https://1000ya.isis.ne.jp/1571.html 【紫式部 源氏物語 その3】 より
エミール・シオラン(23夜・1479夜)に、「私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ」という深い一行があります。『告白と呪詛』(紀伊国屋書店)に出てきます。
シオランは観察と洞察のアフォリズムの異才で、“涙の反哲学者”ともいうべきルーマニア人ですが、ずっと母国語をさがしつづけているのです。シオランが生まれた頃のトランシルヴァニアでは、ルーマニア母語はもうぐちゃぐちゃになっていたからです。
ぼくも『源氏』を読んでいるとまさにそういう気になります。この言葉って、ぼくの中のどの反応とつながっているのだろうと、何度も思わされるのです。
国語ってふだん使っているのだから、自分は国語も母語も知っていると思ってしまうと、とんでもない偏見国語ニンゲンになってしまいます。それよりも、われわれはずっと国語からはぐれている歴史を走ってきてしまっていると思うべきでしょう。学校のセンセイが教える国語も一度、総点検したほうがいいですね。
国語すなわち母国語はまさに「マザー」というべきものです。実際にも“mother language”とも“mother tongue”とも言いますね。けれども、われわれが自分を生んでくれた母をしばしばぞんざいに扱っていたり、生まれ育った故郷をとんでもなく希薄なものにしてしまっているように、「母なる国語」もどこか薄明の彼方へ置いてきたと感じたほうがいいと思います。
ぼくは今度、年末年始をはさんでほぼ一カ月ほど『源氏』に浸りきってみたのですが、そこに万葉でも新古今でもない、むろん明治以降の近代国語でもない「母なる国語」の“横切り(よぎり)”を感じるとともに、ぼくがしばらく「言葉としてのマザー」の探求をしていなかったことを思い知りました。
ついつい原点回帰に向かってしまうんです。「母なる国語」は原点まで行ってしまうと、これは行き過ぎで、かえってわからなくなります。母国語というもの、どこか途中から形成されているからです。それはルーマニアだってイタリアだってドイツだって同じです。
原点まで行ってしまうと、そこにはアニミズムがあったり、神々がいたり、もっといえば縄文人(1283夜)やバイキャメラル・マインド(1290夜)があったりするけれど、それらは母国語ではないんですね。
国語はやはり言葉遣いや文化や習慣や、それから文字表記とともに形成されます。それは「生まれたもの」というより「育くまれたもの」に近い。「あった」ものではなく「なった」ものなんです。縄文このかた長らく無文字社会だった日本の場合は、漢字が入ってくるだけでは日本語表記は生まれなかったのです。万葉仮名の工夫に続いて、仮名文字や女文字が使われるようになって、やっと宮廷言語を形成させた。だからこれに接するにあたっては、当方の想像力をそこにうまく落ち着かせる思い切った方法を実感する必要があるんです。
そういうことを、言語史全部見るとか文学史全部見るとか、そういうことをしたら見えるかというと、そうではないんですね。
『源氏』を3度にわたって現代語に移した谷崎(60夜)は、「国語と云うものは国民性と切っても切れない関係にある」と『文章読本』(中公文庫)に書きました。日本語という国語の特徴は「語彙の少なさ」にあるとも言っている。たしかに谷崎源氏は訳すたびに言葉を削っています。
参考のために引いてみると、その試みは『源氏』冒頭の彫琢にすでにあらわれています。「いづれの御時(おんとき)にか、女御更衣あまた侍(さぶら)ひ給ひけるなかに、いとやむごとなきにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」というところ、次のように3段階に推敲しているんですね。
最初は「いつの頃の御代(みよ)のことであったか、女御や更衣が大勢伺候してをられる中に、非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが、すぐれて御寵愛を蒙つていらつしやるお方があつた」というふうに旧仮名文語調で訳しています。これはどう見てもぎこちない。
次が「ですます調」になって、「いつの頃の御代(みよ)のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候してをられました中に、格別重い身分ではなくて、誰方(どなた)よりも時めいてをられる方がありました」というふうになる。
ずっとすっきりしているだけでなく、ちょっと短くなっている。それから「高貴な家柄の出と云ふのではないが」というような「が」なくなっていますね。『源氏』には逆説的な「が」はめったに出てこないんです。そういう「しかし、だが」が出てくるのは『徒然』や『方丈記』です。式部の文章では「そういう高貴な出の方でない方がいて、それは」というふうに関係代名詞っぽく次々につながっていく。そこが特徴です。
それで3度目の新々訳では、「何という帝の後代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいてる方がありました」というふうにまで絞られます。さすが谷崎ですね。「時めいてる方がいた」ではなくて、「ありました」というところも大事です。
こんなことを言っていると、うーん、『源氏』を読むってたいへんなことなんだと思われてしまいかねませんが、まあ、むろんそうなのですが、しかし、どう正確に読むということでもないとも思います。
谷崎潤一郎
1939年〜65年にかけて計3回にわたり、現代語訳を出版した
歌人であって、折口信夫(143夜)の最後の弟子であり、ずっと源氏講義を続けられている岡野弘彦さん(1466夜)は、『源氏』を読むことは日本人の「根生いのこころ」にかかわることだと、ことあるごとに言われています。
「根生いのこころ」、それが『源氏』すべてが持っていると言われるんです。根生い、いいですねえ。まさにそういうことなんだろうと思います。
本楼で挨拶をする岡野弘彦
さて、千夜源氏の第1夜と第2夜のここまでで、それなりに『源氏』の物語としてのアウトラインや登場人物のそれなりの特徴や、源氏読みで必要だろうと思われる構成要素をラフスケッチしてみました。
それはそれでぼくなりにけっこう気をつかってスケッチしたのですが、事実誤認も見当違いもあったとも思います。ま、それは勘弁していただくとして、ここからはぼくが気になってきた源氏モンダイに好きに入っていきたいと思います。
とはいえ源氏モンダイといってもひとつにまとまるものでもないし、まとまってもいません。論者の数だけモンダイがあるといってもいい。
だいたい源氏研究の歴史は14世紀の四辻善成『河海抄』(かかいしょう)を筆頭にそうとうに長く、またたいそう多様です。主要な研究書だけでも1000冊はゆうにこえるでしょう。いや、もっとかな。1桁ちがうかな。ともかくもそこには歌論もあれば物語構造論もあるし、作者論も儀式論もある。時代論・花鳥風月論・衣裳論・室内調度論から平安京都市論・敬語論・語彙用語論・絵巻論まで、何でもありです。
なかには水野平次や中西進(522夜)さんのように紫式部が好きだった白楽天との関係だけを掘り下げたものも、レヴィ=ストロース(317夜)やバフチンの視点から『源氏』を読んだ藤井貞和や高橋亨さんたちの濃厚な研究もある。とうていぼくにはカバーできません。
実は紫式部学術賞まであるんです。紫式部顕彰会というところが出している。これは、1965年にユネスコが「世界の偉人」に初の日本人として紫式部を選んだんですが(知っていましたか)、そういうことに無関心な日本人にちゃんと紫式部や『源氏物語』のことを知らせようということで顕彰会ができて、そこから出ている学術賞です。
ぼくもちらちら見ていました。初期のころの日向一雅の『源氏物語の準拠と話型』(至文堂)とか、川本重雄の『寝殿造の空間と儀式』(中央公論美術出版)、緑川真知子の『「源氏物語」英訳についての研究』(武蔵野書院)とか、おもしろかったですよ。とくに編集工学の立場から言うと、加藤昌嘉の『揺れ動く源氏物語』(勉誠出版)が「編集しつづけられてきた源氏」という観点からインターテキスト、トランステキストの源氏エディションの多様性を追っていて、なかなかでした。
ただ、今夜のぼくはこれらを紹介したり点検したりするつもりはありません。以下に話すことは、先行する多くの研究成果にいろいろヒントをもらってはいるのですが、あくまでぼくが勝手に気になっている源氏モンダイです。
千夜源氏・第3夜に赤入れする松岡正剛
2014年末から2015年明けまで、執筆と赤入れを何度も繰り返した。
第3夜3回目の赤字原稿(抜粋)
毎夜5回以上の赤字が入り、1ヶ月以上かけ千夜源氏は完成した。
たとえば光源氏とは何者かということ。単純なようでいて、これがけっこうな難問なんです。
桐壺の帝という天皇の子ですが、天皇ではない。準天皇のような不思議な位置になっただけです。冷泉帝のもとで内大臣から太政大臣になったのだから政権担当者なのですが、とうてい政治をしているとは思えない。人事をちょっと動かしたり、後宮(こうきゅう)対策に手をつけたくらいで、あとは女君に惚れ、交情し、歌を詠み、絵合(えあわせ)をしているばかり。
いったい光源氏はこの物語のなかで何をしているのかといえば、色事に耽っているか、悩んでいるか、風流を遊んでいるか、そのいずれか。そうとうに変な主人公です。
