愛されていないという悪夢から目覚める

秋蝶の翅の破れて舞ふ陽かな  五島高資

The autumn butterfly

with a torn wing

in the bright sunshine Taka Goto

Facebook・Ayuka Mizoguchiさん投稿記事 ·

パートナー、家、お金、思想、他者の承認・・・。私たちはこれらを”得る“ことで安心する。でも真の安心は手放せる心の中にある。そして手放した心の中で、平和と自由、無条件の愛がすべて同じことだと知る♪

https://ayukablog.wordpress.com/?fbclid=IwAR3wqSgzL15qHe9vR5uou2RYRRlf-47GomrD2-JzQAUHxGnnJAGlX6xB7vI 【愛されていないという悪夢から目覚める】 より

今日のイギリスはとってもさわやかなお天気です。というか、すっかり秋の気配を感じています。さて、私たちの多くはおそらく、自分が相手から好かれているか、受け入れられているか、愛されているかということが気になるものでしょう。

分離した個として生きている限り、受け入れられること、愛されることは生き残っていくためにもとても大切なことです。受け入れられている、愛されている、自分の居場所がある、自分は求められている・・・、これによって分離している世界の中で私たちは温かみ、安心、つながりを感じることができますよね。

でも、もし好きな相手が冷たかったら、別れることになったら、周囲の人がとげとげしかったら・・・。自分の居場所がない感じ、自分の存在が忘れられた感じ、孤独、世間は怖くて危険な場所にとたんになってしまいます。

つまり、自分の安全、幸せは相手や周囲次第ということですね。

そこで無意識のうちに私たちは相手をつなぎとめておくため、周囲に受け入れられるために自分を磨いたり、役立つ存在になろうとしたり、相手が喜ぶことをしたり、いろいろと頑張ります。

私はありのままの自分はつまらなすぎて、人が相手にしないと深く信じ込んでいた(こう信じ込んでいたことも気づきませんでしたが)ため、友人関係を続けるためには、相手のニーズに答え続けることだと無意識に信じていました。

ので、友達に頼まれたことはすべてやり、ノーと言うことをまったく知らなかったのです。もちろん嫌だなぁと思うときや疲れるときも山ほどありましたが、人間関係ってそんなものと思っていたのです。

小さいころにニグレクトを経験していたため、とにかく一人ぼっちになることを避けていたんですね。しかし、問題は一人ぼっちを避けていたその下に、愛されたい、必要とされたい、いつも私を見ていて欲しいという大きな飢え(=ニーズ)があったことです。

問題と書きましたが、もちろんニーズあることが悪いわけではありません。ほぼすべての人にあり、ニーズができた状態をよく見れば、そこに誰も悪い人はいなんです。

ただ私の場合、その後その飢えが刺激されるたびに、死にたくなるほどの苦しみを何回も体験し、また普段もどこかで薄っすらと生きづらさを抱えていたなぁと思うのです。

さて、このニーズが大きいほど、私たちは愛、受容、安心安全を強く求めます。当然ですよね。そして、愛されていると感じれば、恍惚の嬉しさを感じ、病みつきになります。(ストーカー問題はここにあり)また、他者や世界をその目を通して解釈していきます。

相手が自分に何を言ったか、どんな振る舞いをしたか、相手や周囲の動向に敏感になります。そして、いちいち解釈するんです。

その解釈も自分のメガネを通しているので、彼が~~って言ったということは、私のことを考えていなからだ・・・、仕事を割り振られなかったのは、私の仕事ぶりが信頼されていなんだ・・・などとたいていネガティブになります。

自分の解釈ですが、私たちのほとんどは、それが自分の解釈というより、“実際に起きていることだ、事実だ”と思ってしまうものです。

私は最近、「誰も人生なんて生きてなくて、みんな自分の思考を生きているだけ」と少々乱暴なことを言っています。実際、ほとんどの人が自分が解釈したことを事実としてその世界に生きているだけなんです。言い換えれば、事実ではなく、自分の思考(解釈や意味づけ)を無条件に信じて生きている。では、人生を生きるってどういうこと?事実を生きるということ?

それはおそらく一瞬、一瞬が真新しい瞬間であって、一瞬、一瞬に生命の匂い、エネルギーを感じて生きるということでしょう。自分の心の傷や過去の出来事によって生み出された古くて繰り返されている思考ではなく、生命が送ってくれる愛から来る思考で人生を創造していくこと。

じゃぁ、その区別はどう分かるの? 生命が送ってくれる愛ベースの思考は、ニーズや期待がなく、ありのままを愛している思考です。

私自身のニーズはいくつかのトラウマともつながり、幼い私は怯えきっていて、一人ぼっち、そして世界とのつながり(愛)と完全に分離していました。セッションを受けたり、自己ワークしながら地道に癒しを繰り返し、最終的には非二元の理解の中で幼いトラウマの私は癒されていきました。(やっぱり癒しと非二元の両方って良い♪)

ニーズが癒されると見えてくるのは、愛とは愛されることで手に入るものではなく、人を無条件に愛することで知るものだということです。そこでほんものの安心安全と平和、無くならない愛を得るんですね。

だから、ほんとうに大切な問いは、私は愛されているか?ではなく、私は人を無条件に愛せるか?だなぁとつくづく思うのです。愛される私になるのではなく、愛することができる私になっていく。

