の孫)が東山道の「十五国都督(とおあまりいつつのくにのかみ)」に任じられという記述になったと考えられる。

実際には東国派遣の集団は何波にもわたり多様であり、その中には帰化系の氏族もあったのだろうが、原則的には東国に移住し在地の諸勢力と結合を図り、6~7世紀には、東国六腹朝臣と称される有力豪族に成長したと考えられる。

『日本書紀』に見える毛野君の記述は、安閑天皇元年(534)の武蔵国造争乱伝承の上毛野君小熊の記載と舒明天皇9年(637)の上毛野君形名の蝦夷との戦いである。

舒明天皇9年(637)、上毛野君形名らは蝦夷との戦いに敗れ逃げ帰ったところ、夫人たちに次のように叱咤激励されたという。

『汝が祖たち、蒼海を渡り、万里を跨(あふどこ)びて、水表(をちかた)の政を平(ことむ)けて威武(かしこきたけき)を後葉(のちのよ)に伝えたり』

形名の冠位は「大仁」で冠位十二階の第三階で正五位に相当し、その後の上毛野君の社会的地位にも合致している。

663年の白村江の戦いでは、前将軍(さきのいくさのきみ)上毛野君稚子(わくご)が活躍している。

天武天皇10年(681)、「帝紀及び上古の諸事を記定する」ため設けられた史局の諸臣首座に大錦下(従四位相当)の位で上毛野君三千(みちぢ)が就き、大宝律令撰定の諸臣首座に直広参(じきこうさん・正五位下相当)下毛野朝臣古麻呂が選ばれるなど、上・下毛野氏は史書編纂・律令撰定に深く関わった。

とくに下毛野朝臣古麻呂は大宝律令選定の功によって大宝元年(701)従四位下右大弁となり、王・諸臣・百官人に大宝令を講じた。最終官位は式部卿大将軍正四位下で、律令選定の功田30町・封戸50戸(令制の一里に当たる)の10町は子に伝えることが認められ律令功田の基準となった。

『続日本紀』慶雲4年(707)3月庚申条に、「従四位下下毛野朝臣古麻呂、下毛野朝臣石代の姓を改め、下毛野河内朝臣とせむことを請ふ。これを許す。」とある。古麻呂の要請により石代の姓が、下毛野河内朝臣に改姓されたようだ。

単姓の下毛野朝臣から複姓の下毛野河内朝臣への改姓は貶姓となるが、これは古麻呂による石代への嫌がらせともとれる。

古麻呂は下毛野国都賀郡出身の下毛野氏で、石代は下毛野国河内郡出身の下毛野氏だったと推定され、現地での河内郡勢力の台頭に対抗して、下毛野氏の族長的地位にあった古麻呂が、都賀郡系による下毛野朝臣(単姓)の独占を狙ったと考えられる。

河内郡と言えば二荒山神社の鎮座地である。古麻呂は和銅2年(709)に亡くなった。石代の姓は下毛野河内朝臣から後に下毛野朝臣へ戻ったようだ。そこには石代の活躍もあったようだ。

8世紀の初めの和銅・霊亀・養老年間には世襲のように上毛野朝臣は陸奥守・陸奥按察使を独占した。養老4年(720)上毛野朝臣広人が蝦夷の攻撃により敗死すると左京亮の下毛野朝臣石代が持節副将軍に就任した。

神亀元年(724)には、大野朝臣東人(あづまんど)が多賀城を築く。東人は生産基盤の整備、蝦夷との相互理解に力を割き、天平12年(740)藤原広嗣の乱鎮圧のため九州へ赴くまで陸奥按察使兼鎮守府将軍の地位にあったが、その間蝦夷との間に戦火はなかった。

他の東国六原朝臣の中では佐味朝臣宿那麻呂(すくなまろ)が689年、施基皇子の元で撰善言司(よきことえらぶのつかさ)の諸臣首座に選ばれている。(残念ながら『善言』なる書物は現存しない。)

一族の一つの柱である渡来系氏族田辺史(たなべのふひと)が、文章を解するゆえに史(ふひと)の姓を得たと『新撰姓氏録』左京皇別下の上毛野朝臣条にあり、『日本書紀』応神天皇15年条に王仁招聘には上毛野朝臣の祖、荒田別・巫別が遣わされたとあるように、上毛野君一族は文章の解読・作成・活用の能力、中国・朝鮮の政治・宗教思想の理解を以て国家の要職に就いたと考えられる。

上毛野君一族は「文書を解する能力」「蝦夷政策」「朝鮮政策」の3本柱で政権に大きく貢献した。

外交だけが「朝鮮政策」ではない。国内にあって渡来集団定住の地を定めることも重要な政策だ。7世紀には、百済滅亡に続き高句麗も滅亡し亡命者が急増したことが考えられる。