それでも紫式部はそのような光源氏をこそ書きたかったのでしょう。それをもって「母なる国語」のロイヤルモデルないしはソーシャルモデルとしたかったのです。それが、その後は世界文芸史上でも希有の主人公になりえたなどということは、式部の与り知ったことではありません。でも、そうなりえた。ハムレット、光源氏、デズデモーナ、六条御息所、オフィーリア、浮舟、ですよね。
ということは、この物語に書かれたような光源氏は、式部が書きたかった光源氏以外の何者でもない光源氏なんです。式部の国語の光源氏なのです。
しかしながら、それにしてもたいそう曖昧な主人公です。いや、光源氏だけではなく、桐壺の帝から横川(よかわ)の僧都、朧月夜の君から女三の宮まで、みんな曖昧です。だいたい光源氏、柏木、夕霧は一人一人がセパレート・アイデンティティになってはいない。変動しつづける集合的人格帯みたいです。
では、書き足りないのかといえば、そうではない。紫式部はそうしたくて、そうしたにちがいありません。そのため前夜にも説明したように、この物語には独特の「心内語」(しんないご)がかなり駆使されて、登場人物の気分と状況の推移との「双方のけじめをつけない表現」が連綿したわけです。
「めぐりあひて 見しやそれとも
わかぬまに雲がくれにし 夜半の月かな」紫式部
(百人一首第57番)
だから一番気になることは何かといえば、それをまとめて言うと、この物語の時代構造や登場人物がすべて曖昧になりえたのはなぜかということです。それなのに訴えるものがあんなにも豊富な物語になりえたのは、またまたなぜなのか。
それはおそらく、ここに「母なる国語」とともに「日本という方法」が横溢しているからなんですね。それが11世紀にして世界文芸史上の最高傑作になりえた理由だろうと思います。
ということは、ぼくが尋ねる源氏モンダイは、紫式部が綴った曖昧な表現のあちこちに「日本という方法」の何かの本来が散りばめられて編集されているのだろうと思えるかどうかにかかっているのです。それにはどこから辿っていけばわかりやすいのか。しばし前後左右にカーソルをあてていきたいと思います。
光源氏という「名前」のことから入ってみます。なぜこんなとこから入るのかはおいおいわかるでしょう。名前をめぐっては、少なくとも3つの謎があります。
ひとつ、「光源氏」の本名は何なのか。ひとつ、なぜ「源氏」という姓がついたのか。ひとつ、なぜ朱雀帝や冷泉帝といったリアルな名前の人物が虚構の中にまじっているのか。
物語は冒頭で、桐壺の更衣が輝くような子を産んだと書いてあり、みんなから「光の君」とか「玉の男皇子(おのみこ)」とか「かかやく日の宮」と呼ばれたとあります。この主人公はあとは「光源氏」とか「君」とか官職名とか敬称で綴られているだけです。本名は明示されてはいない。このことは、物語全体の最も暗示的な本質です。
桐壺の帝はこの子を東宮(春宮)に、すなわち皇太子にしようとするのですが、桐壺の更衣の実家に力がなくてあきらめました。それで「光の君」は第二皇子になったとあります。
もともと日本の天皇はたくさんの夫人を娶り、たくさんの皇子を産んでもらい、そのなかから第一皇子を選ぶようになっています。どの子が第一皇子になるかどうかは、現在の皇室典範のように最初から長男にするとかというふうには決まっていない。第一皇子と決められた子を産んだ夫人が正妃なのです。
第一皇子は弘徽殿(こきでん)の女御が産んだほうの子で、この子がのちに朱雀帝(すざくてい)になりました。第二皇子の「光の君」のほうはどうなったのか。「源氏」という姓をもらっただけでした。しかも「光源氏」が名前だとはどこにも書いていない。そう呼ばれたとあるだけです。どうも何か釈然としないところがあるでしょう。
それはこの時代の物語の書き方としてやむえないことだったのか。それともこの釈然としないところこそがこの物語の本質を告げる何かにあたっていたのか。そこを少し覗いておく必要があります。
ちなみに桐壺の帝にはほかにも何人もの皇子がいたのですが、わかりますか。冷泉帝が第十皇子で、「宇治十帖」で登場する八の宮が第八皇子です。
最初に、解(ほど)きやすいところから書いてみますが、弘徽殿の女御が産んだ第一皇子に「姓」がないのは、この子が今上天皇になったからです。日本の天皇には「姓」がないのです。
これは天武・持統天皇の時代に『古事記』や『日本書紀』をつくったときからそうなっているのでありまして、天皇が「姓」をもたないことによって、天皇家がすべての臣下に「姓」を与えることができるというしくみをつくったからです。
ただし、このことの本当の意味を考えるには、もうちょっと歴史をさかのぼったり(原点まで行きすぎてはダメですが)、日本という国のしくみ、とくに朝廷や摂関政治のことを考えたり、現在のわれわれの名前に関する社会習慣を問いなおしたりしたほうがいい。
今夜はそこまで広げられないのでかなり絞りながらの話にしますが、それでもけっこう大事なモンダイがわさわさ出てきます。
日本人の名前は「姓名」でできていると、みなさんは思っているでしょうね。姓と名があって戸籍が成立していますからね。長嶋が姓で茂雄が名、松岡が姓で正剛が名ですよね。
それから、われわれは苗字が「姓」のことだと思っている。シャチハタのハンコはこの苗字だけが捺せるようになっていて、それが姓名の「姓」だと思っているはずです。役所の書類や履歴書や病院のカルテにも「姓」と「名」を書く欄が分かれている。ところが、昔はそうではなかったのです。姓と苗字は歴史的には別のものでした。
姓はもともとはカバネです。カバネは朝廷から官許されていたものでした。臣(おみ)、連(むらじ)、朝臣(あそん)、宿弥(すくね)というふうに、氏(うじ)のランク付けをあらわすものでした。その代表がいわゆる「八色(やくさ)の姓」です。古代では、このカバネと氏名(うじな)でワンセットです。
蘇我大臣(そがのおおきみ)、物部大連(もののべのおおむらじ)、藤原朝臣(ふじわらのあそん)というふうにセットにしてあらわしていたんです。そして氏と名のあいだは、なぜか「の」でつないでいた。
このへんの話は、千夜千冊1521夜の『源氏と日本国王』のときに書いておいたことでもあるんですが、おぼえてくれていますかね。次のような例を出しておきました。
われわれは歴史を習っているうちに、こんな読み方をしてきたはずです。菅原道真はスガワラのミチザネ、平清盛はタイラのキヨモリ、源頼朝はミナモトのヨリトモ。そう、読んできた。タイラキヨモリとかミナモトヨリトモとは言わない。これらにはみんな「の」が入っています。この「の」は何なのか。
一方、新田義貞、織田信長、徳川家康には「の」が入りません。オダのノブナガとかトクガワのイエヤスとは言わない。幸田露伴、伊藤博文、夏目漱石もコウダのロハン、イトウのヒロブミ、ナツメのソウセキではない。しかし藤原道長はフジワラのミチナガ、藤原定家はフジワラのテイカであって、フジワラミチナガ、フジワラテイカではありません。ついでにいえば藤原紀香はフジワラのノリカではありません。
いったいどうなっているのか。この話、どうでもいいようなことに見えて、そうではないんです。
なぜ源・平・藤原・菅原に「の」がついて、新田・織田・徳川には「の」がついていないのか。ここには何かのルールがひそんでいるはずなんです。
ついでに付け加えておくと、蘇我大臣、物部大連、藤原朝臣らが姓(カバネ)をもらったのに対して、一方では、カバネを与えられていない者たちもいました。この豪族たちが名前をもとうとすれば、「春日」「日下部」「采女」「馬飼」というふうに自分たちで呼称した。たいていは地名や仕事に因んだ名前です。なかには朝鮮語の発音に因んだ名前もあった。渡来系の、いわゆる帰化人の名前ですね。
ただし、これらは同じ「姓」でもカバネではなく、セイあるいはショウといいます。
ここまでのことを少しまとめると、当初の「姓」は天皇が上から与えるフォーマルな名前であるということ、「賜姓」(しせい)だったということです。われわれがふだん慣れ親しんでいる苗字というのはあくまで私称だったのです。
このしくみを維持するために、天皇家はあえて姓をもたないようにしたわけです。そのかわり天皇は姓を与えるほうにまわって、姓のプロデューサーになった。これが日本という国の特色のひとつです。朝廷とはそういうことをする“名配り機関”でもあったわけです。
天皇家が姓をもたないようにした理由としては、もうひとつ、大きな事情があります。
それは中国では「易姓革命」(えきせいかくめい)といって、姓が易(かわ)れば王朝が変わる、易姓によって支配体制が変わるとみなされて、天子(皇帝)の姓の変更がおこることが革命なんだという制度思想があったのですが、これを日本が嫌ったという事情です。日本はこの制度を採用しなかったのです。
天武・持統のときに藤原不比等らの考え方もとりいれて、天皇の継続的な位置を誰かが乗っ取ることをできないようにするため、すでに姓をもった者や一族は天皇にはなれないというふうにしたんですね。天皇に姓がなければ易姓革命がおこりようがない。そうすれば、天皇一家は万民に姓を与える唯一の一族でありつづけられるだろう、そう決めたんです。
これで日本の天皇家は、これまで一度も「別の家格」による転覆劇がおこらなかったということになります。易姓革命はおこらなかった。武家政権による幕府はできても、天皇を乗っとることはできなかったのです。
このことについては話したいことがヤマほどあって、うずうずしてしまうのですけれど、とくに孟子(1567夜)の「湯武放伐」(とうぶほうばつ)をどう解釈するのかという議論が欠かせないところですが、ただこのことについては1567夜でその骨子を案内しておいたので、ここではがまんして深入りしないでおきます。