さてそれじゃぁ~と、いきなり無条件に人を愛そうと頑張る前に、まずは、自分が条件をつけてしまうところを見ていくと良いですよね。なぜならそこに自分のニーズ、心の飢えが隠れているからです。

ということで、まずは自分のニーズと出会い、受け入れ、理解していくことが第一歩でしょうね♪

すべての人が十分に愛に支えられている、自分は一人ぼっち、愛されていないという悪夢があるだけ。

【社会が変わるときこそ、過去や未来から自分を解放しよう♪】

今年は仕事の分量を5分の1ぐらいにし、まったく新しい人生設計でいこうと思っていた矢先にコロナ騒ぎが始まりました。ある意味、タイミング的には良かったかもしれません。が、世界の変動と自分の人生の転換期が重なると、思考がいつもよりフル回転し始めます。

ということで、思考の観察。というか、ただ眺める。実はこれは私の長年の習慣で非二元や悟りなどほとんど知らなかった頃、ロンドンの本屋さんでまったく知らない人にエックハルト・トーレのThe Power of Nowを薦められたのがきっかけで始まりました。

それまでただ考えているという状態が当たり前だったため、考えていることをいちいち眺めるのは相当な努力が必要でした。しかもかなり地味な作業で、退屈でもあり、思考が大好きな刺激(分かったぞ!そうか!などのワオ!体験)もなく、やる気を維持するのはけっこう大変でした。

しかし、あれから十数年。眺める癖がついたおかげでかなり自分との距離ができ、そのため逆に自分との付き合いもだいぶ良くなりました。そしてつくづく思うのは、私たちは誰も人生を生きておらず、みな自分の思考を生きているだけだなぁと。(思考が現実を作るという話ではありません)

ほとんどの私たちの人生とは、生まれてくる思考に乗っ取られた人生であり、自分の思考ワールドに囚われた人生なんですね。なので、英語では悟りのことをliberation(解放、自由)といったりもするのでしょう。自分の思考から解放され、真の自由を見出す・・・。

また、思考から解放されると、もれなく時間からも解放され、時間がいかに存在しないかもはっきりと見えてくるでしょう。

過去の思い出とか未来への夢、または不安といった思考自体は、“今”現れてくるかもしれません。でもそれらは記憶という形や将来へのイメージとして存在しているだけで、そこに実態はありませんね。

ただ、その過去の思い出に感情がたくさん紐づいていれば、体も反応し、非常に実態感が強くなります。その最たるものがトラウマで、トラウマは私たちを過去に引き戻し、そしてそっちが現実だと強く主張します。

また、私たちが無意識に抱えているたくさんのビリーフ自体が過去の経験による産物です。幼い時に突然母親が自分を置いて去ってしまった経験があれば、“私の存在は無用だ”とか、その人それぞれですが、何らかのビリーフが強烈に出来上がります。

で、私たちはそのビリーフをベースに人生を生き続けるんですね。つまり、過去を生きているということです。

また、未来に関しても先が見えなければ見えないほど、思考は安心安全をどこかに求めます。

“こうしておいたほうが良いかな”、“あれをやっておけば大丈夫かも”、“こうなったら良いな”、“うまく行かなかったらやばいぞ”・・・。

未来への思考はとくに“自分の望む人生を創るミッション”にいそしみやすいので、それはまた“自分の人生をコントロールする”という方向にあっという間に行きやすいです。

しかし、人生なかなか自分の思うようにコントロールできず、そこで悩んだり、苦しんだり。こんなふうに私たちの多くは過去をベースに現在を解釈し、未来へのコントロールを握りしめて生きているものです。

でももし、それらから一切解放されたら? 自分の思考ワールド(=投影)から自分を自由にできたら?

私たちはそこで初めて“生命”、“現実”と出会うのです。自分の思考を生きるのではなく、生命を生きる。これ何も思考を持たないとか、過去や未来を考えないという意味ではまったくありません。思考の幻想性を真に知れば良いんですね。思考は正しくも間違ってもいなく、何も真実を指していないとはっきり見抜けていれば良いんです。

でも未来への考えを信じないといっても、目的や目標って必要じゃない?と思われるかもしれません。例えば、コロナ禍のためにお店の経営が傾いてしまったとして、売り上げを目指すという場合。

もちろん、一見経営を良くするという結果を目指すのですが、でも、私たちがやることは瞬間、瞬間を生きることなんです。経営状態改善という方向性に向けて瞬間、瞬間現れているものに過去や未来を投影せずに、シンプルに対応していく。

湧いてくるアイデア、現れてくるTo Do Lists、過去に戻ったり、先走ったりせず、目の前に現れてくることをシンプルに丁寧に生きて行く。

そのうち、このアイデアどこから湧いてきたの? To Do Listsをこなそうという行動はどこから来たのかな?自分の中?それとも?と深く深く見ていくうちに、そこにはコントロール主(自分)というものはいなくて、生命のエネルギーが生み出していることが見えてくるでしょう。

そしてたぶん、私たちにとって一番平和や幸せに近い場所はここであって、そして変革の中を一番スムースに移行できるのだと思うのです。だから生命の声が聞こえる自分でいたいなぁと思うのです。

とはいえ、何度も思考にはまりながらデコボコに進んでいくのが私たちですね。自分に優しく行きましょう♪

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