雨 紫式部

https://blog.goo.ne.jp/yonemaro1151/e/72ff098ed329ae8604cc59a77df601ff【<雨 紫式部>】 より

七夕は無情の雨、平安の昔でも雨の七夕も有っただろう。近年の雨は情緒のある降り方でなくまるで空に有る雨の袋が裂けてしまった様にどばーっ!と尋常でない降り方をする。 今朝は降ったり止んだりの大人しい雨。咲きかけの「小紫式部」の花がみずみずしい。秋に艶のある紫の実が美しいが花もなかなかおくゆかしい。


https://pixy10.org/archives/post-3951.html 【気象予報士が読み解く平安時代/石井和子「紫式部の暗号」】  より

その道の専門家が読み解いた書物よりも、純粋に感動した他分野の専門家が語る方が魅力が伝わるのだろうか?

石井和子「紫式部の暗号」

源氏物語には正直これまであまり興味のなかったのだけど、気象予報士に気象描写がスゴい!と言われて興味がわいた。今まで気がつかなかった気候と文化のつながりの記述を記録しておくと。源氏物語の記述から平安貴族が雨をかなり嫌っていたことが読み取れ、それは雨に濡れると衣装の色が落ちたり、他の衣装に色移りしてしまうから。

当時の衣服の染料は植物から染めるいわゆる草木染めでしたが、まだ良い色止めの技術も発達していなかったと思われます。また、もうひとつ雨が嫌いだった理由として、衣裳には艶を出すのに糊が張ってありましたが、その糊が落ちてしまうことも大きな要素だったようです。」
だからこの時代の男性は雨の中、女性のもとを訪れるのが愛の証だったり、関心がなくなった女性には雨を口実に足を遠のかせたりしたのだという。ちなみにこの時代の傘は雨具としては使われていなかったそうだ。

「傘といえぱ、お寺の儀式などで大僧正に後ろからかざす大きな唐傘はあったのですが、権威のための傘であって、日常の雨具としては使われていませんでした。」
また平安時代に女流作家が活躍した時代は気候が温暖だったということ。そういえば現代も温暖化が叫ばれた頃から女性の活躍が目立つなぁ。

「温暖な気候とともに花開いた平安女流文学はこのあと、十一世紀半ば、「源氏物語」に憧れて育ったという藤原孝標の娘の「更級日記」を最後に終わりを告げますが、この十一世紀後半は、気候としても寒さの一時的なピークを迎えるようです。そして寒冷化するにつれ貴族政治が乱れ、上皇による院政、武士の台頭、前九年・後三年の役をはじめとする兵乱の時代となっていきました。このころの温暖な気候が宮廷文化の隆盛に大きな役割を果たしたといえそうです。」

しかし温暖といっても現在と同じくらい酷暑だったことから、源氏物語でも源氏が「わらわ病み」すなわちマラリアにかかる描写もある。

「蒸し暑い京都の夏、それに京都は大昔湖の底だったこともあり蚊が大発生するのに好都合なたくさんの池や沼がありました。マラリア蔓延に絶好の条件がそろっていたのです。京都はマラリアの天国でした。」

そういえば氷河期に京都が内海化することでできた地層が、

後に京料理に美味しい筍をもたらしたことを指摘した本も面白かった。

地学と美食の魅惑のコラボ/巽好幸「和食はなぜ美味しい」

分野を超えた出会いの魅力を再認識した2016年だったかもしれない。


https://pixy10.org/archives/post-3485.html  【地学と美食の魅惑のコラボ/巽好幸「和食はなぜ美味しい」 より

巽好幸「和食はなぜ美味しい」。副題に「日本列島の贈り物」とあるように、豊かな和の食材は地震や噴火と引き替えに得たものだった!

マグマ学者が新たな気付きを与えてくれた一冊。今年読んだ本の中で一番おもしろかった。まずは出汁の話からはじまるが、河川の勾配が水の硬度に影響を与えることを指摘し、硬水のヨーロッパと軟水の日本を比較するのはよくある話。