そのときも紹介しておいたことですが、詳しくは先頃亡くなられた松本健一(1092夜)さんの遺著にあたる『「孟子」の革命思想と日本』(昌平黌出版会)を読まれるといいでしょう。
松本健一『「孟子」の革命思想と日本―天皇家にはなぜ姓がないのか』(昌平黌出版会 2104)
というわけで、「光の君」は桐壺の帝すなわち現天皇から「源」という姓を賜ったわけでした。それで源氏になった。
しかし、このことは光源氏がもはや天皇にはなれないということでもあったんですね。なっても准太上天皇まで。これが『源氏』全編に流れる「逸れた物語」という大きなストリームをつくっていた“宿命”というものです。
いったん源氏という氏姓をもらってしまうと、もう天皇にはなれません。ということは、第一皇子(親王)にはなれない「光の君」の将来は、こうして最初から「逸れる」ことになったのです。
そうではあるんですが、ただしこの話を理解するにはもうひとつ、源氏(ゲンジ)の「ジ」のほう、すなわち「氏」のほうのこともちょっと考える必要があります。「源」が姓(カバネ)なら、源氏の「氏」(うじ)とは何なのか。
「氏」には父系的な出自をもつ集団にルーツがあります。歴史学では氏族といいます。この氏族のリーダーは「氏の上」(うじのかみ)です。氏の上は氏人(うじびと)を統率し、部民(べのたみ)や奴婢(ぬひ)たちなどを隷属させて、その地の共有資産を管理します。そして氏神(うじがみ)を奉祀する。これが「氏」です。
古代の氏族は祖先をたどれば、たいていは単一の祖先集団に行きつきます。たとえば蘇我氏は蘇我稲目(ソガのイナメ)がルーツ、大伴氏は大伴室屋(オオトモのムロヤ)がルーツ、藤原氏は藤原鎌足(フジワラのカマタリ)がルーツにあたっている。そうした氏が姓(カバネ)をもらって氏と姓をもった氏姓制度というものができあがったわけです。
「源氏」の代表的な家紋である笹竜胆(りんどう)
それでは「源氏」という氏姓はどういうふうに生まれたのか。むろん『源氏物語』のなかで出てきた氏姓ではありません。やっぱり天皇から歴史的に賜った姓でした。
源氏の賜姓は実は第52代天皇の嵯峨天皇の世に発しています。古代豪族時代のことでもないし、奈良時代のことでもない。平安初期のことです。
それまではこんな氏姓はなかったんです。それを嵯峨天皇が自分の皇族に下そうと思いついた。もっとも家父長的な性格がやたらに強かった嵯峨天皇は精力絶倫でもありまして、50人もの皇子と皇女をつくった。それでそのうちの32人もの子に源氏の氏姓を渡してしまいます。これが嵯峨源氏です。
なぜこんなことをしたのかというと、当時の天皇家の経済力がショートしてきたからです。50人も産んでいればそうなるでしょう。皇族たちの経済をこのまま維持続行することが難しくなった。皇族コストがもたなくなった。そこで源氏という氏姓をつくって、それまでの皇族を臣籍に降下させたわけです。天皇家のリストラであって、かつ天下りのようなものです。
同様のことを仁明天皇、清和天皇、宇多天皇、村上天皇も連打します。それで仁明天皇が親になった仁明源氏をはじめ、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などが、次々に生まれていったのです。嵯峨源氏はその兄貴格でした。
親はそれぞれ異なるけれど、かれらはすべて新たな源氏の一族です。このことは、あまりに源氏をふやしすぎたので、のちのち源氏の一門どうしでの争いをおこさせます。それは前九年後三年の役や保元・平治の乱の「武家のあっぱれ」の時代のことであって、紫式部が描きたかった「公家のあはれ」の時代のことではありません。
嵯峨源氏の系譜
もっとも「源氏」という賜姓(しせい)があったというだけでは、源氏も他の氏姓と同程度になってしまいます。かれらは源氏という氏姓をもらっても出自は准皇族なのですから、そこには何かもうひとつの冠(かんむり)がほしい。
そこで登場したのが「氏の長者」(うじのちょうじゃ)という冠です。源氏は他のあらゆる氏たちのなかのリーダーだというお墨付きをもらった。
氏の長者というのは、古代の氏の上の系譜を引く氏の統率者のことで、氏寺や氏社の祭祀、大学別曹や氏院の管理、氏爵(うじのしゃく)の推挙などを主に管掌したリーダーです。大伴・高階・中臣・忌部(いんべ)・卜部(うらべ)・越智・菅原・和気なども氏長者によって管轄されています。
源氏の君たちはそのような氏の長者とも認められたのです。そうなると、源氏の一族には氏神をもつという新たな神仏の力の系譜も加わることになる。候補に上がったのが清和天皇期に創建された石清水八幡宮でした。源氏はこれでいくことにした。
このブランディング・アイデアはよかったんでしょうね。当たったのです。折から清和源氏の源義家がその石清水八幡宮で元服したこと、義家が八幡太郎と称されたことなどが相俟って、源氏は八幡神を氏神とする一族になった。ということは八幡神はそもそもが応神天皇と神功皇后を祭神としてきたのですから、この系譜も源氏の氏神にかかわることになります。のちの源氏が八幡大菩薩の旗を掲げるのはこのためです。
言い忘れていましたが、現代のわれわれがカバネやショウとしての姓よりも苗字を重視するようになったのはどうしてかということですが、これは他の多くの事柄がそうであったように文明開化と近代国家のせいでした。
明治4年に「今後は位記・官記をはじめとする公文書に姓を除き苗字を用いるべし」という通達が出回り、明治8年には「苗字必称令」が公布された。これで、これまでの「姓」はすべて「苗字」に統括されてしまったんです。こうして太陽暦やメートル法やヨコ型紙幣と同じように、日本人は苗字を呼び合うハンコ社会になったんですね。
もうひとつちなみに、1521夜に書いたことで豊臣秀吉の例を引きますが、秀吉はどうしていろいろ名前を変えたかというと、秀吉は「木下」「羽柴」が苗字です。その姓のほうは、天正10年に信長が本能寺で没したときに「平信長」と姓をつけていたことを承けて、初めは「平秀吉」となり、ついで天正13年の関白任官のときに「藤原秀吉」を名のり、その翌年に豊臣姓を賜って「豊臣秀吉」になったというふうになっています。
このように秀吉は朝廷から姓を賜るごとに「平→藤原→豊臣」と改姓したわけなんですが、そのあいだ苗字のほうはずっと羽柴だったのです。まあ、念のため。
これで歴史的に天皇が姓をもたないこと、そのかわり源氏のような姓がしばしば天皇家からもたらされたという事情が見えてきたと思いますが、そのことと桐壺帝が光の君に「源氏」を賜姓した理由とは、少々違うモンダイがあるように思います。
紫式部は時代の物語を本来的な曖昧に彩っておくために、「光の君」を光源氏にしたのですけれど、そのことに説得性をもたせるためには、光源氏の周囲の登場人物にもそのような曖昧性を付与する必要があったはずです。なにしろ『源氏』は男君はみんな「光の君」みたいで、女君はみんな「藤壺」みたいですからね。
そこで、ここからの話は当時の宮廷社会とはどういうものであったのか、すなわち当時の朝廷のことや、天皇と摂関政治の関係のことをカバーしておきたいと思います。話はいろいろな面でだんだんつながります。
式部が『源氏』の舞台を「いづれの御時にか」と綴って、桐壺の帝を醍醐・村上の両天皇時代においたということは、よく知られています。ぼくもすでに述べておきました。よく知られているけれど、これはよほど重要なことです。
式部にとって、第60代醍醐天皇の「延喜(えんぎ)の治」と醍醐の第14皇子だった62代村上天皇の「天暦(てんりゃく)の治」とが、なんといっても式部の「御時」の想定時代だったということは、『源氏』のワールドモデルとしては決定的なことなんです。まさに式部の曾祖父の兼輔(かねすけ)が活躍していた時期ですからね。
醍醐・村上の治世がどんな時代だったかというと、その前の宇多天皇のときの「寛平(かんぴょう)の治」とともに、のちに「聖代」と呼ばれるほどの天皇親政が前面に出た時代です。
醍醐の延喜時代(901~923)は古代律令制が維持された最後の時代で、『延喜式』(1288夜)などの格式(きゃくしき)の編纂が仕上がり、紀貫之(512夜)らの梨壺の文人たちが活躍して『古今和歌集』ができた時代です。漢字仮名まじり文も、美しい料紙も、散らし書きも出てきた。
村上時代(947~957)には有名な天徳の内裏歌合(だいりうたあわせ)という、のちの歌合せにとっても和歌の歴史にとっても、そもそもの日本語の表現の歴史、つまり「母なる国語」の歴史にとってもきわめて重要な催しがなされています。
とりわけ村上時代に摂政と関白がおかれなかったことが特筆されるのです。おそらくここに「御時」(おんとき)の特徴があります。式部はここに狙いを定めたのですね。『源氏』には摂政・関白が出てこないのですが、これは長きにわたった実際の平安王朝の歴史のなかでもたいへん特異だったのです。
摂政と関白による摂関政治はどういうものだったのか。このことも『源氏』が不満気に描いた宮廷権力像に大きくかかわっています。
摂関がどのように出現したかといえば、藤原北家の冬嗣の息子の藤原良房が人臣として初めて太政大臣になり、続いて摂政になったことが起点です。そうするにあたって、良房は二つの戦略を行使しています。
ひとつは他の有力貴族を失脚させることによって藤原北家に対する対抗心を挫いてしまうこと、もうひとつは皇室に北家の氏族の娘たちを嫁がせて皇子を産ませ、天皇の外祖父になって権力を握ることです。外祖父というのは母方の祖父ですね。
