http://kon-yu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-a095.html 【足利の藍染め】より
足利で本染めの藍染めが始まったことは書きましたが、足利の藍染めと言えば「藍愛工房」です。染め師は私の父、大川仁。
父は日本中の百貨店で藍染めの実演をして藍染めを広めた。私の家内は「日本に藍染めを広めたのは父だ」といって憚りません。そして、それなりに有名でもあった。
亡くなったのが平成13年だから、もう16年も経ちます。ですから、若い人は知らないかもしれませんが、当時、足利がテレビで紹介されると、必ず父の藍染めが出ていました。
藍染めは本来醗酵です。醗酵の藍染めは、今でも簡単には出来ません。だから、職人仕事。
父はその「醗酵」にこだわった。そのおかげで今の私の本染めがあるし、それが足利で受け継がれようとしている。私が「ありがたいことだ」という理由です。
実は藍染めは、誰でも簡単にできる方法があります。それが現在、日本中で行われている藍染。その違いを知ることこそ、藍染めの意味・意義を知ることでもある。
http://kon-yu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-a7ab.html【佐野の藍 足利の紺屋】より
栃木県佐野市は藍の産地だった。藍農家が沢山あり、藍(すくも)も作っていた。その代表的人物が田中正造。
幕末、彼は父親に反対されながらも藍師(すくもを作る人)となり、3年間で300両の大金をつかみ、それを束脩(学費)として社会という学校に打って出たと自伝にある。
田中正造たちの作った藍(すくも)を買うお客は、もちろん地元にもいたけれど、その多くは足利の紺屋だった(市史)。
織物の産地として足利・桐生は有名だけれど、佐野も同じなのになぜ名が出てこないかというと、足利の組合に属し、下請けのような存在だったから。藍もまた、おなじか。
http://www.kon-yu.jp/concept.html 【紺邑】 より
「紺邑」は、コンユウと読みます。
「紺」とはもちろん、藍染の出す色の典型。それは人類の文化の中で最も古い染ですから、私達は伝統工芸の代名詞としました。
「邑」とはムラと読むように、「人の集まり」を意味します。つまり、「紺」と「邑」を結ぶことにより、伝統工芸に人が集まるイメージを表した屋号なのです。そこには、藍を染めるだけではなく、伝統工芸を世に広め、そこに人々が集まり、日本の文化の継承に役立とういう、私達の願いが入っています。
紺邑は、栃木県佐野市閑馬町という、水と空気がきれいで景色も美しく、文字通り閑かで長閑な山間にあります。里山に囲まれ、田や畑や梅林があり、四季折々にすてきな風景を見せてくれます。
代表メッセージ
紺邑代表の染め師、大川公一と大川洋子です。
二人ともそろそろ老年を迎えようとしています(入っているという噂もある)。
ふと気が付いたことは、老い先そんなに長くないなということと、私達の藍染めは日本であまり例の無いもののようだということです。
昨今、日本中の藍染め愛好家や染め師が紺邑にいらっしゃるようになり、日本の藍染めに関して、私の知らないことを沢山教えてくださるようになりました。それは残念ながら、藍染めに対して誤解ばかりだった。
その誤解を放って置くという手もあり、解くという手もある。
放って置けば、誤解が蔓延る。誤解を解くには、相当なエネルギーが要る。
考えた末、出来るだけのことをして誤解を解くことにしました。それには正しい藍染(正藍染)を伝えることだと。
・藍建て講習会
講習会一期生
技術を言語化することは難しいことでしたので、2年ほど伝える修行をして、2016年から「藍建て講習会」を開き、蒅(すくも)を灰汁だけで建てる伝統的な「本建て」を伝え始めました。現在、私の藍建てで染め液を作る人たちは、沖縄、北海道から海外にまで広がり、人数も百名を超える規模となっています。その中には全く藍染を知らなかった人もいれば、藍染や草木染めを30年以上なさっている作家や染め師など、多種多様です。講習生が100名を超えた時点で第二次とし、より充実した講習会になっていると思います。