和銅4年(711)上毛野国内に多胡郡を新設したこと、和銅6年に備前介上毛野朝臣堅身(かたみ)が百済系集団中心の美作国を新設したことなどが挙げられる。

日本三古碑とされる、多賀城碑は大野朝臣東人が築いた多賀城にあり、多胡碑は上毛野国にあり、那須国造碑は下毛野国にあることは、単なる偶然ではないだろう。

東国六腹朝臣のうち、上毛野君、佐味君、大野君、下毛野君については実名を挙げて紹介したが、車持君と池田君については今の私の手許にある資料からは実名を挙げることができない。しかし、藤原不比等の母が車持君与志古娘(よしこいらつめ)であるとされることは注目される。

不比等は中臣鎌足(藤原鎌足)の子とされ、壬申の乱の際には田辺史に匿われたので史(ふひと)と名乗り、後に不比等と改名したようだ。

上毛野君一族は「朝鮮政策」に関わったため帰化人との関係が強い。『新撰姓氏録』左京皇別下によれば、多奇波世君(竹葉瀬君)3世の孫久比(くひ)は6世紀末の崇峻天皇の代に呉国から呉権(波賀理、はかり)をもたらし、その名も商長首(あきおさのおびと)の姓を得ると共に独占的使用権を許されたという。

渡来人、帰化人の宗教と言えば仏教や道教がある。上毛野国・下毛野国には中国・朝鮮の政治・宗教思想が早くから普及していた。

日本天台宗の成立に当たって、鑑真の高弟道忠から最澄に託された天台座主第2世・円澄(武蔵国埼玉郡出身・壬生氏)、天台座主第3世・円仁(下野国都賀郡壬生町出身・壬生氏)はじめ数多くの東国僧の尽力があった。

三戒壇の一つがあった下野薬師寺も、下毛野君一族の存在がなければ建立されなかったであろう。

こうして上毛野君、下毛野君などを調べることによって、宇都宮二荒山神社の主祭神が豊城入彦命であることは、祀った氏族との関係から、その共通の始祖として神格化するには相応しい人物であったことが納得できた。

宇都宮二荒山神社の社家から武家となり、地名の宇都宮を名告った宇都宮氏が知られる。

宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説がある。

宇都宮氏は、藤原宗円がこの地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘り関東地方の治安維持に寄与した名家である。

庶流に常陸国守護小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配した紀清両党とも姻戚関係にあった。

宇都宮氏5代(4代とも)の弥三郎頼綱は、1205年(元久2年)謀叛の疑いをはらそうと出家して蓮生(れんしょう)と名乗った。上洛して法然の教えに接し、法然の死後証空に師事したが、藤原定家に歌を学び、やがて娘を定家の子息為家に嫁がせ、為氏・為教らが生まれた。

嵯峨中院にあった蓮生の山荘の襖におす色紙として定家が天智天皇以来の歌人の歌を揮毫して贈ったのが、「百人秀歌」で、後の小倉百人一首の母体となった。

こうした縁で、宇都宮一族の人々は上洛しては京都の歌人たちと交際を重ね、一族に歌人が多く出た。

『金槐和歌集』で有名な鎌倉三代将軍源実朝に愛された塩谷朝業(ともなり)は、蓮生の弟で、実朝暗殺後出家して信生法師となる。

その信生の子の笠間時朝や宇都宮泰綱(蓮生の子)、泰綱の子の景綱など多くの歌人が下野歌壇を形成し和歌集などを残した。

宇都宮景綱(蓮瑜)は、蹴鞠の名手としても知られ、笠間時朝はいわゆる笠間七仏をはじめ京都蓮華王院(三十三間堂)に千手観音を寄進したり、鹿島社に唐本一切経を奉納するなど、宇都宮一族の文化活動・造寺造仏は多彩なものがあった。

宇都宮二荒山神社の宝物に、新式和歌集(市指定文化財)があるが、これは宇都宮氏一族の歌集「宇都宮打聞新式和歌集」のことで、藤原定家の孫・二条為氏(蓮生の外孫)の編集とされる和歌集である。寛文12年(1672年)の書写本で、この歌集の写本としては最古のものだとされる。天保4年(1833年)に奉納され、昭和33年市の文化財に指定された。

与謝蕪村が宇都宮で自身最初の『歳旦帖』を編集発行したり、「宰鳥」から「蕪村」に改号したのは、このような土地柄があったからではないだろうか。

宇都宮からそれ程遠くない栃木市田村町に下野国府があった。この田村町は坂上田村麻呂と関係した地名かもしれない。

二荒山神社の荒ぶる神は、蝦夷征討を祈願する軍神でもあった。各時代の著名な武将が戦勝祈願して、種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられている。