実際にも良房は、842年の「承和の変」で伴氏と橘氏の両氏と藤原式家を失脚させ、ついでは文徳天皇に娘を嫁がせて清和天皇を誕生させた。良房の死後は、今度は養子の基経(もとつね)が摂政となり、光孝天皇のときは事実上の関白に就任して、天皇の権限の代行者の位置を得ています。
幕末の絵師・菊池容斎が描いた藤原良房
摂政は天皇が幼少だったり女性だったりするときに代わって政務を担当する役職のこと、関白は天皇が成人したのちも政務を代行する地位を与えられた役職です。
関白という名称は中国から来た熟語ですが、日本的に変形して、天皇の意志を「関(あずか)り白(もう)す」という意味になって使われるようになりました。宇多天皇が藤原基経に「万機の巨細(こさい)、百官おのれに惣べ、みな太政大臣に関白し、然して後に奏下せよ」と命じたときの言葉が初見です。
このように摂政も関白も、いずれも天皇と太政大臣以外では最高の地位に当たるのですが、その役目を受け持つのは、推古女帝のときの聖徳太子や斉明女帝のときの中大兄皇子が摂政めいていたように、古代では天皇の一族がほぼ担っていたんです。
ところがそれを藤原冬嗣を中興とする藤原北家という「氏」が、まるまる独占しようというふうになっていった。これは摂関政治というよりも、藤原摂関体制です。
藤原摂関体制の流れの続きをもう少し追うと、基経によって摂政・関白がスタートしたあと、その子の藤原時平をへて(ここで時平と争っていた菅原道真が左遷されるわけですが)、醍醐天皇が重篤になったときに、幼い朱雀天皇の即位とともに藤原忠平が摂政となり、その朱雀が成人になるとそのまま忠平が関白にもなるという初めての例が出てきます。
ただし忠平の死後、村上天皇の時代は摂政も関白もおかなかったので、さきほどから言っているように、ここに式部が理想とする「御時」がはからずも成立します。この時期が醍醐からの流れを含めて、天皇が親政したという「聖代」になったんです。
でもこれはまさに「はからずも」の短い期間の親政で、村上天皇が崩御したのちに冷泉天皇が即位すると、またまた北家の藤原実頼(さねより)が関白に就く。「聖代」は短かったのです。紫式部の曾祖父が「聖代」の頃には晴れやかに充実していたのが、村上後の宮廷社会のなかではだんだん後退していったというのも、こうした時代背景によります。
そしてなんとこれ以降は明治維新まで(後醍醐天皇の時代と秀吉・秀次の時代を除いて)、ずっと藤原北家による関白が常置されていくことになるんですね。幕末で勤王の志士たちが御所の関白を気にして動くのはそのためです。
8世紀から10世紀にかけての天皇
藤原実頼は自身「揚名(ようめい)の関白」と嘆いたように、実力がふるえなかった関白です。こういうときはダークホースが出てきやすい。その隙を縫って冷泉期に台頭してきたのは藤原兼家(フジワラのカネイエ)でした。
このあとすぐにわかると思いますが、兼家こそはのちの道長の御堂関白期の栄華を用意した張本人です。権謀術数にも長けていた。
藤原兼家(菊池容斎画/江戸時代)
忠平の子に右大臣になった藤原師輔(もろすけ)がいます。その師輔の三男が曰く付きの兼家です。蔵人頭(くろうどのかみ)、左衛門中将をへて安和1年(968)に従三位になり、そのまま中納言になったという出世頭です。師輔の長男は伊尹(これただ)といいます。
安和2年、左大臣の源高明(たかあきら)が謀反の罪に問われて左遷されてしまうという、源氏モンダイにとってはきわめて意味深長でヤバイ事件がおこりました。「安和(あんな)の変」ですね。藤原摂関時代を確固たるものにしたほどの大きな事件で、見逃せません。それが紫式部が生まれる1年前のことでした。
源高明は醍醐天皇の第10皇子で、わずか7歳で源氏姓になった源氏のプリンスです。村上天皇の信任も厚く、奥さんの姉は村上天皇の中宮です。高明は有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく、『西宮記』(さいきゅうき)を著述するような才能もあり、実頼につぐ朝廷ナンバー2の呼び声も高かった。
そのプリンス高明が自分の縁戚につらなる為平親王を皇位につけようとしたということで、謀反の罪をかぶせられたんですね。伊尹や兼家らによる陰謀でした。これが安和の変です。
これは藤原氏が源氏に仕掛けた罠でした。高明はその罠に引っかかり、失脚した。ゲームに敗れたんです。案の定、冷泉天皇が退位して円融天皇が11歳で即位すると、伊尹が摂政となり、さらに太政大臣になる。伊尹には兼通と兼家という二人の弟がいるのですが、これは骨肉の争いをして兼家が勝ちます。
そうなると兼家は自分をなんとか関白にしてもらいたいと円融天皇に願い出て、自分の娘を円融天皇の女御として入内させたのです。この娘が誰あろう、詮子(せんし)です。詮子は円融の第一皇子を産みます。懐仁(かねひと)親王です。誰だかわかりますか。すなわち一条天皇でした。
これで事態は決定的です。兼家は寛和2年(986)にわずか7歳の一条天皇を即位させ、自分は摂政に就きます。紫式部は17歳になっていました。この年はぼくが好きな花山天皇が兼家の策謀で宮廷を逃げ出さざるをえなくなって、山科の花山寺で出家してしまった年でもありました。
だいたい話がつながってきましたね。この兼家の五男こそが、かの藤原道長なのです。
あとはもはや推して知るべし、道長は長徳2年(996)に左大臣になり、紫式部が宜孝と結婚したあと、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に入内させました。
その彰子が西暦1000年ちょうどに中宮となった前後から、紫式部は『源氏』の物語構想をかためて書き始めているんですね。そして36歳のとき、式部は中宮彰子の女房として出仕したわけです。
この流れのなかでは、やはり源高明がその後の藤原摂関政治の強固な土台を築いた藤原兼家にしてやられたことが、式部の筋書きに大きな暗示を与えていたのだと思います。
ここに「光の君」を「源氏」にしたかった理由も、朱雀帝や冷泉帝という歴史的に実在した帝の名をあえて虚実混合のためにまぜた理由も、ひいては『源氏=物語』というタイトルが定着していった理由も立ちのぼっていたように、ぼくは思います。
ところで、これまで多くの学者によって光源氏のモデルが取り沙汰されてきましたが、そこには嵯峨源氏の源融(ミナモトのトオル)から村上天皇の第八皇子の具平(ともひら)親王まで、在原業平(ありわらのなりひら)から藤原道長まで、いろいろ候補があがっているのですが、ぼくには紫式部は醍醐源氏の源高明を光源氏のメインモデルにしていたように思われます。
そのくらい高明にはいろいろの条件が揃っている。斎藤正昭の『源氏物語のモデルたち』(笠間書院)や西穂梓の『光源氏になった皇子たち』(郁朋社)を読まれると、もっともっとピンとくるでしょう。
ざっとこういうところが、式部が摂関政治の高揚以前の聖代という「御時」を選んだ理由の背景にある事柄です。
わかりやすくいえば、醍醐・朱雀・村上・冷泉の4代が、桐壺帝・光源氏・夕霧・匂宮と続く『源氏物語』の4代に当たっているとみればいいのではないかと思います。それはまた、藤原兼輔・雅正・為時・紫式部という式部の4代にもほぼ対応しているとみなせます。夕霧と柏木の物語のところが、式部のお父さんの為時の代に当たっているんですね。
しかし、このような「御時」(おんとき)の代々は容易な時代社会ではなかったとも言わなければなりません。
なにしろしょっちゅう「もののけ」が出現した。そのつど宮廷の高級官僚たちはのべつ加持祈祷をせざるをえなかったのです。そのため宮廷社会の誰もがどこかで悔過(けか)や仏道への思いを抱かざるをえなかったのです。つまりはしだいに「無常」がはびこっていたのです。
そこでここからは、式部が以上のような物語舞台を「母なる国語」として語るにあたって、なぜ曖昧な表現や描写で物語を埋め尽くしたかということにカーソルを動かして、少し深掘りしてみようと思います。式部は「人」ではなく「もの」を書こうとしたのです。ここからはぼくがずっと考えてきた大事なモンダイになります。
一言でいえば、『源氏物語』という作品は「うた」と「もの」による物語でできています。ただし、それは古代的なものではありません。平安王朝の、天皇と摂関が柔らかくも苛酷な鎬を削っている時代の「うた」と「もの」による物語です。
それを紫式部はどうしてあんなにすばらしい物語にして綴れたのか。そのようにすることが「うた」と「もの」の物語になるだろうと思ったのですね。人ではなくて「うた」によって、事ではなくて「もの」によって物語を語ろうとすれば、それに応じた語り方が事件の顛末にも宮廷社会の本質にも及ぶだろうと思ったにちがいありません。
だったら自分はいま「光の君」を中心にした皇室の出来事を思いついたのだけれど、この物語は摂関藤原一族の栄華の物語であってはならない。そこから逸れている「うた」と「もの」の『源氏の物語』を語るべきだろうということだったのではないかと思います。曖昧にしたかったのではなく、また何かに憚ったのでもなかったのです。
『源氏』はほとんど主語をつかわないで物語を仕上げるという快挙をなしとげているのですが、それは表現を曖昧にしたいからではなく、物語という世界に日本古代から継承されてきた「うた」と「もの」が変移変質していたことを訴えたかったから、そうなったんですね。
その「うた」と「もの」は古代を残照させてはいても、あくまでも醍醐・村上の聖代に近い「うた」や「もの」の物語でなくてはならない。たんなる摂関の物語にしてはならない。式部はそう考えたのだろうと思います。
つまり『源氏』の主語は光源氏でも数々の登場人物でもなく、「うた」を通した「もの」だったのです。これが式部が選んだ「日本という方法」でした。