・佐野藍復活プロジェクト
震災の年の5月、福島県双葉郡浪江町から佐野市に避難なさって来た老夫婦と、紺邑の前にある畑に藍草を植える事から、佐野藍の復活が始まりました。
佐野市は江戸時代から、藍の盛んなところでした。藍草の栽培から蒅作り、蒅の販売から藍染め、そして藍甕づくりと、佐野だけで藍は完結をしていたほどですが、明治39年に滅びました。それを復活させ、新しい産業の創出と文化の継承を図るのが「佐野藍復活プロジェクト」です。
私達の力など小さなものですが、尊敬する二宮尊徳は「積小為大」と言っています。小さな積み重ねが大きなものになるのだと。
これからも、小さな力を積み重ね、日本に正藍染が残される努力をして行きたいと考えています。
https://wa-gokoro.jp/traditional-crafts/Dyeing/296/ 【藍染とは?藍染の歴史や作り方をご紹介!】より
藍染の歴史
日本における藍染めとは蓼藍たであい (蓼科の藍という植物)を使った染め物のことです。
蓼藍は東南アジア原産で古墳時代の終わり頃にシルクロードを通ってインド、中国、朝鮮を経て日本に伝わったのではないかといわれています。
日本の藍染めは江戸時代、現在の徳島県で盛んに作られました。
江戸時代に盛んに作られた理由としては、江戸時代には庶民は華美を禁じられていたことが挙げられます。
紫や紅、梅色などの高貴とされていた色が使用不可となり、藍色が多く使われるようになったのです。
江戸の庶民たちは、制限を加えられた中でも、なんとか洒落た物を身に付けたいという願望を持ち続けていました。
そこで、政治を行う人たちには贅沢とは見えないような贅沢な物である、藍染めで染めた物を作っていたのです。
明治時代、開国した日本に訪れた海外の人々は藍染めの鮮やかで深みのある藍色(青)を「ジャパン・ブルー」と賞賛したといいます。
絹、麻、木綿などの天然素材によく染まり、藍染めをした物には消臭効果があり汗臭くならなかったり、虫除けや蛇除けの効果があるといわれています。
木綿や麻の粗末な生地の着物などの衣類はもちろん、てぬぐい、のれん、夜着(掻巻)※、教典など幅広いものが染められました。
※夜着(掻巻):袖がついており、綿を入れた厚手の着物状の寝具のこと。江戸時代頃には、綿布団はまだ高級品で、夜着(掻巻)を掛布団のように掛けて寝具としたり、寒さの厳しい地域では帯を用いて着用されていた。
藍染めは液に浸ける回数が増えると濃くなります。
日本人はごく薄い藍色を「水浅葱みずあさぎ」、そこから少し濃くなった緑色を帯びた青色を「納戸なんど」、「藍」を経てもっと濃い色を「搗色かちいろ」など伝統的な名前をそれぞれに付け、大切にしてきました。
各地で藍染めの専門店「紺屋こうや」ができ、藍染め製品を製造していましたが、昭和初期になると人工的に藍色を染める技術が誕生。
時間と手間がかかる藍染め文化は減少していきます。
インディゴ・ジーンズの藍色も今はほとんど人工的に作られた合成染料で染められた色となります。
手間ひまがかかる藍染め液の作り方
藍染の液ができるまでは蓼藍を刈り取ってから4~5ヶ月かかります。
手順1
春に種を撒いた蓼藍を初夏に刈り取り、乾燥させ1.5cmくらいに刻みます。
手順2
葉に水をかけて高く積み上げ、むしろをかけて3ヶ月ほど寝床と呼ばれる建物の中で寝かせます。
その日の天気や気温を見ながら水をかけたり、撹拌するなど世話をすると高温になりながら発酵し湯気が立ちこめます。
この蓼藍が発酵した状態を「蒅すくも」といいます。
手順3
蒅を染め液にするにはまず土中に埋められた藍甕あいがめなどに水、蒅、石灰※や灰、小麦粉や糖、酒などを加え温度を30度くらいに保ちます。
微生物が働きだし更に発酵し堆肥のような匂いがしてくると1週間ほどで完成。
伝統的な紺屋の染め場では、火を入れる事ができる火壷ひつぼの周りに染め液が入った藍甕を並べ温度管理をします。