主な武将を挙げると、藤原秀郷(平将門の乱)、源頼義、源義家(前九年・後三年の役)、源頼朝(奥州合戦)、徳川家康(関ヶ原の戦い)などである。

平将門の乱にあっては、藤原秀郷がこの神社で授かった霊剣をもって将門を討ったという伝説がある。家康の関ヶ原の戦い以外は東国での戦いである。

また、『平家物語』(巻第十一)によると、那須与一が源平屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、次のように念じたという。

「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜ばせたまへ。これを射損ずるものならば弓切り折り自害して人に再び面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さばこの矢はずさせたまふな。」

ここに“宇都宮”とあるのが、宇都宮二荒山神社である。多くの武将が祈願した荒ぶる軍神であった。

しかし、東山道一の軍神と言えば信濃国一宮 諏訪大明神(建御名方命)である。一時期、二荒山神社の祭神に健御名方命が入ったのは、東山道経由であったことは想定できる。

中世の説話集『神道集』の中に甲賀三郎の物語があるが、甲賀三郎は最後には諏訪大明神として祀られる。また、三郎の兄、甲賀太郎は下野宇都宮の示現大明神、三郎の愛人は上野の抜鉾大明神となったされる。この下野宇都宮の示現大明神とは、宇都宮二荒山神社のことで、上野の抜鉾大明神とは上野国一宮の貫前神社のことである。諏訪大社も貫前神社も宇都宮二荒山神社もみな東山道沿いにある。

更に、甲賀佐三郎は伊賀国一宮の敢国神社に祀られていた。また、『梁塵秘抄』の歌の中で美濃国一宮南宮大社と敢国神社と諏訪大社が繋がる。

甲賀三郎の故郷である甲賀の里は近江の国にあるので、伊賀国とは国を異とするが、伊賀忍者・甲賀忍者で有名なように空間的隔たりはない。また、この忍者の住む山地地域が修験者や陰陽師たちの溜まり場でもあり、彼らの生活形態や信仰は独特で、この秘教的な集団は里人とは違い全国の山岳地帯を移動して、多くの伝承や説話を伝えたり情報を伝えた。全国の一宮などの霊場を廻ったという六部もその一形態であったのかも知れない

 こうして見ると、古代から近江(甲賀)、美濃(南宮神社)、信濃(諏訪大社)、上野(貫前神社)、下野(二荒山神社)と東山道に沿って、得体の知れない信仰とも呪術とも言えるような言えないような摩訶不思議なスピリチャルな流れ(気)があったようにも想像されるのが楽しい。そう言えば、天下分け目の関ヶ原の戦いも、このルート上での戦いであった。

有料駐車場に車を駐めたこともあり、少し気ぜわしい参拝になった。日が長くなったとはいえ、時刻は5時を回った。餃子を食べる余裕がなかったことが少し残念だが、今日の最後の訪問地である宇都宮二荒山神社から一路自宅に帰ることにした。

帰りは高速道路を使う。カーナビに登録してある自宅を選択して走り出した。カーナビは、二荒山神社の南へ向かう表参道へ車を導いた。参道を下っていくと目の前に城跡の一部が見えた。当社が宇都宮城の真北にあることは分かっていたはずだが、こうして城跡が見えると実感を伴って納得する。信号で停まったので写真を撮った。

宇都宮城が城郭として整ったのは近世本田正純の時からだという。1619年(元和5年)からの2年10ヶ月の大工事と、わずか2年余りでの失脚という悲運がとりざたされて、正純謀叛の伝説“釣天井”の話が生まれた。戊辰の戦火で焼かれ、その後本丸跡は公園になり、城郭の一部がわずかに残るだけだという。

徳川家康が没して「日光東照宮」が造営されると、宇都宮城が歴代将軍が日光を参詣するための宿泊場所となり重要な宿駅となった。日光街道・奥州街道の宿場町として商品交易の地として発展した。

維新後は、1871年(明治4年)宇都宮県が成立、2年後には栃木県に統一され栃木町に県庁が置かれたが、明治16年に三島通庸が県庁を宇都宮に移したことにより行政・商業の中心となり、日本鉄道(現JR)東北線開通後は、交通の要衝にもなった。やがて第14師団が配属され都は都でも軍都となり、戦災で焼かれた。その後、復興して内陸工業都市の一面もそなえ関東北部の有力都市となっている。

常磐自動車道では水戸まで3車線でその先は2車線になるが、東北自動車道では宇都宮まで3車線でその先は2車線になる。こんなことも宇都宮が有力な地方都市であることが分かる気がする。

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