日本における物語はもともとが「もの・がたり」と「うた・がたり」でできています。古来の「もの・がたり」は神謡(かみうた)のなかの、ノリトとヨゴトの間から発生してきたのだろうと思います。
ノリト(祝詞・詔詞)は神が一人称で語る無時法の呪言のようなもので、ヨゴト(奏詞)はその神に託して語られた言霊(ことだま)でした。いずれも「もの」の霊力を衰えさせないで漲らせるためのメッセージです。つまり当初においては神や祖霊のような「もの」による「かたりごと」が先行してあったのだろうと思います。
けれども、その古代的な神や祖霊が時代社会がすすむにつれて「正体がわからないようなもの」になってきた。フルコト(古言)も忘れられたり、あまり使われなくなっていったのです。斎部広成(いんべのひろなり)の『古語拾遺』(571夜)はまさにそのことについての苦情をしるしたものでした。
こうした変遷のなか、ノリトやヨゴトの「神々しさ」と「縛り」がふたつながら薄れていって、そこに「もの」を「人」が語ったかのような、いわば人為的な「もの・がたり」の枠組みが発生してきたのです。そうすると『竹取』や『大和物語』や『伊勢物語』といった、いわゆる物語の変遷が生じてきます。
しかし式部はそれだけでは満足できなかったのでしょう。そこに自分なりの「聖代」を入れて、新たな「根生い」を編集する気になったのです。
ひるがえって、本来の「うた・がたり」は古代豪族たちにおいては、氏族がその性格を宿らせて語ったものでした。
たとえば大伴家持のルーツである大伴氏は歌力と武力の氏として、久米氏や佐伯氏とともに頭角をあらわした氏族です。その大伴氏は久米氏に久米歌がのこったように、大伴歌というスタイルをもっていたんでしょう。
朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大伴金村の前の代に、その名も大伴談(おおとものかたり)という人物がいるのですが、この「かたる」は言葉によって相手に霊力を及ぼすという意味です。そういう霊力をもつ「うた」を含んだ出来事がやがて「うた・がたり」として伝えられてきたんだろうと思います。
しかし、神や祖霊の一人称の「もの・かたり」が二人称や三人称になって「人」による物語化がすすんだように、「うた・かたり」のほうも歌詠みという個人の一人称語りが突出するようになると、これらの「うた」をつなげることだけでも歌物語ができてきます。
そうなると、古代的な「うた」は新たに「歌」あるいは「やまと歌」と呼ばれるようになって(つまり和歌になって)、個々の才能を競う歌合(うたあわせ)のツールにもなったんですね。
けれどもそれは、もはや人麻呂(1500夜)が古代天皇霊を詠んだ長歌や反歌ではないのです。それゆえここからは、歌を人につなげた『伊勢物語』や『宇津保物語』のような物語ができあがっていったわけです。
こうしたことを紫式部は歴史的な知識だけではなく(それもけっこうなものだったはずですが)、もっと大きな勘として、「日本という方法」の流れとしてわかっていたんだろうと思います。それなら、人麻呂でも『伊勢』でもない物語を、新たにどう書けばいいのか。式部が発見したのは「面影」を追い移っていくという編集方法です。その面影による物語は何かと言ったら、それは人や事そのものではなく、それらを反映した「もの」の物語なんですね。
では、その「もの」っていったい何なのか、ということですね。さらには、その「もの」を「あはれ」と感じる「もののあはれ」とは何なのか、また、その「もの」がシャドウやダークサイドで動いて「もののけ」(物の怪、物の気)になるとはどういうことなのか、ですね。
まずは『源氏』が「もののけ」のふるまいを何度も描いたことについて、これは何だったのかということに触れてみます。夕顔や葵の上に取り憑いた「もののけ」とは何だったのか。
『源氏』に出てくる「もののけ」はずばりいえば、前夜にぼくが言ったように、『源氏』という物語を外から支配していた「もの」たちです。『源氏』という時代社会、それは「宿世」(すくせ)というワールドモデルに投影されていた出来事の網目そのものですが、その宿世の網目にあまねく遍在していたものです。つまり醍醐から一条までの、良房から道長までの、物語の外に実在していたものでした。
いまさら言うまでもなく、古代語においては「もの」は「霊」でも「物」でもあるものです。「ものものし」といえば何だか霊っぽいものと物っぽいものが一緒に動いているようなことを言いますし、「ものすごし」といえば名状しがたい霊物混然たる力のようなものを言う。
このような「もの」はあれこれの具体的な事物のことではなくて、対象があからさまにできない「もの」たちです。今でも「ものさみしい」とか「ものしずか」と言いますが、これって、そのへんに置いてある物が寂しかったり、調度や家具が静かだったりするわけではありません。「ものぐるい」とか「ものぐるしい」というのも、何かよくわからないものと付き合ってしまったなという気分です。
そういう「もの」が古代では「畏れ多いもの」と結びついていた。そう、思ってください。いや、そう思うしかないでしょう。だから英語的にわかりやすくするならスピリットとかソウルとしたいところなんですが、それはまた「魂」(たま)という言葉があって、ちょっと違ってくるのです。古代における「もの」はもっと何か、その場におこっているさまざまなことを包括してしまうような力をもっていたんですね。
たとえば、三輪のオオモノヌシがそうした「もの」の大神でした。オオモノヌシは三輪山を御神体とした三輪神社(大神神社)に祀られていて、蛇神とも水神とも雷神ともいわれている大神ですが、その意味は、文字通り大きな包括力をもった神だったということでしょう。
だからこの大神は大物主とも大霊主とも綴れますし、大神を「おおみわ」とも読めました。記紀神話では出雲で国造りをはたしたオオクニヌシ(大国主)ともつながっている。それは「もの」が三輪とか出雲とかといった「くに」の霊力でもありえたことを示しています。
実際にも第10代の崇神(すじん)天皇のときに国中で疫病が大流行したのですが、そのとき天皇の枕元に立ったのがオオモノヌシでした。それで「私の子孫であるオオタタネコ(大田多根子)に私を祀らせなさい」と宣託した。オオタタネコは蛇神の大物主がイクタマヨリヒメ(活玉依姫)に産ませた娘ですね。さっそく捜し出して大神を祀らせところ、疫病がてきめんに退散したとあります。
こういうオオモノヌシのような「もの」は包括力そのもののようなので、分解できません。また容易に触れることもできません。いわば「稜威(いつ)なるもの」なのです。稜威というのはあまりにも畏れ多い威力があるので、なんら説明がつかない神威を感じる状態をあらわす格別な言葉です。
しかしところが、このような稜威を発揮していたはずの包括的な「もの」が、古代天皇の時代が過ぎると、つまり「大王」(おおきみ)の時代の力が後退するにしたがって、だんだん希薄になり、どんどん縮退し、ときには分解されて、歪んで異様なものに変じていったのです。
一言でいえば古代的な「もの」は平安期に向かうにしたがって「人に憑くもの」に変質していったんです。おそらく言霊(ことだま)が変質していったように。
いったい霊魂を伴う「もの」がそれ自体で変質するのかといえば、おそらくそうではないでしょう。神や国や森や川とともにあった「もの」が人に憑くようになったというのは、人の世のほうが変質していったからです。価値観が変化したからです。
人の世がしだいにあさましくなって、人のほうが、かつては包括的な力をもっていた「もの」と対応できなくなってきたんです。そう考えたほうがいい。
そうすると、そういう人の世から見ると、「もの」は「人に取り憑くもの」というふうに見えてくる。そのうち「もの」のほうもどんどん凝りかたまっていく。それはいつしか怨霊(おんりょう)とか御霊(ごりょう)とか悪霊とか、まとめて「もののけ」と呼ばれていくんです。
それにしても、なぜ「もの」は「人に憑くもの」として扱われるようになったのか。このことは歴史的にも説明できることなので、そしてそのことは『源氏』とも大いに関係のあることなので、ちょっとそのあたりのほうへカーソルを動かしてみます。
平安時代は「平安」の名とはうらはらに「不安」をかかえて開幕します。ずばりいえば、平安時代は御霊という「もの」とともに始まった時代でした。
しかもこの御霊はその後の4、50年のあいだに、たちまち「もののけ」(物の怪、物の気)の横行に変化していったのです。
ごくおおざっぱにその流れを見ると、すでに天平年間、聖武天皇の寵愛が篤かった玄昉(げんぼう)が不遇のうちに死ぬと、世間は藤原広嗣の霊のせいで加害させられたんだと噂していました。このあたりから「もの」は人の世の憎しみや恨みのようなものに関連させられ始めたんですね。それとともに不遇の死を遂げた者の死者の霊が怨霊とか御霊だとみなされるようになった。
平安時代が近づくと、この傾向がもっと前面に出てきます。とくに桓武天皇とその皇子(のちの平城天皇)が早良(さわら)親王の怨霊に苦しめられたことは、平安時代初期の最もよく知られた話になっていく。
桓武天皇の父は光仁天皇で、母は朝鮮から帰化していた高野新笠(たかのにいがさ)です。二人が生んだのが山部親王で、のちの桓武です。光仁天皇は聖武天皇の皇女の井上内親王を皇后として、他戸(おさべ)親王も産んでいます。山部親王にはほかに同母弟の早良親王もいて、二人の弟はともに皇位を継承する候補者でした。