※軟水でないと昆布のうま味成分が溶け出しにくい。

だが著者はマグマ学者ならではの視点を盛り込んでくる。日本が島国にもかかわらず山国になった要因を説明。

日本列島の下にプレートが潜り込むためにマグマが発生し、マグマは火山活動を起こすと同時に地殻を厚く成長させた。

地学的な見地から軟水の恩恵を知ることができる。

このほかにも以下のように、ボタンエビが好む深海湾の駿河湾は伊豆半島の衝突と南海トラフのわん曲からできた。

氷河期に京都周辺が内海化したことでできた地層が美味しい筍をもらたした。

淡路島がダムの役割を果たすことで明石海峡が天然の生け簀になり、明石鯛が美味しい。

昆布は北極海にルーツがあり、プレートにのってやってきた。

と地学と美食の関連性を次々と読み解いてゆく。

最後に先日の熊本地震とも関連する話としては、火山・温泉が集中する「別府-島原地溝帯」とフグとの関連。

有明海に雲仙岳があることで、干満の差が大きくなり、そのことでフグにとって格好の産卵場所になっているのだとか。

日本に生まれた以上、自然災害と無縁の人生を送ることは難しい。

ならばその引き換えに得られた和食と温泉を堪能したいものだ。


http://www.ne.jp/asahi/sorano/miyako/ayane2/Book/HeKa/Murasaki.html 【『平安の気象予報士紫式部』  石井和子著】

 題名にまず目が点になりました。なんのこっちゃ??

 お天気キャスターで気象予報士会会長の著者が、お天気キャスターの目から『源氏物語』の天気現象に注目して読み込んでみると…天気図が浮かぶほどの正確な描写がされていたのです。

 天気に関しては「紫式部は自分が経験したことしか、書いていないに違いない!」と確信します。

 ならそこから、ほとんどデータのない、平安時代の気象が少し分かるのではないか。

 そんな感じで始まります。

 現代と同じく、光源氏がまいるほど暑かった、夏の京都。反対に、雪が降れば喜んで雪見に興じる平安人は、かなり寒さに強かったようです。

 この頃は足袋などなく、真冬でも素足で、もちろん、カーペットなんて物もなく畳だって精々一カ所に敷いてあるくらいで。

 『枕草子』でもひどく寒い夜、中宮定子の手が「つやつやとした薄紅梅色」だったのに、清少納言は感動しています。

 高貴な中宮でさえ、寒さに手を真っ赤にしていたくらい、室内が寒かったのです。

 『源氏物語』で、月光の中降り続ける雪の謎。これを著者は風花ではないかと結論づけています。

 つい最近まで身近だった、春霞。霞ヶ関は朝も夕も霞にけぶっていたことから、付けられた名です。

 雪を愛し、毎年降り、馴染み深かったのに、結晶の美しさを詠んだ歌がない不思議。この時代、京に降る雪のほとんどが牡丹雪だったのでは、という話は興味深いです(わたしも不思議だったので)。

 顕微鏡がなくても布の上におりた雪をよく見れば、結晶は肉眼でも見えますよね。なのに、なんで?

 実は平安時代はかなり温暖で、冬の気温は室町時代と比べると、2.6度も高かったんだそうです。

 日本で六方対称の結晶が描かれるのは、江戸時代(1796年)、司馬江漢の『天球図譜』が初めで、この頃は天明・天保の飢饉が起きた、厳しい寒波の気候でした。

 雨が大嫌いな平安貴族。その訳を聞けば、「なるほどなぁ」と納得。

 まず、衣服の色が落ちる。艶出しの糊も落ちる。それにこの時代、雨傘もない。ひどい天気だと牛車でも雨漏りがする、といいことなしです。

 そういえば『和泉式部日記』だったかに、天皇が女性を呼び出したんだけど、うっかり忘れてて、雨の中女性は一晩中放置されびしょ濡れになってしまった、という話があったけど、もうちょっと雨天対応に出来になかったんでしょうか(すごく不便だよねぇ)。

 式部の気象センスと洞察力、表現力がよく分かるのが、「野分」の巻で、物語から台風の特徴や進路まで分かるのだからすごい。

 そして驚くのがこの台風が昭和の三大台風の一つ、昭和九年の第一室戸台風に酷似しているのだそうです。

 第一室戸台風は京都の死者だけでも二百三十三人、全・半壊家屋一万一千戸以上という規模で、京都より被害の大きかった大阪の死者は千八百八十八人にのぼりました。

 昭和九年でさえ、このような大惨事だったのです。式部たちが受けた被害は、さらにすさまじかったことでしょう。

 いやー、ほんと源氏物語っていろんな分野の情報が詰まっていて、恐ろしいくらいです。

 紫式部は間違いなく、天才の一人ですね。