※江戸時代には、三重県の桑名市から蛤はまぐりを焼いて粉にした貝灰を取り寄せ、石灰の代わりに使っていました。貝灰を使った蒅すくもは、柔らかく、蒅の中の藍も程よく染液に溶けてくれるので、蒅の寿命が長くなります。貝殻なので、人の肌にも優しいです。一方、石灰は、水に溶けず、微生物のエサにもならないため、継ぎ足すほど染液に残り、蒅の藍が染液に溶けるのを阻害します。撹拌するときも、蒅が堅くなって苦労をしますし、石灰は人体にとって良くないともいわれています。
手順4
染め頃になると上部に泡が盛り上がり、染め時を知らせてくれます。
これが「藍の花が咲く」と呼ばれる状態。
そしてこの染め液を作る一連の工程を「藍建あいだて」、「藍を建たてる」と呼びます。
地域や職人によって藍建ての方法は異なりますが、最後は目や手で確かめたり、匂いを嗅いだり時に口に含んでアルカリ度を調べるなど、五感を使って見極めるといいます。
まさに職人技。
出来上がった蒅はそのまま染めに使ったり、水分を飛ばして固形にし「藍玉あいだま」にしたりします。
藍玉にすることで貯蔵ができ、遠方への運搬ができるようになりました。
徳島で作られていた藍玉は高知県の野根海岸の砂を混ぜて作られており、海岸の砂に含まれる塩分が腐敗を防いでいたといわれています。
そのため、江戸時代にはこの藍玉が取引され全国各地の紺屋で利用されました。
むしろをかけて寝かせ、時に水をやり寝返りを打たせ、食べ物を与え温めて…まるで生き物を育てるように大切に大切に手間ひまをかけて藍染め液を作るのです。
また、藍染め液を作ることももちろん大変ですが、作った液のpHの数値が下がって酸にならないように一定に保つことも難しいそうです。
染め方
天然素材の糸や布を染め液に一気に浸けます。
その後、染めたものをよく絞って空気に触れさせるようにきれいな水に浸けます。
一般的には水に浸けますが、化学反応により染まりやすくなるという理由から、大豆汁こじるに浸けることもあるそうです。
最初は黄緑っぽく見えますが、藍染め液が酸素と化学反応することでみるみるうちに青く染まっていきます。
さらに、繰り返し染めと洗い(重ね染め)をすることで薄い青から濃く深い藍色になっていきます。
染めたくない場所を糸で縫い留めてから染め液に浸けることで、縫い留めた所が白いまま残り模様が浮かび上がります。
これが絞り染めです。
天平の三纈
天平時代、日本には「天平の三纈さんけち」と呼ばれる3つの染色技法がありました。
1. 夾纈キョウケチ
「夾」は「はさむ」という意味です。
まず、2枚の版木で生地を挟みます。
版木には穴が開いていて、そこから染料を注ぎ込むことで布に染料がしみ込むのですが、版木の当たっている部分は染まらず、柄ができます。
2. 纐纈コウケチ
「纐」は「しぼる」という意味(絞り染め)です。
生地を糸で括ったり、縫ったりする事で防染をする染色です。
先ほどお話した絞り染めが、これにあたります。
3, 臈纈ロウケチ
蝋を熱で溶かしたものを生地につけて防染する技法です。
絵柄の切り抜き型を作り、布に型を合わせて蝋を塗布したり、筆に蝋をつけて水墨画の要領で柄を描いて染色する技法などがあります。
それを染め液に浸けると蝋がついた部分だけが染まらず、白いまま残り絵柄が浮かび上がります。
ほかにも染める手法がいくつもあり、藍染めと一口にいってもさまざまな表情が生まれます。
不思議なことに、この複雑で非常に時間がかかる藍染め液の作り方や、工夫を凝らした染め方は、現代の化学的な分析をすると理にかなっている方法であることがわかりました。
しかし、当時はそんな技術はない時代。
ここまで辿り着くまでにどれだけ研究を重ね、失敗を糧に経験を積み、伝承されてきた文化なのか想像するとロマンを感じます。
藍染めの今後
藍染めは無形指定文化財に指定されており、今でも全国各地で藍染め職人が藍染めを伝承しています。
しかし、かつて染めていた着物などのニーズは減少。
そのため、近年の藍染め職人の中にはスニーカーやTシャツ、バッグなど現代にも使いやすいものを染めるなど時代の変化と共に新しい発想を加えつつ、藍染めの伝統を守りながら作品作りをしている方も多く見られます。
また、現代アートとして藍染めの手法を使うアーティストも出てきています。
0コメント