ここに密告事件がおこります。井上皇后が夫の光仁天皇を呪い殺そうとしたという噂を、藤原百川が密告したんですね。そのため井上皇后と他戸親王は大和の宇智に幽閉され、数年後に母子ともに死んでしまいます。おそらく殺されたんだと思いますが、ところがその後、藤原百川の甥っ子の種継が東宮職の一人に暗殺されるという事件がおこると、犯行の疑いが早良親王にかかり、親王は淡路に流されてそこで自害するという悲劇的な事態が出来(しゅったい)します。
これが延暦4年(785)のこと。桓武天皇が平安遷都するのはわずかその9年後です。
平安時代というのはまことに血腥いスタートを切っているんですね。けれども事態はそれでおさまらなかった。桓武とその皇太子が懊悩と病悩に大いに苦しみ、それが早良親王の怨霊のせいだとされたのです。そればかりか、桓武は死の間際には井上皇后と他戸親王の怨霊にも苦しめられたと告白してしまう。そういうふうになっていったんです。
いまぼくはこれらをとりあえず怨霊というふうに説明しましたが、当時は「たたるもの」として、正体不明の「もの」が動いているとみなされたのです。神の祟りではなくて、憎しみや恨みをもった人的な「もの」が祟るんですね。そしてついでは、非業の死をとげた者の霊魂が「御霊」とみなされることになる。
このような御霊はたんなるイメージや惧れや危惧ではありません。噂だけのものでもない。その証拠に早良親王にまつわる一連の事件は、貞観5年(863)に、朝廷がこの御霊たちを鎮魂し慰撫する儀礼を神泉苑でおこなうというふうにまでなった。これが「御霊会」(ごりょうえ)です(のちに祇園祭になりますね)。
御霊会はヴァーチャルなネガティブイメージを相手にしているのではありません。このとき鎮撫された御霊はリアルな6体が名指しされている。早良親王、伊予親王(桓武の子)、藤原吉子(きっし・伊予親王の母)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢(たちばなのはやなり・承和の変の首謀者)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ・謀反者)の6体です。
御霊が特定されただなんて、まことに驚くべきことです。このあたりのこと、大森亮尚の『日本の怨霊』(平凡社)や山田雄司の『跋扈する怨霊』(吉川弘文館)を読むと、もっとびっくりすると思います。
が、モンダイは御霊にとどまらない。この驚くべき得体の知れない御霊は、ついでは菅原道真の怨霊となったりして内裏を震撼とさせたりするのですが、やがて形と中身を変えて内裏(だいり)を徘徊する複数の「もののけ」として動きまわることになっていったのです。
これで宮廷社会はぐらぐら揺れ動いてしまいます。なぜなら死者の霊が動いただけではなく、生霊(いきりょう)もまた「もののけ」として動いたのです。話はだんだん『源氏』の物語とまじります。
御霊会の様子
(祇園御霊会細記より)
最初に「もののけ」の動向が目立ってきたのは仁明天皇期の承和年間です。
承和4年に「物恠」(こう綴ってもいました)が出現したときは、退散を祈願して常寧殿(じょうねいでん)で読経と悔過(けか)をしています。翌年にも「物恠」があらわれたので、桓武天皇を祀った柏原山陵で僧侶たちが読経しています。さらに3年後には五畿内七道諸国と太宰府で疫神を祭って、伊勢大神宮に奉幣をするという大規模なことまでやっている。
それでも「もののけ」はいっこうに収拾しない。ついに大極殿・紫宸殿・清涼殿で般若経や薬師経を読誦したり、真言院で息災法や陀羅尼法を修するということにまでなっていきます。内裏と「もののけ」は切っても切れなくなった因縁のようになったのです。これでは『源氏』の随所に「もののけ」が出没するのは当然です。
以上のスケッチで見当がついたかもしれませんが、「もののけ」は生きている者や死んでいる者の怨念が凝りかたまって、生霊(いきりょう)や死霊(しりょう)となっていった「もの」でした。
これが異様な邪気を放ち、前夜にも説明したように「よりまし」(憑坐)を派遣して徘徊する。また人から人へ飛び移る。「もののけ」は「よりまし」にくっついて初めてその正体の一端をあらわすというふうになっていったんです。夕顔、六条御息所、葵の上、浮舟たちを苦しめたのが、こうした「もののけ」と「よりまし」が一対につながっていた「もの」なのです。
「もののけ」に対しては、当初は退治や退散を念じて、調伏や祈祷によって霧散させるしかありません。お祓いです。ところがそれがだんだん治療の対象になっていった。まるで正体不明の病気をもたらしたウィルスのような扱いになって、医事の対象になっていくんです。
これは、かつては神威のように感じられた「もの」も、いまや病気に罹る時代になってしまったということです。まことにやるせない。
紫式部が少女の頃から人に聞き、本を読んで見聞していたのは、このように「もの」がついに治療の対象になっていった時代だったんですね。式部も「もの」がお医者さんにかかっているようで、変な感じがしたでしょう。
では、そのような「もの」を『源氏』はどう扱ったでしょうか。「もののけ」が憑いた病気の治療シーンとして描いたでしょうか。紫式部はそんなふうにはしていない。たんなる病気にはしなかったんですね。では、どうしたのか。
ここが決定的なところなのですが、式部はそこに「もの」の「あはれ」を見たのです。淡々と「もの」のふるまいが変質していくさまを、綴ることにしたのです。これは『竹取』や『伊勢』ではできなかったことでした。
それで、どうなったのでしょうか。かくしてここに『源氏物語』全帖におよぶ「もののあはれ」観が貫かれることになったのです。
話はいよいよ佳境に入ります。
『源氏』が「もの」を「あはれ」とみなしていることを見破ったのは、なんといっても本居宣長(992夜)でした。宣長は賀茂真淵に『源氏』の根本力を強く示唆されたのですが、師の解釈力をはるかにこえた見方を打ち立てます。
宣長のカーソルは光源氏と藤壺の不義に当てられ、そこに「もののあはれ」がうずくまっていると見たのです。これ、ものすごい洞察でした。
宣長は『玉の小櫛』でこんなふうに書いています。まだ「もののあはれ」の前段ですが、そこから入ってみます。
「然るにくすし(薬師)の事はかかずして、げんざ(験者)の事のみ多くかけるは、神仏のしるしをあふぎ、げんざの力をたのむは、物はかなくおほどかに、あはれなるかたに聞ゆるを、くすしをたのみて、薬を用ふるは、さかしだちて、すこしにくきかた有て、あはれならず」。
宣長は、『源氏』にはしばしば病いにかかった者たちのことが書かれているが、たいていは医者のことよりも験者のことが書いてある。それは病人のことを神仏の加護にたのみ、験者の加持祈祷などをあてにしているからで、それこそがとりとめなくて「あはれ」なところで、すばらしいと言うのです。そして、病人に薬を与えるなどというのはさかしらなことである、そんなことをするのは「あはれならず」ではあるまいか。そうとも、宣長は言っているのです。
このような説明は宣長の「もののあはれ」についての見方の中心にあるものではないけれど、そのぶん式部の表現の向う先にかなり突き刺さってわかりやすいところだと思います。
それというのも、たとえば上野勝之の詳細な『夢とモノノケの精神史』(京都大学出版会)などを読んでみると、宮廷の貴族たちは時代がすすむにしたがって「もののけ」をそうとう具体的な治療対象にしているんですね。そこには古代このかたの「もの」の霊力がどんどんなくなりつつあることが見えてくるのです。
宣長はそのへんを知ってか知らずかはわかりませんが、『源氏』が書いているような「もの」の扱いこそが「あはれ」なんだと断じる気になったのです。
ところで少しだけ話を迂回させますが、『源氏』のなかで夕顔や葵の上が「もののけ」に苦しめられて、結局はおぞましくも死んでしまったこと、またそこに六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊などが関与していたことはよく知られているでしょうが、式部が『紫式部日記』の冒頭近くで「もののけ」に触れていることは、研究者以外にはあまり知られていないかもしれません。
式部は『日記』には、彰子(しょうし)が「もののけ」に憑かれたことをとりあげているんです。彰子の場合も、葵の上と同様、皇子出産に際しての苦しみがきっかけでした。
彰子は道長の娘で、一条天皇の中宮になっていたわけですから、ここで産まれた男児は次の皇位が約束されます。道長もそうなれば外祖父として君臨できる。だからとても大事な出産だったのですが、それがうまくいかない。ただちに「もののけ」の憑依だと診断されて、祈祷僧が呼ばれ、女房たちも憑坐に移し出すために侍らされ、さらには五大明王の壇が組まれて読経もおこなわれるというふうになります。
この一連の推移は、彰子が無事に皇子を産み、やがて後一条天皇になったというふうに落ち着くのですが(障子は葵のように死ななくてすむのですが)、この出来事を紫式部はかなり控えめに、淡々と書いているのです。
すでに道長の屋敷で彰子の家庭教師のようなことをしていた式部ですから、あけすけに書けないことは当然ですが、『源氏』の本文と異なるのはそこに「もののけ」の正体を暗示すらしていないということです。
研究者たち、たとえば坂本和子さんはその正体は道長の兄の道隆かその兄弟ではないか、山折哲雄(1271夜)さんはきっと道隆(道長の兄)の娘の定子(ていし)だったのではないかという説をたてていますが、式部は暗示すらしていません。ぼくはこのことがむしろ『源氏』には聖代でおこりそうな連想を、「日本という方法」の面影主義でもって描いた式部らしいことだと思うんです。
