https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/403964/092800019/?P=1 【睡眠の定義とは何か?―「脳波睡眠」という考え方】 より
今回は睡眠の定義について考えてみたい。連載も30回を超えてからこのテーマは今更感があるが、一度は触れておかなくてはならない。当然、この連載でも初期のうちに取り上げるつもりであったが、タイミングを逸してしまっていた。特に人の睡眠を理解するためには「脳波睡眠」という考え方が重要であり、今回のキーワードである。
睡眠の定義とは何かという問いに「目が覚めていない状態」と答えればはぐらかされたと怒る人もいるだろう。しかし実際のところ、睡眠研究の黎明期では「睡眠とは周期的に意識が消失する状態」といった程度の定義しかできなかった。しかもこの定義には一つ大きな問題があった。意識の定義が睡眠の定義以上に複雑なのである。
意識の研究は睡眠以上に長い歴史がある。意識を、(1)覚醒している素朴な意識状態(シンプルな覚醒状態)、(2)快、不快、恐怖など情動を伴った意識状態、(3)注意や認知が可能な明敏な意識状態(洞察や価値づけなどの精神活動)、の三層構造に分ける考え方がある。(1)から(3)に向かって低次から高次の意識状態となる。(2)(3)は(1)に包含される。私たちが目覚めている状態とは(1)素朴な意識状態に相当する。ぼんやりと起きている時も、物事に集中している時もこれに含まれる。
どの意識状態も科学的に定義するのは大変なのだが、素朴な意識状態、すなわち覚醒状態については定性的、定量的に表現できる生体指標が登場して一気に研究が進展した。その指標とはドイツのハンス・ベルガーが1920年代に発見した脳波である。研究者は脳波が測定できるようになってはじめて覚醒状態を定義できる科学的言語を入手したのであった。脳波の発見を契機として睡眠は哲学や文学だけではなく、自然科学の俎上にも載ったといえる。
しっかりした目覚め状態から深い睡眠状態まで主体となる脳波の周波数帯域がダイナミックに変化する。(JasperとPenfieldらのテキストから引用)(イラスト:三島由美子)
脳波とは脳が発生する微弱な電気活動を増幅して記録したもので、周波数帯域ごとにδ(デルタ波:1〜3Hz)、θ(シータ波:4〜7Hz)、α(アルファ波:8〜13Hz)、β(ベータ波:14〜30Hz)に大別される。睡眠でも覚醒でも複数の帯域の脳波が混在するのが普通だが、覚醒度や睡眠深度に従って主体となる脳波帯域が変化する。
たとえば、リラックスした閉眼安静時にはキレイな正弦波様のα波が主体であるが、しっかり目覚めている時はβ波が増加し、緊張状態になるとα波がほとんど抑えられてβ波が主体になる。
そして睡眠もまた「覚醒以外の状態」として脳波で定義できるようになったのである。
睡眠状態に入ると、α波は徐々に減少して波形も崩れてくる。代わりにθ波が主体となって、他にもいくつかの特徴的な波形の脳波が出現するようになる。睡眠がさらに深まるとδ波が目立つようになる……そして脳波パターンや筋活動によって睡眠の深さやレム睡眠が判定されるのである。
つまり、現在の科学や医学で睡眠と呼んでいる意識状態は脳波の周波数帯域で定義されているのである。人の睡眠が「脳波睡眠」とよばれる由縁である。
一見もっともらしい脳波睡眠の定義だが批判もある。
ここまで読んでいただけばお分かりだと思うが、脳波睡眠の周波数や振幅の基準は睡眠の本質的な理解のもと科学的根拠に基づいて決めたわけではない。被験者が「眠っているように見える(起こしてしまうので被験者には聞けない)」時の脳波を多数計測して共通する所見をとりまとめた「後付け基準」なのだ。
刺激にも反応せず明らかに深く眠っている、会話などをして明らかに目覚めている、このような時の脳波所見には異論が無い。しかし、ウトウトまどろんでいる睡眠と、覚醒の境界領域の脳波については現在でも諸論がある。現在の基準は、当時の大御所たちがエイヤッで決めたというのが実情だ。
実際のところ、ウトウト状態を脳波で判定するのは非常に難しく、研究資金やノウハウを持つ大手自動車メーカーですら脳波を用いた居眠り運転防止装置の開発に難渋している。深く眠った時の脳波判定は容易だが、残念ながらそれでは「時すでに遅し」である。
さらに脳波睡眠(脳波覚醒でもある)に関しては、無意識、自我意識、イルカなどでみられる半球睡眠(脳の半分だけ睡眠状態となる)、局所睡眠(大脳皮質の一部領域だけ睡眠状態に陥る、睡眠が深くなる)など複雑かつ魅力あふれる領域が数多くあるのだが今回は置いておく。
ところで、脳波睡眠に対して行動睡眠という考え方もある。
人のような脳波が測定できるのは哺乳類とせいぜい鳥類までである。爬虫類などでは脳波活動はかなり微弱となり、その構造も人と異なってくる。両生類や魚類では脳波の存在が大分あやしくなり、昆虫などの無脊椎動物では脳波が測定できない。ではこれらの動物では「睡眠」は無いのだろうか?
その問いに対する回答はまだ得られていない。ただし、脳波が測定できない動物でも1日の特定の時間帯に睡眠のような休止状態(無動状態)がみられる。この休止状態をその動物の睡眠と見なして便宜的に行動睡眠と呼ぶようになったのである。
行動睡眠では多くの動物で共通した特徴がみられる。たとえば、体内時計に従って一定時間帯に規則正しく出現する、休止状態に入ると刺激を与えても目覚めにくい、巣の中で特有の眠り姿をとるなどである。何となく人と同じような寝姿が目に浮かぶではないか。
厳密には脳波睡眠とは異なるが、睡眠科学では行動睡眠という定義は力を発揮する。実際、線虫や昆虫の行動睡眠の研究から体内時計や睡眠調節に関わる重要なメカニズムや遺伝子が発見されている。
しかし行動睡眠という表現は人では使わない。人の睡眠とは行動上の休止だけではなく意識状態の変化を伴い、それを自覚できるからである。行動睡眠という定義で科学的に追求できるのは主にエネルギー消費(代謝)の抑制や行動リズム調節などの発生学的に古い睡眠の役割である。一方、脳波睡眠の研究がめざすのは大脳皮質の休息(恒常性維持) や記憶の固定など高等動物に特有な睡眠の新しい役割なのである。
今回の話をまとめれば、睡眠の定義は用いるツールによって変わり得るということである。近年、「高磁場磁気共鳴画像装置(MRI)」や「陽電子放出断層撮影装置(PET)」などを用いた脳機能画像学の急速な進歩によって、意識の神経基盤や、 睡眠や覚醒中の脳活動が明らかになってきた。現在は大がかりな装置が必要だが、いずれ脳波のようにベッドサイドで簡便に測定できるようになれば、睡眠の定義も見直されるかもしれない。いや、その可能性は大である。
「まだ見積もりができてない!? 居眠りでもしてたのか!」と上司からキツーく叱責された新入社員K君。「いや、寝てなんかいません……」と弱々しく反論するも、白黒つけるために医務室の脳機能測定装置に座らされた。ピコピコ……「業務上ノ指示ニ素早ク適切ニ対応デキル脳活動ハ認メラレズ。浅眠状態二相当」なんて“脳の目覚め度”を査定される時代が来るかも……。
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