ということで、ここからは「もののけ」ではない「もののあはれ」の話に入っていきたいと思います。やっと、ここまで辿り着きました。
周知のように「もののあはれ」は、宣長が『紫文要領』(しもんようりょう)や『源氏物語 玉の小櫛(おぐし)』において、『源氏』に最も顕著な情感であると指摘したキーコンセプトです。以来、さまざまに取り沙汰されてきた。
「もののあはれ」というのは「もの」による「あはれ」のことです。宣長の説明によれば、「あはれといふは、もと見るもの聞くものの触るる事に心の感じて出づるなげきの声にて、今の俗言(よのことば)にもあはれといひ、はれといふ。これなり」というものです。見るもの、聞くもの、触るものに「あはれ」と感じることがあること、そのこと自体を実感するのが「もののあはれ」だという定義です。
宣長以外は別の解釈もしています。たとえば『徒然草』では、「もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いまひときはは心も浮き立つものは春の気色にこそあめれ」というふうに、春秋を比較する感興に使っている。
宣長はそういうこともあるけれど、むしろ「もののあはれ」は物語にこそ特有するもので、そこに儒仏の教えに頼らない価値判断が出入りするものなんだ、それが「もののあはれ」なんだと言いたいのです。
さらには、こんなふうに書いている。ここからが「もののあはれ」の重要な説明になるのですが、それは『源氏』をどう読むかということの、最も劇的な見方にもなるはずです。
『源氏物語玉の小櫛』
本居宣長が68歳を迎えるまで執筆した全9巻に及ぶ
これでだいたいわかるように、誰もが感じてきた『源氏』における色好みや不実の行為を、式部があのように綴り切ったところが「もののあはれ」なのだというわけなのです。
意外ですか。いや、意外じゃないでしょう。これこそが折口信夫が小林秀雄(992夜)に、「小林さん、宣長は『源氏』ですよ」と言ったその心なんです。まさに岡野さんの言う「根生いの心」というものなんです。
「さて、物語はもののあはれを知る旨とはしたるに、その筋にいたりては儒仏の教へには背けることも多きぞかし」。
物語は「もののあはれ」を知ることを中心にしたものなのだが、その筋道としては儒仏の教えに反することも多くなってくるものだと、まず宣長は世の常識を説明します。しかし、常識だけでは説明できないこともある。「そは、まづ人の情(なさけ)のものに感づることには、善悪邪正さまざまある中に、ことわりに違へることには感ずまじきわざなれども、情は我ながら我が心にもまかせぬことありて、おのづから忍びがたきふしありて、感ずることもあるものなり」と進みます。
教えに反することといっても、これは一筋では決めがたい。それというのも、人の「なさけ」(感情)が物事に動かされるというのは、世の善悪正邪がいろいろあるなかで、当たり前のことだろう。たしかに道理に反したことに感動していてはまずいだろうけれど、感情というものは自分でも自身の心の思うままにならないことも多々あって、なんとも忍びがたいことだっておこるのだと言うんですね。「おのづから忍びがたきふしありて、感ずることもあるものなり」というところが、とても重要です。
そこで宣長は『源氏』の例に入ります。
「源氏の君の上で言はば、空蝉の君、朧月夜の君、藤壺の中宮などに心をかけて逢ひ給へるは、儒仏などの道にて言はんには、よに上もなき、いみじき不義悪行なれば、ほかにいかばかりのよきことあらんにても、よき人とは言ひがたかるべきに」。
光源氏が空蝉や朧月夜の君や藤壺に思いを寄せて男女の契りを結んだのは、儒教や仏教からすればひどい不義悪行になるし、ほかにどんな「よきこと」をしてみても「よき人」とは言うわけにはいかないはずなのだが、と断ったうえで、さらに次のようにきっぱりと書くんです。
「その不義悪行なるよしをば、さしもたてては言はずして、ただその間のもののあはれの深き方(かた)をかへすがへす書きのべて、源氏の君をば旨とよき人の本(もと)として、よきことの限りをこの君の上に取り集め足る、この物語の大旨にして、そのよきあしきは儒仏などの書の善悪とは変はりあるけぢめなり」とというふうに。
宣長は、こう言っているんですね。
『源氏』は不義悪行を特別視してああだこうだと言うのではなく、その不義悪行の「間のもののあはれ」の深いほうへ、話をかへすがへす書いている。そうすることで光源氏の「よきこと」さえ感じさせている。これこそはこの物語の「大旨」であって、儒教や仏教の本とは違うところなのだ、そこが「もののあはれ」というところなんだ、というふうに。
なんとも絶妙ですね。『源氏物語』は「間のもののあはれ」をみごとに書いている、そこがすばらしい。物語とはこうでなくてはならないと言うんです。
宣長はいま引用したところに続いて、もっとドラスティックに次のように書きました。ざっと読んでみます。
「さりとて、かのたぐひの不義をよしとするにはあらず。そのあしきことは今さら言はでもしるく、さるたぐひの罪の論ずることは、おのづからその方の書どもの世にここらあれば、もの遠き物語をまつべきにあらず。物語は、儒仏などのしたたかなる道のやうに、迷ひをはなれて悟りに入るべき法(のり)にもあらず、また国をも家をも身をも治むべき教へにもあらず。ただ世の中の物語なるがゆゑに、さる筋の善悪の論はしばらくさしおきて、さしもかかはらず、ただもののあはれを知れる方のよきを、とりたててよしとはしたるなり。
この心ばへをものにたとへて言はば、蓮を植ゑてめでんとする人の、濁り手きたなくはあれども、泥水を蓄ふるごとし。物語は不義なる恋を書けるも、その濁れる泥をめでにはあらず、もののあはれの花を咲かせんと料(しろ)ぞかし」
だいたいわかると思いますが、世の現実のなかで不義密通が認められるわけではないけれど、それを断罪するのは儒仏の「したたかなる法や道」によるものであって、物語というのはそんなことでみんなに悟ってもらおうというものではない。むしろそういう危うい話を通して、ちょうど蓮を植えるのに泥から始めるように、物語もそのような泥を描きながら「もののあはれの花」を咲かせようとしているものなんだというのです。
かっこいいというか、きわどいというか。ああ、そこまで言っちゃったというか。
なるほどそういうふうに切り返して言ってしまえばいいのかとも感じるかもしれませんが、これは逆説とか牽強付会とはまったく違います。宣長はパラドックスに遊ぶような国学者じゃありません。では、もう少し深々と。『紫文要領』には次のようにもあります。
「世中にありとしある事もさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる。これ、事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀(あはれ)をしるなり。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心、事の心をしるといふうもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」。
宣長は、世の中のよろずの事を目で見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけ、そのよろずを心で味わえば、ありのままのことを知ることができるはずだと言うんですね。
ここは宣長がぐっと踏み込んでいるところで、「物の心」や「事の心」を知ることがとりもなおさず「もののあはれ」を知ることになると結論付けている中核です。ありのままがわかるのは自分で弁(ゆきま)えるというのではなくて、「もののあはれ」に「物の心」や「事の心」自体が従うということなのであると言いたいわけです。
宣長は「物の心」や「事の心」がそのまま「もののあはれ」になるのだから、いちいち世事のことなど持ち出すな。そんなことを持ち出さなくてもすむように、言葉や認識をもつべきだと、そこを言っているんですね。まさにエミール・シオランです。
それにしても、見たり聞いたり触ったりする気持ちが、そのまま「もののあはれ」になっていくようなことって、あるんでしょうか。
あるんですね。それが『源氏物語』が書いてみせたことなんです。それを書くために式部は、藤原氏の摂関政治から逸れていく「姓」なき光源氏の一族を設定し、一見、ふしだらとも思える色好みの性格を男君たちに付与し、不義や不実を随所に立ちはだからせることで「もののけ」の襲来を描き、それらを総じてみせつつ、この物語に「もののあはれ」を出入りさせたのです。
さあ、これでぼくが次に何を書こうとしているか、およそ見当がついたことだろうと思います。
そうなんですね。3夜にわたったこの千夜源氏もさすがに終盤にさしかかってきたのですが、いよいよもって宣長の言う「もののあはれ」を折口の言う「いろごのみ」に重ねてしまおうというのです。これは第1夜に少なからず予告しておいたことでした。
折口の全集第15巻(中央公論社)に「源氏物語」があります。折口はそこで、光源氏の性格が「一つの事を思ひつめるといふ執着心の深いところ」にあると書きました。
そして「執着の深い人は信頼できます」とも書いている。光源氏は執着心が深いので信頼できるのだ、女君たちはそのことを重々、承知していたのだというのです。
これだけでピンときてもらうとたいへんありがたいのですが、それではわかりにくいでしょうから、この次に折口が説明していることを言いますと、『源氏』は「おもひくまなし」というところがいいんだ、これは「ゆきとどいて物を思ふといふこと」なんだと言うんです。
「おもひくまなし」なんです。「思ひ隈なし」。なんともいい言葉です。しかし、なぜ「おもひくまなし」がいいいのか。折口はそれは「思ひやりの深い」ということなんだと説明し、さらに次のように書いて、あっと驚くことを断言してしまいます。
「誰でも人の言ふ語が何でもわかると思ひますが、なかなかさうはいかないので、人の言つてゐる語の意味は本道にはわからないのです。ところが源氏といふひとはそれがよくわかる人でした。これは女の望んでゐた性格だつたのです。さういふ性格は何処から出てゐるかと言ひますと、日本の昔の典型的な男の共通してもつ性格といふものがありまして、そこから来てゐるわけなのです。只今では誤解されてきてゐますが、色好みといふのがそれなのです」。
いろごのみの道徳論を唱えた折口信夫
うーん、唸るような断言ですね。もう、これでいいじゃん、です。「執着心が深いところ」「おもひくまなし」なところ、それが色好みなんだというのです。
色好みは「ゆきとどいて物を思ふといふこと」で、それは「思ひやりが深い」ということだというのです。まるで不倫不義を擁護しているかのようですね。これは参りますよねえ。
しかし、折口はこのことに『源氏』の本質を見切っているのです。すでにぼくは第1夜に、古代の神々と英雄の時代では「いろごのみ」は武力に匹敵するソフトパワーであったということを書いておきました。そして、その古代的なソフトパワーは類的なものだったのだが、やがて宮廷社会が進むにつれて、いいかえればそこに藤原摂関政治が進んでいくわけですが、そのなかでしだいに個人的な事情に付与されてきたとも書いておきました。
ということは、紫式部はこの宮廷物語において、光源氏や柏木や夕霧や薫たちを万事万端すみずみまで逸らせていくことによって、かの「いろごのみ」のソフトパワーを思ひ隈なく感じさせるようにしたということです。
だとすると、どうなるのでしょうか。
そうなんですね。これは宣長が「目に見るつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる」と言っていることに重なってきて、それはとりもなおさず「もののあはれ」を源氏が体現しているということになるわけです。「いろごのみ=もののあはれ」「もののあはれ=いろごのみ」だったのです。
なんだか、ここまで言ってしまうと、もうとくに付け加えることがなくなったような気分です。
だから、さあこれでぼくの源氏モンダイはおわりです、ありがとうございましたと言ってもいいのですが、でもそれではいささかそっけないエンディングでしょうから、しばらく余韻が続く話をして、締めたいと思います。
藤原北家が良房から道長に向かって絶頂期を演じているなか、紫式部の周辺はしだいに視野が狭められていったのですね。もっと身分がよくなりたい、待遇がよくなりたいというのではない。そうではなくて、ああ、あの佳き時代はおわったのだという感慨です。
この感慨は、今夜はまったく触られずじまいだったのですが、折から忍び寄っている末法感ともつながって、式部のなかに無常観や諦念観を育てていたのだと思います。
一方、宮廷社会では男も女も隠れて不義密通をしているばかり、これでは誰が「もののけ」に祟られようと地獄に堕ちようと仕方ありません。しかし、式部は曽祖父の代からずっと、この宮廷社会の一部に組み込まれたままの身であって、そこを脱けることは、藤壺や六条御息所や空蝉や女三の宮のように出家してみることかもしれないけれど、それは朱雀院だって出家しても何も新たなことはおこらなかったのだから、いっそ浮舟のように入水するしかないのかもしれないのです。
メランコリックになっていた式部はどうしたか。ここで自分の逡巡のすべてを「物語」に託すことを思いつくのです。
見れば宮廷も後宮も、世俗化してしまった「もの」たちにさんざん冒されている。かつての「もの・かたり」の「もの」はどこかに退いているようなのです。それなら、その「もの」の本来を見つめる語り手を描きつつ、その語り手が宿世(すくせ)にまみれた宮廷社会を「物語」の中に移して描けば、どうなるか。
きっと半分くらいはうまく書けるにちがいない。でも、もう半分はきっと兼家や道長の世のリアリズムに巻きこまれ、その賛美までではないにしても、あらかた肯定してしまうような物語になってしまうにちがいないと、おそらく式部は考えたのでした。
だったなら、どこをどう変えようか。ここで思いついたのが光り輝くような君でありながら、そもそもその父帝が時代の中枢から逸れていったような宿命をもった子としての、「光の君」の投入でした。
ただ、この主人公はすれすれでなければいけない。ぎりぎりを感じていなければいけません。とはいえ栄達や充実から最初から見離されているのでは、話になりません。ほとんど摂関家に対峙できるほどの素質と身分と可能性と財力に満ちていながらも、なぜか静かに退落していくような「あはれ」を宿していてもらわなければ困るのです。
そして、もうひとつ。この「光の君」とその周辺の男君や女君たちは、宮廷でおこっている情交や不義や密通そのままを身に受けていて、かつ、その他のどんな宮廷の者たちよりも熱心な「色好み」であってもらわなければならないのです。
とはいえ、それでは「性」と「好色」が行動規範のすべてになりかねない。式部はそこで桐壺の更衣の面影を追うことが、この物語全体の導きの糸になると確信したのだと思います。それならその周りに男たちと女たちの貌(かんばせ)と振舞(ふるまい)を組み合わせ、チャプター(帖)ごとに眩く複相的で重層的なポリフォニーを進行させればどうか。きっとこの決心がついたので起筆することにしたのでしょう。
もちろん、これだけで『源氏』各帖が書けたわけではありません。宮廷行事、四季のうつろい、室礼(しつらい)と調度の変奏、そしてなによりもふんだんの「うた」が交わされなければ、物語にはなりません。
こうしたことのいっさいを出入りさせながら、式部がずっと貫き続けたことは、第1にこの物語が「根生い」の物語であること、第2には「いろごのみ」がそのまま「もののあはれ」になりうる物語であること、第3にはそして何もかもを「少しずらす」ことによって成立する物語をめざすということだったと、思います。
そのため、まずは醍醐・朱雀・村上・冷泉の「聖代」の起伏を物語の時代舞台に設定したのですね。ついではこれを桐壺帝、光源氏、夕霧、薫の連鎖に移しつつ、それだけではただのオクターブ移行になってしまうので、そこに頭中将やら柏木やら明石の入道の、また藤壺やら夕顔やら朧月夜やら女三の宮の、つまりは相似と対比を相剋させるようなオブリック・ネットワークをめぐらしたのです。
これで、面影の追慕の流れは桐壺の更衣から藤壺へ、紫の上へと月照りのように連なり、そこへ末摘花や空蝉の逸脱も、須磨・明石への逃避もまずまず入って、大筋の「ずらし」や、これも大事な式部の狙いであったろう「やつし」も、入ることになったのです。
それでも、ここにはまだ決定的な「もののあはれ=いろごのみ」を発動させるエンジンが搭載されていないのです。
それは何かというと、「罪と愛」を対同させるというエンジンです。この雅びのエンジンが静かな唸りを上げていなければなりません。
源氏の愛した女人たち
(大和和紀『あさきゆめみし』 第5巻 第一部エンディングより)
かくしてここに、ひとつには継母の藤壺と光源氏が愛しあって、ついに不実不義の子を出生するという、そこで生まれた子が冷泉帝になるという、少々オイディプスなエンジンが作動することになりました。
もうひとつは何か。これは言うまでもなく葵の上と六条御息所をめぐって唸りを上げるエンジンです。もう詳しいことは書きませんが、このエンジンは悶死していった葵の上が産んだ子がほかならぬ光源氏の長男として物語をバトンタッチしていく夕霧だったということに、いっさいのフォーカスが向えるようにするエンジンでした。
この二つのエンジンで式部が用意した「罪と愛」のヴァリアントが奏でられました。そしてその楽曲そのものが「もののあはれ」につながっていったのです。
言い残したことはかぎりなくありますが、ざっとざっとはこういうことでしょう。
それでも柏木と女三の宮の関係の推移と、光源氏と女三の宮のあいだに生まれた薫の役割など、気がかりですね。このあたりの話は、『源氏』の終盤で大きく逸れていく物語のバイファケーションとして、これまでの仕掛けを破りかねない何かを孕んでいると思われたところです。そしてそこには、「もののあはれ=いろごのみ」にすら倦いた紫式部の強靭な厭世観と仏道観を感じるのですが、その話をするには、さらにもう1夜が必要です。ここは勘弁です。
源氏物語 全8巻
ずいぶん長い千夜千冊になりました。
こんなふうになったのも、前夜がバルザック(1568夜)で、その前夜が孟子(1567夜)だったせいです。もちろん、どこかで『源氏』の感想を綴っておかなければならないとずっと思っていたわけですが、何を相手にするのであれ、そのことを書こうとした時が、われわれの「御時」なのです。
ともかくも2015年1月の、ぼくの71歳の刻印を挟んでの『源氏』は、以上のような有様となったわけであります。諸君、如何でしたか。あとは宣長と折口に勇気づけられて不倫してください。ただし、その前に「根生い」の日々をまっとうしておいて‥‥。ぼくのほうはこれでやっと、ふだんの千夜に戻れます。
「水鳥を水の上とやよそに見む 我も浮きたる世をすぐしつつ」(紫式部)
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